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「我が国の剣のほうが日本刀よりずっと美しいでしょう」
[輝く指先-韓国の職人たち] <4> 伝統剣 ホン・ソッキョン

伝統工芸のあらゆる技法を全て修得して初めて可能
四寅剣を再現、工芸大展 大統領賞
「鉄はいまだに昔の方式を復活できず残念」


長さ82cm。 確かに鉄で作られているが、手で持った感じは軽い。 鞘に入れるとすらっとした姿が装身具を連想させるほどだ。 鞘は真っ黒な漆のボディに、前面には×字に縒られた銀糸が長く入っている。 柄は金糸と銀糸を縒って巻いている。 柄の先端には金で丸い輪を付け、その中に龍頭を入れている。 百済 武寧王陵から出土した環頭大刀を再現したこの刀は、見て背を向けると瞼にありありと浮かぶほどにその姿が魅惑的だ。

この刀を作ったのがホン・ソッキョン(洪錫鉉,50・伝統刀剣製作所代表)氏だ。 彼は昨年、高麗大博物館が所蔵している朝鮮時代の四寅剣をそのまま再現し、伝承工芸大展(訳注:2003/12/5)で大統領賞を受賞した。 伝統刀剣の再現に関する限り我が国最高の名匠だ。

四寅剣は寅年・寅月・寅日・寅時など寅の字が四度重なる時に熔解鉄を注いで作るという宝剣。 虎は十二支の中で陽気が起こる時期を象徴するため、寅の字が四度重なる四寅に作られた四寅剣は、陰(いん)で邪悪な気運を斬り、国家の危機をはね除けるという辟邪の意味を含んでいる。

四寅剣は普通、刃の片面には国家の困難をはね除けようとする呪文を篆書体の漢字で、もう片面には二十八星宿(星座)図を描き入れるため、金属象眼技法に精通していて初めて作ることができる。 また、刃は銑鉄を焼入れして作り、柄には金属彫刻が入っていて、鞘は木で作って漆を塗ったり魚皮を付けるため、伝統工芸の多様な技法をすべて伝授されてなくては作業に乗り出すのが難しいのが伝統刀剣だ。

洪氏は1989年に郭再祐将軍剣を再現したのを始まりに、2001年に百済 武寧王陵 環頭大刀、2002年に伽耶 単鳳 環頭大刀と金庾信の龍鳳 環頭大刀を再現した。 昨年、景福宮 勤政殿を復元したのを記念して文化省が特別展示した朝鮮王室の四寅剣・雲剣・別雲剣など8種の伝統剣を再現したのも彼だ。

彼は「世界的には日本の剣が知られているが、我が国の伝統剣の歴史のほうが古く、その姿も非常に美しい」とし、「日帝の強制占領期を経て伝統の刀剣を作る職人たちが完全に消えたのが残念で再現に乗り出した」と話す。

洪氏は刀剣を作り始めて「僅か」19年だ。 しかし、伝統刀剣の土台になる伝統工芸に入門して36年にもなる。

忠清北道 清州市で生まれ育った彼は1968年に小学校を卒業するやいなや清州にある家具工場に就職した。 家具を組み立てる技術を覚える手さばきが素早いと思ったのか、叔父の推薦で69年にはソウルにある螺鈿漆器工芸社に就職した。 螺鈿で作った煙草入れや花瓶、飾り箪笥のようなものが大きな人気を呼んでいる時期だった。

当時は家具工場でも螺鈿漆器会社でも、技術者でなければ食事と寝る場所を与えられることが最高の待遇だったのだが、彼だけは経歴が認められて月給を990ウォンもらっていた。 「母に持っていってあげると、お金は使って封筒はそっくりそのまま集めていましたよ。」

だが、ここでは小道具ばかりを作っていた。 彼は本物の螺鈿漆器家具を作る所を探して、76年には典農洞の螺鈿通りに移り住んだ。 初めて螺鈿漆器を作る方法をまともに習うことができたのだが、彼は「花を切り抜けば上と下が全く同じだったし、(六角形の螺鈿貝をくっ付けていく)亀を作れば上から水を注いでも自分のは漏れなかった」と自らの腕前を誇った。 このため、実力中心で座る席が決まる螺鈿漆器工場で、3年目にして一番最後の席から2番目の席へ上がった。 その分、妬みも激しくなった。 帰途には薄暗い路地に隠れていて彼を殴って行く先輩たちが多かった。

「理由もなく殴られるのがとても嫌で」79年に工芸会社を準備して独立した。 記念牌や名牌を彫るのが主業種だった。 記念牌や名牌を扱っているので金属彫刻もするようになった。 「螺鈿でも金属彫刻でも象眼技法を使うという点で大きな違いはなかった」という。 85年頃だが、工芸をしていた先輩が来て「刀剣にも彫刻をしてみなさい」と薦めた。 彼がやってみたところ、「刀剣製作会社を準備しようと思っているので一緒にやろう」と言った。 それでこの年に刀剣製作者に変身した。

当時、彼には夢があった。 公州博物館で見た武寧王陵 環頭大刀を再現してみたかった。 しかし、武寧王陵の環頭大刀は精巧な装飾が当時の彼にはあまりにも高い壁に見えた。

