[社会] フリーター運動座談会1「新たな社会運動としてのフリーターユニオン」
はじめに
2008年は、日本における新自由主義「改革」への反撃が始まった年として記録されることになるだろう。
新自由主義への反撃の中で最も注目したいのが非正規労働運動である。昨年12月、東京・京阪神・福岡で活動するフリーター労組活動家を招き座談会を開催した。20名を超える参加者による5時間にわたる座談会だったが、驚くほど問題意識は重なり合い、経験交流を超えて、新たな社会運動の誕生を確信させる希望にあふれた討論となった。3部構成の座談会のテーマは、左表のとおり。第1部で、フリーターユニオンの成立過程・活動内容を示し、第2部で、若者の引きこもりやうつの問題を労働運動の側からどう捉えているのかという議論を行った。これは、従来の労働運動を超える特長と言えるだろう。第3部は、過酷な賃労働を越える、新たな働き方の模索である。(編集部・山田)
新自由主義に風穴を開け、資本主義を超えていく
山田…フリーターの労働組合が注目を集めています。二〇〇八年以降、そうした若い労働者の運動が既存の労組とは違う社会運動として発展していく期待があります。各地の特徴に根ざして特色ある運動を展開されているフリーター労組の運動とはどういうものか?お互いの経験を重ね合って、それぞれの運動をいっそう豊富化させることの一助となれたらと思います。
まず、各地のフリーターのユニオンの成り立ちからおうかがいしたいと思います。
既存のユニオンと異なる成り立ち
橋口(ユニオンぼちぼち)…京都・大阪の学生運動・社会運動のつながりで「労働運動をやる必要がある」という話が出てきたのが、二〇〇四年一二月です。京都で市民社会フォーラム(京都社会フォーラム:世界社会フォーラムの京都版をめざした)が開催された頃でした。後にぼちぼちを結成するメンバーも京都社会フォーラムに関わっていたのですが、そのなかで若者の労働運動をという話が出ていました。企画をもちながらぼちぼち準備しようという方向性でした。
二〇〇五年の春に「ユニオン準備会・ぼちぼち」が「生活や仕事で困ったことはないか?助け合えることはないか?一緒に話し合おう」という場を開きました。これが、『ぼちぼちトークカフェ』です。若者の仕事の問題について話すと同時に、労働法について学習する場でした。
組合結成は、その年の一一月。初代委員長になる中村研が、バイト先のコンビニを突然解雇されたことが直接のきっかけです。その日にユニオン準備会のメンバーが喫茶店に集まって、「結成大会」を開きました。
小野(フリーターユニオンふくおか)…立ち上げの時にお世話になったのは北九州市の教職員の組合(北九州がっこうユニオン・うい)の方などです。福岡の地域労組などからも助言を受けました。現在も北九州の地域合同労組と緩やかに繋がっており、団交や争議、大会に呼ばれて、参加することもあります。
山田…既存の労働組合と違う成立過程とは?
