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吾輩は馬鹿である

2008-09-27

猿ではわからん「トリアージ騒動」5つの誤解

福耳氏の記事ケーキ - 福耳コラムに端を発したこの件に関して、私は言いたいことは既に本ブログ中に述べたつもりなのだが、未だに論争当初からの誤解が解消されず、相変わらずな批判*1をぶつけてくる人たちがいる。そこで、よく誤解される箇所に関して既に書いたことをもう一度まとめておく*2

誤解その1:「最適」概念は価値判断の強要である

既に何度も述べているように、福耳氏が述べた意味での「最適」というのは術語であって、日常語とは異なる厳密な定義が存在する。その本質は以下に述べたとおりである。

ある問題への対処において、ある選択肢が「最適」であるとは、

  1. その場の状況に応じた制約*3をクリアできるもの中で、
  2. その場の状況に応じた評価基準を最も強く満たすもの

を指す。

ここで注意しなければならないことがある。「最適」概念の定義は、「状況に応じた制約」「状況に応じた評価基準」が何であるかとは全く独立に定められているということだ。

藁人形と戦う前に「最適」の意味を理解せよ - 吾輩は馬鹿である

即ち、あるものを無前提に「最適」であるかそうでないか、とは言えないのである。この件に即して言えば、救急救命の場を離れたトリアージが最適である、とは誰も言っていない。

福耳氏は、「ある状況で、ある価値基準に沿えばトリアージが最適である」ということを言ったまでであって、「トリアージは無批判に肯定されるべきである」とは言っていないのである。従って、福耳氏やその擁護者に「お前はトリアージされても文句を言うな」というのは筋違いな批判である*4

誤解その2:福耳氏は経営学トリアージを適用した

これについては以上のことからも明らかであるが、あらわに書いた箇所があるので引用しておく。

トリアージは「有限の医療資源」の「配分」を

  1. 「絶対的に医療資源が不足しているところでは」という制約のもとで、
  2. 犠牲者数を最小化する」という評価基準(合目的性)に基づいて

行動するための手法である。「最適」性の例としてきわめて明快であり、そしてこの「最適」性は、上記制約および上記評価基準を前提として成立するのであり、従って「経営学トリアージが適用される」という批判は、そもそも字義からして理解不能であることもおわかり頂けるだろう。

藁人形と戦う前に「最適」の意味を理解せよ - 吾輩は馬鹿である

補足すると、福耳氏がやったことはあくまで「トリアージ経営学的に説明すること」でしかないのである。これに対して経営学トリアージを適用する」という文章は、「数学ギャンブルを適用する」というのと同様、意味がわからないのだ。できることは「ギャンブル数学的に説明する」ことでしかない。

なお、よく言われる「緊急事態」云々は、上記の枠組みを理解していない証拠である。なぜなら、それは全て上記説明に包摂される。上の枠内で考える限り、「制約」と「評価基準」の選び方に、事態の「緊急」性が反映されるのであ*5る。逆に、「緊急」性のない事態を考えるときには、「最適」性の評価からは当然「緊急」性に由来する部分は排除される。

誤解その3:福耳氏は百貨店の話にトリアージを持ち込んだ

これについては誰か風に言えば、福耳氏の「テクスト」が読めていないとしか言いようがない。福耳氏の元記事ケーキ - 福耳コラムの構成をもう一度復習しよう。

まず、全体を意味段落に分けると以下のようになります。各意味段落内の形式段落の冒頭を引用しておきます。

  1. 今年度からのバイト先の社会学部の学生に経営学を教えていて、あまりにナイーヴすぎるんじゃないか、と思うことがありまして。
  2. アパレルメーカーに行って活躍している後輩に、(略)で、「百貨店という業態はある時期、(略)後でリアクションペーパーに書かれた意見質問などは、(略)「でもそうやって百貨店がおばちゃんくさくなって売れなくなったら、(略)これまであちこちで教えてきて、「競争で負けた組織はかわいそうだ」ということをコメントされたことは初めてでした。実際に存在する競争という現象を、そしてそこでの優位劣位を、(略)
  3. また、別の回に、資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、(略)これ、「トリアージの判断をしなければいけないお医者さんたちもつらいだろうな」というのではないんですよ。(略)「そんな重傷者をもう助けないなんてレッテルを貼るなんて、人権侵害じゃないですか?」と書いてきたお嬢さんもいた。(略)
  4. もちろん、これから少しずつでももうちょっと考えを深めさせていきたいと思いますが、なぜこうなるのだろうかわからない。(略)ソリューションというものを考える時に、(略)
  5. いやあ、経営学系の人とばかり話していると、想像もできないことが世の中にあるんだなと勉強になります(付記:これはちょっと皮肉のつもりだったのですが、本気で取る人がいてびっくりしました。おかげで無粋な注釈をつけざるを得ない)。

