杜父魚文庫ブログ

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駆逐艦「雷」艦長・工藤俊作(1) 伊勢雅臣
■1.「旧敵との和解」■
1998(平成10)年4月、英国では翌月に予定されている天皇の英国訪問への反対運動が起きていた。その中心となっていたのは、かつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜として受けた処遇への恨みが原因であった。

その最中、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に一文を投稿した。「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語った。

大東亜戦争が始まってまもなくの1942(昭和17)年2月27日、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合部隊の海戦が始まった。連合部隊の15隻中11隻は撃沈され、4隻は逃走した。3月1日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百数十名は漂流を続けていたが、翌2日、生存の限界に達した所を日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。

「エンカウンター」の砲術士官だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けて最期を迎えるものと覚悟した。

ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。

このフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はことごとく精彩を欠くことになった。

■2.「オラが艦長は」■
工藤が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15(1940)年11月1日だった。身長185センチ、体重95キロと大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をしていた。「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長に、乗組員たちはたちまち魅了されていった。

着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。士官たちには「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように命じた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。

酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌み交わす。兵員の食事によく出るサンマやイワシが好きで、士官室でのエビや肉の皿を兵員食堂まで持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。

2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになった。艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。

■3.海軍兵学校・鈴木貫太郎校長の教育■
工藤艦長は、海軍兵学校51期だったが、入学時に校長をしていた鈴木貫太郎中将の影響を強く受けた。鈴木はその後、連合艦隊司令長官を務めた後、昭和4年から8年間も侍従長として昭和天皇にお仕えした。その御親任の厚さから、終戦時の内閣総理大臣に任命されて、我が国を滅亡の淵から救う役割を果たす。

工藤ら51期が入学した時に校長に着任した鈴木は、従来の教育方針を以下のように大転換した。

・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

日本古来の武士道には鉄拳制裁はない、というのが、その禁止の理由だった。工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、最上級生になっても、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。

歴史および哲学教育の強化の一貫としては、鈴木自身が明治天皇御製についての訓話を行い、

四方の海皆はらからと思ふよになど波風に立ちさわぐらん

の御製から、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。工藤の敵兵救助も、この精神の表れであろう。

■4.日本海軍の武士道■
大東亜戦争開戦の2日後、昭和16(1941)年12月10日、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。

駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰投するさいにも、日本機は上空から視認していたが、一切、攻撃を差し控えていた。

こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、例外的な行為だったわけではない。

昭和17(1942)年2月15日、シンガポールが陥落すると、英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、オーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦5隻、駆逐艦9隻からなる連合部隊を結成した。

この連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽巡2隻、駆逐艦14隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。日本海海戦以来、37年ぶりの艦隊決戦である。

2月27日午後5時、海戦が始まった。当初、「雷」は開戦以来、敵潜水艦2隻、哨戒艇1隻撃沈という戦闘力の高さを買われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号を受けて、主力は戦場に向かった。しかし、到着した時には、敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。

2月28日、「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、インド洋のコロンボへと逃亡を図った。しかし、3月1日に「雷」の僚艦「電(いなづま)」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、攻撃を受けた。

■5.「沈みゆく敵艦に敬礼」■
午後12時35分、「電」は指揮官旗を翻す「エクゼター」に砲撃を開始した。「エクゼター」はボイラー室に被弾して、航行不能に陥った。午後1時10分、「撃ち方止め!」の号令が下され、敵艦に降伏を勧告する信号が発せられた。

しかし、艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、マストに「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げた。ここで「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に飛び込み、日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。「エクゼター」では、士官が兵に対し、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでいけ、必ず救助してくれる」といつも話していた。「プリンス・オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあったのだろう。

「電」は、傾いた「エクゼター」に魚雷を発射して、とどめを刺した。「電」艦内に、「沈みゆく敵艦に敬礼」との放送が流れ、甲板上の乗組員達は、一斉に挙手の敬礼をした。その敬礼に見送られて、「エクゼター」は船尾から沈んでいった。

まもなく「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出された。救命ボートに乗っている者、救命用具をつけて海面に浮かんでいる者に対して、「電」の乗組員は、縄ばしごやロープ、救命浮標などで、救助にあたった。蒼白な顔に救出された喜びの笑みをたたえ、「サンキュウ」と敬礼して甲板にあがってくる者、激しい戦闘によって大怪我をしている者などが、次々と助け出された。

甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は376名に上った。(続く)

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