天璋院篤姫・紙芝居・日蓮正宗 実正寺 - 愛媛県今治市 -愛媛県・今治市・寺院

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紙芝居

「天璋院篤姫」19枚中の1枚目
 今日の紙芝居は「天璋院篤姫」という人のお話です。
 皆さんは「篤姫」という名前を聞いたことがありますか?
 そうですね、今年のNHKの大河ドラマで放映されていますので、知っている人も多いと思います。
 江戸徳川幕府、第十三代将軍家定の御台所だったのが、今日の紙芝居の「篤姫」です。
 江戸時代は将軍様と結婚すると、奥様は御台所と呼ばれるようになりました。
 実はこの「篤姫」は、皆さんと同じように日蓮正宗の御本尊様を信仰をしていました。
 総本山第51世日英上人様から御本尊様を御下附いただき、信心を貫いていきました。
 将軍の御台所、そして大奥の総責任者として、信心を基本に江戸時代最後の大奥を、取り仕切っていった「篤姫」のお話しの始まりです。

「天璋院篤姫」19枚中の2枚目
 九州の南、桜島で有名な鹿児島県は、昔、薩摩の国と呼ばれていました。
 人々はその薩摩のお城を、鶴が羽を広げた姿に似ているところから、鶴丸城と呼んでいました。
 その鶴丸城のほど近いところに、今和泉島津忠剛の屋敷がありました。
 この今和泉家は、薩摩藩主島津家の分家でありました。
 天保六年十二月十九日のことです。その今和泉家に、とても可愛く、とっても元気な、女の子が産まれました。
 名前を「於一(おかつ)」といいました。この子が後の篤姫です。
 この篤姫が将軍の御台所となり、江戸時代の最後を取り仕切り、徳川家を救う大きな役割を果たそうとは、誰も想像できませんでした。
 「この子も、いつかお嫁に行ってしまうんでしょうね」
 「いや、嫁になんか行くものか、いつまでもわしのそばにいてくれよ、なぁ於一?」
 お父さんも、お母さんも、初めての女の子の於一(おかつ)を愛情一杯に育てました。 

「天璋院篤姫」19枚中の3枚目
 於一は、お父様からいただいた本を読みながら、たくさんの友だちと、色々と意見を交換しました。
 嘉永三年十一月のこと、翌年の二月に薩摩藩主となる島津斉彬公のもとへ、思いもかけない知らせが届きました。
 それは、薩摩から次の将軍となる徳川家定公へ、嫁入りさせよとのことでありました。
 「ありがたき知らせじゃ。しかし、嫁に出したくとも、我が家の三人の姫はまだ幼い、困った事じゃ、どうしたものかのう・・・・」
 と、その時、斉彬公の脳裏に浮かんだのが、何度か会ったこともあり、家臣の中で、女の身なれども、学問に秀でたものがあると、話題になっていた、あの於一でした。
 「あの子であれば、忍耐力もあり、いまだ怒った顔を見たこともなく、不平を言ったのを聞いたこともない。また人に接するのもうまいので、将軍の御台所にピッタリであろう」
 と、於一に、家定公のお嫁さん候補の話しが 降って湧いてきたのでした。
 しかし、この時はまだ、正式なものでなく、お嫁さん候補の一人に過ぎなかったのです。

「天璋院篤姫」19枚中の4枚目
 斉彬公は、分家の娘であった於一を、家定公との結婚に当たり、自分の娘とすることにしました。そして、名前を「篤子」と改め、みんなは「篤姫」と呼びました。
 嘉永六年八月、篤姫は嫁入りのために、薩摩の鶴丸城を出発して、十月には江戸の薩摩藩邸に着きますが、その道中、薩摩藩の老女であった小野嶋が、ずうっと付き添います。
 実は、この小野嶋も御本尊様を信じていて、信仰に関して、篤姫に大きな影響を与えたのではないかと思われています。
 江戸に着いた翌年、大きな不幸が襲ってきました。斉彬公が重い病気になってしまい、その上、子供も亡くしてしまったのです。
 そこで、先に大石寺の信仰をしていた八戸藩の殿様、南部信順(のぶゆき)公が斉彬公を見舞いに来て、自分が入信したときの話しや、八戸藩の老女であった喜佐野が、御秘符を飲んで、病気がたちまちによくなった事などを話し、
 「南無妙法蓮華経という教えは本当にすごい」
 と、御本尊様のすごさを話しました。
 家族全員でこの話を聞き、信心をするようになり、さっそく、第五十一世日英上人様から御秘符をいただき、無事病気が快復してい きました。

「天璋院篤姫」19枚中の5枚目
 様々なお寺や神社で願っても、いっこうによくならなかった、その上、跡継ぎの大事な 男の子を、自分が病気と闘っている間に、亡くしてしまった。
 そんな中、見舞いに来てくれた南部信順公は、斉彬公の大叔父に当たります。
 身内からされた信心の話は、ちょうど真っ暗闇の中に、一筋の光が差し込んだような心持ちで、聞いたことでありましょう。
 「父上様、御病気がよくなり本当にようございました」
 「本当よのう。南無妙法蓮華経の信仰とはも のすごいものじゃ。それに、御秘符の力は計り知れないものじゃ。ありがたい・・・・」
 斉彬公と篤姫は、嘉永七年八月に入信しましたが、小野嶋の願い出によって「婚礼が無事決まるように」嘉永六年から安政三年の春に至る足かけ四年、日英上人様は御祈念されました。
 その願いが通じたのでしょう。正式な婚礼決定の知らせが斉彬公へ届けられました。
 そして、その御礼の御供養が、薩摩藩から日英上人様のもとへ届けられました。

