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Boxing Master
スタンレー・イトウ氏と日本ボクシング界の歴史+いろんなウラ話
他にはないボクシング情報!日本ボクシング界の歴史を検証する
2005年7月28日(木) |
1980年8月号ボクシングマガジンから |
表紙は、S・R・レナードVSロベルト・デュラン(第1戦)。この試合に付いては、語るべくもありません。
6月19日、後楽園ホールのセミファイナルは、日本ウェルター級7位中尾和美(中日)対日本S・フェザー級7位大竹重幸(協栄)の10回戦が行われています。中尾選手は、日本ウェルター級王者、亀田昭雄(ミカド→協栄)に挑戦してKOで敗れはしましたが、一度はノーカウントながら、当時無敵の亀田選手からダウンを奪っている実力者です。
試合は、2回中尾選手がその亀田選手をダウンさせた左フックを炸裂させ、大竹選手ダウン。これで祝勝会は流れたかと思われましたが、中尾選手に追う足がなく詰め切れません。逆に5回、大竹選手の右ストレート(ややスイング気味)で、中尾選手がダウン。中尾選手全く動かず、大竹選手のKO勝ちとなりました。
それにしても、ウェルター級でタイトルマッチをやった選手と、S・フェザーの選手が試合をするとは、ビックリでした。大竹選手は、この試合に備えて、ロイヤル小林(国際)選手のパートナーを務めた事が良かったと語っています。小林選手は、12オンスのメキシコ製グローブで、アレはたまらないと言っていましたが、当時としては、かなり高額なパートナー料をもらっていました。今でも、高橋会長には感謝しています。
新人紹介には、トカちゃん事、元世界L・フライ級王者、渡嘉敷勝男(協栄)選手が紹介されています。その昔、”下駄を鳴らしてヤツが来る〜”と言う歌がはやりましたが、デビュー前のトカちゃんはまさにその通り、”下駄を鳴らしてジムへ来る〜”でした。代々木駅前のレストランで、仕事していたので、ちょっとぶかぶか目の白衣に身をつつんで、毎日ジムへやって来ていました。
話を聞くと、12時間労働の合間を縫って、休憩時間にジムへ来ているとの事でした。それを見て、大竹氏が”こいつはものになる”と、声を掛け、自分と同じ”肉の万世、ニュー新橋ビル店”へと、トラバーユさせたのでした。トカちゃんは、演歌等歌いながら仕事に励んでいたようです。このお店には、全日本新人王になったゴルゴ・斉藤(真闘)選手も、後年バイトに来ていたと聞いています。トカちゃんは、義理人情に熱い男で、世界チャンピオンになった後にも、代々木のレストラン、肉の万世の仲間達と変わりない付き合いをしています。良く遊び、良く練習する男でした。
この渡嘉敷選手。初黒星は、6月14日の名古屋で行われた日韓新人王対抗戦でした。この夜、私はぐっすり夢の世界に入っていたのですが、夢の中で”ドンドン”と、ドアをノックする音が聞こえ目を覚ますと、「俺だよ」との声。ドアを開けると、頭にぐるぐる包帯を巻いたトカちゃんが立っていました。「負けちゃったよ」と照れ臭そうに言い、「おう、ちょっと行こうや」。夢の中の声と言えば、梅雨時期、雨の日曜日の次の早朝に、良くO先輩の幻の声を聞きました。何の予告もなく、「海行くぞ〜」。私も意志が弱いので、つい行ってしまうのでしたが。
頭に包帯していても、トカちゃんの遊び方は面白いの一言。1人で宴会できる男です。当時は、カラオケルームなんてない時代ですから、1曲200円くらい払って、30曲くらいずつは、歌っていました。あの夜もそんな感じで歌いまくると、トカちゃんこれで満足、負けたことは一切忘れてしまうのでした。ホントにイー性格ですね。江ノ島行っても、豊島園行っても、傷のハゲを隠すハンチング帽子をかぶって、自然にナンパ。普通の人が声掛けている頃には、もうビーチボールで遊んでいる次第でした。
カラオケと言えば、先輩の中では世界ミドル級王者・竹原慎二(沖)を育てた、宮下会長が大変うまいのですが、ある時、宮下会長が例によって「桜の花のようなぁ〜」と素晴しい歌唱力で、熱唱していました。その場面、たまたま私の隣にいた大先輩、元世界フライ級チャンピオン、故・海老原博幸氏が、真面目な顔でいきなり、「宮下もこのくらいボクシングがうまかったらなぁ〜」と、つぶやいたのでした。
代々木のジムで宮下会長が、後輩トレーナー陣が止めるのも聞かず(目の故障で引退している為)、「おう、ちょっとスパーさせろや」と、若手と動いているのを見た事がありますが、十分、うまく、強いと感じていたのは私だけではありません。ボクシングは、奥が深い。
話は戻って、6月19日後楽園ホール。前座4回戦には、シャイアンジム会長、山本幸治会長が、まだ本名で登場しています。渡辺 勤 (MK興真)選手との試合は、判定勝利しています。良く飲み、良く食べ、良く付き合う山本会長、健康には気を付けて下さい。
6月11日行われた、ルペ・ピントール(メキシコ)対村田英次郎(金子)の世界バンタム級タイトルマッチの視聴率(TBS)は、23.5%。具志堅(対バルガス)選手の32.5%には及びませんが、裏番組の巨人ー広島戦(19.4%)を破っています。私も、日本武道館行きましたが、これは良い試合でした。 |
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2005年7月25日(月) |
1971年6月号プロレス&ボクシングから |
表紙は、5人の世界王者、フェザー級西城正三、S・フェザー級小林 弘 、フライ級大場政男、S・フェザー級沼田義明、フェザー級柴田国明の各選手(上から並び順)と、ジャイアント馬場選手とザ・デストロイヤーのバトル模様です。(なぜか、プロレスも気になる)
写真特集、”魅力のホープ4人”では、今年の出世頭”岡部 進 (石川)14勝(9KO)、中部で気吐く”ビーバー梶本(松田)19勝4敗2分、9勝9KOの快進撃”佐藤普一(アベ)9勝(9KO)、ロスで西城目指す”福山茂文(協栄)19勝3敗の4選手が取り上げられています。
4月5日発表のWBA世界ランキング、フェザー級を見て見ると以下の通りです。
チャンピオン 西城 正三 (協栄)
1 位 アントニオ・ゴメス (ベネズエラ)
2 位 エデル・ジョフレ (ブラジル)
3 位 ホセ・レグラ (スペイン)
4 位 柴田 国明 (ヨネクラ) WBCチャンピオン
5 位 ロベルト・デュラン (パナマ)
6 位 フランキー・クロフォード (米)
7 位 ゴドフリー・スチーブンス (チリ)
8 位 ビセンテ・サルジバル (メキシコ)
9 位 エルネスト・マルセル (パナマ)
10 位 ホセ・アメカ (アルゼンチン)
実に凄いメンバーで、ランキング選手10人の内7人が、世界チャンピオンになっています(解りますか)。世界戦となると10位のアメカ選手以外は、皆世界タイトルマッチを経験しています。協栄ジム大竹マネジャーが、現役を退いてからだいぶたった頃の西城先輩に「デュランとやらなくて良かったですね」と冗談を飛ばすと、「ホントだよ、殺されちゃう所だったよ」と見事に切り返しているのには、大笑いさせられてしまいしました。私(管理人)は、デュランが東京に来た時、水道橋の焼肉屋さんで、ビールを注いでやった事が、自慢できる事でしょうか・・・。
ボクシングジムの広告を見ても面白い物があります。笹崎ジムの、”ゲバ棒捨ててグローブを握ろう”は、誰が考えたのか知りませんが、素晴しいキャッチフレーズだと思います。これを見て、選手になった人もいるんでしょうか。また、当時としては画期的だと思うのですが、体力作り会員募集中ともあります。
”弱くなったオリバレスを倒そう”という特集があります。この見出しも大変面白いですね。この当時のバンタム級世界ランキングには、1位桜井孝雄(三迫)、4位岡田晃一(新日本木村)、8位、内山真太郎(船橋)、9位牛若丸原田(笹崎)と4選手が、世界にランキングされています。オリバレスのピークは、57戦の内56回がKO勝ちだった頃となっていて、「パンチがなくなったKOキング」と取り上げられています。各選手の打倒オリバレスのコメントが掲載されていますが、この後すぐに、オリバレスは世界バンタム級チャンピオンに復活しました。
イトウ先生との親交も古い、ベテランライター・中川幹郎氏が”世界チャンピオンの育て方教えます”と題して、当時若干37歳の故金平正紀・協栄ジム会長のレポートを書かれています。今まで何回も読み返しているほど良いページだと思っていましたが、改めて読み返すまで、中川さんのレポートとは気が付きませんでした。大変、失礼申し上げました。中川氏の了解が得られれば、前文掲載して見たいと、私(管理人)は思います。選手を育てる(育てる事が出来た)原点が、そのまま書かれていると思います。 |
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2005年7月25日(月) |
1975年10月号ボクシングマガジンからU |
メキシコ・メリダで行われた。WBC世界フライ級タイトルマッチは、チャンピオン、ミゲール・カント(メキシコ)が強く(うまく)、挑戦者の高田次郎(カワイ)は、11ラウンド、ドクター・ストップによるTKO負けを喫しました。うまいチャンピオン相手に、手を出す機会がなかったようです。
8月22日のダブル10回戦で、前WBC世界フライ級王者、大熊正二(新日本木村)選手は、日本同級6位、合川一夫(東拳)に5回KO勝ち。カントに世界タイトルを奪われてから2連続KO勝ちとなりました。フィニッシュブローは、ストマックに入る左ボディ・アッパー1発。汗をふき取る、石井先生も若い。
この試合の前に行われた10回戦では、日本バンタム級チャンピオン、世界同級8位の沼田久美(新日本木村)選手が登場。日本S・バンタム級7位、岡部 強 (福岡中央)と対戦しましたが、期待を裏切る0−2判定負け。「まさか負けはないと思っていた」木村会長の顔は真っ青。若さあふれるボクシングで、日本チャンピオンを下した新鋭岡部(22歳)選手は、これで13勝(7KO)3敗3分。後に沼田選手とのタイトルを掛けた再選にも勝利し、日本バンタム級王者に輝いています。
8月15日の後楽園ホールでは、元甲子園球児、三迫将弘(三迫)選手が、先輩輪島功一選手が失った世界タイトルへの挑戦権を賭けて、韓国の世界9位趙 旻 と対戦。趙は、OPBF王者、龍 反町選手と2度引き分けている強豪です。輪島選手もセコンドを努めたこの試合、手数で上回った三迫選手が、小差の判定勝ち。この勝利で、11月世界S・ウェルター級王者・柳 済斗(韓国)への挑戦が決まりました。
日本S・ライト級チャンピオン、ライオン古山(笹崎)選手と、日本同級4位風間 清 (石丸→奈良池田)選手のノンタイトル10回戦が、8月31日行われています。1月にも対戦している両選手、この夜も、前回の試合同様、やや風間選手に分がありそうな引き分けとなりました。風間選手は、元アマ王者から石丸ジム入り、ハワイでデビューしています。この試合の後、世界S・ライト級王者、アントニオ・セルバンテス(コロンビア)と対戦することが決まりました。
