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「らいふこみゅーん誌」は介護に悩む方やその家族。そして、それを支える人達の為のコミュニケーション誌です。[ 発行日:季刊誌(年4 回1日発行/1,4,7,10月)|発行部数 21,000部] |
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テレビで活躍しながら、地元・横浜の中華街で輸入雑貨店をはじめた山口美江さん。約10年前には本業をお店の経営に移行し、お父様との平穏な二人暮らしを送っていたそうです。しかし、やがてお父様はアルツハイマー病を患うことに。30代・40代の独身が増え、一人で親を介護するケースも増加していきそうな今後。山口さんのケースから、そのヒントを学んでみてはいかがだろうか。 |
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横浜・元町が地元の山口さん。お父様は貿易商をされていたそうですね。 |
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山口: |
祖父の代から営んでおりました。父の若い頃は特に貿易が栄えていた、良い時代。毎日横浜港に外国船が何隻も入ってきて、神戸、名古屋、佐世保にも支店を持って、とても忙しくしていましたね。しかしだんだんと船のビジネスというのは衰退していきましたので、引退する前には社員もいなくて父一人。それでも、68歳まで頑張っていました。
父はドイツ人の祖父を持つクオーター。私は一人っ子で16歳の時に母を亡くしているので、30年間ずっと父と二人暮らしでした。温厚で、ジョークが上手で、若い人にも「マックス〜!」なんて愛称で慕われて。私が言うのも何ですが、とっても素敵な父でした。 |
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そんなお父様に、変化が現れたのはいつ頃だったのですか? |
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山口: |
今から約4年前。仕事を引退して数年後です。まず、家に引きこもるようになった。仕事を辞めたし、根はそんなに社交的なタイプではなかったけど、それにしてもずっと閉じこもっている。すると、次第に物忘れが始まって。それから神業みたいだった暗算もできないようで、気がつくと計算機を使っていたりね。でもその頃は、「もう72歳だし、こんなものなのかしら」なんて思う程度だったのですが。 |
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それが病気だとわかったのはなぜですか? |
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山口: |
ある朝物音がするので起きてみると、父がスーツを着て庭を掃いていたんです。顔面蒼白の呂律もまわっていない状態で、「今日、名古屋に船が着くから行かなくちゃ」って言うんですよ。腰が抜けそうになりましたね。慌てて伯父に電話をしたら、とにかく朝いちばんに病院に連れていきなさい、と。CTなど、あらゆる検査をした結果、アルツハイマーの診断を受けました。
その時先生に、「今は症状が軽いですが、今にお父さんではなくなります。どんどん変わっていきますから、覚悟はできていますか」というようなことを言われましたが、とても信じられなかった。何より、何十年も二人で生活してきた月日があるわけですから、「私は大丈夫」と思ったんです。でもその後、先生が言ったとおりになっていきましたね。 |
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例えば、どのような症状が現れたのですか? |
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山口: |
中華街を一緒に歩いていて、ある店でオイスターソースを買うとするでしょ。で、少し歩くとまた「オイスターソースを買おう」と言い出すので、結局6本くらい買うことになってしまうんですね。それから、お客さんなんて来ていないのに、「客が来ているからサンドイッチを作ってくれ」と言う。「来てないわよ」と言えば、声を荒げて怒りますが、作ってテーブルに置くと安心するみたいで。私は話を合わせるしかないんです。「ああ、これは困難な病気だな」と痛感しましたね。 |
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国からの認定は受けていらっしゃったのですか? |
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山口: |
診断後しばらくは、受けていませんでした。ただ、2年ほど前、お店が入っているビルの建て直しでまるっきり半年休めることになった時、それを狙ったように急激に症状が進行したんです。まず幻覚、そして徘徊が始まりました。でも、アルツハイマー以外、健康体でしたので、止めようとしてもムリなんです。理性が働かなくなっていて、自分の意志を通そうとする人の力って、想像以上に凄いんですよ。ある時、何かを静止しようとした時に私は腕をぶつけて骨にヒビが入ってしまい、「これはマズい」と思って、いよいよ国に申請することにしました。 |
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ずいぶんレベルが進んでいたのでは? |
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山口: |
それが、最初の申請時は、レベル1だったんです。健康なうえに、役所の方たちが来ると父はシャキッとして。でも、さらにそこから一ヶ月の進行が凄まじかった。いろんな概念が、ひとつずつスポーンと、まるでダルマ落としのように抜けていく。今まで決してそんなことしなかった父が、人を疑うようになった。そんな時は一瞬、父を愛せない自分がいましたね。それほど混乱していました。そして再度国に申請し直したら、たった一ヶ月でレベル4になっていたんです。
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相当辛い一ヶ月だったでしょうね。 |
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山口: |
悩んでいる余裕すらありませんでしたけどね。毎日無事に過ごすだけで精一杯。それでも何とか自宅で看ようと思っていましたが、ある時徘徊がついに警察沙汰になってしまって。もう私には父の身の安全を守る自信がないと、限界を感じました。そこで区のケアマネジャーさんに相談したところ、老人性痴呆疾患の専門医療病棟がある病院を紹介してくださり、入院することにしたんです。 |
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人の手を借りてみて、ど
うでしたか? |
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山口: |
プロがいる場所は、全然違いますね。手際がいいし、扱いも上手。例えば、幻覚をみた父が「女の子が俺につきまとってくる」なんて言うでしょう。私は固まってしまうんですけど、スタッフさんは「そう、じゃあ後でどいてって言っておきますね」なんて、明るくさらりと。私が一人で看ていた時よりも、父は心地よかったと思います。入院当初はお見舞いに行って帰ろうとすると「帰らないで」なんて止められて涙ものだったのが、どんどん病院に馴染んで 向こう側の人になっていった。寂しさも少しありましたけど、とにかくホッとしましたね。 |
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プロにお任せすることで、
美江さんに多少の平穏が戻ってきたのですね。 |
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山口: |
そうですね。病状が進行した半年、仕事が休みで他に何もなかった私ですら手一杯になってしまったのですから、これでお仕事や主婦業や子育てなんかが重なったら……無理ですよね。プロにお任せするのがいちばんだと思います。それで、家族が会いに行ってあげれば、それがケアになりますから。
入院して約一年後、父は腸捻転で亡くなりました。ずっと親子二人で暮らしてきたので、寂しさはもちろんあります。でも、父にはたくさん愛情をもらいました。「世の中全員がお前の敵でも、俺は味方だから大丈夫」なんて。そんな父が、まさにプロのスタッフに囲まれて、心穏やかにとてもいい表情で最期を迎えられたことは、本当によかったと、今思います。 |
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山口美江 1960年生まれ。ドイツ人のクオーターである父と日本人の母を持つ。企業でのマーケティングや社長秘書を経験した後、テレビ朝日のキャスターとしてタレントデビュー。CMやドラマ、情報・バラエティ番組などで活躍。現在は横浜中華街にある輸入雑貨店「グリーンハウス」を経営するかたわら、父親の介護で得た経験の講演なども行う。1月には著書『女ひとりで親を看取る』(ブックマン社)を出版。 |
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