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Britty aka User:Aphaia の ウィキメディアプロジェクト回遊日誌
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2006-04-28

[] おもしろさ(承前) このエントリーを含むブックマーク

お返事をいただいたので、私もまじめにボールを投げ返してみるテスト

id:Toki-hoさんは書きました。

そして、日本の学の歴史は、流れ的にはディレッタントによってになわれてきたのではなかろうかと思っております。

同意。そして制度化された知より、制度の外にあった非権威的な知が生産的であることがままあり、たとえばそれは真淵や本居らといった国学をうみ、懐徳堂儒学研究山形播桃のような)を生み、してきたわけである。そして日本における民間の学者たちの時代は、近代の到来をもって終わったといってよいだろう。「在野」という言い方は明治期のアカデミズムの整備と切り離せない。

しかしそれは日本だけの話だろうか。翻って西ヨーロッパをみれば、ルネサンス思想は、そしてバロックの知は、教会大学といった制度のなかより、多くその外で展開したのではないだろうか。いやもう少し正確にいえば、「そのような制度外の人材に刺激され、主導され、牽引されて」。アカデミーという制度は、王権が教会の管理下にある大学の外にいた知的人的資源を保護することでもあった。もちろん、その言論世界のなかには僧侶もいれば大学人もいて、その交流のなかで近世の知の形が作られていったのだけど。

いま近世の西ヨーロッパを見てみよう。スピノザデカルトライプニッツヒューム……カントを除けば、この時代の大哲学者たちの多くは、みな大学の外にいた人物だ。スピノザハイデルベルク大学への招聘を断った。後援者からの年金で生活していた彼は、大学教師となることで得られる活動領域と、公務員であることから潜在的にもたらされる自分の言論への制約の危険を比べて、後者をより重く見た。デカルトフランス保守的な神学者との対立もあってオランダへ移住し、親からもらった遺産のおかげで経済的には独立を確保しつつ、執筆活動を行った。後年スウェーデンに教師として招聘され移住したが、それは宮廷人としての招聘であって彼が職業的教師であったことは生涯一度もない。ライプニッツはその生涯の多くを公務員ドイツのある諸侯図書館長として過ごし、さまざまな著述を行い、ベルリン(つまりプロイセン王立)アカデミーの設立などに助言しつつも、公職生活を送った。生涯に300人を超える人と文通し、その相手は学者仲間にとどまらず宮廷の貴婦人なども含んでいた。みなそれぞれの立場から知への関心を示し、彼の著述に感想をかき、質問し、ライプニッツはそれぞれに答えを書き、理解に謝し、あるいは反駁した。ヒュームはいくつかの職業を転々としたあと、作家として成功し、のち印税生活に入り、とくに公職にはつかずに哲学的著述を行った。カントドイツの辺境に生まれ、生涯を大学の周りで過ごした。その意味では彼はむしろバロックの人であるよりも、近代の我々により近いところにいる。ではあるが、彼もまたスウェーデンボリという大学の外からきた著述家に一書を割いて反論を書くほどには、大学の外で展開される言論の世界に関心をもっていた。そもそも、当時のドイツには「通俗哲学」と呼ばれる非大学人であってかつ職業著述家であるような人たちによる哲学的著述があって、それは一定の影響力をもっていた。カントもまた、公衆に自分の著作を発表するひとりの著述家としては、そのような言説を無視してはいられなかったわけである。

しかしながら、その周縁にいて、アカデミズム以上仕事をしてきたのは、ディレッタントたちです。専門にはなりたくない、あるいはならないけど、「学問が好き」という人たち。「数奇者」ですよね。そんな中から、数奇が嵩じて「学者」になる人もでてきちゃった。それは、結果としてなっちゃったわけで、アカデミズムの中に入ってでてきたわけでは、(あんまり)ない。それが近代以降学問アカデミズムがになうものだということになってしまった。ひとびとの頭のなかに「学問は数奇者がするもの」という書き込みが消えてしまった感じです。

