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2006年 06月 20日
平成16年9月2日(木)産経新聞 日本軍が一九三九年、中国東北部の満州とモンゴルの国境地帯でソ連軍と交戦し、大敗したとされるノモンハン事件。日本軍の対ソ開戦論の後退につながった同事件で、ソ連側も日本以上の犠牲者を出し、混乱していた様子を克明に記した元参謀本部士官、故ノボブラネツ大佐の手記がロシアの歴史専門雑誌「戦史公文書第五巻」に掲載された。大佐は手記の中で、軍を指揮した同国の英雄、ジューコフ将軍が報告書を隠蔽(いんぺい)し戦史を大きくねじ曲げたとも批判している。手記の詳訳を掲載する。 私たちがモンゴル-満州国境のチタに到着するまでに、国境での事件は大規模な衝突に発展していた。チタには前線の空気が充満していた。 ザバイカルと極東管区では予備役の招集がかかった。すでに前線司令部も設置され、司令官にシュテルン陸軍大将、参謀長にはクズネツェフ少将が任命されていた。 ハルヒン・ゴル(ノモンハン)付近にいた部隊は、三つの飛行連隊と二つの戦車旅団、砲兵数連隊が増強され、第一軍に再編された。全軍の司令官にはジューコフ将軍が任命された。 私の任務は実戦部隊への武器と弾薬、燃料、食糧の補給だった。その責任は重く、任務はきわめて困難を伴った。私たちのベースキャンプからザバイカルのソロビヨフスコエ駅(第七十九駅)までは鉄道も舗装道路もなかった。大草原が広がり未熟な運転手なら簡単に道に迷ってしまうのだ。 しかも、ベースキャンプから前線までは千百キロもあった。夏の焼けつく暑さ、冬のいてつく寒さ、風と砂嵐の中で運転手がこれだけの距離を克服する方法を考えなければならなかった。 私の指揮下には十二の車両大隊があった。司令部門のなかでも後方支援を担当した私の仕事は戦闘に必ず間に合わせ、決して武器、弾薬、燃料と食糧に不足が生じないようにすることだった。後方支援部隊は、司令部から一度も小言を言われたことはないし、「戦功」のメダルも授与されたのである。 しかし、もし日本軍の飛行機がシベリア鉄道の駅を一つか二つ爆撃していたら、モンゴルの私たちの軍隊には燃料も武器弾薬もなくなっていただろう。バイカル・アムール幹線鉄道の建設に、どれだけ大きな軍事的意味があったかを指摘しておきたい。 ノモンハンでの出来事は、私たちの国と軍隊にとって重大な意味があった。それは、大きな戦争への備えがあるかどうか、私たちを試したのである。最高指揮官や司令部の知識や作戦能力が試されるとともに、下士官と兵卒は勇気と規律、新しい武器を使いこなす能力が求められた。 率直に認めれば、赤軍兵士と若手指揮官だけが申し分のない状態にあった。彼らだけが事態の深刻さを認識し、いつでも命令を遂行する態勢にあった。赤軍兵士はこの地で赤軍の耐久力を試そうとする日本人の意欲をそいでおかねばならないことを承知していた。 しかし、ジューコフ将軍率いる第一軍司令部の行動は満足できる状態にはなかった。より正確に言えば、私たちが日本人に勝ったのは、兵力と武器類の面で優位に立っていたからであり、戦闘能力で勝利したのではない。「楽勝だと大言を吐いた」がゆえに、全く正当化されない巨大な損失が生じたのだ。 ■ ■ ■ 私たちは二週間、防衛する日本の師団を攻撃したが、一日に八十-百メートル前進しただけだった。各部隊の共同作戦はなく、おおまかな作戦計画をかたくなに守り、それぞれが独自に行動していた。 たとえば、戦車は敵の後方深く突き進んで貯蔵燃料を撃滅したが、戦車の助けを得られない歩兵は、日本軍の銃撃で死んでいった。航空部隊も敵後方を攻撃しながら、戦場の歩兵を支援しなかった。通信技術は完全にまずかった。