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マスコミの戦争責任を考える(4)

【PJ 2006年08月18日】− (3)からのつづき。

(4)「新聞統合」とは何を意味したのか
一つ一つの言論への弾圧が進む一方で、1938年から新聞業界全体への弾圧も同時進行してきました。それが、今となってマスコミが大声で批判する政府による「新聞統合」と呼ばれる業界再編策です。さて、ここで立ち止まってこの「新聞統合」が持つ意味について考えてみましょう。マスコミ側の言い分はこうです。多種多様な新聞社が統合されると言論の多様性が失われ、かつ、弱者が窮地に追い込まれる状況になる。詰まるところ、民主主義の原理に反する。確かに正論です。

 ただ、理念と行為は往々にして乖離します。誰もがハッピーになれるウィン・ウィンの戦略という言葉が現代でもてはやされていますが、これは経済成長論を前提とします。戦時中など、経済全体がシュリンクしている状況では、競争は一層激化し、誰かがうまくいけば、誰かがばばを引くのが世の常です。「勝ち組」と「負け組」が峻別されるのもこのような時期です。この考え方から戦時中の「新聞統合」という業界再編を見ていくことにしましょう。

「新聞の公共性」というムチ
 1930年代半ば、内閣情報部や陸軍はマスコミが乱立すると、その内容が通俗的に傾いてしまうことを危惧(きぐ)していました。とはいえ、その頃の日本でも一応、議会制民主主義が存在していました。マスコミの乱立状況を法で縛ろうとすれば、議会での紛糾は避けられません。結局、軍部はこの状況を法で縛ることまではしませんでした。言論統制を強める政府側でも、内務省、外務省、陸軍、海軍、内閣情報部などその内部での対立・抗争があることは前にお話ししました。軍部に代わってマスコミの統制に乗り出したのが、内務省でした。しかし、内務省が新聞社を統廃合させる権限までは当然、持ち得ていませんでした。そこで利用したのが「行政指導」という非公式な手法です。

 ここでも政府は、パブリックとプライベートという対立する2つの概念をうまく利用した「アメとムチ」の策術を用いました。表向きには「新聞の公共性・公益性」というムチを用意し、裏では「私益の追求」というアメを手配しました。この時代の公共性といえば、国家への忠誠、国益第一主義といったものです。欧米では17世紀以降の市民革命を経て、市民社会の中で公共性という概念が醸成されてきました。一方、日本では明治期から現代まで、お上としての「公」と家族・身内を含む「私」の間にある「公共」というものについて、人々の間であまり意識されることはなかった、あるいは、お上が与えてくれるものという感覚があったのではないかと私は考えています。

 1938年から1941年にかけて「新聞統合」が行われた当時の公共性とは、幕藩体制時の殿様と家来の関係の中で生まれた、お上への忠誠、あるいは藩全体への奉仕を指していたのでしょう。公益という概念には、国策のために犠牲となることもためらわない気分をも包含していたのではないでしょうか。この感覚にマスコミは乗りました。この背景には、言論へのあきらめと、「もうけ」への希望が混じり合った感覚の中で、お上(政府)の顔色を窺い、乗ずることのそろばんをはじき、市民を納得させる、あるいは欺くことを考える、といった関数を考えながらの方程式がありました。そこから導いた解が「新聞報国」「新聞新体制」というテーゼだったのです。

「プライベートな利益」というアメ
 「新聞報国」「新聞新体制」というマスコミが示した「公共性」の標語が「ムチ」の部分の結果ならば、「アメ」の部分の結果はどのようなものだったのでしょうか。ひとことで表すなら、「新聞統合」という名によって、マスコミ自らが、「マスコミ」という排他的な特権階級を生み出したことにほかなりません。「プライベートな利益の追求」という補助線を引きながら考えていきましょう。新聞統合は、「悪徳不良紙の整理」(1938年−1940年)、「弱小紙整理」(1940年−1941年)、「一県一紙への統合」(1941年以降)の3段階を踏んで行われました。1938年当時739紙あった新聞がこの短い3年間で、108紙にまで減少し、敗戦時までには57紙に統合されました。