が、その直前8月17日マカオのリングにも風間選手は登場、サウスポー、チト・ゴンザガ(比)との10回戦に判定勝ちしています。同じリングでは、日本ウェルター級王者、辻本章次(ヨネクラ)選手が、清家正勝(SB川口)選手と対戦。4ラウンドKO勝ちを収めています。8月の暑い時期に、こんな凄いスケジュールをこなす選手は、今時の日本にはいませんね。
ハワイでは、世界ライト級3位・バズソー山辺選手が、8月5日HICに登場。ハビエル・ムニス(米)に小差の判定勝ちを飾っています。4ヶ月ぶりのリングとなった山辺選手は、1ラウンドから終始激しい打撃戦を展開、山辺選手は何度かベストショットを叩き込みましたが、ムニスのタフネスは大変なもので、結果は48−46、47−45、48−45で山辺選手の判定勝ち。「今年最高の10回戦」と新聞が書き立てたほどの熱戦でした。
現在、ハワイに住んでおられる元協栄ジム所属、藤倉 明 選手(実兄が元日本王者、ベンケイ藤倉選手)は、山辺選手と同じくハワイでデビューし、気心の知れた間柄だったそうですが、あるときワイキキを山辺選手と歩いていて、「おい、写真撮ってくれ」、「何で俺がお前の写真を撮らなくちゃいけないんだ」と大喧嘩になったそうです。どのように納まったかまでは聞いていませんが・・・。この藤倉さんは、ハワイでフォーラム・スポーツジム、門田会長に会える事を楽しみにしていす。しみじみとした口調で、「会いたいなあ〜」と、言っていました。
最近の協栄ジム大竹マネジャーとの雑談の中で、”好カード”という話題になり、渡嘉敷選手の世界戦のセミで、世界ランカー、協栄・トーレス(協栄)選手が無敗の新鋭、風来ゆうと(ワタナベ)選手と対戦した事から始まり、渡嘉敷選手が、ルペ・マデラ(メキシコ)との試合に敗れた後の、再起戦で、これも無敗で、当時日本フライ級4位くらいにランクされていた、榊原隆史(金子)選手と戦った事。
喜友名朝博選手が、レパード・玉熊(国際)選手に勝つことが出来たから、一気に世界挑戦まで駆け上がれた事、勇利・アルバチャコフ選手と渡久地隆人(十番TY)選手の世界戦を、ようやくマッチメークしたと思ったら、勇利選手がやっぱりやらないと言い出し、困り果てた故金平会長から何とかしてくれと頼み込まれ、”ファイトマネー+TV視聴率がある一定のレベルを超えたら、1%に対して100万円のボーナスを出す”の条件で、ようやく落ち着いた事。
12月24日クリスマス・イブに、ミゲル・A・ゴンザレス(メキシコ)こと東京三太選手と日本人選手を対戦させたいが、誰か相手を見つけてくれと頼み込まれ、角海老宝石ジムの前田宏行選手が、快く対戦を承諾してくれたにもかかわらず、ゴンザレス選手が来日出来ず、試合が流れてしまった事は非常に残念だった事、しかし、「やろうとした前田選手は偉い」と、今でも褒めていました。
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2005年7月24日(日) |
1975年10月号ボクシングマガジンから |
表紙は、世界王座4度防衛中のガッツ石松(ヨネクラ)選手。”1週間に3人挑戦”でタイトルはいくつとれる?とある。
まずは、10月12日世界2位ロイヤル・小林(国際)選手が、チャンピオン、アレクシス・アルゲリョ(ニカラガ)に挑む、WBA世界フェザー級タイトルマッチ。王者が、43勝(40KO)2敗、6試合連続KO中なら、挑戦者も18勝(16KO)5連続KO中。スリリングなKO戦必至、必殺のパンチャー同士の対決とあります。
ミュンヘンオリンピック代表からプロ入りし、ここまで2年半のプロキャリアの小林選手に対して、チャンピオンは、キャリア4年半、176センチの長身選手。あのルーベン・オリバレスを13ラウンドKOで下しタイトル獲得、この試合まで2度の防衛戦をKOでかたずけています。しかし、後年3階級制覇を成し遂げ、あそこまで強いチャンピオンになるとは、この時点では予測できていません。
「難攻不落のアルゲリョ城を、小林はいったいどうやって落とそうとするのか」とありますが、ハッキリした予想までは出ていません。「ガンガン打って行く」と言う小林選手の強打にも、十分チャンスがあると見られていました。国際ジム高橋会長は、この試合の為にスタンレー・イトウ氏を招聘しています。
しかし結果は・・・。今でもたまにビデオで見ても、ゾッとする位の鋭いパンチで、小林選手をキャンバスに沈めてしまいました。あの左ボディーは、凄いの一言です。しかし、小林選手ほど、スーパーチャンピオンと対戦したボクサーは、日本にはいません。アルゲリョを筆頭に、ウィルフレッド・ゴメス(プエルトリコ)、エウゼビオ・ペドロサ(パナマ)。全ての試合で、期待されていた事も凄いと思います。
10月7日、地元横浜文化体育館に、WBA世界フライ級チャンピオン、エルビト・サラバリア(比)を迎えるのが、世界タイトル6度目の挑戦となる、前世界同級王者の花形 進 (カワイ)選手。去る4月1日、花形選手の初防衛戦として、富山で行なわれた試合では、”逆ホームタウン・デシジョン”で花形選手の負けとなり、会場は大混乱。WBAへのアピールが認められ直接の再選となりました。
サラバリアは、タイトル獲得後、ロスでのノンタイトル戦で、メキシコ・チャンピオン、アルベルト・モラレスに10ラウンド判定負け。花形選手は、日本記録となる6度目の挑戦となりますが、勝算十分と見られています。しかし、問題は、審判構成。「WBAに一任する」となっているが、WBA総会がマニラで開かれる事もあり、政治家のロッペ・サリエルマッチメーカーが、圧力をかけてくる事は十分予想される。
となると、「今度は前回以上のデキでなくてはタイトルは奪い返せない」と、河合会長のコメント。結果は、花形選手がさらに記録を更新する、7度目の世界挑戦を経験する事になりました。
10月8日仙台市でWBC世界バンタム級タイトルマッチ、チャンピオン、ロドルフォ・マルチネス(メキシコ)対世界同級10位、沼田久美(新日本木村)が行われます。”前哨戦2連敗の沼田が、勝つ可能性なきにしもあらず”。チャンピオン、38勝(32KO)3敗1分。挑戦者、14勝(4KO)3敗1分。しかし、2連敗中と言う、ちょっと考えられないマッチメークになっています。沼田選手は、前年12月に行われた日本バンタム級王座決定戦を、引き分け、ポイント数の多さでベルトを巻くという記録を残しています。
リング上の木村七郎会長の顔が、一瞬蒼白になったとあります。前哨戦2連敗となってしまった8月22日のリング上の事です。客席「沼田は世界のなんなのさ」、プロモーター「契約も終わっているし、仙台ではもう切符も売り出しているから、今さらやめられない」、マッチメーカー「いや、3度は負けない、保証するよ」。しかし、「それにしても、弱ったなあ〜」。
この試合の3年前にロスで、このマルチネスと対戦し、当時世界2位のマルチネスから、一度はダウンを奪った(判定負け)経験を持つ、ビーバー・梶本(松田)選手は、「左さえはずせば、沼田選手が勝つのは不可能じゃない気がします」と語り、この言葉が、冒頭の試合予測見出しとなっています。チャンピオンは、4回KO宣言。結果は、ポイントはかなり接近。きわどかったとだけしておきます。詳しくは、次の機会にて。
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2005年7月23日(土) |
坂田健史(協栄)選手の事 |
18日、児玉選手との試合に勝ち、世界タイトル再挑戦を決めたWBA世界フライ級3位、坂田健史(協栄)選手が、試合三日後から早くも練習再開。世界タイトル奪取に向けてやる気満々、元気に動き回っています。しかし、改めて児玉選手の右パンチの強さには、驚きと尊敬の念を抱いて言っていました。「あれもらったら、いっちゃってます」。1ラウンド、児玉選手が出した、ジャストタイミングの右ストレートをブロックした時に、そう感じたそうです。
今後は、8月1日から13日まで恒例のハワイキャンプを行い。9月19日の世界戦を迎える事になります。坂田選手と言うのは、本当に素直な良い青年で、18日の試合後も、医務室で児玉選手と顔を会わせると、心から「ありがとうございました」と挨拶していました。試合場には、坂田選手の、新しい超ドデカな横断幕が2枚。”路草会”(みちくさかい)と
あります。
坂田選手は、高校卒業後協栄ジムに入り、アルバイトを探すに当たり、大竹マネジャーから「どんな仕事が良いか」と聞かれ、僕は、「体を動かす仕事がいい」と言う事で、大竹マネジャーの叔父が経営する水道設備工事の仕事を紹介され、プロデビューするまで約半年間、ここでアルバイトをしていました。朝8時には、都内近郊の建築現場で仕事が始まります。夕方5時までキッチリ仕事をして、練習。
私の仕事も、坂田選手に手伝ってもらった事がありましたが、毎日、池袋駅7時5分発の西武池袋線急行電車の、いつもの車両のいつもの席に、絶対に休む事無く、坂田選手はいました。他にも、何人かの選手にアルバイトに来てもらいましたが、3日にいっぺんは、腹が痛いの、頭が痛いので、遅刻、休みが絶えません。仕事を終えてジムに辿り着くのが、6時半近く。この繰り返しです。
その当時の、仕事仲間の方々が集うお店が、池袋にある”小料理・路草”。その集った方々が”路草会”を作ってくれました。日本タイトル防衛戦で、トラッシュ・中沼(国際)選手に敗れ、初めての敗戦を経験した夜、私も、坂田選手、大竹マネジャーと共に、”路草”へ向かいました。丸の内線で池袋へ出て、歩く道すがらは、無言。悔しさに、話す言葉がありません。
”路草”では、懐かしい仕事仲間の方々が、たくさん待っていてくれました。デビューの時からずっと試合を見に来てくれる、おじさん。坂田選手が、直接仕事を教えてもらっていた人で、いつもホールでは、坂田選手の出番が遅いと酔っ払ってしまう、面白い人。しかし、この夜、めずらしく酔いは無く、悲しい顔をしている坂田選手を見ると、「坂田泣くな、坂田泣くな」と言って、あたりはばからず号泣。これは、感動的なシーンで、今でも忘れられません。
帰り道、大竹マネジャー、「借りは返すぞ」。「ハイ」としっかり応えた坂田選手。その後、中沼選手に借りを返すチャンスが来るまで、1年間待ち続け、見事に借りを返した夜、とびきりの笑顔で、皆が待つ”路草”へ飛んでいきました。今度は、世界チャンピオンになって、”路草”で祝勝会をやる気持ちです。
