社会のありようにかかわる難問を突き付けられた形だ。愛知県新城市の私立黄柳野(つげの)高が生徒寮に“喫煙室”を設けたため、県青少年保護育成条例に違反するとして県警の家宅捜索を受けた事件のことだ。
言うまでもないが、20歳未満の高校生の喫煙は未成年者喫煙禁止法で禁じられている。それなのに教職員が喫煙を助長していたとすれば由々しき一大事だが、同高の場合は他校の中退者ら複雑な事情を抱える生徒を全国から受け入れていることもあって、話は単純ではない。
13年前の開校以来、いくら指導しても、隠れてたばこを吸う生徒が後を絶たなかった。昨年1月、女子寮でボヤ騒ぎが起きたのを機に、教職員会議で激論の末に寮内の空室を禁煙指導室として在校生約230人の約3割を占める喫煙者に提供することにした。同室での喫煙を黙認する代わり、室外での喫煙を厳禁。喫煙者は毎月、専門家のカウンセリングを受け、10年までに禁煙するのが条件だった。「違法は承知だが、無理やりやめさせれば隠れて吸う。火事の危険もある。苦渋の選択だった」と辻田一成校長は説明する。
“喫煙室”の存在は今年10月、警察の知るところとなり、未成年者に喫煙場所を提供したとして摘発されたわけだが、その評価は分かれよう。嫌煙が世界の潮流となっている折、指導が手ぬるいと批判されてもおかしくない。一方で、教職員が生徒の事情をくんだ指導法ならば、相応に尊重されねばなるまい。
大切なのは、建前では割り切れない問題があると知ることではないか。一筋縄でいくはずのない正邪、勝敗、損得などを二者択一式に判断する風潮が広がる。多数派の価値観に合わないと、規格外として排除する傾向も強まる。情理の理が強調され、情の影は薄れる。世の中がぎくしゃくしていると嘆く人が目立つのも、無理からぬ話だ。
刑罰に関しては、“大岡裁き”が通用しにくい時代になったのかもしれない。世論は厳罰化になびき、捜査機関は無用な批判を浴びたくないと考えがちだからだ。人々は自説を貫く自信を欠き、社会は包容力を失っているようにも映る。
同高の“喫煙室”は捜索の後、閉鎖された。生徒たちは学校の将来を憂え、校長らが犯罪者にされることを心配している。全校で今年度中の禁煙を申し合わせたが、早々に禁煙に踏み切る生徒が相次ぎ、隠し持っていた30個近い灰皿が自主的に廃棄された。司直が結論を下すのは、生徒たちの禁煙の行方を見極めてからでも遅くはあるまい。
毎日新聞 2008年12月8日 東京朝刊