この各意味段落の文章内での機能は以下の通りです。

  1. 話題提起
  2. 例示その1(百貨店
  3. 例示その2(トリアージ
  4. 例示に関するコメント
  5. 結び

このように読めばおわかり頂けると思いますが、この文章内で、2(百貨店の話題)と3(トリアージ)は全く並列なのです。この文章の趣旨は1や5に触れられている、「現在の受け持ちの学生はものすごくナイーヴに思える、経営学の常識だけで通用する世界ばかりではないのだ」というようなものです。ありきたりな愚痴です。そして、2や3は単なる例示であって、別のエピソードと入れ替えても趣旨を変えずに完全に話が通るようなものです。

藁人形と戦う前に「最適」の意味を理解せよ - 吾輩は馬鹿である(コメント欄)

以上のことから、「トリアージ」の話は「百貨店」や「経営学の全体」に影響するものでないことが容易に理解できよう。

誤解その4:福耳氏は「かわいそう」という感情を圧殺した

これについては、福耳氏の元記事ケーキ - 福耳コラムから直接引用してくるのが簡便である。

もちろん、これから少しずつでももうちょっと考えを深めさせていきたいと思いますが、なぜこうなるのだろうかわからない。社会問題を感情的に批判していれば解決するとでも思っているのだろうか。

明らかに、福耳氏の嘆きは「考えの深さ」の点にあり、感情を抱いたこと自体ではない。仮に「感情的に批判」して解決するのであれば、福耳氏が落胆する理由自体が消滅するからだ。そのことは、補足を読めばさらにはっきりする。

学生の多くは「かわいそう、でも、それではなぜトリアージというものがあるのか?」という次の問いに、ちょっと時間はかかりましたが達したことを学生さんたちの名誉のために付け加えます。それだけに、「かわいそう」で足踏みしてしまう学生さんにちょっと歯がゆい思いがするのです。

そうです、最初に「かわいそう」と感情を覚える人こそ、問題に取り組めると思います。しかしそのためには、その「かわいそう」から出発して、その先に考えが進まなければならない。

合理性だけでは世間は活力を失うでしょう。ただ、概念として感情と合理性を分節化するところまでは、大学生なら考えて欲しいんですね。

ここまで読んでも、福耳氏を「合理性の名の下に人間を切り捨てた」と評価するのであれば、とんでもない誤解をしているか、福耳氏を色眼鏡で見ているかのどちらかでしかない*6

誤解その5:トリアージホロコーストに類推させることは問題がない

確かにトリアージホロコーストに何の共通性もないとは言わない。しかし、共通性を理由にしてあるものとあるものを結びつけるからには、その両者の共通点と相違点の質を比較する必要がある。なぜなら、どんなものとどんなものを比べようと、その両者にはなにがしかの共通点があるに決まっているからである。

ホロコーストトリアージの共通点はどこにあるか?「資源の希少性」と「合理主義」しかないのである。ホロコーストトリアージを関連づけている人たちは、この2点だけの共通点だけの根拠しか持っていないのである。

「論法の同型性」論法の危うさ - 吾輩は馬鹿である

むしろ、ホロコーストは「人命軽視」「人種差別」といった価値観を前提にしており、苦しい状況の中で「公平性」「人道性」を最大限に保とうとした「トリアージ」とは性質からして対極にある。このことは致命的な相違点であり、無視されてはならないのである。そうでなければ、

「丸い」というだけの共通点を例にとって、「月」と「スッポン」を同列に並べるようなものだ。その指摘が意味を持つのは、位相幾何学の啓蒙書の中ぐらいだろう。

「論法の同型性」論法の危うさ - 吾輩は馬鹿である

ということも言えてしまい、

このような論法が許容されるなら、あらゆるものを同列に並べることができるだろう。私が再三挙げてきた、「お前は人間である、ヒットラーも人間である、よってお前とヒットラーには共通点がある」という、侮辱以外に何の役にも立たない論法を使えばよいのだ。

「論法の同型性」論法の危うさ - 吾輩は馬鹿である

となってしまうのである。

終わりに

以上、「トリアージ騒動」について、問題の当初からずっとつきまとってきた誤解を列挙した。これはFAQとして意図したもので、今後、本記事を踏まえていない反論は受け付けないものとする*7。似たような低レベルな批判を違った相手から次から次へとぶつけられることには正直、くたびれた。

*1:もはや批判と呼べない単なる中傷あるいは言いがかりといってよいものがほとんどだが。

*2:ただし、誤植や表記は意味内容を変えない範囲で適宜修正する。

*3:物理的制約、経済的制約、倫理的制約などが考えられる。なお、時間的制約および技術的制約、人員的制約は物理的制約や経済的制約に含まれると考えてよい。

*4:そもそもこのような批判は個人のエゴに訴えかけるという意味で倫理的議論においては反則だろう。倫理を云々するなら「無知のヴェール」ぐらい知っておいてほしい。

*5:たとえば、トリアージは一言でいって「死者を最小化するためには手段を選ばない」という前提でのみ許容される手法であり、災害救急現場以外の状況をこの枠組みに落とし込むならそんな前提は除かれることは言うまでもない。