QT(フリーター全般労組)…労働問題というよりは反戦運動から出てますね。街頭での反戦デモなどで初めて運動に来た人たちと、もう少し上の世代で、一〇年くらい沈没してて、反戦デモで再び活気が出てきちゃった層とがミックスしてですね。
大学での運動はかなり厳しい状態ですから、いきなりストリートに出てきた若い人と、これに野宿の仲間の支援運動や、いろんな表現活動であったり、NPOで活動してたり。様々な人がいたんですが、なぜか労働運動だけやってなかったんです。そういう活動を持ち込みながら、「労働運動やってみる意味があるんじゃねえか」っていうことではじめた。その面では、既存の運動とはモチベーションや経過がだいぶ違います。
中桐(釜ヶ崎パトロールの会)…フリーター全般労組(F労)は二〇〇六年頃に方針転換しましたよね。それまでは労働相談を受けて対応するという典型的な労働組合運動ではなく、もっぱら街頭行動や言論活動をやっていたようですが。
QT・鈴木…そうです。それまで「労働組合をネタに学生運動をやりたい」という、やや趣味者的な(笑)運動でした。〇四年五月にメーデーをやって、F労の立ち上げはその四年の八月。で、翌年から『自由と生存のメーデー』と名付けて今も継続しています。F労が呼びかける実行委形式です。
反戦・表現活動…多様なエッセンスを持ち寄って
QT…〇六年の五月にサウンドデモの弾圧があって三人の仲間が逮捕されたのが転換のきっかけになりました。その救援を反戦グループ・野宿者支援の仲間など、いろんな仲間が集まってやりました。ところが弾圧の余波で、F労も三〜四人になってしまったのです。三年続けてきた『自由と生存のメーデー』が途絶えてしまう危機でした。
その頃、プレカリティとか労働の問題が話題になってた時期で、メーデーの集会でシンポジウムをやったんですよ(自由と生存のメーデー ―『プレカリアートの企みのために』発題者 入江公康(社会学・労働運動史)、海妻径子(インパクション編集委員)、安部誠(全国コミュニティ・ユニオン連合会 全国委員))。
そこで、これはやっぱり労働問題を扱わないといけないし、フリーター労組をきちっと立ち上げていこうという話になったんです。集まった連中が安部さんたちにハッパかけられて、「団交どのぐらいやってんの」とか聞かれて、「あ、やってません」「バカヤロー」「じゃあ、やりますよ」…これに近い(笑)。
中桐…相談活動はどのように始めましたか?
QT…まずはオーソドックスにビラまきからでした。「あかね」っていう早稲田にある交流イベントスペースを事務所にして、メーデー映像の上映会や茶話会をやって、一〇人くらい「やるか」って奴が集まったのが夏頃。
梶屋(フリーター全般労組・グッドウィルユニオン)…僕は、雨宮処凛さんに出会って労働運動に目覚めたのですが、弾圧のやり返しデモ(〇六年八月、『弾圧を許すな プレカリアート@アキバ〜やられたままで黙ってはいないサウンドデモ→集会』)で初めてデモに参加してF労に加わりました。F労が動き出したのも九月か一〇月でしたよね。
QT…そう。だから一年ちょっとですね。東京管理職ユニオンなどが入っているオフィスを間借りして、「一年で組合員が一〇〇人にならなかったら追い出すからね」って言われました(笑)。
以降は管理職ユニオンなどとの合同ホットラインで相談を受けて、特に、日雇い派遣問題が大きくなった時に、「日雇い派遣ホットライン」を二四時間ぶっ通しでやったら二〇〇本くらい相談が来た(一〇月二八日〜、「偽装請負ホットライン」主催:全国コミュニティ・ユニオン連合会)。「今から開始します」っていうのもテレビが入って、「電話番号はこっちです」というテロップも入った。そしたらドワーっと来ました。
メーデーの弾圧についても珍しくメディアが来て、東京新聞が大きく取り扱いました。その頃からフリーター労組の存在が知られ始めて、さらに、ホワイトカラーエグゼンプションの闘いに関わって注目されました。
フリーターの労組がこの問題をやるってのは珍しかったんですよ。「あれはホワイトカラーの問題だから、関係ないんじゃねえの」って言われたけど、「関係ある」って言い張って。
そのときまたパフォーマンス行動を繰り返した。新橋とか秋葉原とかをコスプレで。「仕事の後の一杯がピンハネされますよ」ってやったらけっこう効いたんです。日経新聞の論説に「あやしげな労働団体が間違った情報を流したことで世論が悪くなった」と書いてあったんで、「勝った!」って思いました。
中桐…福岡では定期的に街頭情宣やってますよね(毎月第二・四金曜日に天神コア前で街頭アピール)。街頭での手応えはどうですか?