すでに無線はソビエトの人々の生活にも浸透していたが、部隊との連絡には使用されず、司令部は戦闘を操る基本的手段を持たなかった。戦闘の初期は、司令部はいつも各部隊からの連絡士官で人だかりができていた。ジューコフ将軍は技術的進歩を無視し、ナポレオン時代のように連絡のためだけに士官を使っていたのだ。 ナポレオン時代と違っていたのは、士官たちが馬を飛ばしたわけではなく、車に乗っていたことだ。連絡士官らは戦場に戻る途中、果てしない大草原で道に迷い、砂丘の中を迷走しているうちに銃撃されて死んだ。指揮官の命令が各部隊に届かず他の決定が必要な状況に陥ったり、現場からの連絡士官が足りずジューコフ将軍が司令部の士官を前線に散らせることもよくあった。司令部にいるのは指揮官と幹部だけということもあった。 私たちが、能力でなく数の面で優位だったから勝利したという事実は、ソビエト小百科事典(三版)の第十巻の記載(添付の戦闘地図を含む)からも分かる。つまり、私たちの側の七師団に対し日本は不完全な二師団。端数を切り捨てて有利に見れば四対一。戦車と大砲の数では圧倒的に優位に立っていた。 損失でも私たちは悲しくも「優越」していた。チタでは死傷者の数がおびただしく、その多くはただちにイルクーツクへ運ばれ、さらにシベリアのあらゆる都市を通ってソ連の欧州部、クリミアやカフカスの保養地へと送られていった。 われわれは勝利を世界中に喧伝(けんでん)する必要などなかったし、ソビエトの人民を欺いてはならなかった。必要なのは、ノモンハンの悲劇的経験からまじめな結論を導くことだった。 シュテルン司令官はノモンハンの戦いの最中、幾度となくジューコフ将軍にそれを理解してくれるよう努力したが、まったくダメだった。反対に悲劇的な結果をもたらした。スターリンに直接連絡ができたのはジューコフ将軍とシュテルン司令官だったが、シュテルン司令官が報告した正直で正当な情報はすぐさま、ジューコフ将軍に都合がいいようにゆがめられたのだ。 一九四〇年にシュテルン司令官は、突然私たちの前から姿を消し、それ以後の彼の運命は誰も正確には知らない。 われわれが日本人に勝つことができたのは、シュテルン司令官の功績によるものだ。シュテルン司令官は、(ジューコフ将軍の)部隊の運用に激しく介入したのに加え、上司であるジューコフ将軍の数々の誤りを正した。だが、それが、シュテルン司令官の死につながる「亀裂」を生んだ。 軍は、大きな戦争の前にまた一人、実践的で戦略的な大局観をもった才能ある指揮官を失った。スペイン内戦のとき、シュテルン司令官は共和国軍の軍事顧問を務め、有能な指揮官として才能を発揮した。当時、スターリンと軍事行動や計画について交わした私信が見つかっている。スペインから帰国後、ソ連邦英雄勲章を授与された。 ただ、シュテルン司令官には大きな「欠点」があった。彼は、自立心旺盛な思考力と大胆な決断力を兼ね備えていたが、スターリンは、ザバイカル地方での現地調査にシュテルン司令官を送り込んだ。彼を「消す手伝いをした」部下とともにだ。 ■ ■ ■ シュテルン司令官は、ノモンハンでの苦い経験から学ぼうとした。 彼は参謀本部の将校たちが得たばかりの戦闘経験を研究し、司令部のすべての過ちと、軍の戦争準備で不足していた点を解明するよう命じた。そして、すべてを報告書にまとめるよう指示した。それを最高指導部に報告した後、極秘資料として出版し、各部隊の全司令官にノモンハン戦の経験を学ばせるつもりだった。参謀本部もそれを要求していた。 報告書の作成委員会には、次の参謀本部士官が加わった。軍とジューコフ将軍の動きを現地で幾度となく観察していたペチェネンコ最前線作戦準備部長、増援部隊の最前線への輸送を担っていたロモフ最前線機動化部長、陸軍参謀団作戦部長のテストフ大佐、部隊の補給責任者だったノボブラネツ大佐(自分)。