*6:なお、女性差別云々は本筋と関係がない上、邪推としか思えないので割愛する。多少筆が滑り気味なのは確かだが、それを女性差別だと言い切れるだけの根拠もあるまい。

*7:というより、本記事を踏まえていない反論は「全体最適はナチ」「トリアージホロコースト」と皮肉られても仕方がないもののはずだが。

flurryflurry 2008/09/28 12:37 お久しぶりです。少し場違いかもしれないのですが、
http://d.hatena.ne.jp/Sokalian/20080901/1220276877#c1220440384
から引き継いでのコメントをさせていただけますでしょうか。今回の話題ですと「その1」「その2」あたりに関連してくるかもと思います。

Sokalianさんの立場というのは、「最適化によって得られた最適解が、自らの価値から受け入れ難い場合(いますぐソ連に先制核攻撃とか)には、最適化という行為自体を非難すべきではなく、その前提となるモデル化や制約条件・評価基準を見直すべきである」ということでよろしいでしょうか?
その場合、以下のような問題についてはどのようにお考えでしょうか。
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a) ある条件で得られた最適解に対して異議があった場合に、その異議を、もともとの制約条件や評価基準に対しての追加・変更として落とし込むことが簡単かどうか?
b) 仮に、ある問題の「制約条件」や「評価基準」について合意が得られた場合、最適解についての合意も得られているとみなすことは可能かどうか?
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a)ですが、異議の形式と制約条件の形式が根本的に異なることが多いため、直接的な翻訳は一般的に困難であるように見えます。
 あと極端な話をするならば、「あなたの考え方にはついていけません」というのも立派な異議だと思うのですが、最適化手法を適用したくてたまらないひとは、このような異議について「もっと最適化の手法に沿った形で言ってもらわないと困るんだよねー」と感じてしまうこともありそうです。
 でもそれって、最適化という手法自体が目的化したり価値を持ったりしてしまっているのでは?という気がするのです。

b)については、基本的に私は「問題の前提条件とは別に、解(を現実の中に位置づけ直して解釈したもの)自体についても合意を得るべき」だと考えています。そうでないと前提条件の見直しができないと思うからです。

SokalianSokalian 2008/09/29 00:02 丁寧なコメントありがとうございます。最近は一方的に中傷を浴びせられるばかりだったので、救われた思いです。

さて、全体的におっしゃることには同意します。そして、私自身の見解をもう少し付け加えてよろしいでしょうか。

> a) ある条件で得られた最適解に対して異議があった場合に、その異議を、もともとの制約条件や評価基準に対しての追加・変更として落とし込むことが簡単かどうか?

これは「全く簡単ではない」です。相手が人間ではなく、無機物であってもそうです。工学にはこの種の問題が多く出てきますし、広い意味では物理学や化学、あるいは統計学などでもそうです(そもそも「評価関数」自体が「エネルギー」の一般化なので)。
現実がモデル通りに動かない場合、モデルのどこが間違っていたかを探さなければならないですし、そもそもモデル化自体が妥当かという問題も多くあります。早い話、「評価基準」を常に数量化できるとは限りませんから。
そういうわけで、この方法は「状況を単純化して解析する」ための「やり方の一つ」であるというのが共通認識であると思います。無論、物理学のように完全にぴったりはまる場合もあるわけですけれども。

> b) 仮に、ある問題の「制約条件」や「評価基準」について合意が得られた場合、最適解についての合意も得られているとみなすことは可能かどうか?

現実問題として無理だと思います。その「合意」を行う人間が、どれほど先を見通していられるかということに疑問符が付くからです。全員が見落としていた問題というのもあり得ますから。

以下は補足です。

> あと極端な話をするならば、「あなたの考え方にはついていけません」というのも立派な異議だと思うのですが、

これについては疑問なしとはしません。これが「異議」であるためには、相手の考え方を理解しているのが大前提ですけれども、それのみならず、前提あるいは結論のいずれかに同意できない点を見いだすのが大前提ではないでしょうか。前提にも結論にも文句はないのに、考え方が納得できないというのは、「異議」というより単なる「好き嫌い」の問題でしかないと思います。「地球が太陽の周りを回るなど、信じたくない」というような。

> 最適化手法を適用したくてたまらないひとは、このような異議について「もっと最適化の手法に沿った形で言ってもらわないと困るんだよねー」と感じてしまうこともありそうです。

そんな人は、少なくともこの件ではどこにもいなかったと思います。

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