小野…全くないですね。ビラ見て電話ってのは、ほとんどないですね。雨宮処凛さんのイベント(〇七年五月一九日、『五月病祭』)の時に、相談が来ましたけど。やっぱりホットライン(電話相談)が大きいようですね。QTさんのF労の話は参考になりました。
自分のことで社会運動をやりたい
中桐…fufの立ち上げの時の流れは?
小野…QT・鈴木さんの話にもありましたが、イラク反戦がきっかけだったのは全く同じですね。そこで若い同世代の人たちと出会ったんです。彼らと話してた時に、既存の市民運動とか反戦平和に対して「なんか違うな」という違和感が共通して出てきた。
そんな中でフリーター全般労組の動きなどをインターネットで見ながら「こういう労働運動をやりたい」という話が出て、「やろう」と動き始めました。
当初はF労の福岡支部を作ろうと思ってメールを送ったんですけど、全然返事が来なかったんです。だから、「もういいや」と思ってfufを立ち上げたんです(笑)。
QT…それがよかったんだよ。
山田…反戦運動がなぜ労働運動につながっていったんですか?
小野…それはやや抽象的な問題意識かもしれないですけど、反戦平和系の運動がどこが戦争を「外にある問題」として扱っていることに対する違和感がありました。「外」にある問題について何か言っていくっていうのではなくて、自分の生存・労働という、日々の何かを決定しているものに対して何かを言っていくという方向転換をしたいと、漠然と思っていたんです。
決定的なきっかけがあったかと聞かれても、それはわからないけど、一つには、自分のことで社会運動をやりたかったってことですね。
それと、大学院生を長いことやっていて、実際ラチあかない現実も見えてきました。周りを見てても全然就職が決まらないし。
乱暴な言い方をすると、つまんない研究してる人が業績をコツコツかせいでようやく何かなってるという状況です。批判的な意識を持った研究をやろうとすればするほど、どんどん大学の制度の中では居場所がなくなるような感覚は否めなかった。所属している研究科の中で学生運動を組織しようとしたんですけど、周りの学生は誰も振り向かないという状況もありました。今更ながら、「大学にはなんの展望ないな」と見切りをつけるような感覚にもなって…。
自分自身が大学院生として「どうしようもないな、このままじゃ」という状況と、先の反戦運動への違和感がシンクロ(同調)していって、「自分はとりあえず大学の外で、できることをやろう」という感じだったですね。
フリーターは殺されてもかまわないのか?
QT・鈴木…東京で似た話で、ちょっとエポックになったイベントがありました。〇五年の八月一五日の『靖国解体企画』という行動です(人民新聞一二二〇号)。このときに小泉の参拝という、戦後画期的な事件があって、「戦時下の『靖国・フリーター・戦場死』を問う」というシンポジウムをやった。
これは、香田証生君の死について、左派の人も彼を批判してた論調があったんです。要するに「何もわかんない日本のガキが、第三世界の厳しいところにふらふら行って、殺されて当然でしょ」みたいな意見。これに対する激しい違和感と、小泉が参拝に来ることと、いわゆる「イラク反戦」が後退局面にあったこと。
後退への焦りと、これらの事件を合わせて、その問題を「フリーターでふらふらしてて、殺されたらいいのか?」と打ち出したんです。ちょうどプロのジャーナリストが殺されると「彼は本懐を遂げた」とされた。これはおかしいんじゃないか、と。
フリーター青年が見捨てられ、生の序列化が図られようとしていると。これは我々の生存とか、いまの生きているよすがなき社会はどうなのか?と問うイベントをやった。これがフリーター問題の前史になっていた気がします。
自身の厳しい生活、自分自身の表現で
中桐(釜パト)…京都の『反戦生活』が前身の団体(反戦・反政府行動)から衣替えする過程では、どういう論議があったんですか?
