2008年12月 9日 (火)

運転免許と科学のアナロジー~あなたは運転免許所持者が車を運転出来る事を「信仰」しますか?~

 「科学ってのも、信仰の対象になってる感があるね。最近のニセ科学批判者の言動を見ていると、ある種の狂信性を感じる事もあるよ。」

 「ほう。確かに、人間は何でも知る事は出来ないから、信じるという面では、たとえば宗教を信じるのと同じような所はあるかも知れないね。ただ、似ているからといって、大部分が同じな訳でも無いと思うのだが、どうだろうか?」

「というと?」

 「自動車の運転免許でたとえてみようか。我々は、そこら辺を走っている車に乗っている人が免許を持っている事を信じているね。中には無免許運転の愚か者もいるだろうが、基本的にはそれは、少数の例外として考える。

それで、免許を持っているという事はつまり、その人が、運転の技能が一定以上に達して、公道で運転出来ると一応判断された者だ、というのを示している訳だ。そして我々は、一々車を運転する人の技能を確認する事無く、大部分の運転手が免許を持っていて、最低限の技能もある、と看做す訳だね。」

 「うん、確かにその通りだ。わざわざ、走っている車の運転手が免許を持っているか、というのを一々疑うなんて、そんなの非合理だし、その前に不可能だよ。」

 「そうだね。実は、科学も一緒なんだよ。」

 「ほう。それは興味深いね。」

 「うむ。科学というのは、実験や観察で得られたデータを色々処理して、そして、理論なり仮説なりが成り立っているか、というのを確かめる訳だね。

それで、その研究がちゃんとしたものかどうか、というのを審査する。これを査読というのだが……まあ、厳密には違うが、教習所でハンコを貰うようなものだね。坂道発進でエンストしたらハンコは貰えず、もう一回やり直し、となる訳だ。」

 「ああ、私も坂道発進では苦労したものだよ。いや、それ以上に、クランクでは見事に脱輪したものだ。お陰で修検も一回落ちたよ。試験を受けるのにも結構な額が掛かってね。なかなかにショックだった……。」

 「うむ。それで、この運転じゃあハンコはやれないな、もう一回受けてもらう必要がある、というのと同じようなのが、科学の研究の世界でもあるという事だね。つまり、審査を受けて、それで、データの採り方や解析の仕方、結果の解釈の仕方などがきちんとしているか、というのを判断してもらう。ダメなら論文は採用されずに、もう一度出直して来い、となるのだね。」

 「なるほど。つまり、科学の理論として認められているものは実は、免許を取った運転手のようなものな訳だ。」

 「そう。そして、実際の運転のレベルなどが他の人達にも評価されて、確かに腕の確かなドライバーだ、と周知され、信頼を得ていく。物理や化学の教科書に載るような知識はいわば、50年毎日運転し続けて無事故・無違反の超優良ドライバーのようなものなのだね。」

 「ふむ……しかし、免許の場合だと、それを取得したとしても、運転が下手な人もいるし、事故を起こしたり飲酒運転をしたりで、免許を失ったりする訳もあると思うのだが。教習所によっても審査が甘い、という事もありそうだ。」

 「その通り。運転免許と同じで、審査に通ったからといって、それが即優れたドライバーだとは限らない。君の言うように、教習所によって、教官によって、審査の厳しさも変わってくる訳だね。極端な話、不正すら起こり得る。

だから、さっき言ったように、免許を取った後の評価も大事という事になる。優良ドライバーは、それだけ腕前が確認されてきた、という実績があるのだね。」

 「なるほどね。君の話を聞いて、科学について、何となく解った気がする。ただ、思うのだが、そういう事情に詳しいのは、科学に明るい人だけではないのか、という疑問が出てくるね。現に、私はそこまでの話は知らなかった訳だ。運転免許の場合は、そういうシステムがあるのを大部分の人は知っているのだと思うが、科学についてはそうとは限らないだろう?」

 「うん、そこに関しては、君の言う通りだと私も思う。私も、色々と勉強して初めてそういう事情を知ったからね。だから、科学にはどういう手続きがあるのか、というのを広く知ってもらうのが重要だと思うのだよ。そうで無いと、科学に対して信仰のような認識を持つ、というのは確かにあり得るのかも知れない。

