The New Socialist Party Tokyo



階級的労働運動における「労働観」について

展望:『科学的社会主義』
99年8月号
津和 崇
 

「職場闘争の弱さ」の中身をさらに問う

 いま、社会主義協会でも新社会党でも、諸党派においても今後の労働運動のあり方をめぐる論議が活発に展開されている。総 評が解体されたうえに、大競争時代を背景にしたすさまじい攻撃のなかで、あるべき労働運動のあり方はさまざまな角度からの 検討を迫られている。労働運動の再建なくして、社会主義を展望することができないことは自明である。
 本誌七月号の論文「〈中間論点整理〉労働運動再生への課題」もその一つの中間集約的な問題整理であり、大切な問題提起で ある。「総評崩壊を許した第一の要因」は、「私たちの側の職場闘争の脆弱さにあった」(『科学的社会主義』七月号四四頁)と いう総括に大方の一致は得られるであろう。が、「職場闘争の脆弱さ」の中身は何であったのか―が、さらに問われる必要が あると思う。
 例えば、職場闘争の担い手たる職場の活動家〔中心は党員〕が、@資本主義の世界的変貌を視野に入れながら、自分の職場の 問題を戦略的にとらえつつ職場闘争を展開できていたかどうか。A職場支配の要をなしている能力・業績主義に対抗し得る理論 武装は十分であったろうか。等々であるが、そうしたテーマのなかで、「どういう労働観をもって職場闘争を組織して来たのか」 (傍点津和。以下同)も避けられない総括点ではないだろうか。
 労働者はだれでも「社会的に役立ちたい」「いい仕事をしたい」という気持ちを持っている。やや乱暴な言い方になるかもし れないが、「社会的に役立つ仕事をしたい」という労働者の意識・気持ちを組織化するのに成功したのは資本の側であり、同盟 など労資協調的労働運動の側だったのではないか。〈総評労働運動は、できるだけ楽をして権利だけ主張する運動だ〉〈権利の 主張の前に、義務を果たせ〉という資本からの悪質で巧妙な攻撃にたいして、総評は、そして職場の活動家は十分に対抗しえた であろうか―この問である。


  三池の提起した労働観

 総評労働運動のなかで、階級的労働観をもったたたかいは様々になされてきたが、実は、この点でも三池のたたかいは、先進 的である。労働運動総括と今後の指針の確立に際して、私たちは三池の豊富な教訓にもっと多くのことを謙虚にそして真摯に学 ぶことが必要であると思う。
 「健康で安心して働き続けられる労働条件を!」というスローガンは、三池から生まれたものである。労働運動の根本を示し ているともいうべきこのスローガンは、意外と誤解されているか、深い考察を欠いたまま掲げられてきたのではないか。
 このスローガンは、一方で、「働き続けたい」と言っている。「働く」ことを、正面から肯定しているスローガンである。労 働が社会の大本であり、働くからこそ労働者は社会の主人公である―という根本命題に支えられたスローガンなのである。
 しかし同時に、働き続けるためには、健康で安心して働ける労働条件が必要である。殺人的労働密度や、残業に継ぐ残業、あ るいは低賃金等々では、働き続けることができないのであり、資本主義のもとでは、働き続けるためには労働者は全力で労働条 件確保のために闘わねばならないという呼びかけである。すなわち、このスローガンは、〈働くこと〉と〈闘うこと〉を見事に 統一したスローガンとなっている。
 保母さん(保育士)が良い保育のために研鑽を積み、良い保育の実現に努力すべきは当然である。子どもに信頼される保母で あることも大切である。しかし、よい保育のために自己犠牲的献身のみを求めるのは間違っていよう。良い保育をおこなうため には、さらに、保母さんの労働条件がしっかり保障される必要があるし、さまざまな保育施設の確保も必要である。腱しょう炎 や膀胱炎に侵された体で、良い保育がおこなえるはずはなく、良い保育のためには、保育労働者は、一方では全力で闘うほかは ないのである。そのような自己主張がキチンとできる主体性のある保母でなければ、本当に自信を持った保育もできないし、子 どもたちの信頼もかちとれまい。
 共産党のよい保育論や教師聖職論は、この統一を欠いた迎合的運動論に傾斜しているといえよう。
 三池は、次のように断言する。「『まじめに働く者』という表現があったでしょう。あれは柱です。まじめに働くから怒ると いうこともありますよ。人間はまじめに働くということが当然です。なのに、資本主義ではまじめに働けないではないか、とい うことです。そのへんのことが、あまりにもなさすぎます。そういう労働運動を不十分ながら三池はつくったんです」と(社青 同中央本部労対部編『三池を語る』三一四頁、一九八三年刊)。これは、三池の歩みを、広い視野で総括した出色の単行本であ る『三池を語る』における灰原茂雄氏の提起である。
 国労や自治労の闘いのなかでも、この労働者的労働観というテーマは、「保線労働への誇りに立った闘い」「清掃労働への誇 りに立った闘い」等々のかたちで提起されて来た。都高教の「研修日確保の闘い」もきわめて貴重な問題提起となっている。こ れらの闘いの経験をできるだけ広く集約しつつ総括することが必要だと思う。


