―かくも卑劣な対応―
「中国の旅」などを通じて、とかく「南京大虐殺」と騒がれるわりには、肝心の日本側からの資料、証言が少なく、その少ない資料、証言も断片的なものといってよい状況が長い間つづきました。
このような背景もあってのことでしょうが、一読してどうかなと思えるような「証言」や「資料」も、競うように日本の報道機関は飛びつき、大きな記事に仕立てあげてきました。
南京事件に詳しい故・板倉由明 はこのような状況にウンザリした表情で、「まるでダボハゼのようだ」 と表現して嘆いていたものです。板倉は「南京虐殺」の証言者として名のりでた東史郎・曽根一夫・船橋照吉 ほかの「偽証」を明らかにした功労者としても知られています。これら証言について、余裕があれば、板倉の研究を参考に、その概略をおつたえしたいと思っています。
この都城23連隊にかかわる朝日報道も、冷静な目で見ればおかしなことの多い「証言」なのですから、「事実」を重視すればダボハゼのように飛びつかなかったはずなのです。なにせ、朝日社内では日本軍の旧悪を暴露することが「正義」とでも思っているのでしょうから、たまったものではありません。「点取り虫」がウヨウヨ(?)していたからこそ、このような報道が絶えなかったのでしょう。
この事件は宮崎支局の取材によるものですが、おそらく「一大スクープ」 をものにして、自らの成績があがったと支局長は小躍りしたことでしょう。でなければ、23連隊側から全国版に訂正報道を掲載するよう詰め寄られた際に、支局長は「その責任は重々感じています。然し首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです」 といって、深々と両手をついて頭を下げるなどしなかったはずですから。
1984(昭和59)年8月4日付、朝日新聞(西部本社版・夕刊、下写真)は、以下のようなセンセイショナル内容で、また、翌日の全国版では少し短くしたものが報じられました。
ご覧のように、
日記と写真もあった 南京大虐殺 悲惨さ写した三枚 宮崎の元兵士、後悔の念をつづる
まずリードを全文お目にかけます。
〈 日中戦争中の昭和12年暮れ、南京を占領した日本軍が、多数の中国人を殺害した「南京大虐殺」に関連して4日、宮崎県東臼杵郡北郷村の農家から、南京に入城した都城23連隊の元上等兵(当時23)の虐殺に直接携わり、苦しむ心情をつづった日記と、惨殺された中国人と見られる男性や女性の生首が転がっているシーンなどの写真3枚が見つかった。広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人といわれながら、日本側からの証言、証拠が極端に少ない事件だが、動かぬ事実を物語る歴史的資料になると見られる。 〉
と最大級の評価を与えた報道でした。
とくに、「アウシュビッツ」 と比較した下りは、朝日のこの「事件」についての見方を知るうえで注目しておくべきと思います。また、「歴史的資料になると見られる」という表現は、「南京大虐殺」を立証する「歴史的資料になって欲しい」という願望をこめたものに違いありません。
この「日記」は、1937(昭和12)年の元日から大みそかにいたるまで、「毎日、ペンで」詳細に記録されたものだといいます。本文から一部を引用します。
〈 今日逃げ場を失ったチャンコロ(中国人の蔑称)約2000名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会う。・・処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢えて喜んでいるのが流行しだした様子 〉 (12月15日)
〈 今日もまた罪のないニーヤ(中国人のことか)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆面白がってやるのであるが、それが内地だったら大した事件を引き起こすだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ 〉(12月21日)
そして、〈 この兵士は帰国後、農林業を営み、49年に腎臓病で死去した。家族の話では、生前写真を見ては思い悩んでいると時もあったという。死ぬ前には当時の戦友や家族に「罪のない人間を殺したためたたりだ」ともらしていた 〉
というのです。
記事を書いた中村・宮崎支局長は、「自ら手を下したことを認めるとともに後悔の念を見せている。さらに虐殺が日常化していることもわかる」 などの「解説」をつけ、大阪市大の広川助教授のコメントをつけて報道は終わっています。
