挫折重ねて知った原点

(1)苦しみのプロ生活−元オリックス投手・川口知哉(平安高出)

川口知哉さん 「なんか見たことあるな、お兄ちゃん」。何気ない客の問いに「気のせいと違いますか」と笑顔で返す。今年1月から、城陽市で建設業を営む実家で働いている。フェンスやカーポートなどを設置する現場作業だ。球団からも就職先を紹介されたが、汗をかく仕事が性に合うと思った。「毎日がめいっぱいで充実している。プロで感じていた屈辱を思えば今の仕事が苦しいとは思わない」。妻と8カ月になる長男を養う。

 7年間のプロ野球生活。春のキャンプは1軍で過ごし、開幕前に2軍落ちする繰り返しだった。出会ったコーチは計10人、全員が違うことを言った。「これだけ出てこれなかったのは自分の甘さ。でもコーチの影響力も大きい。どうしても合う合わないがある」。注目を集め入団した1998年2月のキャンプ。最初から歯車は狂っていた。

 3日目のキャッチボール。コーチは言った。「(投球時に)ひざを折るな」。ためをつくり、独特の間合いを生む軸足を折る投げ方を注意された。「できません」と声に出したが、通じなかった。「プロのコーチが間違ったことを言うはずがない」と信じた。頭は理解したつもりでも、体は納得していなかった。

見失ったフォーム

 投げ方をいじられるたびに体に拒否反応が広がり、肩、ひじが悲鳴を上げた。毎年のように故障を抱え、フォームは崩れていった。4年目。2軍の試合で7連続四球を含む15四球を記録している。自分で野球をしている感覚がない。そんな状態だった。

 取り戻そうとしたのは高校時代のフォームだ。甲子園のビデオを繰り返し見ては、深夜に鏡の前で投げ続けた。コーチの指示をうのみにせず、肩に負担の少ないフォームを自分で探した。5年目は初先発を含め1軍7試合に登板、6年目はオープン戦で好投を続けた。確かな手応えを感じたが、1軍定着は遠い。結婚し、子どもも生まれることになった。「使ってくれ。生活がかかってるんやで」。いら立ちは募った。

 昨年10月、戦力外通告を言い渡された。合同トライアウトに参加したが、打者3人だけの形式的なものに見えた。最後まで1軍で通用する自信は持っていたが、もう自分をアピールする機会はない。ユニホームを脱ぐ決意を固めた。

第79回全国高校野球選手権の決勝で智弁和歌山打線に立ち向かった(1997年8月21日、甲子園球場)
第79回全国高校野球選手権の決勝で智弁和歌山打線に立ち向かった(1997年8月21日、甲子園球場)
かわぐち・ともや 26歳。城陽市出身。城陽中から平安高へ進み、1年夏からエース。高校3年夏の甲子園は決勝まで6試合を投げ抜いて準優勝。翌年にドラフト1位指名でオリックス入団。1軍通算9試合に登板し0勝1敗0セーブ、防御率3.75。京都市上京区在住。

 平安高はプロ以上に厳しい練習だったが、振り返れば楽しい思い出ばかりだ。今も後輩たちは必死になって白球を追う。原田英彦監督は初先発など節目の試合を見届けてきた。「好きな野球に打ち込んだ今までとは違い、第二の人生は険しいと思う。でも『川口さんを見て平安に入学した』という部員がまだ数多くいる。川口の背中をみんなが見ている」。夢を抱いて飛び込んだプロを去り、新しい道を歩み始めた教え子を温かく見守る。

 だれもが認めた素質はプロの厳しい世界で花開くことはなかった。でも、今の自分をつくったのは苦しみ抜いた7年間だという思いがある。

 「高校の時になぜうまくいったのか、プロで挫折しなければ分からなかった。フォームが分からなくなって寮で一人悩んだり、自分で考えて立ち直ったり。本当にいろいろな経験をした。人間として五回りくらいでっかくなれたと思う」

自分の失敗伝えたい

 自分を最高峰の舞台へと導き、追いつめた野球。人生を教えてくれたのも野球だった。いつか、そんな野球を志す中学生や高校生に教えてみたい。「失敗した人間が言えることもある。自分が失敗したことを伝えたい」。野球と出合ったことを後悔してはいない。

 勝者の輝きと敗者の無念が交錯するスポーツの世界。永遠に勝ち続ける競技者がいないとすれば、負けることにスポーツの意味は隠されている。負けて、人は何を学ぶのだろうか。体を震わせた無念さを新たなエネルギーに変えて、力強く立ち上がる−。そんな素晴らしい敗者たちを訪ねていく。