『サルまん』で10代、20代で培ってきたものをすべて出し尽くしたから、終了後はまさに出がらしのような状態になっちゃってました。困ったな、次は何をやろうかなと思っていたちょうどその頃、赤田裕一(注42)君という編集者に「『クイック・ジャパン』という雑誌を創刊するから外部スタッフとして参加してくれないか」って声をかけられたんです。90年のはじめ頃でした。コンセプトを聞くとおもしろそうだし、好きなようにやってくれていいからっていうんで、やることにしました。
実際に雑誌が創刊されたのは93年なんだけど、この『クイック・ジャパン』、赤田君がサラリーマンでありながら自腹を切って創刊した雑誌なんですよ。どうしてかっていうと、赤田君が勤めていた出版社の社長が『クイック・ジャパン』のコンセプトが理解できず出版を許してくれなかったから。じゃあ自分で金を出して作るって言って、彼自身が700万円くらい自腹を切ったんですよね。そんな赤田君の心意気にほれ込んで、俺とか中森明夫さん(注43)とか大泉実成さんとか、みんなノーギャラで寄稿したんですよ。ギャラなんて請求できませんよ、編集長自身が自腹切ってるわけですからね。
そのかわり好き放題やらせてもらってた。『クイック・ジャパン』で俺が50ページもらうと、企画とか構成は全部自分で決めるという、いちライターというよりは担当編集者的なやり方でやれてたんですよね。
インタビュー仕事が多かったんだけど、自分の好きな人、興味を引かれた人にしかインタビューをやらなかった。だいたい俺がこういう企画をやりたいとか、この人のインタビューをやりたいとかいうと、ほぼ通ってました。そういう編集長との深いところで信頼関係ができていたからやってて楽しかったですよね。
そういう中で『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督インタビューをやったわけです。
庵野さんとはある日たまたま吉祥寺で知り合って、そのまま飲みに行ったんですよ。そこで意気投合しちゃってね。「『クイック・ジャパン』という雑誌でインタビューやりませんか?」という話をしたら「やります」ってなって。当時は彼もアニメ雑誌とかアニメマスコミに対して非常に飽き飽きしていた時期なんですよね。むしろアニメ色のない『クイック・ジャパン』あたりの方がうれしいって感じでね。
庵野さんは基本的には口下手な方なんだけど、あのときは出会ったタイミングが良かった。『エヴァ』が終わった直後で壊れかけてたっていうか。初対面で石森章太郎(注44)の話を俺がしたんだよね。石森章太郎には『サイボーグ009』(注45)とかの代表作を描く以前に、実は結構試行錯誤というか暗中模索の時期があって。確かヨーロッパまで自分探しの旅に行ってるんですよね。出版社からギャラを前借りして。で、帰国して「今までの自分はアマチュアだった」という反省をするんですよ。これまでは自分の好きなものとか描きたいものだけを描いてきた、と。デビューから天才といわれていた彼が、行き詰まっちゃったんだね。それで「これからはプロになろうと思った」と。そう思って『サイボーグ009』を始めた。そういう話をしたら庵野さんの目が輝きだしちゃってさ(笑)。「俺もそうなんですよね……プロにならなきゃならないんですけど」って。でも、石森さんが一番輝いていたのは、まさに「アマチュア」だった頃なんだよね。
庵野インタビューは後に単行本になるんですが、そのとき俺は台割作成から、デザイナーとの打ち合わせ、原稿執筆、最後のまとめまでトータルでやったんですね。そして幸いにしてけっこう売れたんです。上下巻でトータルで20万部も。だからこれまでやった中でもけっこう満足のいく仕事なんですよね。
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