この記事を読んだほとんどの読者は、日本軍の底知れない残酷さ、メチャクチャぶりを信じたことでしょうし、3枚のなかの1枚という、ナマ首の並んだ写真 (左側)を見て、嫌悪感を一層、つのらせたことでしょう。
この写真、今となっては珍しくもないお馴染みのものですが、1984(昭和59)年当時は、衝撃を与えるに十分なものだったのです。
2年半におよぶ「朝日」との闘争の顛末は「都城二十三聯隊会だより」(中傷記事総集編、1987年3月18日号。左写真)に詳細に報告されています。
また、「朝日新聞との闘い・われらの場合」 として、南京戦に将校として参戦した (23連隊会顧問)が「文藝春秋」(1987年5月号)などに書いています。
私は吉川氏をはじめ、2,3人と電話で話したくらいで、23連隊(第6師団)とのかかわりは少ないのですが、基本的な資料は提供していただきました。
以下、上にあげた資料などを参考にしながら話をすすめていきます。
23連隊・連隊砲中隊の中隊長代理として南京攻略戦に加わった吉川は、次のように「文藝春秋」に書いています。
〈 突入翌日の13日には城内の掃蕩をやっているが、城内には敵兵は一兵も見ず、一般住民もいない全くの死の街であった。連隊はそれ以降、主力をもって水西門東南方地区の市街地に、第1大隊をもって12月21日まで水西門外に駐屯し警備にあたったが、翌13年1月3日に蕪湖へと転進するまで、虐殺事件など見たことも聞いたこともなかったと断言できる。従って、朝日の記事内容はまさに根耳に水であった。 〉
連隊の調査から虐殺現場を見ていないのは他の参戦者も同じでした。となれば、「日記」を書いたのは誰かということに話は落ち着きます。そこで、当時23歳、北郷村出身の上等兵で、「帰国後、農林業を営み、49年に腎臓病で死去した」という記事を手がかりに捜すのですが、該当者はみつかりませんでした。そこで、寺の過去帳に目をつけて調べると、49年に腎臓病で死亡した元兵士に行きあたったものの、夫人は「日記」をつけたことはなく、写真機の持てる身分ではなかったという返事で、人捜しは暗礁に乗り上げてしまいます。
こんななか、連隊側と朝日宮崎支局との1回目の会談(1984年9月22日)が行われました。朝日は記事を書いた中村支局長 、連隊側は中山有良・事務局長ら5名が加わります。
連 隊 「(日記には)23連隊の何中隊と書いてあったのか」
支局長 「そこまで確認しなかった。こんど見ておく」
連 隊 「その兵士の名前は」
支局長 「いや! それは言えない。本人に迷惑がかかるから」
連 隊 「真実なら何も名前を隠す必要はないではないか。本人の名前がわからんとなれば、支局長、あなたを告訴せねばならぬことになるが、よろしいか」
支局長 応答なし。
連隊側は、参戦中に毎日、日記をつけていること自体がおかしい、しかもインクを使うなど考えられないなど、疑問点を指摘しながら、上のようなやりとりがつづき、連隊側は「南京大虐殺」とは無関係であることを、「全国版」に掲載するよう申し入れました。
5ヶ月後、2回目の会談(1985年2月4日)が行われ、連隊側は「今日は是非とも歩兵23連隊は南京大虐殺とは無関係との記事を掲載して頂くために参上いたしました」と切りだします。この間、連隊側は「日記」の持ち主ではないかと思われる人物(宇和田弥一)を割り出していました。
中村支局長は「先般来から日記が本件のポイントだとのご指摘になっておられるから今日は、その日記をお目に掛けます」といい、ナイロンの袋から日記帳を取り出すと、手に持ったままテーブルから10歩くらい、離れた位置まで後退、立ったまま胸の位置で日記帳の真ん中あたりを広げて見せたのです。
連隊会の1人が椅子から立ち上がり、近づこうとすると、支局長は「近寄ってはいけません。書体が分かると誰れが書いたか分かりますから」 といい、寄せつけません。
5メートルも離れていては日記帳だかどうかの判断もできなかった、というのも当然のことでしょう。
問題はこの「日記」の真贋です。「歴史的資料」 と報じたのですから、日記が本物かどうかの検証作業に積極的に協力するべきなのです。もし、朝日の心配が「情報源の秘匿」
にあるのなら、名前を伏せることを条件に、専門家の手に委ねる手もあるでしょう。この日の会談は相当、とげとげしいものになったといいます。
4日後の2月8日(第3回会談)、中村支局長から連隊の中山事務局長に、「今日ご来社下さい。ただし、中山さん一人でおいで下さい。他人には聞かれたくない相談がありますから」との連絡あります。そこで、中山が支局におもむくと、支局長はひどく低姿勢で会議室へ案内します。