P(反戦と生活のための表現解放行動)…まず名前が恥ずかしかったのと、もう一つは、「イラク戦争に反対」って言うだけじゃダメだろうという話があった時に、象徴的な意見が出たんです。それが地デジ問題です。あれでテレビを買い換えないと、テレビも観れなくなる。でもその金もない…。
QT…二〇一一年問題だよね。
P…そうそう。こういう自分たちの現実に目を向けることも大事じゃないかという意見が出て、そういう内容も含められるような名前ってんで「生活」っていうのが出てきたんです。
P…テレビを買う金もない自分たちの厳しさが浮き出てきた。
それと、僕らはもともと、教育基本法改悪の問題とか、戦争反対、野宿者支援も含めて色々やってたんですよね。「それらも含めて捉えないかんな」っていう議論にもなって、それを、どう言葉にしたらいいのか?で、「生活」だと。
橋口(ユニオンぼちぼち)…「表現解放」ってところが面白い。いっしょに街頭行動に参加してますが、歩いてて面白い。何で「表現解放」か、っていうと、イラク反戦が盛り上がって「よしっ」っていう部分と、一方で、いわゆる「市民的」なデモの中で「なんか居心地悪い」という感覚があって、自分たちの表現を警察に対しても反戦運動に対しても解放したいっていう意味です。
「反戦」と「生活」と「表現解放」と三つ並んでるのが特徴だと思ってます。
QT…表現ってことで言えば、石垣カフェ(人民新聞一二二〇号)はしびれましたね。福岡のサウンドデモもそうですがね、「やられたー」とか言って、「ああいうのを、またやろう」と。
あれに発想を受けて「引きこもりカー」ってのやりましてね。台車にブルーシートと板を打ち付けて、乗って歩いた。執行委員のSくんが警察から追及をされて「君ぃ、ダメだよ、人間が乗ったら」って弾圧されて、「君ぃ、荷物じゃないだろ」「いや、荷物です。社会のお荷物です!」。アドリブだったんですけどね。あれでみんなノッちゃって盛り上がりました。
「文化的閉塞性」に対置する三つの柱
西村(元日雇い港湾労働者・飛び入り参加)…警察についてだけど、私が日雇いの労働組合をやってた頃は、九五%くらいが「労働・生活相談」。みなさんからみたらものすごく「レベルが低い」。警察に何べんも行った。西成署で刑事と二人で「どうしましょ、どうしましょ」と相談したり、組合員が北海道で自殺しようとした時も、北海道警と相談しながら後始末した。警察とは仲良くしないと運動ができなかった。警察とドンパチケンカするだけじゃ運動は進みません。
「日雇い」から相談を受けるんだから、もう少し「低レベル」の話から始めていかなあかんっていうことを、私は感じてきた。
中桐…フリーター全般労組の山口(素明)さんが「文化的閉塞性」ってことを言ってます。若い労働者の生活は、パチンコとパチンコ屋の前にあるキャッシュディスペンサーとの往復で、新聞も読まないし情報アクセスもない、という人がものすごく多いと。そんな実情に、組合としてどう対応したらいいのかということです。出会っていく機会がそもそもないような人たちと、どうやっていくか、が大きな課題の一つである、ということを言ってました。
QT・鈴木…ぼくらは労組として三つの柱を立てています。
一つは、基礎としての労働相談で、きちっと解決する、ピンハネ含めて取り返していく。その相談のための間口は街頭のビラまきやネットで確保する。あとホットラインってのもありますね。
二つめの柱は、「文化」というか「生活」というのも含めた言論活動です。自己責任論と対決して、連帯的なものを対置する活動。これは、サウンドデモみたいに単純に楽しいってのもありつつ、やっぱり対抗する文化を創ることです。シンポジウムもそうですね。
三番目にいわゆる「もう一つの働き方」みたいなことを対置しようしています。ベーシックインカムのような制度的なものも含めてです。
この三つを方針としています。このような柱がないと、回路が広がらない。合同労組で多いのが「解決したらサヨナラ」ってケースですしね。やっぱり仲間になってこんどは誰かを助けるとか、いっしょに歩むっていう形なり仕掛けが必要です。
