俺らはオタク世代って呼ばれるようになった最初の世代なんですよね。俺が生まれる前の年に『少年サンデー』と『少年マガジン』が創刊。特にマガジンでは伝説の編集者・大伴昌司(注9)が活躍してて、斬新なグラビアページを発表してました。その世界にどっぷりはまったわけです。
テレビアニメの洗礼を受けた第一世代でもあって、3歳の頃に『鉄腕アトム』(注10)の放送が始まって、『ルパン三世』(注11)が小学校5年生。中学1年生のときには『宇宙戦艦ヤマト』(注12)や『デビルマン』(注13)が放映されました。
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竹熊氏のパロディセンスは高校時代から大爆発! 大学受験用に買った『奇跡の英単語』のパロディ、『奇跡のマサイ語』。『奇跡の英単語』のカバーの裏に描いた。「白いカバーをじっと見ていると、自分の内部の別の虫がムズムズとしだし、せっかくだから、白いカバーになんか描いてかっこよくしよう、と考えて徹夜で描いた」(竹熊氏)。裏表紙には架空の推薦コメントを掲載するなど驚くべき完成度を誇る。顔写真は高校時代の竹熊氏。(写真は『たけくまメモ』より転載。クリックで拡大) |
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雑誌もおもしろくて、中1か中2の頃、'75年に『ビックリハウス』(注14)が創刊されたんですね。ある種のサブカルチャー、アングラカルチャーも含めて'80年代の準備がそこでなされていて。ビックリハウスが出てきたことでパロディというものが市民権を得るわけですね。俺はその影響をモロに受けた。パロディっておもしろいな! って。
高校に入ると『ポパイ』(注15)が創刊されて、『少年チャンピオン』(注16)や『少年ジャンプ』(注17)が部数を伸ばした。『月刊out』(注18)がヤマト特集をやったり、マニアックなマンガ雑誌『マンガ少年』(注19)も創刊。高橋留美子(注20)がデビューしたのもこのころでした。だから中学・高校の頃は、マンガやアニメや雑誌にどっぷりハマりましたね。
同級生の中にはスポーツや音楽の方に行く人もいました。音楽へ行く人はとりあえずバンドやったりね。ほとんど女の子にモテるためでしたけどね。そうやってイケてる系とオタク系になんとなく分かれていくんだよね。まぁ異性がその向こうにいるかいないかの違いでしょうね。
音楽に行かなかった理由は、お金がなかったからですね。当時LPレコードが1枚2500円だったんですよ。昔から高くて、最後まで変わらなかった。高校のときの小遣いが2500円くらいだから、それ買ったら他に何も買えないじゃないですか。だから音楽はその時点で断念したんですよ。
俺が異性がいない方へ行っちゃったというのは……まぁ色気づく頃にちょっと臆病だったからでしょうかね。異性に対してはちょっと奥手でした。
あとは、変な話だけど、「デートに使う金があったらマンガを買う!」って感じでしたから。服買う金があるなら、メシ食う金があるならマンガ買う(笑)。今とは価値観が違いましたよね。だから高校時代は体重48kgでしたもんね。ガリガリですよ。なんで痩せてたかっていうと、昼飯代を親からもらって、昼を抜いてその金でマンガを買ってたから。中学3年の頃は55kgあったのが、高校時代に48kgまで落ちた。それほどマンガにハマってましたね。
よく読んでいたマンガは白土三平の『カムイ伝』や『神話伝説シリーズ』、萩尾望都の『ポーの一族』『トーマの心臓』、大島弓子、山岸凉子などの24年組(注21)少女マンガ家。あとは諸星大二郎の『暗黒神話』など。その他マンガであれば何でも読みましたね。ニューウェーブ系マンガの花盛りで、そういったものが中心でした。
部活は美術部に入ってました。ほとんどが女子部員でしたが、そこでも色っぽい話にはならなかったですね。いや、1、2回なりかけたことはあるんですが、俺の方がやっぱり……硬派と言ったら聞こえはいいけど、要するに奥手でね。逃げちゃいましたね。変わりに少女マンガのおもしろさを女子に教えてもらって開眼しました(笑)。
だから、そういう色恋系はある意味俺にとっては鬼門でしたね。そりゃ女の子と付き合いたいという気持ちはあったんですが、恋愛に金をかけたくないんですよね。その時点でダメですよね(笑)。
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