2005年06月08日
「オカダ」はすごいことになっている(^O^)/
何かオーバーなタイトルをつけてしまいましたが、(治田)岡田家の事績を調べれば調べるほど「あ〜!昔から商才にも長けて、文化人も輩出し、しかも篤志家で・・・何かすごい家だったんだ。今のジャスコの原点はこんなところにあったんだ」と、改めて感心してしまいました。
(治田)岡田家の話題も最後になりますが、治田村誌に「治田の旧家」という項があります。そちらに岡田家が取り上げられていますので紹介します。少々長くなりますので追記に書きますが、興味のある方はご覧ください。
(治田)岡田家の話題も最後になりますが、治田村誌に「治田の旧家」という項があります。そちらに岡田家が取り上げられていますので紹介します。少々長くなりますので追記に書きますが、興味のある方はご覧ください。
○岡田家
当家は江戸初め慶長年間美濃の太田から移住し、子孫代々里正(りせい。村長・庄屋の意)として村の開発に貢献した名門である。以下に新町岡田家に現存の「伝来重宝記」を掲げる。
※送りは、読みやすいように私(hase)がつけました。間違いがありましたら申し訳ありません(T_T)
岡田家の義は、先祖仁右衛門が笠松御郡代岡田将監様の御在勤中、銀銅山山方手附に御取立て相成り、公儀より苗字帯刀御免相成り、それより四代目才兵衛まで代々相勤め来り候(ソウロウ)。(但し笠松堤方同様の御取扱い、地方は相勤め申さず候。)享保十一年加納遠江守様御領分に相成り候に付き、五代目幾右衛門江戸表長田馬場御上屋敷へ取出され、御徒目付席にて御奉公仰せ付けられ、帰国の節、郷役並に従前のとおり、銀銅山支配仰せ付けられ、山方と唱え申し候。九代目六蔵まで代々相勤め、苗字帯刀仕り来り候。三代目才兵衛までは鉱山の事務に尽力せり。
四代目才兵衛(政秋)に至り銀銅山漸く衰微の徴あるを察し、専ら農事に力を尽し、新町に新田畑を開発し、茶樹を植付け、製茶の業を起し、これを越前敦賀・出羽秋田等へ運輸し、大いに一村の公益を起し、併せて我家を富ます。真に当家の中興なり。
五代目幾右衛門読書を好み、奥田蓮亭(加納候儒臣)の門に入り経学を修し(古義堂の註に拠る。以後代々学風を継ぐ)又農事に勉励し、傍ら俳諧をよくす。(俳諧も亦蓮亭の教えを受け南渓と号す)
六代目幾右衛門農事に委しく、又武芸を好み濃州大垣藩士正木団之進(千委流)の門に入り、撃剣を修行す。性風流俳諧を好み、美濃風宗匠以哉坊の門に遊ぶ。也言と号す。七代目新兵衛農事に委しく、本村田畑山林の経界を正し、高帳を改正す。又俳諧を好み、以哉坊及び白寿坊の門に遊ぶ。
八代目六郎兵衛農事に勉励し、間歩(マブ)掘りを致し、村中へ用水を通じ、従来の畑方藪等を良田に変換す。一村の公益少なからず。又天保七申年諸国凶作飢民少なからず。これを憂へ治田郷の有志者と計り、貧民を救助す。その功に依て御領主加納候より御紋付御羽織(但し黒羽二重)を賜ひこれを賞せらる。性風流にして俳諧を好み、爻左坊の門に遊ぶ。桃水又は也柳と号す。
当家は江戸初め慶長年間美濃の太田から移住し、子孫代々里正(りせい。村長・庄屋の意)として村の開発に貢献した名門である。以下に新町岡田家に現存の「伝来重宝記」を掲げる。
※送りは、読みやすいように私(hase)がつけました。間違いがありましたら申し訳ありません(T_T)
岡田家の義は、先祖仁右衛門が笠松御郡代岡田将監様の御在勤中、銀銅山山方手附に御取立て相成り、公儀より苗字帯刀御免相成り、それより四代目才兵衛まで代々相勤め来り候(ソウロウ)。(但し笠松堤方同様の御取扱い、地方は相勤め申さず候。)享保十一年加納遠江守様御領分に相成り候に付き、五代目幾右衛門江戸表長田馬場御上屋敷へ取出され、御徒目付席にて御奉公仰せ付けられ、帰国の節、郷役並に従前のとおり、銀銅山支配仰せ付けられ、山方と唱え申し候。九代目六蔵まで代々相勤め、苗字帯刀仕り来り候。三代目才兵衛までは鉱山の事務に尽力せり。
四代目才兵衛(政秋)に至り銀銅山漸く衰微の徴あるを察し、専ら農事に力を尽し、新町に新田畑を開発し、茶樹を植付け、製茶の業を起し、これを越前敦賀・出羽秋田等へ運輸し、大いに一村の公益を起し、併せて我家を富ます。真に当家の中興なり。
五代目幾右衛門読書を好み、奥田蓮亭(加納候儒臣)の門に入り経学を修し(古義堂の註に拠る。以後代々学風を継ぐ)又農事に勉励し、傍ら俳諧をよくす。(俳諧も亦蓮亭の教えを受け南渓と号す)
六代目幾右衛門農事に委しく、又武芸を好み濃州大垣藩士正木団之進(千委流)の門に入り、撃剣を修行す。性風流俳諧を好み、美濃風宗匠以哉坊の門に遊ぶ。也言と号す。七代目新兵衛農事に委しく、本村田畑山林の経界を正し、高帳を改正す。又俳諧を好み、以哉坊及び白寿坊の門に遊ぶ。
八代目六郎兵衛農事に勉励し、間歩(マブ)掘りを致し、村中へ用水を通じ、従来の畑方藪等を良田に変換す。一村の公益少なからず。又天保七申年諸国凶作飢民少なからず。これを憂へ治田郷の有志者と計り、貧民を救助す。その功に依て御領主加納候より御紋付御羽織(但し黒羽二重)を賜ひこれを賞せらる。性風流にして俳諧を好み、爻左坊の門に遊ぶ。桃水又は也柳と号す。