坂田選手のボクシングは、派手にたくさん勝つボクシングではありませんが、絶対に対戦相手には、一歩も譲らない、負けないボクシングです。新人王予選の頃、何度かダウンを取られた試合がありました。しかし、38−37で勝つ。ここが、坂田選手の強い所です。今でこそ、ボクシング界随一のスタミナ男と言われる坂田選手ですが、、最初から持って生まれて、スタミナがあったわけではありません。現場仕事の前も、しっかり走り、ハワイでも、一切手を抜かずに走りきります。
何年か前のハワイキャンプ、元世界王者、セレス小林(国際)選手の日本タイトルに挑み、1−2のきわどい判定まで粘った秋田勝弘(協栄)選手が、坂田選手と一緒に行った事があります。この秋田選手、走るスピードとスタミナだけには絶対、絶大なる自信を持っていました。坂田選手がちょうど二十歳の誕生日を迎える頃です。
朝は、1周約4`のコースを4周走りますが、秋田選手がいきなり100メートルダッシュでスタート。思わぬハイペースに苦しい顔で、懸命について行く坂田選手。ラスト500メートル、道幅が広くなるコースに出るタイミングを見計らって、坂田選手がスパート。秋田選手、猛追するも差は縮まらずゴール。大竹マネジャーと、「あいつ等面白いねえ〜」と、こちらは無責任に大笑い。ゴール後、真剣に悔しがる秋田選手。
次の日の朝、スタート地点までの雑談。坂田「秋田さん、あんな競争みたいな事、もうやめましょうよ」、秋田「俺も、競争なんて気持ち全然ないよ、だって坂田が」、坂田「じゃあ、普通に平和に走りましょう」で、坂田一安心。とか何とか言っているうちに、大竹マネジャーの「4周スタート」の掛け声、と同時に秋田スパート。エッ、ホントかよという顔の坂田、泣く泣く追走。またまた、デッドヒートを繰り広げる二人。今日もやってるよと、大竹マネジャー。二人を尻目にマイペースは、佐藤 修 選手。短距離ダッシュでは、絶対的に一番を取り続けました。
世界タイトル挑戦3度。いずれも熱戦で男を上げた、沖縄ワールドリングジムの仲里 繁 選手。坂田選手とは、ハワイキャンプを通じて知り合い”義兄弟”の間柄です。この仲里選手も、最初にキャンプに参加していた頃は、「全身筋肉痛」が続いていましたが、いつの頃からかレースに参加出来るようになり、坂田選手を、差し切る日もあるようになりました。それと同時に、ランクも上昇。OPBFのチャンピオンにも輝きました。
約2週間のキャンプですが、私等は「1日位休ませてあげたら」と言うのですが、大竹マネジャー、「遊びに来ている訳ではない」で、休みはありません。大体、ほとんどの選手が途中でつぶれますが、最短、3週走ってつぶれたのがN選手、これには、大竹マネジャーも激怒、ゴールするのを待っていてはくれません。このN選手「本当に自殺しようかと思った」と語っていますが、同じ気持ちになった選手は、他にもいるようです。
秋田選手は、ハワイ病にかかり、今は、アメリカ・サンディエゴに住みながら、ハワイ移住のチャンスを待っている所です。坂田選手も同じく、ハワイに住みたい気持ちを持っています。それ程、良い所ですハワイは。「人生が変わる日」(大竹マネジャー)9月19日を目指して、頑張る坂田選手にご期待下さい。 |
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2005年7月22日(金) |
1969年6月号プロレス&ボクシングから |
18日(月)に試合を行った坂田健史(協栄)選手が、昨日から元気に試合を再開した。2階級上の児玉選手の右は、「本当に凄かった」と、今日も言っていました。この経験が、世界戦で生きると思います。パーラの右をもらわなければ、勝てます。
この号の表紙は、ジャイアント・馬場対ボボ・ブラジル(なぜかこの頃は、プロレスも気になる) と、西城正三(協栄)選手。
4月17日、メキシコオリンピック銅メダル・森岡栄治(高橋)選手のデビュー戦が、大阪で行われました。対戦相手は、日本S・バンタム級8位バロン・熊沢(大川)選手。後に、ミュンヘンオリンピック代表、”KOし仕掛け人”ロイヤル・小林(国際)選手のデビュー戦の相手も務め、8ラウンド判定まで粘りました。
試合は、プロの面目を賭けた熊沢選手が、森岡選手のコーナーまで駆け込んだ所から始まっています。試合は、2ラウンド森岡選手が見事なKOで、プロデビューを飾っています。ボクの1週間というコーナーがあり、ここにも森岡選手が登場。17日の試合を前に15日からの日記が掲載されています。
ここで、面白いのが、試合当日体育館の前で、40くらいのダフ屋に「今夜の切符あるか」と聞かれ、ないというと「じゃあ、切符買わないか」といわれ頭にきた。とあります。試合後、後援者の挨拶回りを終え、会長、マネジャー、ファンの為にも、どうしても頑張る、そしてチャンピオンになるんだと結ばれています故・森岡会長は、生前イトウ先生の事を大変良く慕ってくださいましたので、このように足跡をたどると、感慨深いものがあります。
原田対西城の夢のカード実現と言われていた前哨戦で、ファイティング・原田(笹崎)選手が、アリゾナ州S・フェザー級チャンピオン、アルトン・コルター(米)に判定負け。試合は、接戦でしたが2−1でコルター。48−47×2と45−47(原田)でした。
選手紹介には、王座返り咲きを果たした徳山昌守選手を擁する、現金沢ジム会長、金沢英雄選手が出ています。温和すぎるのが試合に現れるのでもっと突進力と積極性が欲しい。左右ストレートにパンチがありながら、気の弱さで詰めを欠きKOを逃しているとあります。
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2005年7月21日(木) |
1969年2月号プロレス&ボクシングから |
表紙は、藤猛(リキ)選手を破って世界王者となった二コリノ・ローチェとジャイアント・馬場選手。
世界S・ライト級チャンピオン藤猛選手は、昭和43年12月12日東京、蔵前国技館に挑戦者、世界同級1位ニコリノ・ローチェ(亜)を迎え2度目の防衛戦に挑みました。1万2千人の大観衆の中、8ヶ月ぶりの登場となったチャンピオン藤選手でしたが、決して背の高くないずんぐりむっくり型、ローチェ選手の左ジャブ、ストレートをびしびし喰らい、10ラウンド開始のゴングに応じられず、10回5秒KO負け。ファンの罵声を浴びる結果となってしまいました。
ビデオで見ても、ビシビシと左パンチをもらい続け、顔面は腫れ上がり、左1本に負けたという感じです。TV放送席も、藤選手が勝って当たり前という感じのトークを続けていましたが、中盤から一気にトーンダウン。”ファイトマネーと引き換えに魂を売り渡した”とまで酷評されています。それも、藤選手は、爆発的なKOパンチが売りの、とてつもない人気ボクサーですから、つらい所です。CM出演等もこなし、この年の推定稼ぎ高は、3〜4千万円にもなるといわれています。
イトウ先生もトレーナーを務めたことがある、メキシコオリンピック、銅メダリスト・森岡栄治(近大)選手のプロ転向が、写真入で掲載されています。大手ジムからの好条件の誘いを断り、”まったくの弱小ジム”と表現されている、東京・高橋ジムからのプロ転向です。「自信ですか、十分あります」開口一番こう言って、世界取りを宣言しています。
高橋会長は、「まったく望外の喜び」と表現しています。森岡選手は、高橋ジム、マネジャー沖氏との信頼関係から、沖氏がその人柄を見込んだ高橋会長の下で、お世話になる事を選びました。
この当時、森岡選手のプロ転向は、大きく報道されていて、”金目当てに好条件のジムへ行く”と一部で報道された事に触れ、森岡選手は、「僕は、目先の金より後で自分の力でとる金の方が大切だと思っている」と、語っています。高橋会長、沖マネジャーの人柄の良さとボクシングに対する熱意は、多くのボクシング関係者が賞賛し、森岡選手は、良い所を選んだと言われています。
森岡選手は、高校3年生でハワイへ1ヶ月も遠征していたそうです。こんな頃から、イトウ先生との親交があったとは驚きです。この当時、高校生が、ボクシングで行くハワイって凄いですね。この辺のお話は、また、イトウ先生から良く聞いてみます。
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2005年7月19日(火) |
坂田健史(協栄)選手世界タイトル前哨戦 |
昨日、後楽園ホールに於いてWBA世界フライ級3位・坂田健史(協栄)選手が、児玉卓朗(岐阜ヨコゼキ)選手と10回戦を行い、ジャッジ2者がフルマークを付ける圧勝で、判定勝ち。9月19日、後楽園ホールで、昨年対戦した因縁の相手、WBA世界フライ級チャンピオン、ロレンソ・パーラ(ベネズエラ)に挑戦する事が、決定しました。
昨年6月の世界タイトル初挑戦では、”あごを骨折”しながら、チャンピオン、パーラを追い掛け回し、勝ったと思えた内容にもかかわらず、判定に泣いた坂田選手。若さで、ケガは異常に早く回復し、今年4月に行った再起戦では、タイ選手を1ラウンドKO。早い時期でのパーラとの再選を狙っていました。
9月挑戦のスケジュールを組み、セットされたのがこの試合です。この日の契約ウエートは、52.5`。対戦相手の児玉選手は、右にパンチがあって、大変打たれ強い選手で、西日本新人王MVPに輝いた事もあり、前戦では、WBA世界S・バンタム級12位、金井彰廣(大鵬)選手からダウンを奪い、一進一退の打撃戦を展開。しかし、自らのカットによる負傷判定で敗れています。
坂田選手サイドの狙いは、パンチがある相手に、足とスピードで、打たせずに打つ。長いラウンドを戦っておきたかった。契約は52.5`ですが、坂田選手にはS・フライ級のリミットを越えないよう指示。試合前、「この位、はっきりやっつけないと、世界なんて言ってられないぞ」と、大竹マネジャー。結果は、危険な右パンチは1発ももらわず、足とスピードで圧勝。地力の違いを見せ付けました。
世界前哨戦としては、文句の無い試合だったと思います。児玉選手が、金井選手との対戦から、自信を持って出て来る事も予想通りでした。体格的なアドバンテージも大きいと思っていたはずです。1ラウンドから、右が1発当たればという感じは、良く伝わってきました。坂田選手も試合後、「右のパンチにはビックリした」と、正直に語っています。大竹マネジャーも、「日本ランカーの力はある」と、誉めていました。
階級が上のクラスの、パンチがあって、タフな選手と10ラウンド戦えた事は、長いブランクがあった坂田選手にとって、非常に良い経験でした。2ヵ月後の世界挑戦を考えて、安易な外国人選手相手の前哨戦では、とても得られない経験をした、大変良いマッチマークでした。坂田選手は、世界タイトル挑戦に備え、8月1日から恒例のハワイキャンプを行う予定です。
良く練習していると感じさせられた、児玉選手の今後の活躍にも期待したいと思います。
セミの8回戦では、木村龍太郎(協栄)選手が、久保田隆治(F・I)選手と対戦。お互いKO勝ちが無い選手同士の珍しい対戦となりましたが、結末は、超ド派手、大どんでん返しの、逆転KOシーンとなりました。これはに、あっけにとられました。KOタイムは8ラウンド、3分8秒。