そのほかにもいたが、名前は覚えていない。報告書作成の指揮をしたのは最前線作戦部長のクレストフ大佐だった。 委員たちは全員、戦闘の参加者であり証人でもあり、状況を把握していた。ただ、われわれは参謀本部の文書や個人的印象には頼らなかった。戦闘に参加した兵士、パイロット、部隊司令官ら数十人への聞き取り調査を、戦闘の「生々しい痕跡」が残る現場で行った。ジューコフ将軍にも聞き取り調査を行ったが、将軍は調査に落胆し、その後は一切協力しなかった。 われわれは、それらの資料をもとに、すべての戦闘の客観的な全体像をつかんだ。軍の戦争準備不足や司令部の誤り、失策、計算違いの数々を含む全容が解明された。 シュテルン司令官は、報告書を読み満足し、出版準備をするよう命じた。しかし、その報告書は日の目を見ることはなかった。軍はノモンハンの苦い経験を生かすことができなかった。その詳細は語らないが、最終段階はこうだった。 この手書き報告書を受け取った参謀本部東部作戦部のシェフチェンコ大佐は、それが価値をもち、赤軍の司令官たちに不可欠であるとの結論に達し、参謀本部長のメレツコフ将軍に出版許可を要請した。メレツコフ将軍は賛同したが、そのとき、ジューコフ将軍が後任の参謀本部長に任命された。 ジューコフ将軍はすでにノモンハン戦を自賛する内容の著書を出版していた。それを知らないシェフチェンコ大佐は、出版許可を取るため報告書をジューコフ将軍に渡したが、激怒した将軍はシェフチェンコ大佐を怒鳴りつけ報告書を自分の金庫に葬った。 報告書がその後どうなったのかは不明だが、歴史のためにも捜し出し出版することは問題とはならないだろう。この労作は興味深く、示唆に富む内容のはずである。 ■ ■ ■ ノモンハン戦の後、フィンランドとの戦いが始まった。ナチス・ドイツは、われわれの戦闘能力を知っていた。そして、ここでも、われわれは世界の物笑いになった。一師団がノモンハンでの失敗を繰り返し、包囲され全滅したのだ。 さらなる悲劇は、厳しい寒さだった。ソ連軍部隊に防寒着やスキーが配布されなかったことも笑いのタネだった。半年間も前線を一歩も前に進められなかったのだ。最後は、フィンランドに勝利を収めたが、大変な犠牲を伴った。少なくとも犠牲者はフィンランド側の三倍にのぼった。膨大な数の死傷者と凍傷に苦しむ兵士が続出した。 その結果、軍はどのように戦うべきかを本格的に考え始めた。しかし、大きな犠牲を払うことになった一九四一年からの大戦争に向けて軍を準備するには、あまりに時間が足りなかった。 (訳 モスクワ・内藤泰朗/外信部・遠藤良介) ◇ ■ワシーリー・ノボブラネツ大佐(1904-84年) ノモンハンの戦いに後方支援部隊長として参戦。大祖国戦争(第2次大戦)にも加わった。軍参謀本部情報総局(GRU)情報部長などを歴任。著書に「諜報員の回想録」がある。 ◇ ≪ノモンハン事件≫ 1939年5月、旧満州(現在の中国東北部)とモンゴルの国境付近にあるハルハ川周辺で、日本の関東軍と旧ソ連・モンゴル軍が国境画定をめぐって衝突した事件。関東軍はモンゴル軍と満州国軍の衝突を機に攻撃を開始。しかし、ソ連軍の加勢により、5月31日にいったん戦線を離脱した(第1次事件)。6月後半、再び攻撃に出たものの、ソ連軍の優勢な火力や戦車の前に苦戦。大本営の不拡大方針を無視して関東軍が兵力集中を図るなか、8月20日にソ連軍の総攻撃を受けて大敗を喫した(第2次事件)とされる。9月15日に停戦協定。 Tags:東京裁判
by sakura4987 | 2006-06-20 13:31 | ■大東亜戦争・東京裁判関連
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