我々は、科学技術によって生み出されたものに囲まれて生活しているのだから、そういった知識は必須と言っても構わないと、私は考えている。道路を自動車が走り回る社会の中で、運転免許のシステムを知らないでは済まない、というのと一緒だろうか。」

 「そうだね。確かにそう私も思う。何と言うのか、そうなれば、科学というものを、一歩引いた所から見られるのかも知れない。……それで、それがニセ科学批判とどう繋がってくるのかな?」

 「まず、君はさっき、ニセ科学批判にはある種の狂信性を見る、というような事を言っていたね。」

 「ああ、確かに。」

 「それはどうして?」

 「うーん、そうだね……なんというのだろう。科学という正しいものがあって、その立場からあるものを批判する、という、そういう姿勢に対してそういう印象を懐いたのかな。」

 「それはつまり、科学を何か絶対的なものだと見て、それにはずれるものを叩く、という図式を描いた訳だね?」

 「そうなるね。」

 「ところで、”ニセ科学”の意味は知っているかい? ニセ科学という言葉で無くてもいいが、君が触れた人達がそういう言葉で何を指しているか、という事だね。」

 「え、ニセ科学の意味かい? 科学的に間違っている、という事なのでは?」

 「じゃあ、”科学的に間違っている”というのは? いや、具体例を挙げて貰ってもいいのだが。」

 「そうだね……超能力とか占いとか、そういうのがあるだろうか。後は、水からの伝言やゲーム脳もよく聞くね。スピリチュアルというやつもそうなのかな。」

 「ああ、やはり君は、勘違いをしているようだ。」

 「え? それはどういう事だい?」

 「うむ。さっき私は、科学について、運転免許の喩えで説明したね。」

 「ああ。」

 「その喩えを再び持ってこよう。科学とは、免許を与えられた運転手のようなものだ、と私は言ったね。」

 「うん、そうだった。」

 「ここでちょっと視点を変える。免許を持っている運転手というのは、ある程度運転出来るというのを保証しているし、その事を期待してもいい、と言えるね。”期待してもいい”というのは、”信頼出来る”と言い換えてもいい。

次に、”免許を持っていない”人というのを考えてみる。ここでちょっと質問だが、”免許を持っていない”というのは、”運転出来ない”のを意味するかい?」

 「……いや、免許を持ってないからといって、運転出来ないとは限らないね。運転出来るかどうかは、練習して技能を身に着けたり交通ルールを知るという事だから、別にそれは、独学で不能では無いね。尤も、車や場所の問題はあるが。」

 「そう。そこまで理解して貰えれば、後は簡単。実はニセ科学というのは、免許を持っていないのに持っているかのように言っているドライバーのようなものなんだよ。」

 「もう少し詳しく説明してくれないか。」

 「ああ。今君は、免許を持っていない事と運転出来ない事は同じでは無い、というのを説明してくれたね。それで、これはさっきも話に出したが、世の中には、無免許運転や免許証偽造で運転する人間もいる訳だね。ニュースでもたまに目にする事だ。」

 「それはあるね。私が中学生の頃、別のクラスの奴が親の車を勝手に運転したというのが話題になってね。随分得意げに話していたようだよ。尤も彼は、後で大目玉を食らっていたが。」

 「うん、実はニセ科学というのも、それと似ているんだよ。つまり、免許を持っていないのに運転を出来ると言い張ったり、無免許なのに運転している人間のようなものなんだ。」

 「なるほど。さっき君に話を聞いたから、何となく解るね。つまり、審査を受けてもいないのに、周りに正しいと言いまわる。そういう感じなのだろうか?」

 「そう、そういう事だね。ニセ科学は、査読も通らない、それどころか論文すら出していないのに、自分の説は充分通用する、と言い張るという事だ。」

 「うむ、だいぶ解ってきたよ。君がさっき、免許を持ってないのと運転出来ないのは違う、というのを説明したのはつまり、ニセ科学は”運転出来ない人”の事を指していないのを教えるためだった訳だ。」

 「さすがに鋭いね。その通り。要するに、ニセ科学批判というのは、運転出来ない事では無くて、免許を持っていないのに運転出来ると言い張ったり、実際運転したりしているのを批判している、というのに近いんだね。あるいは、免許の偽装もあるね。その意味では、占いとか超能力辺りは、基本的には”ニセ科学”とは言われない訳だね。それらは、車を運転出来ると言っているのでは無いからね。