中盤以降、ジャブと右アッパーで有利に試合を進めていたのは木村選手。久保田選手は、闘志が空回りという感じでした。ラストラウンドも木村選手が、快調にヒットを重ね、右アッパーで久保田選手をぐらつかせます。龍ちゃん初KOかと思ったまま、ラスト30秒。残り10秒を過ぎた所で、久保田選手のワン・ツーがヒット。大きくぐらついた木村選手に右ストレート、左フックの追い討ち。モロにパンチを喰った木村選手は、泳ぎながらリング外へ転落。何とかリング内に戻り、ぐらつきながらファイティングポーズを取る木村選手でしたが、KOを宣告されてしまいました。残念。 |
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2005年7月18日(月) |
1986年8月号ボクシングマガジンから |
”喜友名、仁川に敗る”柳明佑対喜友名朝博(ワールドS)選手の写真が、表紙を飾っています。
6月14日、韓国・仁川でWBA世界L・フライ級王者柳明佑(韓国)にWBA世界同級4位の喜友名朝博選手が挑んだ試合は、12ラウンド、柳明佑のKO勝ち。完璧V2とあります。
この試合には、私もセコンドを務めました。羽田から大阪経由でソウル入りし、喜友名選手一行と合流しました。試合場のある仁川とソウルの間は、車で約1時間の距離があります。試合前日の調印式は、この仁川のホテルで正午から行なわれました。そして、当日計量は、午前9時ソウル市郊外の韓国コミッションで。
喜友名選手は、車の中で、念のためにツバを吐き続け、48,98`のリミット一杯で計量をパス。宿舎「世宗ホテル」のレストランに向かいました。が、このホテルへ帰る車には、なぜか柳選手のトレーナーも同乗。じっくりと観察されていました。大竹マネジャーが手渡した栄養ドリンクを、うれしそうに飲んでいたのが印象的です。
試合場は、善仁体育館。仁川高校出身の柳選手にとっては、まさに地元の中の地元といった感じ。こちらからは、モロ敵地。高校のブラスバンド部が会場の一部に陣取り、約1万5,000人収容の体育館は、かなりの入りです。日本からも、応援ツアーが企画され、青コーナー近くに陣取りましたが、数の上では全く少数で、焼け石に水状態。トイレにたった喜友名選手から、偶然会った柳選手が、”アイツ凄い目で俺の事をにらんでいました”と報告あり。
入場時間の打ち合わせも関係なく、突然、入場の合図。喜友名選手は、青のコスチュームに”Super Express”の縫い取り。ちなみに現役時代の大竹マネジャーが、”Super Combat”、元WBA世界L・フライ級王者、渡嘉敷勝男(協栄)選手は、”Super Spirit”でした。
大歓声の中で、試合開始のゴング。喜友名選手の左が速く、ジャブ、ワン・ツーとヒット。調子いいぞと思った瞬間、柳の左フックがカウンターで命中。肉体的ダメージはありませんでしたが、敵地の大観衆、向こうのパンチがかするだけで、大観衆が大声援を送る雰囲気に、このダウンで完全に飲まれてしまいました。
インターバル、大竹マネジャーは、「まだ、始まったばかり、あと14回もある。取り返せるぞ」と、アドバイスを送りましたが、4ラウンドまで全くペースを掴めず、ポイントを失いました。中盤、喜友名選手のパンチもヒット、5,6,7回とポイントを挽回します。しかし、8回からボディ攻撃に的を絞った柳明佑が猛反撃。喜友名選手の右顔面が腫れ上がってきました。
それでも、喜友名選手は、試合を捨てず大健闘。12ラウンド、左右フックを浴びてダウンを喫した後、打ちまくられる喜友名選手を見て、故金平会長がタオルを投げ入れ、1分53秒試合終了。大竹マネジャーと私とで、喜友名選手をコーナーに連れ帰りました。敗れはしましたが、善戦健闘した喜友名選手が、リングを降り、控え室に戻る途中大きな拍手が送られました。
試合が終わって、大竹マネジャーと共に、勝てなかった事を金平会長に謝りに行きましたが、会長は一つも怒らず、次にチャンスを繋げるべく、行動を開始していました。
それにしても、柳明佑があれほど防衛のレコードを伸ばす偉大な選手になるとは、この試合では思いませんでした。喜友名選手にも、充分勝つチャンスはあった試合だと思います。柳選手は、試合後、喜友名選手の事を絶賛していましたから。
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2005年7月14日(木) |
西島選手の事 |
アメリカへ渡っていたヘビー級ボクサー、西島洋介山選手が、”プライド”参戦という記事が出ていた。正直、ボクシング出来ないものかなぁと思う。西島選手が、生活の拠点をロスに移して渡米する前、私は、西島選手と奥さんとも一緒にお会いして、今後のボクシング活動に付いて、話をさせてもらった事がある。
西島選手の父君とは、何度も酒を酌み交わし、日本のボクシング界の事、西島選手の将来の事等、いろんな話をしました。大変良いお父さんで、最初から”自分の進路は自分で決めろ”という家系である事は、一貫していました。ただし、判断するにおいて大事な知識、情報等は、解りやすく説明してあげる。その役が、私だったという事でしょうか。
こんな感じで、日本ボクシングコミッションのルールブックを見てもらったり、これまでの出来事を伺いながら、今、こんな条件の話もありますという事も伝えました。ホントに凄い条件でした。
最終的には、西島選手の判断で、渡米する事になりましたが、これも一つの道だと思います。銭金の問題ではなく、”筋を通す”という事になりました。それ以後、今日まで、ケガ続きで不本意な選手生活を送ることになってしまいましたが・・・。
今、私がサポートさせて頂いている名護明彦選手が、何年か前、ロスの先輩宅(高校時代のボクシング部先輩)で下宿している時に、西島選手が遊びにやって来て、二人でお茶を飲んで、将棋を指したりしていたそうです。この組み合わせも、面白ければ、人の縁というものも面白いものです。名護選手は、ロスのレンタルビデオ屋さんで、この先輩からいきなり声を掛けられ、下宿させて頂く幸運に恵まれます。
西島洋介山、名護明彦、この二人の選手が、今後の進路で思い悩んでいる時、偶然にも私は、二人の選手と接する機会に恵まれました。西島選手は、残念ながら、日本でボクシングが出来なくなってしまいましたが、その分も、名護選手には、頑張ってもらいたいものです。今後の、二人の活躍を期待したいと思います。
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2005年7月11日(月) |
1977年ボクシングマガジンから |
表紙は、”沖縄パワーで暴れまくろう”具志堅用高選手を中央に、上原康恒選手、フリッパー上原選手の協栄ジムトリオです。写真は、ハワイ・カピオラニ公園で撮影されたと推測します。
ハワイでの写真には、当時のスーパーアイドル、アグネス・ラムちゃんが世界王者・具志堅選手に出迎えのキッスをしている場面も、掲載されています。具志堅選手は、非常に照れくさそうですね。具志堅&上原兄弟のハワイキャンプで6ページの特集記事になっています。写真には、イトウ先生を始め、金平会長、仲井真トレーナー(琉球ジム・会長)に加え、ハワイでデビュー予定の亀田昭雄選手の顔も見えます。
2月24日に上原兄弟と共にハワイ入りした金平会長は、その足でプエルトリコに飛び、沖縄トリオの世界戦交渉を続け、3月4日にハワイへ戻ると、具志堅選手の次期防衛戦をレストラン「フラミンゴ」で発表(良いお店でした)。 相手は、リゴベルト・マルカノ(ベネズエラ)。
この発表会には、ハワイの大御所、サム・一ノ瀬氏とイトウ先生も出席。席上金平会長は、「当時、日本まで18時間もかかる長旅をして、初めて世界チャンピオン、ダド・マリノを連れてきたのは、サム・一ノ瀬氏だった。これを契機に、日本にコミッション制度が生まれ、世界の仲間入りが出来た事を考えると日本にとっては、大恩人である。以来こんにちまで、日本ボクシング界の為、常に陰になり日向になって協力、指導してくれた一ノ瀬氏のいるハワイで、世界タイトルマッチの発表会が出来、大変うれしい」といったコメントをしています。この発言に対し一之瀬氏からも「いつまでもタイトルを保持するよう、頑張って欲しい」とエールが返されています。
この時点で、フリッパー・上原選手のWBA世界フェザー級王者・ラファエル・オルテガ(パナマ)への挑戦が、4月17日・沖縄で内定していましたが、正式契約まで至っていなかった為、具志堅選手の防衛戦が先に発表される結果となりました。
兄康恒選手は、ハワイでデビューしています。6月にも世界S・フェザー級チャンピオン、サムエル・セラノ(プエルトリコ)挑戦へ向けて交渉中です。これは、しばらく後に実現する事になります。
前世界フライ級王者、小熊正二(新日本)選手をKOし、一躍世界ランキングボクサーとなった、WBA世界フライ級9位・触沢公男(東洋)選手が、WBC世界同級9位にランキングされる、ホセ・ルイス・クルス(メキシコ)と対戦。昨年メキシコの新鋭将を受賞し、若干18歳ながら25勝(18KO)2敗4分の華々しいレコードを残している強豪です。
試合は、積極的に打って出る触沢選手に、クルスがカウンターで迎え撃つ展開。前半からスリリングな撃ち合いとなり、場内は興奮のるつぼと化す。ガードを固めて、左右アッパーから左フックの強打を連打するクルスを崩すのは容易ではないと思われました。うっすらと鼻血を出した触沢選手でしたが、前に出続け5回、ロープを背に戦っていたクルス選手が、めずらしくリング中央に出て右を放とうとした所に、触沢選手の右フックがカウンターとなって炸裂。左フックも追加してクルス大の字。これで終わりかと思われましたが、カウント9で立ち上がり、ゴングに逃げ込む。
続く6回、触沢選手がクルスに襲い掛かり猛攻。この回はロープダウンこそ奪われましたが、何とか持ちこたえたクルスですが、この回終了後棄権。触沢選手の6回終了KO勝ちとなりました。
この試合は観戦しましたが、このKO勝利に場内大騒然、リング上勝った触沢選手に神父さんが駆け寄り、ポーズをとる様は、映画の一シーンのようでした。(触沢選手は、熱心なキリスト教信者)しかし、この後の世界戦では王者に全く歯が立たず、連続してA、C両方のチャンピオンに挑戦するチャンスに恵まれましたが、果たせず、勝ち星はこの夜が最後になってしまいました。
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2005年7月7日(木) |
1972年12月号ボクシングマガジンから」 |
表紙は、世界チャンピオンの二人、フライ級大場政男(帝拳)選手と、S・ウェルター級輪島功一(三迫)選手。チャンピオン対談が行なわれています。(輪島選手の表情が面白い)