今もそうだが、刀剣製作会社の主な収入源は剣道用刀剣を作ることだ。 製作技法は、銑鉄を買って形を捉えながら叩いて伸ばした後、装飾をするのがせいぜいだった。 刀剣製作会社ごとに違いがあるとすれば、その装飾を出す方法ぐらいだった。 螺鈿漆器と金属彫刻が得意な彼の腕前が引き立った。 ある時は大統領が将軍に下賜する三正刀を作ったりもした。

幸い先輩は「余った時間は君の好きなように作品活動をしなさい」と言った。 彼は伝統剣を探して博物館を歩き回った。 我が国の伝統刀剣の姿は世界のどこに出しても誇るに値するのに、どこにもその刀剣を作る方法がなかった。

89年、彼が一番最初に復元に乗り出したのは郭再祐将軍の刀剣。 伝統刀剣にしては技法が高難易度ではなかった。 引き続いて李舜臣の長剣を復元した。 郭再祐将軍の刀剣と同じで、特別な技法を必要としなかった。

武寧王陵 環頭大刀

伝統刀剣を復元するという意志は評価しても何の縁故も経歴もない彼を専門家が出て手助けしてくれるはずがなかった。 彼は忠清南道 木川の独立記念館や忠清南道 牙山の顕忠祠を訪ねて、展示場のガラス窓に張り付いて刀剣の姿を描くことから始めた。 「忠武公の刀剣を作る時は母が亡くなった直後だったのに、顕忠祠を毎日訪ねて刀剣の姿を描き写した記憶が今でも目に浮かぶ」という。

認めてくれる人は誰もいなかった。 剣道用刀剣を売ってお金が入ると伝統刀剣を作るということが繰り返された。 自分が好きでしたことだが、大変で断念しようと思ったことも多い。92年にはタクシー運転手の資格証明まで取り、駄目だったら肉体労働しようと心に決めたが、同僚たちが「作品活動だけするようにしてやる」と言って、再び刀を握った。

作品活動とは彼が得意な象眼と彫刻にだけ専念するようにしてくれるということ。 仁寺洞で金属象眼だけを専門としていて、97年に再び刀剣を作る仕事に舞い戻った。 「私の名前には金が二つがあります。(漢字で錫鉉) 名前の字が鉄を作って人に提供する運命だというんですよ。」 彼はこの年に伝統刀剣製作所を設立し、常に夢に描いていた武寧王陵 環頭大刀を作ることに乗り出した。

あのように繊細な金属彫刻はどのようにしたのだろうか、柄と刀はどのように付けたのだろうか、全てが疑問だらけだったが、答えてくれる人もいなかった。 刀を近くで見ることもできなかった。 やはり博物館のガラス窓に張り付いて描き写すしかなかった。 これに考古学者らの発掘報告書に出ていた刀剣の絵を参考にして刀剣を作った。

作るのに1年2ヶ月が掛かったこの作品は2001年の伝承工芸大展で奨励賞を受賞した。 引き続いて翌年に作った伽耶 単鳳 環頭大刀で、やはり同じ展示会で奨励賞を受賞した。 彼はたとえ四寅剣が昨年大統領賞を受賞したと言っても、今でも武寧王陵 環頭大刀が最も良くできた作品だと思っている。

しかし、彼にはまだ課題が多い。 まず、伝統技法に従って作っているとは言うが、鉄自体が伝統方式で作られていない点。 伽耶 単鳳 環頭大刀を作るために直接高炉を作って鉄鉱石を溶かしてみたが、伝統鉄を作るのには失敗した。 伝統剣を再現するために彼は現在、自動車のスプリングを叩いて使っている。

実際には朝鮮時代の刀剣は環刀匠、磨造匠、鋳成匠、小木匠、炉冶匠、銅匠が一緒に作ったという点を考慮すれば、彼が鉄まで本物で作る必要があるだろうか。 伝統鉄を除く他の分野を全てひとりでやり遂げるだけでも大変なのに、彼は「高炉を作る費用さえあれば伝統鉄を作ることもやってみるのに、それが残念だ」と意欲を見せた。


「博物館に所蔵されている剣を近くで見られたら」

彼は今までに様々な国宝級刀剣を再現したが、昨年、勤政殿王室の刀剣類と高麗大博物館所蔵の四寅剣だけ実測できた。 王室の刀剣類は陸士博物館に本物があるのだが、彼が弓道をしていて陸軍士官学校に出入りしていた縁が一役を買い、高麗大の四寅剣は材料費をもらって作品を大学の博物館に寄贈する条件で実測できた。 このため、また新たな伝統剣を再現する時に、実測する機会を掴めるかどうかは未知数。

彼は「韓国伝統剣を世界に知らせようとするなら、より多く再現することが必要だ」とし、「資格が認められた職人にはガラス窓ごしではなく直接見て目分量する機会でも与えてくれたらと思う」と述べた。

/ hssuh@hk.co.kr



入力時間: 2004/02/24 17:19


ホン・ソッキョン氏が四寅剣に文字を彫っている。字を一つ一つ掘り出して金で象眼をする予定だ。/キム・ジュソン記者



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