  労働観の展開―制度・政策闘争、社会主義―

 そして、この労働観の問題は、さらに問題領域を広げることになる。自治体で言えば、資本側の大企業本位の自治体づくりに 抗して闘うと同時に、そして闘う上でも、地方自治の真の担い手としてどのような自治体の仕事のあり方がふさわしいかを、労 働者として提起することが求められよう。制度・政策闘争の必要である。制度・政策闘争自体が間違いであるとする思考方法は、 われわれの中にも、周辺にも根深く存在しているように思えるが、批判され克服対象とされるべきは、「労資協調的な」制度・ 政策闘争であって、制度・政策闘争そのものではない。求められているのは、反独占に立つ「階級的な」制度・政策と「階級的 な」運動論である。この点でも総評は、同盟に十分に対峙することができず、多くが同盟的な制度・政策闘争論に屈服していっ たのではないか。階級的な制度・政策闘争においても先進的経験を提起しているのは、やはり、三池である。三池の、とりわけ 「経営変革闘争」「CO闘争」の持つ階級闘争上の意義を全面的に検討し、しっかりと運動路線として汲みとることの大切さを 強調したい。
 さらに、労働観のテーマは、社会主義とのかかわりにも広がる。ソ連崩壊の大きな原因の一つは、社会主義経済建設の失敗で あるが、その根底に「労働の組織化の失敗」があると私はとらえている。ソ連の労働者は「言われたことを無難にこなす」とい う体質に深く染まりすぎていたと思う。社会主義においてこそ、労働者は、社会の主人公として自発的・自主的に生産の担い手 となるはずであったが、その意識は極めて希薄であった。
 ソ連崩壊総括から学んで、日本の社会主義建設を展望するとき、少なくともその総括の一つとして、未来社会の建設の担い手 たる労働者は、すでに資本主義のなかで十分に鍛えられているべきではないかという重要なテーマが浮かび上がる。資本主義の なかで準備されるべき主体形成とは、一面においては〈階級闘争の担い手〉として訓練された労働者であるが、他面においては 〈生産の担い手〉として訓練された労働者である必要があるのではないか。《二重の意味で訓練された労働者》の形成こそが、 階級的労働運動の課題ではないだろうか。確かに難しくもあり、危険性を内包した課題設定ではあるが、科学的社会主義の理論 は、もともと問題をこのように提起しているように思う。