10月30日、後楽園ホールでトリプル日本選手権が行なわれています。S・フェザー級王者、野畑寿美男(常滑)選手は、前チャンピオン、岩田健二(金子)選手とのリターンマッチに挑み、我慢比べの打撃戦の末、引き分けで野畑選手の防衛となっています。お互いにダウンを一度ずつ取り合う激闘でした。
S・ライト級王者、東海林 博 (ヨネクラ)選手は、元チャンピオン、ライオン古山(笹崎)選手の挑戦を受けましたが、予想通り古山選手が強く2回に右で倒した後、8回豪快なKO勝ちを収めています。東海林選手は、試合後、「悔いはありません、これで引退します」と引退宣言。
ウェルター級王者、清水孝恒(セキ)選手は、挑戦者辻本章次(ヨネクラ)選手の猛攻の前に、1ラウンドで右目の視力を失ってしまうアクシデント。4回には、左目も切って血だるま。6回終了棄権TKO負けで、王座を明け渡しました。試合後、実兄、英守選手(元日本ライト級王者)からは、「章次、もっと詰めを練習せい」と、厳しいアドバイスを送られていました。勝った辻本選手の希望は、OPBF王者、龍 反町(野口)選手との対戦です。これは、しばらくして実現する事になります。
それにしてもこの日は、超満員3,200人のファンをのみ込んだとあります。写真を見ても、正に立錐の余地も無しと言う感じです。一時期チャンピオンカーニバルが、2日間の間で行なわれた事等もありましたが、全チャンピオンのスケジュールを揃えるのは難しく、現在のような形になっています。
10月17日、協栄ジム・金平会長の協会除名問題に端を発した、ボクシング協会内が分裂しています。いずれも「全日本ボクシング協会」を名乗っています。そんな最中、10月30日のトリプルタイトルマッチが、開催されました。これは、不振の業界を一気に立て直そうとした起死回生の大バクチが大成功したと表現されています。
この興行は、好カード推進グループの笹崎ジム・笹崎会長を中心に、ヨネクラジム・米倉会長、セキジム・関 会長、アサクラジム・浅倉会長、金子ジム・金子会長ら若手が力を合わせて企画、実現した。”ファン不在のボクシングからファン中心のボクシングへの大手術”とあります。
リングサイド席5千円。2千円、3千円の指定席は、前売りの段階で売り切れ。当日売りは、千円の立ち見席だけの大盛況。会場と同時にファンはなだれ込んだ。30分程で会場はほぼ満員。有料入場者数が2667人。これまでの後楽園ホールの新記録を樹立、売り上げも645万円を記録した。関係者は、「根強いファンはいるんだなあ。まるでボクシングの全盛期と同じじゃないか。いいカードさえ組めばお客さんも集まってくれるんだなあ」これは、今でも同じですね。
セキジム・関会長は、「選手より私の方が興奮しています。オレたちがやったんだなあって気持ちです。興奮してバンテージがうまく巻けないんです。お客さんが帰る時に気持ち良く帰れるようなファイトをしなくては」と、語っています。リングサイドクラブの面々も、「いいカードさえ組めば5千円だって決して高くない。試合をやる前から結果がわかるような組み合わせでは、お客さんが来るはずないじゃないか。今日のは、どれをとっても面白かった。これからも、こういう形でファンにサービスをして行かなくては」
この興行では、選手のファイトマネーも公開されています。この方法は、「KOボクシング」をプロモートしていた協栄ジム・金平会長が行なっていましたが、一部の業者から反対の声が上がり、立ち消えになっていました。
この夜は、収支も詳しく出ています。ファイトマネー、東海林、清水選手が60万円、古山選手、35万円、野畑、岩田選手が30万円、辻本選手は、20万円。テレビ局から出た100万円のギャラは、全て宣伝スポットに使用。ボクシング界の今日の不振を招いたのは、”テレビに依存しすぎた”と判断した、この若手興行グループは、「将来のボクシング界の為にボクシングの宣伝に使ってほしい」とテレビ放映料の権利を放棄。笹崎会長は、「ノドから手が出るほど欲しいのは事実です。だが、目先のことにだけとらわれてはいけない時期に来ている」と、コメントしています。
続いて12月21日後楽園ホールで、夢のチャンピオンカーニバルが企画されている。引退した往年のチャンピオンや名選手にリングに上がってもらい、スパーリングを見せようという企画で、発案者は、協栄ジム・金平会長、タナカ(現全日本パブリック)・田中会長、、SB日東ジム・益戸会長、笹崎ジム・笹崎会長の4人。収益は、全て福祉施設に寄付となっています。
白井、原田、海老原の世界チャンピオン組に加え、オールドファンの為に、”ヤリの笹崎”笹崎会長も出場。往年のストレートの冴えを見せるとある。対戦相手は、何とエディ・タウンゼント(元アマ選手)トレーナー。「オレは、あいつとじゃなきゃいやだ」(さすが、元ボクサー)と言う指名型から「ぶざまな格好でリングに上がりたくない」と言う出場選手の声。12オンスのグローブで2分2ラウンドのスパーリングだが、金平会長等は、毎朝のロードワークは言うまでもなく、スパーリングまでやるほどの熱の入れよう。笹崎氏もこっそり秘密練習中とあります。結果やいかに。
チャンピオン対談では、1月2日にチャチャイ・チオノイ(タイ)相手の5度目の防衛戦を迎える大場選手と、同じく9日、強敵ミゲル・デ・オリベイラ(ブラジル)との3度目の防衛戦に挑む輪島選手が語り合っています。車好きの二人の対談はいきなり大場選手の車の話から始まっています。当時の愛車は、ファイアーバード。輪島選手が、環七で後ろからぶつけられた話題が上がっていますが、この後、まさか大場選手が交通事故で亡くなってしまうとは・・・。大場選手は、「小学校5年生の頃から世界チャンピオンになりたくてしょうがなく、勉強はどうでもいいって気持ちだったみたい」と語っていますが、輪島選手が、「算数が好きだった」とは、少し以外でしょうか。
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2005年7月6日(水) |
1981年12月号ボクシングマガジンから |
表紙は、世界戦が決まっている、渡嘉敷勝男(協栄)、村田英次郎(金子)、友成 光 (新日本木村)の3選手が、揃い踏みしています。
この中で、見事世界王者の勲章を手にしたのは、渡嘉敷選手。この時代、渡嘉敷選手とは非常に親しくしていたので、12月16日仙台宮城スポーツセンターで行なわれたこの試合の事は、強く印象に残っています。
渡嘉敷選手は、下駄をカランコロンさせながら協栄ジムに通っていました。現協栄ジム大竹マネジャーが声をかけた所、なんと12時間労働をしているとの事。そこで、こいつは見込みがあるのにもったいないと、大竹氏が推薦し、勤務していた「肉の万世」に、好条件でアルバイト出来るようにになりました。
ちなみに、協栄ジムは、今でも計量後の食事は「肉の万世」です。ここのハンバーグは、本当においしいと思います。もちろん食事代はジムの負担です。
具志堅用高(協栄)選手がタイトルを失い、その挑戦権を手にする為、OPBF王者、世界L・フライ級2位金龍弦(韓国)との試合を前にして、渡嘉敷選手は、試合前の控え室で、会長は最初から行くなといっているけど、「俺は、行くぞ」と言って見事勝利収め、この試合に挑みます。
試合の朝、計量後会った時に「お前負けると思っているだろう。だけど俺は、やるぞ」と、いった言葉が印象に残ります。WBA・L・フライ級チャンピオン、金換珍(韓国)に挑んだ渡嘉敷選手は、今まで見せた事が無い素晴しい動きで、金選手を翻弄。見事、世界チャンピオンに輝きました。本当にハートが、強い選手でした。一緒に写真に写っている福田先生(F・Iジム会長)も若かった。
村田選手は、WBA世界バンタム級チャンピオン、ジェフ・チャンドラー(米)に2度目の挑戦。前回は、ダウンも奪い勝ったかと思うほどの試合でしたので、期待も集まりました。
友成選手は、世界タイトル初挑戦。アマチュアでは、抜群の実績がありましたが、プロの水に慣れるまでには4連敗も経験し、もう終わったと思われた事もありましたが、見事それを跳ね返しての世界タイトル初挑戦です。
この年10月のチャンピオンカーニバルを制した、日本王者達が、カラーで特集されています。L・フライ級友利 正 (三迫)選手、後に世界王者となりました。フライ級玉城和昌(内野)選手、世界タイトル挑戦目前まで行きましたが、伏兵の藤 勝 (不二)選手に敗れて、世界挑戦は実現しませんでした。
S・フライ級糸数 勤 (帝拳)選手。努力家の糸数選手は、アマ61連勝の実績を引っ下げ、鳴り物入りでプロ転向していた古口 哲 (センタースポーツ)選手に、見事借りを返しチャンピオンに輝きました。アマで44戦31勝の実績がありますが、プロでは、8戦4勝(2KO)2敗2分です。数字ではありません。
バンタム級は、トクホン真闘ジム佐々木会長が、手塩に賭けて厳しく育てた磯上秀一(辰東)選手。突貫ボクサーと書かれています。S・バンタム級は、”真面目な粘力”岩本弘行(ヨネクラ)選手。柴田国明選手に憧れてヨネクラジム入りした努力の人は、現在、東武東上線大山駅近くで、お寿司屋さんを経営しています。ボクシング関係者が、よく訪れるお店です。
フェザー級は、スパイダー根本(草加有沢)選手、この時点で12度の防衛に成功していますが、デビュー戦は判定負けでした。中々こないチャンスにも腐らずに王者の肩書きを手に入れました。S・フェザー級は、安里義光(協栄)選手、現役日本王者の最年少21歳です。
ライト級は、成田城健(ヨネクラ)選手、ガンバリ屋、正に大金星とあります。難攻不落と思われていたベテラン、バトルホーク・風間(奈良池田)選手を、まさかの番狂わせで破り、王者に輝きました。27戦13勝(1KO)13敗1分。S・バンタム級チャンピオン、岩本選手とは新人王の同期です。この当時は、池袋で焼き鳥屋さんを経営していました。中々帰らないお客さんには、「成田城健を、チャンピオンにさせて下さい」と言って帰ってもらったとか。
S・ライト級王者も、”根性と努力の魂”守安竜也(岡山平沼)選手。戦績23戦10勝(5KO)13敗ですが、地方ジムのハンデもかいさず、平沼会長の厳しい指導に耐え、最高位世界3位まで躍進しました。数字ではなく、気持ちです。
ウェルター級は、静岡の”輪島功一”ダイナマイト・松尾(三津山)選手。ミドル級との2階級制覇を成し遂げました。これも2連敗の後の勝利です。S・ウェルター級、堀畑道弘(山神)選手、心優しきチャンピオンと出ていますが、本当にその通りの人柄な方です。柴田選手との4度目の対戦で手に入れたこのタイトルは、7度の防衛をこの時点で果たしています。
ミドル級は、柴田賢治(斎田)選手。S・ウェルター級との2階級制覇を成し遂げています。