もちろん、これはあくまで喩えだから、厳密には異なる部分もあるだろうから、それは押さえておいて貰いたいが。」

 「今言った”基本的には”というのは?」

 「ああ、これはたとえば、無免許なのに公道でバイクを運転していて、それを咎められたら、”いや、これは自転車だ”、と言い逃れをするようなものだね。占いや超能力を信じる事自体は、免許を持っていると言っているのとは違う訳だが、占いの根拠として統計学を挙げたり、水の結晶の出来かたを実験で確認した、などと主張してしまえば、それはもう、運転しているようなものな訳だ。

だから、免許を持っているかどうかを指摘される。水からの伝言が典型的だろうか。あれを言い出した人は、ニセ科学だと批判を受けたら、”ポエム”だ”ファンタジー”だと言い逃れをしようとした。だが彼は、”実験”によって確認したと言ってしまっているのだから、それは通用しないのだね。」

 「なるほどね。それで、実際には免許など持っていないのだから、”ニセ科学”という訳か。」

 「そう。それで、君は、ニセ科学批判者に狂信性を感じた訳だが、これはつまり、運転出来るとも免許を持っているとも言ってない人を一方的に責めているように見た、と考える事が出来るね。目的地に行くのに車を使わないのは何事か、免許も持っていないのか、と言っているかのように見えた、という風にも考えられるだろうか。」

 「実際には、目的地に行くのに車を持っている人を対象にしているのであって、自転車を使ったり人力車を使ったりする人に、強制的に自動車を使え、と言っている訳では無いという事か。」

 「うむ。ただ、さっきも言ったように、車が走り回っている世の中なのだから、免許を取るシステムなどについてはある程度知っている必要があるとは思う。そして、確かに自動車は便利だ、というのも押さえておくべきなんだろうね。まあ、実際それは、学校の勉強として習うものではあるのだが、蔑ろにされる事も少なくないように感じるね。

そしてこれは、宗教を信じるような意味での信じ方、つまり”信仰”とはやはり違うと思うんだよ。説明したようなシステムを知らなければ、似る事があるだろうが、それにしても、大部分が同じとはいえないと私は考えている。

少なくとも私は、免許を持っている人間が運転の技能を有しているという事を、信仰はしていないつもりだ。」

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2008年12月 8日 (月)

数学への思ひ

杏奈達さんのこのエントリーを読んでいて⇒直線的な思考の「いい子」に、算数や数学ができるようになるか?(追記あり) - 理系兼業主婦日記

そういえば私も、ここで数学についてちょちょこ書いているなあ、と思って、今までどんな事を書いたのか、探してみました。

  • Interdisciplinary: 文系の懊悩
    • ○○系っていうのは、高校の○○科の分類の話ですね。正確には、文系じゃ無いんですけどね。数IIで微積分すら習わないというのは、今考えると結構すごい。
  • Interdisciplinary: 或る親子の会話
    • こんな上手い具合に話が進めばいいけどね。あり得ない(笑) 異論は絶対あると思いますが、数学の実用性も併せて教えた方がいいんじゃいかな、というのは思います。「嫌わせない」ためにも。
  • Interdisciplinary: 漫画教科書
    • こんな風に、漫画教科書に寛容(と言うか歓迎)な態度見せてますけど、実は、ものすごく厳しく見るんですよね。マンガには煩いので。単に「画の分量が多いテキスト」の多い事よ。『マンガでわかる統計学』シリーズは、なかなかの完成度だと思います。
  • Interdisciplinary: きっかけ
    • 中学の時に、数学のテストだけ他の教科より20点近く低かった人の物語。私の持論として、「我慢してでもやっておけば良かった」というのを認めないのです。
  • Interdisciplinary: 何故?
    • 「何故」と問う事が多く、学習が止まってしまう人でした。納得が行かないまま先に進まれる事に気持ちの悪さを感じる。で、どんどん遅れたのでした。新井氏の本、他のも読まなくては。
  • Interdisciplinary: キゴウが嫌い
    • 記号アレルギーの話。小5くらいの時にBASICのプログラミングをやったりしてたから、やっぱり、「数学が嫌い」というのが先にあったのだろうな、と。ああ、記号って言うか、「式」アレルギーかもね。
  • Interdisciplinary: 嫌わせない
    • 私がいつも主張する事の一つ。「嫌わせないようにする」という事。嫌いな食べ物を、鼻をつまんで無理矢理飲み込ませるのでは無くて、美味しさを上手に引き出して「好き」になって欲しいものです。
  • Interdisciplinary: 当たり前、に
    • 数学が嫌いな事と、論理的に考えたりするのが嫌いな事は、多分同じでは無いと思うんですよ。数学に対する「毛嫌い」なんじゃないかと感じるんですよね。多分、友達同士で数学について、ゲーム攻略の情報交換をするように語り合う、というのは、相当特殊ではないかと。まあ、そこまではいかないとしても、もうちょっとライトに捉えられるようになって欲しいですね。
  • Interdisciplinary: 算数の町
    • 大変素晴らしい事例。ちょっと話が違いますけど、学習科学に、「状況に埋め込まれた学習」なんて概念がありますですね。わたし的には、ゲームをするように当たり前に数学の問題を楽しんで解く、という状況になれば良いな、と。

