風呂あがり日記
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私は、日記が続かない。このホームページも始めてはすぐ止めてしまったいろいろな日記が散乱しています。そこで、風呂あがりに日記をつけるのはどうだろうか? お風呂で考えたことを、あがってから、日記につける、わりによいのではないだろうか。私にとって、お風呂の時間は至福の時、であると同時に、普段ぼーっとしている頭が、少しは冴え、あれこれものを考えたりする時間なのです。蓄膿症と関係があるかも知れません。いつも詰まっている、目と目の間のあたりが、お風呂場にいるときは開く。また、肩や首のこりがとれ、開かれる。脳にとって、とてもよい状態になるようなのです。風呂場での私も普段と同じようにぼーっとしているように見えるでしょうが、頭はわりにしゃりしゃりしています。しかし、風呂からあがって、一時間もすると、さて、そのとき何を考えていたか忘れてしまっている。それは、あたかも夢のように。
20030611
今日は大阪、夕方、築港湯に入った。やもりと一緒に。
大阪の海際は気持ちよい。おしゃれスポット天保山の観覧車がすぐそばだけど、このへんは下町っぽく、大正区みたいに、どこか開放的な下町だ、風が気持ちよいかんじの。この風呂も大きくて、気持ちいい。でも、このあと海でビールを飲んで、その後、河上君の話を聞く会に行く予定だったので、わりとさーっと、入った。(港で働く人のように?)
1 奥田容子の有田焼講座を本にするのは、よいのではないか、と思いついた。
2 藤本なほ子の作品をジェンダーから読むのは、面白いのではないか、と思いついた。
二人は、私がいまとても重要と考えている作家で、作家と書いたけど、作家性みたいなものを疑うこともしている人たちです。
5月に有田に行ったときに容子さんの家で聞いた、有田焼についての話は、作家性の話もからんで、とても刺激的だった。
ジェンダーは文化と政治の話だから、それは、どっか下手をするとレッテル貼りをともないやすく、それは、フジモトさんはとても嫌だろう。でも、うまくいけば、フジモトさんの手のひらの外からの、評を書けるかもしれない。
20030606
なぜか
今日の風呂ははもりあがってしまった。この前、吉田寮のライブの最後に飛び入りして、いい加減な歌?を歌ったのだけど、もっと歌えばよかった、と思ったことから、いろいろ、歌をおもい出しては、歌ってしまった。もちろん、とても小声なのだが、とても力をいれて、ヘイジュード、バナナボート、勝手にしやがれ、まっかにもえる〜、ゴットセーブザクイーン、なごり雪、ラブミーテンダー、、、そのうえ気付くとちょっと踊っていたりした。
なので、あまり、ものは考えなかった、のだが、上がりぎわに、囲碁について、囲碁は少年期の私を救ったのではないか、ということについて考えていた。いじめられっ子、で人と話をすることが出来なかった私が、人と話を出来るようになったのは、囲碁を通じてではなかったか。囲碁は手談といわれるように言葉を使わない、会話のような感じがある。そういうことを通じて、私は人と交流することを覚えたのかも知れない。このことは、また考えよう。
20030601
今日の風呂は、寿司屋バイトに行く途中にたちよった、銭湯、4時半だったから、30分ほどしか入れなかった(仕事前に風呂に入るなんて)。熱いお湯。
知らないことについて、丁寧に書く、ということについて、考えた。まんこについて書く、ことをしようと思っていて、私は、まんこを持っていないので、その感覚についてはわからない。でも、丁寧に書いてみる。それは、絵の、デッサンの下手な人が、非常に丁寧に時間をかけて描いた静物画、みたいにならないだろうか。下手な人がいいかげんに描いたものは、面白くないが、下手な人が丁寧に描いたものは面白い、ことが多い。デッサンは狂っているけど、丁寧に描かれた、りんご、そんなかんじのものを書いてみたい。また、私は会社を経験したことがないので、会社員の話、もよいかも知れない。デッサンの狂っているけど丁寧にかかれたまんこ、会社、真実ではないけど、意味はある気がします。すくなくとも、真実を知る人から、それは、こうおかしい、という話が聞けたら、それだけで、すばらしい。
20020507
私は、日記が続かない。このホームページも始めてはすぐ止めてしまったいろいろな日記が散乱しています。そこで、風呂あがりに日記をつけるのはどうだろうか? お風呂で考えたことを、あがってから、日記につける、わりによいのではないだろうか。私にとって、お風呂の時間は至福の時、であると同時に、普段ぼーっとしている頭が、少しは冴え、あれこれものを考えたりする時間なのです。蓄膿症と関係があるかも知れません。いつも詰まっている、目と目の間のあたりが、お風呂場にいるときは開く。また、肩や首のこりがとれ、開かれる。脳にとって、とてもよい状態になるようなのです。風呂場での私も普段と同じようにぼーっとしているように見えるでしょうが、頭はわりにしゃりしゃりしています。しかし、風呂からあがって、一時間もすると、さて、そのとき何を考えていたか忘れてしまっている。それは、あたかも夢のように。
さて、今日風呂場で、思ったこと。
一つは、これ、風呂あがり日記をつけようということ、です。
一つは、生活をばかにせず、芸術をばかにせず、ということです。これは、箴言とかではなく、私にとっては、そうしかないだろう、ということです。生活に力を入れ、芸術をばかにするような生き方があると思います。また、芸術に力を入れ、生活をばかにするような生き方もあるとおもいます。どちらも、立派な生き方だと思うのですが、私は、だいたい中途半端な人間なので、どちらもちゃんと出来ない、その結果、生活、芸術どちらもばかにするようになっては、いけない。そのいましめとして、どちらをもばかにしないということです。その方針で、キョートット出版をやっていきたいと思います。