10月12日、後楽園ホールで守安選手の持つ日本タイトルに挑んだのは、杉谷 実 (協栄)選手。元同級チャンピオンで、19戦16勝(10KO)2敗1分の戦績。一方の王者守安選手は、この試合まで22戦9勝(5KO)13敗。この数字だけで、杉谷選手とも親しい私等は、楽勝と思っていました。が、守安選手の王者としてのプライドは高く、何としても初防衛の気持ちは、見る者にも伝わってきました。ラストラウンド、終了間際には、杉谷選手を滅多打ち。ゴングとほぼ同時に、金平会長がタオルを投げ入れたほどでした。
このように並べて見ると、努力と経験で、王者までのし上がった選手がたくさんいます。何かヒントが見えてくるような気がしますが・・・。
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2005年7月6日(水) |
1973年4月ボクシングマガジンから(2) |
2月15日、”ミュンヘンの星”ロイヤル小林(国際)選手が、A級ライセンス8回戦でのプロデビューを果たしています。後楽園ホールで行なわれたこの試合、観衆は2,500人と超満員。九つの花輪、10本の垂れ幕、施設バンドまで従えてのデビュー戦です。
対戦相手は、バロン熊沢(大川)選手。50戦以上のプロキャリアを誇る熊沢選手も、ここ4年間は勝ち星に恵まれずにいましたが、7連敗の後、7ヶ月のブランクを押してのこの試合に、最後のボクシング人生を賭けると発奮。
勝つまでには到りませんでしたが、アマ戦績34勝(28KO)3敗の小林選手を相手に、大善戦。5ラウンドにはダウンを喫しましたが、最後までKOされる事は拒み、8ラウンドを戦い抜きました。試合後の敗者バロンの控え室は、ただKOされなかったというだけでまるで勝ったような大騒ぎとあります。ボクシングファンは、がっかりしたようですが、この熊沢選手の頑張りは、賞賛に値します。実際のところ、「何と弱い相手を選んだのだろう」と、首をかしげた関係者が多かったようですが、数字の問題ではなくこの試合に賭けた熊沢選手の気迫が素晴しいと思います。小林選手は、アルゲリョ、ゴメス、ペドロサ選手と、超一流の世界王者とも対戦し、世界S・バンタム級のチャンピオンにも輝きましやた。
最近は安易な外国人を相手に、数字だけを追いかける傾向が見られますが、このように、同じ日本人同士負けられないと言う、気持ちが入った選手との対戦経験がこそ、選手を育てる事になると思います。1年に3、4回外国人の負け犬根性の選手とばかり試合して、立派な数字を作っていっても、それだけで貴重な伸び盛りな時間を過ごしてしまう、数字が立派だけの選手が近頃は多いと思います。
ハワイ便りでは、門田新一(三迫)選手が、初めてハワイのリングに上がり、2月14日の10回戦で、レイ・ボーチェスタ(比)に、3回KO勝ち。同じリングの6回戦では、、上原康恒(協栄)選手が、R・トロンハリに1回KO勝ちしています。
他では、2月20日、豊島政直(川口)選手が、10回戦。フランキー・カバニグに4回KO勝ちしています。豊島選手は、郷里秋田から、現トクホン真闘ジム、佐々木会長共に上京。川口ジムで連続1ラウンドKO記録を作り、ハワイに 渡っていました。タイトルには恵まれませんでしたが、パンチがあり、後に世界フェザー級チャンピオンとなる、世界ランカー、ダニー・ロペス(米)との試合では痛烈なダウンを奪い、誰もがカウントアウトと思ったほどでしたが、レフェリーの明らかなロングカウントにより、逆転KO負けとなった試合が印象的です。
この夜は、協栄ジムの藤倉 明 選手も出場。前座5回戦で、ミルキー相手に判定勝ちとあります。この藤倉選手は、元日本王者、ベンケイ藤倉選手の実弟で、協栄ジムの先輩でもあります。ボクシングでハワイに渡って以来、「ここで暮らしたいと思い」、引退後もハワイで生活されています。
最近お話をさせて頂く機会がありましたが、門田さんにはぜひお会いしたいと語っていました。この伝言は、門田フォーラムジム会長にもお伝えしました。この当時、イトウ先生の自宅に合宿している同士が、ハワイで試合する事になったりする事もあり、その時は、妙に陰険になったりしたとか。元日本ライト級チャンピオン、バズソー・山辺選手とワイキキで、写真撮れ撮らないで大ゲンカしたりとか、門限に遅れて、夜中にカピオラニ公園までロードワークさせられたお話もお聞きしました。しかし、イトウ先生には、今でも頭が上がらないといった感じで、大変感謝されていました。
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2005年7月5日(火) |
1973年4月ボクシングマガジンから |
表紙は、柴田国明(ヨネクラ)選手が肩車されている写真です。3月12日(日本時間13日)ハワイでベン・ビラフロア(比)のWBA世界S・フェザー級タイトルに挑戦し、見事に2階級制覇を成し遂げました。2度のタイトル奪取は、いずれも海外になります。
日本からも百人の応援団が駆けつけたこの試合、サウスポーキラー10戦10勝(9KO)と実にサウスポーに負け知らずの柴田選手は、強打のチャンピオン、ビラフロア(20才)54勝(37KO)と真っ向から打ち合い、スリリングな打撃戦を15ラウンド判定で制しました。
イトウ先生も、柴田選手のセコンドを務めています。イトウ先生は、ビラフロアの前の防衛戦では、ビラフロアサイドのコーナーで仕事をこなし、大きくカットした目の上の傷を見事止血。スタンレー・イトウが付いていなかったら、タイトルはベンの手を離れていただろうと評価されています。当時は、負傷判定なんて無く、カットして続行不可能な方が負けになります。無敵だった、世界ウェルターチャンピオン、ホセ・ナポレス(メキシコ)が一時タイトルを手放したのも、カットした傷の為でした。
この試合では、米倉会長が「教え子」でもあるので、柴田選手のコーナーで仕事をする事になりました。柴田選手は、イトウ先生の立てた作戦通り、うまく戦いました。試合後「作戦が良かったんでしょうね」と、語っています。14ラウンドのあわやダウンの大ピンチを乗り切り、コーナーに帰った柴田選手に「勝っているよ」と、イトウ先生はアドバイス。「最後まで絶対倒れない」と、心に誓った柴田選手は、ラストラウンドをはっきりと取り、勝利を決定ずけました。
この試合の少し前、世界フライ級チャンピオン大場政男(帝拳)選手が、交通事故で亡くなるという衝撃的な出来事がありました。柴田選手は、事故現場となった同じ道を、当日僅か1時間前に通過。その10日くらい前にも、当時WBA会長だった、B・リー氏のパーティで、大場選手とハワイの試合の事を語り合っていたそうです。羽田を立つ時、帝拳ジムの長野マネジャーから、「大場用特製ハチミツ」を手渡され、柴田選手は大感激とあります。試合後、万歳三唱と共に、「長野さんありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えています。この試合には、協栄ジム金平会長、角海老宝石ジム鈴木社長、アサクラジム浅倉会長等も、応援に駆けつけています。
後に柴田選手に世界タイトルを明け渡す事になる、リカルド・アルレドンド(メキシコ)が、3月6日福岡でアポロ・嘉雄(親和)選手と防衛戦を行なっています。「恋人の腕の中が一番楽しい」プレイボーイ王者は、不節生といきなりあります。試合を1週間前にして、食事は1日1回の野菜サラダだけ、公開スパーでも格下選手に滅多打ちをくらい、マネジャー、ガヤルド氏は、連日夜の博多に出没。クラブでホステスに囲まれご満悦。「選手は選手、俺は、俺」、「マネジャーというものは、選手の要求を出来るだけとりはからってやればそれでいいのさ」と、平然と言ってのけ、回りを驚かせていたそうです。この人は、本当に陽気な人で、女性も大好きな、面白い人でした。
ただ一度、リカルド選手の実弟レネ・アルレドンドが、浜田 剛 (帝拳)選手に1ラウンドKO負けでタイトルを取られた夜は、ずっと泣いていたそうです。あの夜は、レネ選手一行の会場到着が遅れ、セミに出場したA・ストッキー(米)のバンテージは、片手がガヤルド氏が巻き、もう一方は協栄ジム大竹マネジャーが,同時に巻くというあわただしさでした。
OPBFチャンピオン、カーロス・エリオット(八戸帝拳)と対戦したこの黒人選手は、本当は、
なんとデビュー戦だったとか。サウスポーでもないのにスパーリングパート−ナーとしてなぜ来たのかは、良く解りません。未だに。
話がそれてしまいましたが、こんな世界チャンピオンなら大いにチャンスアリと見られたアポロ選手でしたが、「こんなに調子がいいことは無い」
はずだったのに、試合中盤からまさかの失速。前半、3回は完璧に取り、なぜあそこで勝負を賭けなかったのか悔やまれるとあります。最低の世界チャンピオンとスタミナ不足の挑戦者。これでは世界タイトルとは名ばかりであると酷評されています。
前半、全くさえないチャンピオンを一気に攻め落とす事が出来ず、アルレドンドのノラリクラリペースに合わせてしい、9回からは、逆にバテてしまった挑戦者。スピードも無く、体が足についていかないぶざまなチャンピオンだが、リーチに勝る左ジャブの積み重ねだけで、徐々にポイントを挽回。挑戦者の顔面は腫れ上がり、最終回は、リング上をフラフラとさまよった。いや逃げ回ったと言う表現の方がピッタリとしているかも。そして、追いかける方もヨタヨタとある。
試合は、小差でアルレドンドの勝ち。沼田義明(極東)選手から奪ったタイトルの 4度目の防衛に成功しました。これで、チャンピオンの戦績は、80戦75勝(44KO)5敗と素晴しいレコードです。お粗末と言われたアルレドンドですが、この後も日本で稼ぎまくりました。
子供の頃から、大変な苦労をして育ち、世界挑戦者までになったアポロ選手。「強くなって外国へ行けて金をもらえる。こんな素晴しいことが他にあるか」と言うのが、ボクシングを始めた理由。アメリカ、メキシコ等の海外遠征で腕を磨き、20連勝中のホープ岡部選手を倒して掴んだ世界挑戦。亡くなった前会長の遺影を、トランクスに縫いこんでリングに上がりましたが、夢は実現できませんでした。
「なぜ、ボクサーになったのか」というコーナーがあります。「やはり、外国へ行けて、金が稼げる」と言う理由が一番多いようです。あとは、テレビで試合を見て憧れて。鈴木”ガッツ”石松(ヨネクラ)選手が、「戦っている時は、気持ちも引き締まって幸せを感じる」と述べているのが、うらやましい。
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2005年7月2日(土) |
ボクシングマガジン1972年9月号 |
表紙を飾るのは、世界S・ウェルター級チャンピオン輪島功一(三迫)選手。髭の無い、OPBFウェルター級チャンピオン、龍反町(野口)選手のピンナップが、いきなり挿入されています。そして、”世界を狙う顔”として、龍反町選手と岡部 進(石川)選手が、カラーページで特集されています。反町選手は、輪島選手の2度目の防衛戦の相手として有力視されていましたが、この時は挑戦が流れてしまいました。