「天璋院篤姫」19枚中の6枚目
 将軍の御台所となる人は、今まで宮家か公家から迎えるのが慣例となっていたため、篤姫は、婚礼の正式決定の同じ年の七月、公家の近衛(このえ)忠煕(ただひろ)の養女となりました。
 実はこの近衛家は、あのお山の三門を建立御供養された、六代将軍家宣公の御台所、天英院(てんえいいん)様のご実家でありました。
 薩摩から江戸へ来る道中、島津家と京都の近衛家とのつながりや、近衛家から出られた天英院様のこと、同じく大石寺の信仰をしていたことなどを、小野嶋から聞いていた篤姫は、不思議な因縁を感じました。
 「願いにより、篤姫との養子縁組の手続をすませ、本日より新しき名として、『敬子(すみこ)』と授けようぞ」
 近衛家の養女となった篤姫は、さらに気を引き締めて準備にあたりました。
 斉彬公の張り切りようは、すさまじいもので、婚礼道具の準備も全て指図し、準備が終わると、倒れ込んでしまうほどでありました。

「天璋院篤姫」19枚中の7枚目
 このころアメリカのペリー率いる軍艦、黒船が日本にやってきて、開国をせまってきていました。
 幕府として、今まで通り鎖国を続けるか、開国して外国を受け入れるか、混乱した政情が続くなか、無事婚礼の準備も整っていきました。
 江戸城大奥に入る前日のことでした。
 「篤姫、前もって言っておきたいことがある」
 「父上様、何でございましょう」
 斉彬公は、今の日本の状況を詳しく話し、
 「お身体が弱い家定様の時代は長くは続くまい。次の将軍には、是非とも水戸の徳川斉昭殿の御子息である、一橋慶喜様がなるように、家定公に言ってくれまいか。また、家定公のお気持ちも聞いてもらいたい」
と、篤姫に言い渡しました。
 これは俗に、密約といわれるもので、若い篤姫の肩に、日本の将来を左右するような、大変な使命が負わされたのでした。

「天璋院篤姫」19枚中の8枚目
 ペリー来航以来、混乱した世情を治めるため、将軍の跡継ぎ問題は、最重要なものとなっていたのでした。
 「それにしても、お世継ぎさえも期待されていない将軍様とは、どんなお方であろうか?」
 不安な気持ちで婚礼の時を待った篤姫でしたが、十二月十八日、家定様と篤姫の結婚の儀が無事に済まされました。
 家定様の趣味といえば、豆を煎って周りの者に食べさせ「おいしい、おいしい」と言っ ているのを見て喜ぶだけの、まるで子供のようなお方でした。
 しかし、篤姫は、御台所として誠心誠意、家定様に尽くされました。
 そして徳川家を守り支えていく決意が、家定様と一緒に過ごす間に、段々と強くなっていったのでした。

「天璋院篤姫」19枚中の9枚目
 そんな篤姫の健気な心が、家定様にも伝わりました。
 「今度、ハリスとやらがわしに会いたいと言ってきておるが、どうしたものかのぉ〜?」
 「御台ならばどのようにするかのぉ〜?」
などなど、色々と篤姫に相談するようになってきました。
 篤姫の耳には、
 「公方様は、おばかなお方であらされる」
という、悪口のような噂が入ってきましたが、家定様と接して行けば行くほど、能力が欠けている、ばかな振りをしてるだけだ、ということがよく解りました。
 「上様、ハリスとやらが会いたいと言うのであるならば、会ってみてはいかがでしょう」
 「ハリスが立ったまま挨拶するというならば、分かりました、こっちにも考えがあります」
と言って、篤姫は、畳を重ねた上にイスを置き、ハリスの目線よりも上になるように会場の設定も考えました。
 そして、その会見の間は、無事済むように人知れず真剣な唱題に励んでいたのでした。

「天璋院篤姫」19枚中の10枚目
 篤姫には、父上様から託された大事な役目がありました。
 それは、次の将軍に、一橋慶喜(よしのぶ)様を選んでいただくことでした。
 しかし、次の将軍様は慶喜様ではなく、紀州の慶福(よしとみ)様に決定されてしまいました。
 「徳川家を残すために、どうすればいいか考えての事じゃ。慶福はまだ若い。どうか御台に後ろから支えてもらいたいと思うてのぉ〜。慶喜では、それができないであろうからのぉ〜」
との家定公のお言葉に、
 「そこまで考えて下さっておられたのか・・・・」
と、より深く上様をお慕いするようになりました。
 ところが、次の将軍決定の間もなく、第十三代将軍家定公は、お亡くなりになってしまいます。また、その直後には父上様の、斉彬公も亡くなってしまいます。
 二人の大きな支えを亡くした失意の中、篤姫は「天璋院」と名を改めて、第十四代将軍慶福改め家茂(いえもち)公のお母様がわりとして、二十三歳の若さで、大奥を取り仕切って行くようになりました。
 第十四代将軍になった家茂公は、まだ若干十三歳。国の政治は、大老の井伊直弼が取り仕切っていまし たが、直弼は強い徳川幕府の立て直しのために、幕府に反対する思想を持つ者たちを、次々に捕まえては、牢屋に入れたり、時には殺してしまいました。
 そしてついに、その恨みをかい、万延元年三月三日、井伊直弼は暗殺されてしまいます。桜田門外の変でありました。

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