2005年06月06日
再び脱線(^^)/ 治田「岡田」家について
再び、楠本郷「岡田」家を離れ、皆さんの関心の高い、ジャスコの岡田家の祖にあたります治田「岡田」家の話題にです。員弁郡の史書を何冊かめくってみたのですが、けっこう取り上げられています。昔から経営の方面に力を発揮した名家のようですね。
まずは、昭和55年9月に発行された「員弁史談」(近藤實著)から。近藤先生は、藤原中学校の校長を務められた方で、この本を書かれた当時は藤原町の文化財調査委員をされていたそうです。
●岡田家
岡田家は清和源氏源満政の支系で、先祖重政尾張知多郡岡田村に住し、岡田姓を称した。その子孫尾張星崎城主直方の次男仁右衛門正義に至って美濃太田に移った。ついで、慶長六年(1601)治田郷が天領となり美濃笠松の郡代岡田将監の支配下に入った時、治田鉱山の山方に召され治田新町に入居し、新町岡田家の祖となった。以来代々郷役や銅山の支配人となって、苗字帯刀免許の名門である。四代才兵衛以来治田鉱山の衰微に随い産業開発や土地の開発に功労が多い。四代才兵衛政秋の支系に中山の庄屋になった兵次政基(寛政七没)系、垣内に分れた同系共に栄えた。
現在岡田家新町十軒、中山四軒、垣内なしと。
まずは、昭和55年9月に発行された「員弁史談」(近藤實著)から。近藤先生は、藤原中学校の校長を務められた方で、この本を書かれた当時は藤原町の文化財調査委員をされていたそうです。
●岡田家
岡田家は清和源氏源満政の支系で、先祖重政尾張知多郡岡田村に住し、岡田姓を称した。その子孫尾張星崎城主直方の次男仁右衛門正義に至って美濃太田に移った。ついで、慶長六年(1601)治田郷が天領となり美濃笠松の郡代岡田将監の支配下に入った時、治田鉱山の山方に召され治田新町に入居し、新町岡田家の祖となった。以来代々郷役や銅山の支配人となって、苗字帯刀免許の名門である。四代才兵衛以来治田鉱山の衰微に随い産業開発や土地の開発に功労が多い。四代才兵衛政秋の支系に中山の庄屋になった兵次政基(寛政七没)系、垣内に分れた同系共に栄えた。
現在岡田家新町十軒、中山四軒、垣内なしと。
◎ 岡田家の文献上の人々
岡田将監善長(慶長、元和頃)、岡田才兵衛政秋(延宝三〜延享二)、岡田正蕃(宝永元〜寛政元)、岡田新兵衛(宝暦二〜)、岡田正基(宝永六〜寛政七)、岡田正幸(寛延三〜文政三)、岡田庄蔵義弘(宝暦三〜天保元)、岡田八郎兵衛正員(天明八〜天保十二)、岡田正応(文化三〜明治五)等名士を多く世に出している。
近世の人岡田静堂(文政十三〜大正六)は名は正堅、通称六蔵、郷土史研究の手引きとして必見の「員弁雑志」の著者として名高い。
岡田松之助(安政六〜昭和二)春耕と号す。郷土史研究の者必読書「員弁古事夜話」の著者。
次回は「治田村誌」(昭和二十八年八月発行・近藤杢編著)から話題を拾ってみます。
岡田将監善長(慶長、元和頃)、岡田才兵衛政秋(延宝三〜延享二)、岡田正蕃(宝永元〜寛政元)、岡田新兵衛(宝暦二〜)、岡田正基(宝永六〜寛政七)、岡田正幸(寛延三〜文政三)、岡田庄蔵義弘(宝暦三〜天保元)、岡田八郎兵衛正員(天明八〜天保十二)、岡田正応(文化三〜明治五)等名士を多く世に出している。
近世の人岡田静堂(文政十三〜大正六)は名は正堅、通称六蔵、郷土史研究の手引きとして必見の「員弁雑志」の著者として名高い。
岡田松之助(安政六〜昭和二)春耕と号す。郷土史研究の者必読書「員弁古事夜話」の著者。
次回は「治田村誌」(昭和二十八年八月発行・近藤杢編著)から話題を拾ってみます。