一方、岡部選手は、先ごろ亡くなられた、石川ジム、石川会長の秘蔵っ子としてデビューから20連勝を記録、世界前哨戦として組まれたアポロ嘉雄(親和)選手との一戦で、よもやの2回KO負けを喫してしまいましたが、世界ランキングに踏み止まり、世界S・フェザー級チャンピオン、リカルド・アルレドンド(メキシコ)に挑戦しています。
この頃の岡部選手は、エディ・タウンゼント氏のコーチを受けています。練習をビデオに撮ったりしたりと、色々と研究しながら練習しています。
世界フェザー級王座を、クレメンテ・サンチェス(メキシコ)に追われたばかりの、柴田国明(ヨネクラ)選手が、試合後僅か2ヶ月でハワイでカムバック戦を行なっています。しかも相手は、世界フェザー級8位にランクされる、強豪バート・ナバラタン(比)。弱いカマセではありません。試合は、HICに5千人の観衆を集めて行なわれ、痛烈な打撃戦の末、柴田選手が文句の無い判定勝ちを収めています。この試合では、スタンレー・イトウ氏も柴田選手のセコンドを務めています。
試合後、柴田選手は、イトウ氏のアドバイスは、「大変勉強になり、来て良かった」とコメントしています。ハワイ滞在は、約1ヶ月にもなりました。
ページ中頃に、「ハワイの鬼軍曹」スタンレー・イトウ氏とあります。生まれも育ちもハワイ。(奥様は日本人)アマでボクシングを知った後、プロになろうとしたが、戦争でそのチャンスを逸してしまった。しかし、ボクシングの魅力が忘れられず、トレーナーとしてハワイ・ボクシング界にカムバック。
自宅には、絶えず10人前後の日本人修行ボクサーを同居させ、彼らから慕われ、恐れられ、人呼んで”鬼軍曹スタンレーさん”。
「日本のボクサーは、ガッツがありセンスも十分だが、技術面に問題があると思う。それも、ちょっとしアドバイスでよい方向へ持っていく事が出来るんだが・・・。日本のトレーナーもボクサーと共に考えなくてはならないねえ。マネージメントに恵まれない者が多いからだが、ボクサーだけでなく、トレーナー、マネジャー、オーナーも、こちらに勉強に来たら収穫があると思いますよ」。
これまで、フィリピン系ボクサーの活躍が大半だったHICも、7月柴田選手が、グッド・ファイトでナバラタンを降して日本人ボクサーの株が上がった。日本の修行ボクサーが、ハワイでヒーローになり、世界タイトルを獲得する事も夢ではない。日本のビラフロア(元世界S・フェザー級チャンピオン。14歳でリングに上がり、19歳で世界王者となる)の出現も不可能ではないだろう。
もっとも、ワイキキビーチで、ビキニの女の子にアタックすることばかりを期待して海を渡るグリーンボーイにとっては、成功もしんどいが・・・。最後に、ハワイ修行を望む日本のボクサーがいたら、会長の許可を取り、エディ・タウンゼント氏まで連絡してくれとの鬼軍曹スタンレー氏の伝言がある。
この月、ホノルルでの試合で、7月5日、6回戦で判定勝ちした後藤吉伸(野口)選手が、11日、柴田対ナバラタン戦の夜にも出場。結果は惜しくも3回TKO負けとなっています。しかし、これにめげず、27日、今度はロスのリングに上がり、世界フェザー級6位ダニー・ロペス(米)選手と対戦。後の世界チャンピオンは、強打に定評があり8回KO負の記録が残っています。
しかし、1ヶ月の内にハワイから、ロスへ飛んで3試合もするとは、今ではとても考えられない事ですね。
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2005年7月1日(金) |
バンテージ、韓国での世界戦 |
昨日、協栄ジム大竹マネジャーに、クリス・ジョンのバンテージの巻き方は、いきなりナックルパートへのテープから始まって面白かった事を書いたと話した所、「張正九の時なんかもっと面白かった」と言う事で、ホントかよと大笑いしてしまいました。
昭和59年8月18日、協栄ジムの渡嘉敷勝男選手が韓国、浦項でWBC世界L・フライ級王者、張正九へ挑戦した時の事です。バンテージの立会い(日本タイトルマッチでも立会いがありますが、ほとんどの場合お互いやりません)に行ったのが、大竹氏。そこで、張選手もいきなりナックルパートにテープを巻きつけ始めたと言うのです。ノークレームならラッキー位の気持ちでやっているのでしょうか。話が面白かったのはここからで、「テープはナックルに巻いてはいけない」と、テープの巻き方に普通のクレームをつけたのに、あいつら何を勘違いしたか、今度は包帯までテープと同じようにナックルに重ねない状態で巻いてしまったと言うのです。
関係者の方なら解ると思いますが、拳を握った時のナックル部分こそ一番厚く、バンテージは巻かれる訳ですが、事もあろうに世界チャンピオンが、手の甲だけを厚くしたバンテージの巻き方をしていたとは、想像しただけで面白くて笑い転げてしまいました。そんな巻き方を見て、「めんどくさいから何も言わなかった」とは、大竹氏。
それにしても、この試合は惜しい試合でした。第1ラウンドから物凄い打ち合いで、ラウンド終了間際チャンピオンの左フックで、渡嘉敷選手は生まれて初めてノックダウンを取られました。大観衆の歓声が、ラウンド終了のゴングを聞こえない状態を作り、レフェリーがラウンド終了を告げた時、一瞬ストップかと思ったほどです。その後、試合は第9ラウンド、レフェリーの突然のストップで渡嘉敷選手のTKO負けとなりますが、とんでもない暑さのせいで、張選手もスタミナを使い果たし、スットプ後その場に倒れ込んだほどでした。ダウンした訳でもないのに、いきなりのストップは残念でした。
私もこの試合を見に浦項まで行きましたが、釜山から皆でタクシーを飛ばして浦項まで、1時間半ほどかかったでしょうか。クーラーも無いタクシーは、暑かった事だけは覚えています。渡嘉敷選手一行は、浦項近くの古都慶州に宿を取りましたが、これはひどいホテルでした。張選手が泊まっているリゾートホテルとは、まさに雲低の差。しかし、街を歩くと元WBAチャンピオン、金換珍選手からタイトルを奪っている渡嘉敷選手は人気がありました。試合後も、世界奪回の意志は強かった渡嘉敷選手でしたが、惜しくも健康上の理由で引退してしまいました。
この時、セミファイナルで試合していた、ジョンジョン・パクイン(比)選手が、後年OPBFライト級チャンピオンとして、浜田 剛 (帝拳)選手の挑戦を受けに来日する事になろうとは、驚きました。
韓国での世界戦は、もう1試合見に行っています。この試合では、試合直前になって、故金平会長よりセコンドをやるようにとの支持があり、大変良い経験をさせてもらいました。その試合は、渡嘉敷選手の後輩、喜友名朝博選手が柳明佑選手の持つWBA世界L・フライ級への挑戦でした。試合は、昭和61年6月14日、韓国仁川で行なわれました。
宿舎はソウルの世宗ホテル。このホテルは日本のボクシング関係者は良く泊まるホテルで、問題ありません。試合は、ソウルから車で1時間ほどかかる仁川の大学の大きな体育館で行なわれました。しかし、調印式、計量、試合と何度も車に乗せられて移動させるのは、敵ながらあっぱれな作戦です。試合が終わって驚いたのは、計量後一緒の車でホテルまで乗って行ったのは、柳選手のトレーナーではないですか。いやにじろじろと見ているなあ〜、とは感じていましたが、これもある意味凄い。試合開始時間も、予定も何もいい加減で、いきなりやるぞと言う感じでした。
試合は、第2ラウンド、喜友名選手はしり持ちを付くダウンを喫してしまい、なかなかリズムに乗れず12ラウンド、KOで敗れました。それにしても、柳選手がその後記録に残るロングランをする事になるとは、思っても見ませんでした。良い試合でした。
この試合に備えて、喜友名選手(日本L・フライ級王者)、杉谷 満 選手(日本フェザー級王者)、丸尾 忠 選手(日本S・フライ級王者)の3選手が、大竹マネジャーと共に、ハワイキャンプを行なっています。丸尾選手の、カピオラニ公園縦断は、今でもハワイキャンプへ行く、ジムの後輩たちに語り継がれています。公園でサッカーをしている子供達に混じって目潰、近道。「昔、こんなのがいたけど、おまえやるなよ」と。近年では、ゴールがわからなくなったふりをした選手がいたそうです。色々と考えてくる物です選手も
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2005年6月30日(木) |
1969年9月号ゴング誌を見ながら振り返る(2) |
海老原博幸物語、傷だらけの栄光V、ここに自分の財産である左手を七度び骨折しながら、それに耐え再び世界の王座につくという至難の業を実現した男の記録がある。と言う出だしから始まっています。
昭和42年8月12日、ブエノスアイレスのルナ・パークスタジアム。世界フライ級チャンピオン、ホラシオ・アカバロとは、2度目の対戦です。試合前の控え室、エディ・タウンゼントトレーナーが激怒し、金平会長も目を血走らせる。
これは、バンテージの巻き方の問題で、ルール会議では、巻き方は自由となっていたはずが、急にアルゼンチンルール、「拳の部分を折り重ねて厚く巻いてはいけない」を主張され、思うようにバンテージが巻けない事態となってしまったのでした。
昨年対戦した時も、このバンテージの巻き方ルールのお陰で、骨折しているだけに「また、やっちゃうんではないか」と、海老原選手はコメントしています。ナックルパートの部分は、折り返して膨らみを持たせ、拳を保護するのが普通です。
具志堅用高選手の防衛戦で、相手マネジャーが、具志堅選手がバンテ−ジを巻くのに難癖をつけ、思うように巻かせないのを見て取った金平会長は、すぐに相手側控え室へと赴き、相手選手にも難癖を付け、同じようにすぐにやり返した事がありましたが、このような経験をさせられて来たからこそでしょう。
バンテ−ジの巻き方は色々ありますが、最近ホントカよと思ったのは、佐藤 修 選手と対戦した、世界フェザー級チャンピオン、クリス・ジョン(インドネシア)選手のバンテージの巻き方で、いきなりナックルパートへテープを巻きつけ始めました。しっかり、巻き終わった所で「これだめよ」と、いってやりましたが、知らないのか、いや、WBA世界タイトルマッチを経験している以上は、巻き方のルール位は知っているはずですから、黙っていれば何でもやるスタイルでやったのでしょう。しかし、ホールの試合でも知ってか知らずか、ナックルパートにたっぷりテープを巻いている場面を、何度か見た事があります。知ってか知らずかわかりませんが。
ルナ・パークに集まった観衆は、2万5千人。そして、いつ暴徒と化すかわからぬ群集の為に、レクト−レプロモーターは、装甲車2台、白バイ2台、パトカー2台、騎馬巡査20人、自動小銃、催涙弾、棍棒を持った警官数千人という厳戒体制をしいたとあります。現代のガードマンでは、全く役に立ちそうもありません。
海老原選手の強打を良く知っているアカバロ選手は、防御専門スタイルを取り、海老原選手が打つ、そして第6ラウンド、予感どうり左の拳は骨折したのでした。あきらめようとした海老原選手を、エディ・タウンゼントトレーナーが「がまんして、がんばれ」と励まし、後年「今でも思い出すと、汗が出る」と言う激痛の中、試合は進みます。
