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■■ Japan On the Globe(458)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 人物探訪: 駆逐艦「雷」艦長・工藤俊作 〜 敵兵422人を救助した武士道 「貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」 ■転送歓迎■ H18.08.13 ■ 34,057 Copies ■ 2,171,244 Views■ ■1.「旧敵との和解」■ 1998(平成10)年4月、英国では翌月に予定されている天 皇の英国訪問への反対運動が起きていた。その中心となってい たのは、かつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜と して受けた処遇への恨みが原因であった。 その最中、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に 一文を投稿した。「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和 解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前 置きして、自身の体験を語った。 大東亜戦争が始まってまもなくの1942(昭和17)年2月27 日、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合部隊 の海戦が始まった。連合部隊の15隻中11隻は撃沈され、4 隻は逃走した。3月1日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡 洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百 数十名は漂流を続けていたが、翌2日、生存の限界に達した所 を日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。 「エンカウンター」の砲術士官だったフォール卿は、「日本人 は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けて最 期を迎えるものと覚悟した。 ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号 旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工 藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘 を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストであ る」とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍 以上の丁重な処遇を施した。 このフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はこ とごとく精彩を欠くことになった。 ■2.「オラが艦長は」■ 工藤が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15 (1940)年11月1日だった。身長185センチ、体重95キロ と大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をして いた。「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長に、乗組員 たちはたちまち魅了されていった。 着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。と くに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。士官たちには 「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」 と口癖のように命じた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望 鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派 だ」と誉めた。 酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌 み交わす。兵員の食事によく出るサンマやイワシが好きで、士 官室でのエビや肉の皿を兵員食堂まで持って行って「誰か交換 せんか」と言ったりもした。 2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは「オラが艦長は」と 自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔 いはない」とまで公言するようになった。艦内の士気は日に日 に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。 ■3.海軍兵学校・鈴木貫太郎校長の教育■ 工藤艦長は、海軍兵学校51期だったが、入学時に校長をし ていた鈴木貫太郎中将の影響を強く受けた。鈴木はその後、連 合艦隊司令長官を務めた後、昭和4年から8年間も侍従長とし て昭和天皇にお仕えした。その御親任の厚さから、終戦時の内 閣総理大臣に任命されて、我が国を滅亡の淵から救う役割を果 たす。[a,b] 工藤ら51期が入学した時に校長に着任した鈴木は、従来の 教育方針を以下のように大転換した。 ・鉄拳制裁の禁止 ・歴史および哲学教育強化 ・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止) 日本古来の武士道には鉄拳制裁はない、というのが、その禁 止の理由だった。工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、 最上級生になっても、下級生を決してどなりつけず、自分の行 動で無言のうちに指導していた。 歴史および哲学教育の強化の一貫としては、鈴木自身が明治 天皇御製についての訓話を行い、 四方の海皆はらからと思ふよになど波風に立ちさわぐらん の御製から、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。工 藤の敵兵救助も、この精神の表れであろう。 ■4.日本海軍の武士道■ 大東亜戦争開戦の2日後、昭和16(1941)年12月10日、 日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈 艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈し た。 駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員 たちの救助を始めたが、日本の航空隊は一切妨害せず、それど ころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、と いう仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガ ポールに帰投するさいにも、日本機は上空から視認していたが、 一切、攻撃を差し控えていた。 こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。 工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、 例外的な行為だったわけではない。 昭和17(1942)年2月15日、シンガポールが陥落すると、 英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、 ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、オ ーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦5隻、駆逐艦9隻から なる連合部隊を結成した。 この連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽 巡2隻、駆逐艦14隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。 日本海海戦以来、37年ぶりの艦隊決戦である。 2月27日午後5時、海戦が始まった。当初、「雷」は開戦 以来、敵潜水艦2隻、哨戒艇1隻撃沈という戦闘力の高さを買 われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。 そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号 を受けて、主力は戦場に向かった。しかし、到着した時には、 敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。 2月28日、「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、 「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、イ ンド洋のコロンボへと逃亡を図った。しかし、3月1日に「雷」 の僚艦「電(いなづま)」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、 攻撃を受けた。 ■5.「沈みゆく敵艦に敬礼」■ 午後12時35分、「電」は指揮官旗を翻す「エクゼター」 に砲撃を開始した。「エクゼター」はボイラー室に被弾して、 航行不能に陥った。午後1時10分、「撃ち方止め!」の号令 が下され、敵艦に降伏を勧告する信号が発せられた。 しかし、艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、マストに 「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げた。 ここで「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に飛び込み、 日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。「エクゼター」で は、士官が兵に対し、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでい け、必ず救助してくれる」といつも話していた。「プリンス・ オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあった のだろう。 