中桐…相談の中身はどうですか?入り口は労働相談でも、いわゆるクレサラ問題(クレジット・サラ金などによる多重債務などの問題)や家族との関係など、生活全般に関わる問題があるんじゃないですか。
QT…こじれアリまくりですよ。労組でできることには限りがあるので、湯浅くんたちの『もやい』に紹介するとか、そういう領域でがんばっている人たちに相談しています。実際に、企業との交渉に入る前に解決しなければならない心の問題もあります。「話を聞いて欲しい」っていう人も多いですよね。
梶屋…しゃべりたくてかけてくる人も多いですね。
資本主義の本質と対峙する生存組合
山田…東京では三つの柱を立ててってやっているようですが、京都や福岡ではどうですか。
小野…ぼくたちは一応「労働/生存組合」と言ってますが、生存組合としてシステム化は、まだです。
ぼくらも、『もやい』とかホームレス支援の団体と連携がとれたら一番いいんですけど。僕らのやった案件の一つで、ホームレス支援のNPOの職員が、ほんのちょっと給料上げてくれないかと要求したら、解雇された事件があったんです。そのNPOとは切れてしまいました。
もちろんつながるべきなのですが、一方でNPOやホームレス支援をやっている彼らの意識はどうなんだろうかと。ある種の「弱者救済」的な側面が強すぎるのではないか、と思ってしまいます。職員の雇用を軽々しく考えている組織が、なぜホームレス支援ができるのかということを、相当議論しました。
NPOとか「別の働き方」という発想と、労働運動ができることとは、違うと思います。並行してやれるのでしょうが、発想の違うところもある。極端に言うと、「労使対立の問題を純化して考えていくと、別の働き方とかオルタナティブなんて、この資本主義社会の中でできるもんじゃないだろう」──みたいなところです。
fufとしては「生存」=まさに労働以前の問題を打ち出しています。生活そのものが厳しいっていうレベルと、心の問題ですね。心の問題を抱えている組合員も多いし。そんな組合員が結果的に辞めざるを得なくなったんですが、うまく対応できなかったこともありました。
当該労働者が力をつける組織の立て方
山田…組合費や専従を支える体制はどうですか?
梶屋…専従はいないです。執行委員は一三名。その内、交渉を実際にやっている人たちは六名位ですね。
QT…参加する人が増え始めているから、交渉員は一〇名くらい。自分で解決まで持って行ける人が五〜六人で、サブで付いてもらう形で。
専従については論議があって、専従が必要という意見もある一方で、専従なしでどこまでやれるか追及したいメンバーもいます。
梶屋…専従に業務が集中したり、意識の溝ができたり。
QT…専従に頼ってしまう危惧もある。
山田…代行主義に陥らないためでしょうか?
QT…そうですね。そういう積極的な意味と、現実問題として金がない。
橋口…首都圏青年ユニオンは専従を置いて飛躍的に組合員数が伸びたので、そのメリットはあるかな。
QT…相談を受ける体制を作るという意味では、「専従を置くのがオーソドックスだろ」って意見は当然ありますよ。
それと、組合を支える体制として、賛助会員という仕組みも作っています。メールマガジンもがんばって続けて、いま五〇〇アカウント位の読者がいます。「オールニートニッポン」(インターネットラジオ)のリスナーも五〇〇〇人。
中村(ユニオンぼちぼち)…ぼくは「ユニオンひごろ」の専従ですが、「ひごろ」で受けた相談をぼちぼちに回していくのがぼくの仕事だと思っています。「相談を専従が一人で抱えるというとらえ方も、変えるべきだと思ってます。
小野…首都圏青年ユニオンが、企業に要望書を出すときに「自分でFAXのボタンを押してもらう」って書いてたけど、あれってすごく重要ですよ。世界産業労働者組合(IWW、アメリカに本部を置く国際的な労働組合。すべての労働者は一つの組合の下に団結することと、賃労働の廃止を主張。一九〇五年の創設以来、激烈な運動を展開。当時、ナショナルセンターから排除されていた非熟練労働者や季節労働者、移民労働者らを受け入れた)もそういう発想です。当該労働者自身が問題意識とか知識をつけていくことを重視してます。
QT…フリーター全般労組では毎月、労働相談入門講座をやってます。
P…相談を受けられるようにってこと?
