しかし取材はしたものの、局内のハンセン病に対する優先度は低く、なかなか企画が通らない。オンエアのあてもないまま取材を続行していました。あのころは結構胃が痛い思いをしました。
98年7月に熊本地裁に提訴されたハンセン病患者による国家賠償請求の判決が、2001年5月11日に出ることになった。その直前の8日についにオンエアできました。わずか10分のワクでまとめるのに苦労しましたが、15%の高視聴率が取れました。数字が取れたことよりも、それだけ多くの人が関心をもってくれたことがうれしかったです。
取材の過程で、信頼できるテレビ朝日の記者にハンセン病のことを熱く話すと興味をもってくれて。その後、その記者も取材を始めて『ニューステーション』でハンセン病問題を取り上げてくれるようになったこともありがたかったですね。取り上げてくれる媒体が多いほど、目に触れる機会も増え、関心をもってくれる人も増えますから。
そして11日の判決では原告勝訴。その日にもう一本番組を制作してオンエアしました。その後も(政府の)控訴断念に向けて、世の中が盛り上がってくれたように思えました(※)。そして5月23日の控訴断念。「私がやってきたことは正しかった」と思えて、感激しました。あんなテーマに出会うことは二度とないでしょうね。
(※編集部注 ハンセン病国家賠償訴訟のこと。国による長年のハンセン病患者強制隔離政策に対し、元患者たちが損害賠償と謝罪を求めて訴訟を起こした。熊本地裁の判決は原告全面勝訴。それに対し、国は控訴を断念した)
この取材を通して、ひとりの人間として自立、成長させてもらいました。アナウンサーから報道記者になって何とかやってこれたのも、ハンセン病というテーマがあったおかげですから。国側の控訴断念の判決が出たときは、初めて「ひとつ、仕事をやりとげた」と思えました。
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