こうして見ると、色々書いているなあ、と。そして、数学が凄まじく嫌いだったんだなあ、って(笑)

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2008年12月 7日 (日)

数量化

心理学研究法の所で、量的研究法なんて出てきましたね。

そこでは、直接観測出来ない人間の「心」について、生理学的な指標や質問紙への回答をデータにして定量的に把握していく、という方法が採られます。

誰しも、心って測れるの? とか、こうしたら調べられるんじゃないか、とか、考えた事はあると思うんですよね。

で、そういうのを量的なデータとして扱うのを、「数量化」と言います(「数量化理論」と言った場合には、具体的な統計解析の方法を指しますね。数量化○類、という風に)⇒数量化 quantification

それで、そういう方法について不案内な方には、断然これがお勧めです↓

 評価と数量化のはなし 科学的評価へのアプローチ 評価と数量化のはなし 科学的評価へのアプローチ
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Book 評価と数量化のはなし―科学的評価へのアプローチ

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実は1/3くらいしか読んでいなかったりするのですが、最初の方を読んだだけで傑作だと断言出来ます。読み物としても面白く、惹き込まれる。巧みな話の持っていき方には、正直唸ります。

偏差値って何? 知能指数って何? という疑問を持っている方にもお勧めかな。

とにかく良い本だと思うので、ご一読を

科学について具体的に考える際、数量化とかの論理をある程度押さえておかないと、「話にならない」んじゃないかなあ、と思います。もちろん、色々な方法について熟知しなくちゃならない、というのでは無くてね。おおまかにでも知っておかないと。後、尺度水準くらいは知っておかないと、どうにもならないかと思います。

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合目的的合理性

きっかけはこちら⇒あしがかり -続き:Chromeplated Rat:So-net blog

こちらで、「合理性」という語に関して色々考察されていたんですね。どういう観点で合理性を捉えるか。広く社会的な観点か、それとも個人的なものか。

poohさんは、「公」的、「私」的な合理性という風に捉えて論じておられます。

それで、私も、なんかいい語が無いかな、と思って、色々考えたのですが、そこで浮んだのが、「合目的的」という言葉。

最初にこの語を見た時には(十数年前か)、意味が解らな過ぎて泣きそうになりましたが、「合+目的+的」として見て、「目的に合うような」、と読めば、比較的簡単に把握出来ますね。

それで、「合目的」というと、哲学的な概念としても用いられる事があるようなので、逆にややこしいかなあ、と思ったりもしたのでしたが、取り敢えずそれは措いといて、考えてみました。

合理性には、より普遍的あるいは一般的な合理性と、個人的もしくは小集団の目的に適った合理性があるだろうな、と考えた訳ですね。poohさんの用い方に当てはめてみるならば、前者が「公」、後者は「私」(多分概念的に一致してはいない)。

で、たとえば、医学的には他に有効な方法があったり、あるいは「どうしようも無い」事がある程度の蓋然性で言えるような場合に、適切な処置を拒んで代替治療に縋ったりするのは、心理的な安定や家族とのコミュニケーションを円滑に進めるという「目的」においては「合理的」と言える場合があるんですよね。※そういう場合があり得る、という話です。代替治療にハマって家族が崩壊する場合なんかもあるでしょう。それこそ複雑な事情が絡み合っているので、一概には言えない

