俺は自分のことを「編集者」じゃなくて「編集家」と名乗ってますが、創作の本質、いや、創作に限らず人間の知的生産活動はすべて「編集」だと思ってるわけです。
松岡正剛さんというカリスマ的な編集者がいて、ちょうど俺が20歳くらいのときに、彼が編集長を務めた『遊』という雑誌で「すべての発想の元は編集である」と言ってますけどね。まぁ当時俺はミニコミ作ったり、宮武外骨が好きだったりしたからその意味はすんなり理解できた。宮武外骨も俺に言わせれば編集家なんです。編集者で、編集したものがひとつの作品になってますからね。俺もマンガ家だろうが小説家だろうが創作活動の基本は編集だと思ってた。要するに過去のいろんな作品の記憶がリミックスされてアイディアになる。創作っていうのはすべて元ネタがあって、その元ネタに新しい概念が結びついた(編集された)ときにアイディアとなる。そういうことは原理としては分かっていたから。
たとえば松岡正剛さんの場合、稲垣足穂さんという小説家の本を作ったときに、本に穴を開けたわけですよね。著者の「人間は口から肛門までのひとつの管でできた動物である」っていう主張を象徴的に表すためにね。レイアウトも全部その穴を前提として図版とか文章とか配置されていて。もう本自体がひとつのオブジェなんですよ。その本を刷るときは東京中の製本屋から断られて、松岡さん自身がドリルか何か買ってきて、自分で開けていたらしいですけどね。そういうものを見ててさ、やっぱりカッコイイなと思ったわけですよ。
いまだに編集者というのは作家を立てる裏方、原稿を運搬する人、メッセンジャーボーイみたいに思われがちなんだけど、実はこれだけ創造的なことができるんだと。そもそも編集者がOK出さなかったら作家の原稿も通らない。だからプロデューサーでもあるし、現場の助監督みたいなこともやる。そういうふうに考えていったら創作の根本は編集者だよなと思って。あらゆる意味で編集者がいなかったら何も始まらないというね。
だから俺は自分の作品として本や雑誌を作っていく創作的な編集者、「編集者」+「作家」で「編集家」と名乗ってるわけです。編集家って言葉を考えたのは'80年代、名乗りはじめたのは'90年代ですけどね。
ただ編集家っていうと新聞社からは断られますよね。「そういう言葉はありません」って。「編集者」の誤植だと思われるからダメだとかね(笑)。
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