むすぶ つなぐ

16年目の新聞記者。何とな〜く大事だと思うことを時に脱線しながら・・・

被害と加害

いろいろ回り道をしながら記者16年目に突入。今も書くことができる現場にいることが何より幸せ。でも、ギスギスした競争は苦手。新聞の可能性を信じつつ、ネットを通じた新たなつながり、広がりを願って・・・

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63回目の広島原爆忌。北朝鮮、イランばかりに関心は集中しますが、核兵器の愚かさに正面から向き合わないのは5大国も同じ。本当の「悪の枢軸」は簡単にはわからない。

戦争や平和を考える上で被害者、加害者のそれぞれの視点は不可欠。けれど、両者を完全に区別することはできるのだろうか。
以前、取材でお世話になった広島の民間研究者、森重昭さん=広島市西区=が、長年のライフワーク「原爆で死んだ米兵秘史」(光人社)をこのほど出版した。「国のために」戦わされたあげく、捕虜として広島で留置され、自国の兵器で命を奪われた12人の被爆米兵。その事実は長い間、隠されてきた。被害、加害の対立軸を超えたところに大事な答えがある気がする。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4769813996.html


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■核の悲しみ繰り返さないで−−めい、今も遺影大切に

 ◇名簿への登録を要望
 旧日本軍の捕虜として広島の施設に収容中、原爆投下で死亡した米兵1人の遺族がオハイオ州にいることが、毎日新聞の調べで判明した。被爆死した米兵は12人いるとされるが、これまで4人の遺族の居所は分からなかった。遺族は「過ちは繰り返さないでほしい」と、核兵器の使用禁止を訴えた。原爆死没者名簿への登録などを求め、記者に遺影を託した。被爆60年の節目に、新たな名前が加わることになった。【鵜塚健、写真も】

 被爆死したのはチャールズ・バウムガートナーさん(当時28歳)。1945年7月28日、搭乗した爆撃機「タロア」が広島市付近の上空で撃墜され、爆心地から1キロ以内の捕虜収容所に連行され、原爆に遭った。
 両親や兄弟は既に死亡したが、めいのシャーリー・モアヘッドさん(78)が同州カントンに在住。シャーリーさんはチャールズさんの遺影をベッドルームの引き出しに大切にしまう。
 シャーリーさんは幼くして母を亡くし、チャールズさんの母が育ての親。10歳上のチャールズさんとも一緒に暮らした。「私たちは兄妹同然。チャールズは本当に優しくて、誰からも愛されていたわ」
 チャールズさんは高校を卒業し工場で働いた後、陸軍に入る。家族思いで、ハワイに寄った際には、シャーリーさんにブレスレットを送ってきた。
 だが、家族に悲しい電報が届く。母親は台所で泣き崩れ、シャーリーさんは「涙が止まらない最悪の日だった」と振り返る。「自分の国が落とした兵器で叔父が死んだ。一方で、原爆によって悲惨な戦争が終わった。ずっと複雑な気持ちです」。シャーリーさんは目に涙をためて願う。「同じ悲しみを繰り返さないため、すべての国が核兵器を禁止してほしい」

 一方で、シャーリーさんの家族は今も戦争が身近だ。長男はベトナム戦争で兵役に就き、孫の一人は91年の湾岸戦争に従軍。現在は予備役だが「イラク最前線に行かされるのでは」と心配する。
 被爆米兵については、広島市西区の歴史研究家、森重昭さん(68)が調査し、8人の家族を割り出し、死没者名簿や遺影の登録を進めてきた。しかし、残り4人の遺族の所在がつかめなかった。毎日新聞は今回、米国立公文書館で不明米兵リストなどをもとに調べ、シャーリーさんを突き止めた。
 森さんは「節目の年に、新たな遺族が判明した意味は大きい。すぐに登録手続きを進めたい」と話している。
 シャーリーさんは「日本の人がチャールズを気にかけてくれて感謝している。登録されればきっと彼も喜ぶでしょう」と話した。

■写真説明 叔父の遺影を見つめ、「今でも悲しみは消えない」と話すシャーリーさん=米オハイオ州カントンの自宅で 

毎日新聞 2005年8月5日 大阪朝刊


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