「当たんない方がいい」と思いながら本能的に出される左パンチ。両者、血まみれの打撃戦は、僅か1ポイント差、2−1の判定でアカバロ選手の勝ちになっています。
この試合を最後に一時は「引退」を考えた海老原選手でしたが、ここから見事に、世界王者へと復活するのです。
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2005年6月28日(火) |
1969年9月号ゴング誌を見ながら振り返る |
今月20日。元プロモーター瓦井孝房氏の訃報が、ワールドボクシングウェーブ・ニュースで流れていました。「名勝負をつくる陰の演出家」と題して、この号では瓦井氏が取り上げられています。「当年43歳、日本でたった一人のマッチ・メーカーだ」とページは始まります。
自宅近くに住んでいた、フィリピン人元ボクサー、ジョー・イーグル氏と知り合った事からボクシングの世界に足を踏み入れ、大物プロモーター、ロッペ・サリエル氏と知り合いさらにボクシングにのめりこんで行く。
白井義男対レオ・エスピノサ(比)の」世界タイトルマッチを、後楽園球場でマッチメークしたのを皮切りに、世界フェザー級チャンピオン、サンデー・サドラー(米)対金子繁治を実現させ、フラッシュ・エロルデ、小林 弘 選手の世界戦も手掛ける。藤 猛(リキ)選手の世界挑戦に際しても、時のチャンピオン、サンドロ・ロポポロ(伊)のマネジャー、クラウス氏を説得させて日本に呼ぶ事に成功。藤選手が、世界チャンピオンになれたのも、瓦井氏がいたからこそと、書かれている。
フィリピンの英雄、故フラッシュ・エロルデ氏とは、義兄弟の間柄ともある。東京平河町に、「ジャパン ボクシング エンタープライズ」社というオフィスを持ち、ホノルルにも事務所を開設、ロス、メキシコまで手を広げている。ハワイのサム・一ノ瀬氏と手を組み、日本の6,8回戦を送り込み、成長させる遠大な計画も順調に行っていると。しかしこれは、「儲けを離れ、ホレ込んだ選手の将来を期待しての物」とある。
元世界フライ級チャンピオン花形 進 (河合)選手が、時の世界チャンピオン、アラクラン・トーレス(メキシコ)選手とのノンタイトル戦に勝ち、世界タイトル挑戦のチャンスを掴む事が出来たのも、「瓦井さんのおかげ」(河合会長)と出ています。そして、西城正三(協栄)選手の世界タイトル獲得第1戦、対フラッシュ・べサンテ(比)
戦のマッチメークは、倒し倒されの激闘が、年間最高試合に輝いています。
この文章を書かせて頂いている、私ごときは、大先輩の瓦井氏は、全く雲の上の人であるのですが、東京に於いてWBCコンベンションが開催され、イトウ先生も出席する事になり来日され、スケジュールをこなされていましたが、その開催期間中のある夜、イトウ先生、殿堂入りの名プロモーターでオスカー・デラホーヤ選手のプロモーション会社、ゴールデンプロモーションのアドバイザーをも務める、ドン&ロレイン・チャ−ジン夫妻と瓦井氏を交えての食事の席に、呼んでいただく幸運に恵まれました。
既に亡くなられている、ハワイのプロモーター、サム・一ノ瀬氏と共に、数多くのビッグ・ビジネスを手掛けて来た同士、そしてイトウ先生は、サム・一ノ瀬氏の片腕として腕を振るって来たという事で、昔話に花が咲いていました。この時、瓦井氏が、「ドンは、日本人以上に日本人的な男」、「こんなサムライは、いない」と語っていたのが、強く印象に残っています。イトウ先生にとっても、あの夜が瓦井氏との最後の別れになってしまいました。ご冥福を、お祈り申し上げます。
世界王者・小林 弘 選手は、エクアドルチャンピオン、ラモス選手に2RKO勝ち。相手は、全くやる気無しと書かれています。しかし、あの当時、わざわざエクアドルから呼んで来て、やる気無ではたまらないですね。タイやフィリピンとは、違うからたまりませんね。
また、世界フライ級チャンピオン海老原博幸選手も、ノンタイトル戦を行なっています。相手は、メキシコのホセ・ガルシア選手。これも2RあっけなくKO勝利。弱的 ロペスと出ています。この試合は、岡山市で行なわれています。もちろんTV中継アリですが、海老原選手は、「練習にもならなかった」と、ストレートなコメントを残しています。
西城正三選手が歌手の仲間入り。曲は、「ロサンゼルスの夜」。「素質は充分あります」と音楽関係者のコメント。また、「ボクシングルールに無い、引き分け試合」の珍試合と言う見出しがあります。今で言うとなんでもない、両者負傷によるドローですが、この当時はそのようなルールは無く、両者負傷で試合続行不可能となり、森田 健 レフェリーが日本プロボクシング史上初めて出した「両者負傷引き分け」の裁定が、珍記録として紹介されています。
森田レフェリーにとっては、ルールに無い事、初めて下す裁定で、大変な勇気がいる事だったとは思いますが、”素晴しい裁定だと思います。現代の若手レフェリーにも、この位の気概を持ってもらいたい物です。”これは、願望ですが・・・・・・”。タイミング良くこの号には、「レフェリーの信念」と題して、中村 勇 氏が、 寄稿されております。 なかなかタイムリーな、記事を載せているものです。
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2005年6月27日(月) |
1970年9月号ゴング誌を見ながら振り返る(2) |
イトウ先生の教え子同士、日本バンタム級チャンピオン内山真太郎(船橋)対日本同級2位森岡栄治(高橋)の日本バンタム級タイトルマッチが、7月15日後楽園ホールで行なわれています。
この試合はイトウ先生が、 「本当にまじめな男」と評するチャンピオン内山選手が、手数で勝り僅差の判定勝利を収め、2度目のタイトル防衛を果たしています。森岡選手は、引退後は森岡ジム会長、西日本プロボクシング協会会長も務め、ボクシング界の為に尽力されてきましたが、惜しくも若くして鬼籍に入られてしまいました。イトウ先生も、ハワイからお悔やみの電話を入れたそうです。
「試合直前2度目の引退!」、ハンマーパンチ藤 猛選手の引退も報じられています。これは、ウェルター級世界ランカー、世界4位エディ・パーキンス(米国)との試合約1ヶ月前になって、突然発表されたものです。理由は、色々と書かれていますが、一番の理由としてファイトマネー問題が出ています。
プロモーター極東プロモーションと7試合を契約し、ファイトマネーが1試合「全て1万2千ドル」とあります。当時のレートで約540万円です。藤選手は、ハンマーパンチで確かに人気がありましたが、今から見るとやっぱり凄い額。しかし、世界ランカーに勝って、タイトル挑戦し、チャンピオンになってもこの契約では、やっていられないと引退宣言してしまったとか。
この当時、ボクシング番組のTV放映が、縮小、撤退が相次いでいる中、TBSが放映予定でした。TBS松岡ディレクターは、「藤のわがままも許せないが、そうさせた人達にも責任の一端はあるんじゃないか」とコメントしています。
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2005年6月25日(土) |
1970年9月号ゴング誌を見ながら振り返る |
ボクシングページの見出しは、「危うし!西城綱渡りの世界防衛」と言うタイトルから始まっています。超人気者王者(本当に人気があった、西城正三(協栄)選手の世界フェザー級タイトル4度目の防衛戦は、アメリカのフランキー・クロフォード選手を挑戦者として迎え、宮城県仙台市の宮城県スポーツセンターで行なわれました。
定員6,700人の会場に7,500人の観衆を集めて行なわれたこの試合、第1ラウンド、いきなり西城選手のダウンシーンから始まりました。セコンドとしてコーナーに付いていたイトウ先生は、動きが硬い西城選手に、4ラウンド目まで、「リラックス、リラックス」とアドバイス。ラスト15ラウンドをがんばれば、「悪くても引きわけ」と試合を見ていました。苦戦の原因は、ロスで世界タイトルを取ったときと比べると、パンチに自身が付いてきて、スタイルがファイターになって来ている為と見ています。
ウエートに付いても、体がかなり大きくなって来ていて、減量がきつくなり、足を使うのが大変になってきているようで、それでも良かったのは、この試合に備えてのハワイキャンプで約5`軽くなって日本へ帰っていった事だと、イトウ先生は言っています。
この時イトウ先生は、寺内大吉さん(キックボクシングの解説者として強い印象があります)、矢尾板貞雄さん(元OPBFフライ級王者・伊藤先生の教え子)と6ページに渡る対談をしています。その中でイトウ先生は、「日本はトレーナー教育が必要」と語っています。
連載2回目の西城正三物語では、昔のプログラムが掲載されていて、そこには、西城選手のお兄さん西城正男選手と金平正紀選手(協栄ジム創始者)が共に野口ジム所属として、同じリングに立っている記録が出ています。
西城選手は、トレーナーとなったお兄さんと一緒に、プロボクシングの世界に夢を賭け様としますが、この当時、選手とトレーナー、コンビでボクシングジムに入門する、また、させると言う概念が無く、方々のジムで断られ、仕方なく駄目もとの最後の砦として、西城兄弟が相談したのが、野口ジムの先輩である、金平正紀氏であったと結ばれています。
金平氏は、この申し出を、「好きな時にジムを使っていいよ」と、あっさりと受け入れました。金平正紀氏のこのような所が、西城正三選手が世界王者となる、道しるべとなり、多くの世界王者を育成する事になる源であった事は、特筆すべき事であると思います。
そして、寺内大吉氏が、「スタンレー・イトウとの出会いが、遠回りする事無く、世界タイトルを掴んだ要因である」と書かれています。現在ナカハマジム会長である、西城氏は、今でもイトウ先生を尊敬し、大変大事にお付き合いをされています。
大場政男選手を連れて、世界S・フェザー級王者・小林 弘 選手(SB中村)のキャンプに参加している、帝拳ジム本田会長も、さすがに若いです。
また、今ではロスに在住している2人、清水 精 氏(ヨネクラ・元日本S・バンタム級王者)と、林 一道氏(金子・元日本ライト級1位)も試合をしています。清水選手は、保持する日本タイトル2度目の防衛戦を2ラウンドKO勝ちで防衛。最近もハワイをよく訪れ、ビジネスの話で忙しいようです。
現在では、ボクシングライターとしても有名な 林 選手は、世界タイトルにも挑戦した高山将孝選手(P・堀口)の日本ライト級タイトルへの挑戦でしたが、惜しくも判定で敗れています。現在でも、イトウ先生とは大変親しくされていています。
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