 この3年間は新聞社にとってまさしく生き残り競争であったことは間違いありません。そこで利用されたのが資本の論理です。大きい者が小さい者を飲み込む。現代ではマスコミが忌み嫌うこの論理がまかり通り、「悪徳不良紙」や「弱小紙」が消滅していきました。ただし、「悪徳不良」や「弱小」といったものが、言葉通りであったかは非常に怪しいものでした。しかし、この論理にも限界がありました。そこで、内閣情報局の指導のもと誕生したのが社団法人日本新聞連盟(1941年)です。新聞の生産・流通を合理化させるのが趣旨のこの団体は、各新聞社への用紙配給率を決定し、専売制をとっていた新聞販売に統合一元化、共同販売制の導入を促しました。

 これで弱小紙整理と一県一紙体制を築いていったのです。これが現在の、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞の「全国紙」、北海道新聞や中日新聞、西日本新聞などの「ブロック紙」、そして「地方紙」といった、新聞業界での3層構造の原型になっています。

「新聞統合」に乗じて記者クラブ制度を変質させ、肥大化したマスコミ像
 さらに、記者クラブを整理統合し、個人単位のクラブ加入を認めることを廃止しました。記者クラブの加入資格を基本的に新聞社・通信社とし、加入新聞社数の制限も加えました。この悪しき風習は現代の記者クラブ制度にもそのまま引き継がれています。

 この結果、言論の多様性が失われたのはいうまでもありません。これを期に各新聞に掲載される情報の画一化が急速に進みました。つまり、権力側の情報操作をマスコミ全体でよしとしてしまったのです。現在、どの新聞を眺めても横並びの紙面なのはこのためです。逆に、情報を一手に引き受けることを約束された生き残り組のマスコミは、「新聞統合」という半ば自主的な業界の構造改革によって効率的に販売部数を拡大し、急激に肥大化していきました。

 例えば、朝日新聞は1931年の満州事変勃発時では約150万部の規模でしたが、日中戦争が開始された1937年には250万部弱、太平洋戦争突入時の1941年には当時業界ナンバーワンの座にあった毎日新聞と肩を並べる350万部弱、翌42年には372万部の業界一位の座にのし上がりました。2006年7月14日付朝日新聞の「見失った新聞の使命」という特集記事で、この理由を「人々が情報を求める非常時に、新聞は部数を増やす」と解説しましたが、これは主な要因ではありません。その実は、プライベートな利益を追求する過程で利用した「新聞統合」での結果だったのです。

 マスコミは「新聞統合」という道具によって、私益を拡大させることが可能になり、そして、肥大化しました。マスコミはよく「販売部数」が市民からの信頼のバロメーターだと主張しますが、どうやら、今あるマスコミの販売部数の原因は市民からの信頼だけではなさそうです。しかも、販売部数を伸ばす過程で記者クラブ制度を変容させ、自らの既得権益構造を作り出したことは大きな問題です。マスコミ自らが言論の多様性を失わせたといっても過言ではないからです。【つづく】

■関連情報
第1回
第2回
第3回

引用・参考文献
・有山輝雄著『「民衆」の時代から「大衆」の時代へ−明治末期から大正期のメディア』(有山輝雄・竹山昭子編『メディア史を学ぶ人のために』第4章)、世界思想社、2004年
・飯田泰三著『批判精神の航跡−近代日本精神史の一稜線』筑摩書房、1997年
・有山輝雄著『総動員体制とメディア』(有山輝雄・竹山昭子編『メディア史を学ぶ人のために』第9章)、世界思想社、2004年
・内川芳美著『マス・メディア法政策史研究』有斐閣、1989年
・佐藤卓己著『現代メディア史』岩波書店、1998年
・佐藤卓己著『言論統制−情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』中公新書、2004年
・川上和久著『情報操作のトリック−その歴史と方法』講談社現代新書、1994年
・佐藤卓己著『メディア社会−現代を読み解く視点』岩波新書、2006年
・田村紀雄・林利隆編『新版ジャーナリズムを学ぶ人のために』世界思想社、1999年
・小田光康著『「スポーツジャーナリスト」という仕事』出版文化社、2005年
・美作太郎・藤田親昌・渡辺潔著『言論の敗北−横浜事件の真実』三一新書、1959年
※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。

パブリック・ジャーナリスト 小田 光康【 東京都 】
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