そういう観点から、個人や、家族などの小集団の目的を充足させるような「合理性」もある、というのは前から考えてきたし、それは、poohさんが継続して採り上げておられるテーマでもあります。

これらの観点の異なる合理性というのは、これまで、いずれも「合理性」と呼んできたんですよね。文脈によってどういう概念を指すかは変わってくるという事で、そのまま使ってもそれほど混乱はしないかな、と思ってきたし、場合によっては、ある意味合理的、とか、ある種の合理性、とか限定的な使い方をしたり。まあ、ややこしいと言えばややこしいかも知れません。

そこで、そういった限定的な「合理性」を、「合目的的合理性」と呼んでみてはどうだろうか、と考え付きました。

こういう時には、「他に考え付いた人がいるだろう」原則に従って、ググルー先生に聞くのを忘れてはいけません。という訳で、早速「合目的的合理性」という語で検索してみた訳です。

ありましたよ、やはり⇒承諾誘導技法の事例分析と情報操作に対する情報教育コンテンツの提案(PDF)

ここで、「合目的的合理性」が使われています(改行を適宜調整)。まず、先行研究の説明があります。

 情報に対する合理的な判断に言及する際には,合理性の定義を確認しておく必要がある。哲学用語としての合理性(rationality)は主として,理性に基づいて考え行動することを指すが,ここで理性をどうとらえるかによって,合理性の意味は2つに分かれる。すなわち,理性を経験に依存しないアプリオリな原理ととらえるならば,合理性は主として,形式論理をはじめとする法則に沿っていることを意味する。一方,理性を経験に基づくアポステリオリなものととらえるならば,合理性は,本能や衝動,感情に惑わされず思慮に基づいていることを意味する。

 Evans & Over(1996)は,非個人的な合理性と個人的な合理性を区別している。非個人的な合理性とは,論理学等の規範原理に従って推理や意思決定などを行う能力を指す。彼らは,Flanagan(1984)の表現を借りて,次のように説明している:非個人的な合理性は,しばしば論理性と等価なものとして受け取られており,一方では帰納論理学,統計学,確率論の,他方では演繹論理学と数学の諸原理および法則に従って考える能力である。これに対して,個人的な合理性とは,個人の目標に到達するために信頼性があると見なされる方法で推理や意思決定などを行う能力を指す。また,論理学等の規範原理に沿っているという意味での合理性に対置させて,環境への適応という視点からの適応的合理性(adaptiverationality:Anderson, 1990)や生態学的合理性(ecologicalrationality: Gigerenzer & Todd, 1999)といった概念も提唱されている。このように,近年,性質の異なる合理性概念を2種類に分けてとらえる考え方が目立つようになったが,「規範」や「適応」といった概念は必ずしも明確ではない。

合理性の定義と分類について考察されています。そして、

三宮(2002a)は,こうした経緯をふまえ,論理学や統計学といった客観的な法則に合致しているという意味での合理性を「合法則的合理性」と呼び,個人や集団の持つ目的に適合しているという意味での合理性を「合目的的合理性」と呼んで区別している。

ここで、「合目的的合理性」という概念が出てきますね※

やはり、こう考えるとすっきりします。より一般的・客観的な合理性を、「合法則的合理性」と呼び、個人などの「目的」に適合しているか、という観点からの合理性を、「合目的的合理性」と呼ぶ。

この概念を援用するならば、poohさんの所で紹介されていた例は、「合法則的合理性」としては非合理であったかも知れないが、「合目的的合理性」の観点からは充分合理的であったのではないか、と整理して見る事が出来ます。そして、合目的的合理性に適っているからといって、合法則的合理性を蔑ろにする事はただちに正当化はされない、という事も言える。特に、医療の文脈では非常に重要な観点であろうと思います。

個人的には、非常に思考が整理された感じがします。ちょっとした言葉の使い方の問題だ、と思われるかも知れませんが、これは非常に重要だと考えています。自画自賛的ですが、いいものを発掘出来たと思ってます。

ただ、合目的的合理性に適っているさまを表現したりする際に、「合目的的合理的」なんてなってしまって、あまり見やすく無いですが…。舌を噛みそう。

※情報に対する合理的判断力を育てる教育実践研究の必要性:大学で何をどう教えるべきか,日本教育工学会論文誌,26,235-243,2002

三宮氏のプロフィール⇒三宮 真智子

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