支局長 「抗議の公文書、確かに受け取りました。その事ですが、『お詫び』だけはご勘弁くださいませんか。その事を記事にすれば、私は首になります 」
中 山 「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから、その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」
支局長 「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです(両手をついて頭を下げる)」
2人の間で種々のやりとりがあった後、「お詫びとか記事取消しといった言葉は使わないが、全国版・地方版 で、南京大虐殺とは無関係との旨を報道すること」で、双方が合意しました。
1985(昭和60)年2月24日付けで、〈 「南京虐殺と無関係」元都城23連隊の関係者が表明」 〉 とした短い記事が地方版で報じられました。
ところが、各地に住む戦友から、いつ付けの新聞に「連隊は無関係」という報道があったのかとの問い合わせがつづきます。
中山事務局長は「世界日報」の記者と同行し、宮崎支局を訪れます。
「例の無関係の件、全国版の何月何日に載ったのですか」と切り出すと、
支局長 「全国版? 全国版に載せてありません」
中 山 「載せてない? それじゃ約束が違います」
支局長 「約束をした覚えはありません」
中 山 「冗談をおっしゃってはいけません。あの日、固く約束されたじゃないですか」
支局長 「いや、地方版に載せるとは言いましたが、全国版とは言いません」
そして、中村支局長は 「 あの記事はすべて正しい。朝日新聞宮崎版に載った記事は訂正記事ではない。連隊会から抗議があった旨を載せたまでだ」 と言い放ったのです。
また、「世界日報」記者の「取材の手続き、手順は十分に踏んだのか。記事にするまでにその信憑性について、社内外での検討は十分に行われたのか」との質問に、支局長は、
「南京虐殺については、西部本社また東京本社などでも、この問題を専門にしている記者が本多勝一氏をはじめかなりいる。従って、そういった記者とも相談し、十分に資料も突き合わせて書いた。・・」 「日記は遺族に返した。当方にはコピーがある」 と答えています。
中 山 「卑怯ですねあなたは。あの時私に、一人で来て下さいと言われた意味が今になってわかりました。約束をした、しないは、当事者だけでは押し問答になりますからね」
こうして、朝日との抗争が再燃したのです。
ところが、わずか1週間後の12月28日、「世界日報」は、南京大虐殺の動かぬ証拠であると大見得をきった「なま首の写真」が、ニセ写真 であることを報じます。
というのも、朝日の報道写真と同じ写真の持ち主が現れるなど、ニセ写真であることが動かせなくなったからです。
写真所持者は、1931(昭和6)年、当時の朝鮮で売られていたものといい、「せいぜい1枚5銭だった。ちょっと変わっている写真だったので買った。同年輩の兵隊仲間ならこの写真を持っている人もいるでしょう」と証言します。また、写真の上部には「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」 と説明書きがついていました。「鉄嶺」は奉天(瀋陽)に近い旧満州の地方都市ですから、南京とはなんの関係もありません。
年が明けると、デッチアゲ写真と週刊誌などが朝日攻撃を開始します。朝日は、1月10日、突然、
中村支局長を更迭していまいます。連隊側からすれば、目標を外された格好になってしまいました。
1月21日、朝日は「全国版」 にわずか14行の「おわび」記事(左写真)を掲載しました。
ですが、「改めて本社で調べた結果、日記は現存しますが、記事で触れている写真3枚については南京事件当時のものではないことがわかりました。記事のうち、写真に関する記述は、おわびして取り消します」
とする「おわび」記事は、いささか狡猾ではないでしょうか。
だって、そうでしょう。そもそも、「写真」と「日記」は同一人物から提供されたものでしょう。ですから、「写真」がニセと判明した以上、当然「日記」も怪しいと考えるのが常識というものです。ですが、「日記」の真贋について一言も触れていません。このような小手先の言い逃れに終始する「朝日新聞」をどうしたら信用できるというのでしょうか。
1986年1月25日、宮崎支局の会議室で連隊側と朝日西部本社との間で会談が持たれました。
「日記」もウソである以上、これについても詫びがない以上、和解はできないという連隊側に対して、朝日は「写真についてのお詫びで終止符を打っていただきたい」とし、しかも「日記」提供者の氏名公表も断ってきます。
