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小鹿島のハンセン病患者と弁護士たちの長き戦い

 法務法人「和友」の朴永立(パク・ヨンリプ)弁護士(55)は、ハンセン病患者の法廷闘争を扱ったドキュメンタリー映画『冬柏お嬢さん』(20日公開、パク・ジョンスク監督)に登場する「小鹿島補償請求訴訟弁護人団の団長」を実際に務めた人物だ。

 「最初に小鹿島に行くと言ったとき、妻が止めたんです。実際、わたしもちょっと怖かったです」

 『冬柏お嬢さん』公開を控えた今月19日、朴弁護士はこのように語った。朴弁護士をはじめとした弁護団は、小鹿島だけでも30回、ハンセン病患者の定着村だけでも20回以上足を運び、数十年間隔離され暮らしてきたハンセン病患者と世の中を結び付けるのに決定的な役割を果たした。

 「この映画は、ひょっとすると“ハンセン病患者のカミングアウト”なのかもしれません。これまで、彼らがカメラの前にこうして堂々と立ったことはありませんでした」

 映画では、イ・ヘンシムおばあさん(77)が崩れた顔、切断された指や両足をありのままさらけ出した。おばあさんは妊娠したおなかを布で縛り、陣痛が来たら鶏小屋の中で鶏の鳴き声に合わせてうめき声を上げた話など、「恨」多き人生を証言した。1917年に日帝の「隔離政策」で小鹿島へとやって来たハンセン病患者らは、その多くが厳しい労働で苦しめられ、また監禁室でさまざまな拷問を受けた。精管手術や強制堕胎が横行し、生体実験の対象ともなった。解放後も、隔離政策が1963年まで、不妊手術は1980年代まで続いた。

 ハンセン病患者が声を上げ始めたのは、2003年に弁護士らが小鹿島を訪れてからだ。

 「けれど恥ずかしいことに、ハンセン病患者にまず歩み寄ったのは日本の弁護士たちでした」

 日本のハンセン病人権弁護団は2001年に日本国内でハンセン病患者らに対する国家補償判決を勝ち取り、2002年のハンセン病補償法にまで結びつけた後、韓国を訪れた。

 韓国の弁護団60人余りは、2004年7月に日本の弁護団が大韓弁護士協会に協力を求めたことで合流した。

 「最初は患者の方たちと握手をしたら、必ず手を洗っていました。ある方は、“ご苦労さま”と言ってドリンク剤を手渡してくれましたが、飲むべきかどうか迷ったこともありました。今は、おばあさんたちと会ったら抱き合って、ほおもすり合わせてあいさつします」

 弁護人団は2週間から3週間に1度の割合で小鹿島を訪れた。なかなか心を開かなかったハンセン病患者たちも、積もり積もった悲哀を一つ二つと告白し始めた。

 しかし、2005年10月25日、1年3カ月の裁判の末に東京地方裁判所で下された判決は、失望させるものだった。「日本のハンセン病補償法に“小鹿島”は明示されていない」という理由で敗訴したのだ。

 しかしこの敗訴は、ハンセン病患者たちが堂々とソウル都心に姿を現す契機となった。

 二日後の10月27日、弁護団がソウルの宗廟(そうびょう)前で行った抗議デモには、ハンセン病患者1000人余りが集まった。ついに2006年2月、日本の国会は韓国と台湾を補償の対象に含めるという法律改正案を通過させ、同年3月、小鹿島のハンセン病患者3人が初めて補償(一人当たり800万円)を受け取ることができた。2年8カ月が過ぎた今、補償を受けたハンセン病患者は361人に上る。

 しかし、弁護団は20人余りに減った。交通費や宿泊費を弁護士協会から支援されるだけで代価のない、つらい仕事だったからだ。チョ・ヨンソン、ハン・ソクチョン、チャン・チョル、イ・ヨンギ、キム・ソンギ弁護士ら弁護団に残った人々は、まだ補償を受け取れずにいる100人余りの発病および隔離の記録を探すため、今も走り回っている。

リュ・ジョン記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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