  マルクスの労働観の補強について

 実は、労働者的労働観の確立において、避けて通れない由々しきテーマが、マルクス主義理論の根幹に横たわっているという 問題意識を、私は、永年持ち続けている。
 そのテーマとは、『資本論』の冒頭の価値論で展開される「複雑労働と単純労働」の問題である。私は、学生時代に『資本論』 を勉強しはじめた当初から、この点でのマルクスの理論展開に疑問を持ち、一橋大学の学生理論誌に「「複雑労働』に関する問題 提起」(一九六四年)という論文を書いて、〈マルクスの複雑労働論は労働価値論の自己否定につながるもである〉ことを論じ たが、今でも、この見解は変わらない。再建協会においても孤立した見解であることを承知のうえで、問題の要点を簡潔に述べ、 広く諸兄の批判を仰ぎたい。
 マルクスは、商品を〈「価値」と「使用価値」の二要素の統一物〉としてとらえたが、その二要素を生み出す労働の二重性( 「抽象的人間労働」と「具体的有用労働」)との関係を、次のように規定した。「すべての労働は、一方において生理学的な意 味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の属性において、労働は商品価 値を形成する。すべての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具 体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する」と(岩波文庫『資本論』第一分冊、八七頁)。そして、「使用価 値にかんしては、商品に含まれている労働(具体的有用労働のこと)がただ質的にのみ取り上げられているとすれば、価値の大 いさについては、労働はすでに労働であること以外に何らの質をもたない人間労働(抽象的人間労働のこと)に整約されたのち、 ただ量的にのみ取り上げられているのである」と(同八六頁)。これこそ労働価値論の根幹をなす命題であり、『資本論』全三 巻を貫いている命題である。
 価値を形成する抽象的人間労働は、「労働であること以外に何らの質をもたない」労働、すなわち、同質・同等・同一の労働 であることが決定的に重要である。だからこそ労働は、すべての商品交換の共通尺度になりうるのであり、だからこそ「労働の 価値」を論ずることは、馬鹿げているのである。
 マルクスが、アリストテレスの偉大さを讃えながらも、その限界を次のように批判していることはよく知られている。「価値 表現の秘密、すなわち一切の労働が等しく、また等しいとおかれるということは、一切の労働が人間労働一般であるから、そし てまた、そうあるかぎりにおいてのみ、言えることであって、だから、人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的 成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。…ただ彼(アリストテレス)の生活していた社会(奴隷社 会ギリシャ)の歴史的限界が、妨げになって、一体『真実には』この等一関係は、どこにあるかを見出させなかったのである」
(同一一一頁)と。労働の同質性、同等性の認識と、人間が平等であるとの認識は不可分だという重要命題がのべられている。
 ところが、マルクスは複雑労働論においては、突然!次のようにいう。「複雑労働のより小なる量は、単純労働のより大なる 量に等しくなる」と(同八三頁)。すなわち、〈複雑労働の一時間の生産物は、単純労働の一時間の生産物の二倍または三倍の 価値をもつ〉というのである。〈すべての労働は同質、同等とは限らない〉という命題が、ここでは、登場している。
 余計なことはいっさい省略して、単純明快な問題をひとつだけ提出したい。〈一時間の複雑労働と一時間の単純労働の価値は 異なる〉という複雑労働論は、われわれを不可避的に〈A労働の価値は高いのか低いのか〉〈A労働とB労働の価値はどちらが 高いか〉という議論に導いてしまう。すなわち、「労働の価値」を論じざるを得ない。しかし、「労働の価値」を論ずることが 労働価値論といかに相容れないかは、マルクス主義にあっては自明の共通認識のはずではないか?『資本論』との出会いの最初 から抱いている私のこの単純かつ素朴な疑問に、どなたでもいい、正面から答えていただきたい。
 《複雑労働・単純労働の概念は、具体的有用労働の概念であって、この概念を抽象的人間労働に持ち込んではならない。すべ ての労働は、抽象的人間労働においては同質・同等であり、同じ労働量は同じ価値量を形成する》と整理する外ないはずである。
〔一九九九・七・一〇〕