押し問答の末、「日記は見せられないが、ご指摘の箇所を読み上げることはできる」と朝日が答えたため、連隊側の指定する月日の部分を読みあげることになりました。それらのなかから一つだけ(1937年7月27日の分ですので内地勤務です)、記しておきましょう。
「午后3時、突如師団からの電報により動員下令。将校集合のラッパ。週番司令から各中隊週番仕官に通達された」
この記述、おかしいのです。一上等兵の身で、師団から電報が来たことをどうして知ったのでしょう。また、午後3時と書いていますが、将校は午後5時まで勤務しているのですから、連隊長が将校全員に直接、命令を下すはずなのです。さらに、週番司令というのは、連隊長の帰営後に営内の警備のために勤務するものですから、明らかにおかしく、また、週番司令が動員令のような重要な命令を伝達するわけもないのです。
これらの記述から、「日記」は連隊が目星をつけていた「宇和田日記」に間違いないとの確証を連隊はつかみました。というのも、宇和田日記から「都城歩兵23連隊戦記」に一部、引用されていたため、照合が可能だったのです。
また、連隊は宇和田氏の筆跡も入手していました。ですから、双方の筆跡が一致すれば、「日記」の持ち主が特定され、すべてが明らかになるというわけです。連隊は宇和田日記の余白に何者かが追加記述したのではと考えていました。
朝日側から和解嘆願の電話が何度もかかったと聞いていますが、連隊側は拒否します。そして、「日記」の保全を第一と考えた連隊側は、小倉簡易裁判所に「日記保全」の申し立てを行いました。
裁判所は連隊側の主張を認め、朝日は「日記」を見せるよう判決を下しましす。ですが、喜んだのもつかの間、朝日は「守秘義務への配慮が万全ではない」 として、福岡地裁小倉支部に抗告します。
連隊側の苦悩は深まります。吉川正司はその苦悩を「文藝春秋」に次のように書いています。
「最高責任者たる坂本昵氏が88歳、最後の連隊長だった福田環氏は89歳、比較的若い私でも73歳という高齢である。これから先、何年続くかわからない裁判に、どれだけの会員が頑張り通せるか。実際、坂本氏は心労のあまり昨年暮れに入院し、私もまた酒の力を借りなければ眠れぬ夜が続いた。酔って寝ても、夜半に目がさめ、やがて睡眠薬を飲むようになった」
金銭上の問題も追っかけます。朝日はおそらく露骨な引き伸ばし戦術に出、本裁判となれば10年はかかるかもしれない。それまで、命が持つがどうか。
あれやこれやで、朝日西部本社の幹部と話し合い、連隊は南京事件と無関係との記事を全国版に掲載することを条件に、朝日側と和解する道を選んだのです。
そして、1986年1月23日付けの全国版に『証拠保全を取り下げ、「南京大虐殺と無関係」、都城23連隊会が表明』 と見出しをつけた小さな記事(左写真)が載りました。
これで、25ヶ月にわたる23連隊の闘いは終止符をうちました。はたして、23連隊の名誉は回復されたのでしょうか。また、間違った報道であったことがどの程度、読者につたわったのでしょうか。
これ以上、書き加えないことにします。そして、このわずか3ヶ月後、「毒ガス写真事件」 が発生するのです。
― 2005年 5月 7日より掲載 ―
・・・ 2007年10月14日記
この23連隊の朝日報道について、旧著『「朝日』に貶められた現代史』(1994年刊、全貌社)のなかで記述いたしました
。
このさい、板倉由明から「宇和田日記」 は確かに存在し、「ある研究者」の手に渡っているから、記述するときは注意するようにとのアドバイスを受けていました。
今夏、増補出版された『南京事件』 (秦郁彦、中公新書、2007年)に、この「宇和田弥一日記」に言及があり、日記の一部の写真(12月21日のページ)が掲載されています。
これで、「宇和田日記」の存在に間違いないことが明らかになりました。板倉は私に「秦教授」の名を出していたようにも思えますが、記憶があいまいなため、「ある研究者」とここでは書いておきました。
ただし、このことをもって「ナマ首写真」の誤報問題が不問になるわけもなく、また朝日の連隊側に対する対応への批判が減じることはないと思います。
なお、民間人および軍人捕虜の不法殺害総数を3.8万人〜4.2万人としていた旧版の推計値について、今回の増補版で次のように書き加えています。
「この二○年、事情変更をもたらすような新史料は出現せず、今後もなさそうだと見きわめがついたので、あらためて四万の概数は最高値であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい。」