QT…そう。加えて、自分の身を守るために。緑風出版から出版された本がテキストにいいですよ(『ひとりでも闘える労働組合読本 リストラ・解雇・倒産の対抗戦法』著:ミドルネット、緑風出版 )。
山田…ぼちぼちはどう?
橋口…ぼちぼちは組合員が四〇名弱。うち立命館支部は七〜八人。立命館支部は立命館大学の院生と学部生で、アルバイトも含めて立命館に直接雇われている人の支部です。
なかまづくりの手段としては、『ぼちぼちトークカフェ』を定例化して、毎月みんなでご飯を作って食べています。この時、会議もします。これをやり始めて、新しい人が来るようにもなりました。これは首都圏青年ユニオンが会議の中でご飯を出すというのにヒントを得て、始めたものです。組合員全員が入るML(メーリングリスト)も青年ユニオンのアイデアです。
「居場所」としての労働組合
山田…F労の組合費は五〇〇円ですよね。
QT…これは激しい論争があったんですよ。最初は一律五〇〇円だったんですが、これじゃ活動費も出ない、ビラ代も出ないだろって指摘があって。今度は一律二〇〇〇円にしたんです。すると、辞めた人が出たんです。「高いよ」って。それで激しい論議の末、五〇〇円以上の所得傾斜方式にしています。
生田(フリーターズフリー・野宿者ネットワーク)…月五〇〇円でも無理だって人はいませんか?
QT…実はいるんですよ。それで、彼のおうちに行こうと。遊んだり食べたりしようと。そのひとは楽器が得意なんで、彼にライブをやってもらってギャラを払って、そっから組合費を払ってもらおうかと(笑)。
生田…首都圏青年ユニオンの河添さんから、五〇〇円も払えない人がいてすごく悩んだって話を聞きました。それで最近できたのが、「反貧困助け合いネットワーク」。やっぱり、とことん収入がなくなると、一〇〇円でも厳しいって人がいるんですよ。我々は野宿者支援で、月収三万円以下の人とやってるわけですから、月一〇〇円出すのがしんどい人がいるんです。何ができるのかはいつも考えますね。
千々岩…組合費に代わるものとして、お金以外を考える方向はどうですか?物々交換じゃないけど。組合費だけじゃなくて、会社側への要求としてでも。ミカン三箱とか。
中桐…長居公園で炊き出しやる時に、「焚き木もってきて」って呼びかけたことがありました。
生田…最近農業を始めた人が、「金がないんで、野菜で」っていう人もいました。
QT…そこは広げないといけないですね。「いられる場所」という意味もあるんでね。
橋口…居場所として広げていくことは重要ですよね。
小野…それは大事ですね。ぼくらも定期的にいっしょに飯食ったり。ミニイベントを入れたりしてる。場を開いていって誰か来るかっていうと、そんなこともないけどね。
中村…ぼちぼちで飯出してから会議に変化があります。これまでみんな腹減って会議してるとイライラして、わけわからんところで口論になったりしてましたが、飯食いながら話してると、そういうのはなくなりました。
労働組合の限界と新たな可能性
QT…福岡のホームレス支援団体との争議の話がありましたけど、うちも同じような案件をかかえていました。ほんっと難しかった。一年位かかったんですけど、障がい者の自立運動を担ってた当該障がい者との交渉をやったんですよ。その人の自立を支える介護の事業所です。運営もワーカーズコレクティブ的なものをめざして、みんなで話し合ってやってたけども、みんながんばり過ぎちゃって。
やっぱり二四時間介護じゃないですか。その人の自立生活を維持するにはあまりに原資が足りない状態。これは自立支援法が悪い。