「電」は、傾いた「エクゼター」に魚雷を発射して、とどめを 刺した。「電」艦内に、「沈みゆく敵艦に敬礼」との放送が流 れ、甲板上の乗組員達は、一斉に挙手の敬礼をした。その敬礼 に見送られて、「エクゼター」は船尾から沈んでいった。 まもなく「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出さ れた。救命ボートに乗っている者、救命用具をつけて海面に浮 かんでいる者に対して、「電」の乗組員は、縄ばしごやロープ、 救命浮標などで、救助にあたった。蒼白な顔に救出された喜び の笑みをたたえ、「サンキュウ」と敬礼して甲板にあがってく る者、激しい戦闘によって大怪我をしている者などが、次々と 助け出された。 甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。 「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は376名に 上った。 ■6.重油の海での漂流■ 駆逐艦「エンカウンター」は、旗艦「エクゼター」が停止し た時、その「各艦適宜行動せよ」という命令に従い、単独での 航行を続けた。艦長モーガン少佐は「エクゼター」の乗組員を 救助すべきかと、一瞬迷ったが、「プリンス・オブ・ウェール ズ」と「レパルス」沈没の際の日本海軍の行動を覚えていたの で、こう決断したのである。 しかし、その「エンカウンター」も日本艦隊の追撃を受け、 8千メートル東方の海域で、30分後に撃沈された。この時、 20歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。 艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、 小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。・・・この直 後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。 間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けま した。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っ ていきました。[1,p251] この時は、米蘭の潜水艦がジャワ海で行動しており、敵の攻 撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難 者を放置しても違法ではない。 「エンカウンター」の乗組員たちは、自艦から流出した重油の 海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなった。その状 態で、約21時間も漂流した。 ■7.「これは夢ではないか」■ そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。見張 りが「漂流者400以上」と報告した。工藤艦長は敵潜水艦が 近くにいない事を確認した後、「救助!」と命じた。 「雷」の手の空いていた乗組員全員がロープや縄ばしご、竹竿 を差し出した。漂流者たちは、われ先にとパニック状態になっ たが、青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然と 順番を守るようになった。 重傷者から救う事になったが、彼らは最期の力を振り絞って、 「雷」の舷側に泳ぎ着いて、竹竿に触れるや、安堵したのか、 ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板 上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」 と呼びかける。この光景を見かねて、何人かの乗組員は、自ら 海に飛び込み、立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻 き付けた。 こうなると、敵も味方もなかった。まして同じ海軍軍人であ る。甲板上で「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者も いた。無事、救出された英兵は、体についた重油を乗組員が布 とアルコールで拭き取ってやった。新しいシャツと半ズボン、 靴が支給され、熱いミルクやビール、ビスケットが配られた。 フォールズ卿はこう回想している。 私は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢では ないかと、自分の手を何度もつねったのです。 ■8.「今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」■ 間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられ た。 すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、 艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしまし た。われわれも遅ればせながら答礼しました。 キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチさ れたのです。 諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あ るゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、 今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなこと である。[1,p258] 「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、た とえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止 し、乗組員総出で救助した。水没したり、甲板上で死亡した者 を除いて、午前中だけで404人、午後は18人を救助した。 乗組員約150名の3倍近い人数である。 翌日、救助された英兵たちは、オランダの病院船に引き渡さ れた。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されてい る旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、またウィングに立つ工藤に 敬礼した。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をした。兵のほ うは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感 謝の意を表していた。 ■9.「サイレント・ネービー」の伝統■ フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、 1996(平成8)年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、 その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。 平成15(2003)年10月、フォール卿は日本の土を踏んだ。 84歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他 界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したい と願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分から ず、フォール卿の願いは叶えられなかった。 フォール卿から依頼を受けて、[1]の著者・恵隆之介氏は3 ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は 「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のこと は口外しなかった」と落涙した。サイレント・ネービーの伝統 を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての 職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(100) 鈴木貫太郎(上) いかに国内統一を維持したまま、終戦を実現するか。 b. JOG(101) 鈴木貫太郎(下) 終戦の聖断を引き出した老宰相。 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon c. JOG(270) もう一つの開戦 〜 マレー沖海戦での英国艦隊撃滅 大東亜戦争開戦劈頭、英国の不沈艦に日本海軍航空部隊が襲 いかかった。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 恵隆之介『敵兵を救助せよ!』★★★、草思社、H18 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「工藤俊作 〜 敵兵422人を救助した武士道」に 寄せられたおたより レックスさんより 読んでいる内に、涙が溢れ出てきました。私はこれまで、戦 争は精神的にも肉体的にも、ただただ悲惨なモノだと思ってい ました。まさか、生死の狭間で、他国の人間の為に、考え・行 動に移す、そんな事が起こっていたとは想像もできませんでし た。「武士道」というのは深く理解していませんが、私はこの 文章を読み、自分が日本人である事に誇りを感じました。 純夫さんより 工藤俊作中佐のお話ですが、ちょうど25年前の1917年、 日 英同盟に基づいて地中海まで日本海軍が第二特務艦隊を編制し て派遣 したことに遡ります。 私の祖父は駆逐艦「榊」 の乗員として地中海に赴いていま す。そして、作戦開始から1か月ほど経った1917年5月3日、祖 父の乗った駆逐艦「榊」と僚艦「松」は、ドイツのUボートに 攻撃された英輸送船トランシルバニア号から、英国陸軍将兵を 救出します。600トン少々の駆逐 艦に1000人近くの救出者を載 せていますから、甲板は鈴なりです。 私が生まれる前に祖父は他界していましたが、地中海遠征の ことは祖 母からずいぶん聞かされていました。しかしながら、 トランシルバニア号救出の話は、C. W. ニコルさんから教えて もらうまで、全く知りませんでした。すなわち、祖母にも「自 慢話」をしていませんでした。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 祖先の善行は、子孫の財産ですね。これも「情けは人のため ならず」の一種でしょう。© 平成18年 [伊勢雅臣]. 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