(発行=08.12.10)
悪侶の狙いは供養収奪と寺の建立 富士学林の課外授業 「学会破折」を破すC 学会に教義逸脱はなく、宗門は昔から「謗法の山」
◇「52年路線」の真実
学会出版物の表現上の些細な問題点を追及した宗門には、言葉ではなく実際に御本尊の不敬、偽造、乱売などの謗法の実態が昔から無数にあった。これら謗法の数々を棚に上げ、信徒の表現が「教義逸脱」「謗法」だと批判していた。(宗門の謗法の実例を一覧にして紹介)。
宗門が学会の「52年路線」を「謗法」と決めつけたのは、学会が会館等の施設の整備にも力を入れ始めたことを「独立の準備」と邪推したからである。学会は創立以来、会館建設よりも宗門外護を最優先に取り組んできた。その象徴的な事例が学会本部の建設を延期したことである。
昭和27年(1952年)、学会は信濃町25番地に用地を購入したが、この頃、大石寺の五重塔が傷んでいることが分かったため、本部の建設を延期して五重塔の復興を優先させた。学会は大石寺の整備に力を入れる余り、会員数の急激な増加に対しても会館は小規模で少なく、各部の月例幹部会なども外の体育館、公会堂、大学の講堂などを借りて使用するなど、広布の拡大に即応できない状況にあった。そのため、正本堂建立を機に「広布第二章」と銘打って、日蓮大聖人の仏法を一段と幅広く社会へ展開していく活動を進めると共に、内部の整備・充実にも力を注ぐようになった。それがまた、今後より一層、宗門の外護に通ずる道であると確信していたのである。
昭和47年(1972年)10月1日、正本堂完工式で池田会長は「日蓮正宗は第一章をここに終わり、本日より第二章に入ったわけであります。あくまでも、民衆のために――」と挨拶。どこまでも民衆の側に立つのが学会である。会館の建設・整備もその一環であり、会員のためであった。坊主と寺族の裕福な生活を第一義とする宗門とは根本的に違うのだ。
◇「会館は近代の寺院」
特に、坊主共は昭和52年(1977年)1月の教学部大会での講演「仏教史観を語る」の中の「供養とは、あくまで仏法のためになすのであります。その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります」という個所に噛み付いた。坊主は所詮、供養の金が狙いなのである。これは日達法主の説法を確認したにすぎない。
それは昭和51年(1976年)6月18日、室蘭・深妙寺での説法である。「学会は一つの宗教団体である。御供養を受け、或いは寄付を募集する。皆んな自分の学会員、信徒、それ等から貰うんで少しも恥づることも無ければ、世間で批判することの筋合も無いのでございます」。
更に、会長講演の「儀式だけを行い、我が身の研鑚もしない、大衆の中へ入って布教をするわけでもない既成の寺院の姿は……」「学会の会館、研修所も『近代における寺院』というべきであります」に坊主共は猛反発した。「我が身の研鑚もしない」とは一般論としての話だったが、宗門僧は身に覚えがあるため逆恨みしたのだ。また、宗門は無計画に得度させていたので無任所教師が増え、学会に寺を建立させようとしていたのだ。
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