もうひとつは男性の当事者からのハラスメントの問題があって、それは言えなかったんですよね。「その人を支えないといけない」ってとこで我慢しちゃってて。去年の一二月三一日にうちの留守電に女性から泣き声が入ってたんですね。解決まで一年かかりました。一〇回目の労働委員会で当該の方も納得する形で和解になったけど、大変でしたね。
「NPOワーク」と「ケアワーク」
中村…労働運動の中で仕事づくりってのは、何十年も前からある話なんですけど、そこでの労働条件はとても厳しいですよね。
特にケアワーカーは大変です。自立支援法を壊すしかないっていう状態です。これは労使の対立ではなくて、いっしょにやらないといけない。当該の人との関係を良くしたいとか、思いをもっと聞きたいと思うほど、帰る時間が遅くなって、終電が過ぎちゃうとか、いつも聞いてます。
結局、労働組合の最終的な武器はストライキなんです。それをやらなかったら雇用主を黙らせられないわけですよ。ところが、「ストライキの間、当該はどうなるの?」って問題になるので、『ケアに関わる人は、ストはできない』という前提でやらないとダメだと思います。
小野…労働組合を通じて要求書を出すって段階で、人を使う立場の人間が「なぜ彼は、そうまでしなければならなかったのか」ってところに配慮できなかったら、もうその時点でダメですよ。
そういう形じゃなくても解決できる場合はあるはずなんですよ。それなのに、さっきの泣き寝入りの状況と同じで、個人で経営者に対してざっくばらんに話して解決することができなくて、悩んだ末に、相当な覚悟をもって労働組合を通して要求書を出すわけです。それに対して、人を使ってる側の人間が一定の覚悟をもって受け止めないと、こじれますね。
中村…だいたいNPOって人のつながりがあるんで、ぼくらユニオンが出る前に対話した方がいいんじゃないかというケースもありましたね。
P…ユニオンに相談があったけども、NPOがユニオンをよく知っているので、逆に直接関係ない別のユニオンに話をまわすということも普通ですね。
QT…ある労組から「うちでは対応できないので」ってこっちにきたケースがあります。解雇案件なんですが、その関連の労組では扱えないと。それはきちっと割り切って解決しました。
「労働」として社会化する方法論
P…ケアワーカーだと自分の労働を「労働として価値があるんだ」ってなかなかストレートに言えなくて、「人間としてやらなきゃいけない」という方に近いんです。ボランティア的なものに常に近づいているので、嫌なことを嫌だって言いにくい。峻別が難しい。しかも「プロ化していくのは嫌だ」というのも片方にありますから。
『均等京都』(均等待遇アクション 京都)でケアワーカーの職務評価をやるのは、自分の仕事は客観的に「こういう仕事をやっててすごく価値があるのだ」っていうところに持っていきたいんですね。これからも事例を積み上げていこうと話してます。
中村…職務評価のもう一つ大事なところは、労使関係を「外に出して」いく方向性です。労使関係というと、どうしても職場内にとどまってしまうけれども、リビングウェッジとか、公契約条例とか、そういう条例化・法律化に向いていくっていうことですね。
日本の労働は昔も今も家族主義なんです。内々で全部まとめてしまう。労働組合もそういうところがあって、そこが労働組合の限界を感じるところです。就業規則が会社の中だけで決まってしまう。ヨーロッパだったら法律で決めて、ある程度はっきりしてるわけです。職務評価や均等待遇のようなものがもっと法律レベルで明文化されてないと、今は闘いにくいですね。
QT…公契約条例運動は、単に価格の安いところに仕事を出すって仕組みが主流ですけど、ちゃんと労働者に賃金払ってるかとか、女性や移民労働者を採用してるかとか、あるいは清掃の時に農薬とか有機リン酸系の合成洗剤使わないとか。いくつか法制度としてありますね。
(第一部終わり)