それは、なぜなんでしょうね。何が我々と彼らの世界の相違で、なにが共通項なのか。もちろん要因はいろいろある。ひとつの答えはアダム・スミスのねじの議論のなかにあるだろうと思う。すなわち「専門化」いみじくもときさんがいうように、「職人」としての学者職業研究者という営為が、学術の発達をすすめ、同時にディレッタント的な関わりを難しくしているという側面は否定し得ない。そして、そのことにはそのことの利点もあるので、私はこの変化をまったく否定されるべきものだとは、いわない。

ともかく、Wikipediaは、アカデミズムディレッタント⇔ふつうの人 が、ヒエラルキーなしで交歓できる場ではあるなあというのが、感想です。もちろん、そのためには、互いの「尊敬」、「場への愛」が不可欠なんですが。

そうかもしれない。そうでないかもしれない。むしろWikipediaにはある種の反知性主義、反専門家主義もあって、そのことは専門家へのむやみな敵愾心や流儀の違いへの配慮を欠いた言動を生んでしまうことすらあるように思う。そしてまた、アカデミズム中の人とその外にいる人が、ヒエラルキーなしで交歓できる場、ということでいえば、そのようなヒエラルキーはむしろ「ふつうの人」のなかにより濃厚にあるのではないだろうか? 少なくともアカデミズムのなかにいる人の自覚としてはとくに差別的な言動を取っているつもりはないだろうとも思う。一方、経歴をいって、相手の反応がびみょーになった経験なら、私の知人はたいていがもっていて、むしろアカデミズムの外にいる人こそが、そうした幻想を自分で生み、自分で振り回されているのではないかとすら思う。私が知っている「来聴自由」な会で、一般の(=会員でない)人が現れることは非常に稀だ。

アカデミズムの中へ入っていく手つきをしらない人にとって、その壁は厚いものにみえるのだろう。それは理解できる。だがその壁はアカデミズムのなかにだけあるのではない。すべての壁は畢竟ひとの心のなかにある隔てだ。

私はいまアカデミズムヒエラルキーの外にいる、いや精確にいえば、制度としてのアカデミズムにおいて私の位置はなにほどのものでもない(雑巾がけとしてだけでもそこにいることに意味があるのなら別だが)。だが、そのことは私の行動になんら影響していない。ないだろうと信じる。相手との関係にも。対話の地平を維持するのは、対話相手への相互の敬意と対話の物理的な場、そして、共有された関心と語りの作法だ。Wikipediaの場合を考えるに、Talkが編集へ役立つ限りでの対話の場である以上、そしてさまざまな言説の交換や対置でだけ議論を進展させていくということが実は非常な修練を要求する以上*1Wikipediaを諸言論の対話と交歓の場として機能させ維持することは、実はとても難しいことなのではないかと思う。よほどの動機がなければ、公衆との、他者との対話を求める限りにおいて、人はWikipediaへは向かわないのではないだろうか。むしろ啓蒙家にとってこそ、Wikipediaは魅力的な場となるのではないだろうか。

尊敬」と「場への愛」を併置している点では同意。これは、Wikipediaに限らず、すべてのコミュニティ*2に当てはまるだろうと思う。

お返事になれば幸いである。

*1:それはアカデミズムのなかでだけ身につくエクリチュールだろうか?おそらくそうではない。むろんアカデミズムのなかでそうしたエクリチュールへの需要は大きいのだが、しかし公刊された書物のなかにも我々は容易にそれを見出すだろう。

*2:とくに精神的なものの共有を基盤とするもの

2006-04-24

[] 二匹目のどぜう このエントリーを含むブックマーク

Tim Starling が2人目の雇われ管理者(developer)になった。21日付。学位は、どうもとらないことにしたらしい。夏ごろが学位論文の提出期限だったはずなので大丈夫かなあ、と思っていたのだが、まあ就職が決まったからいいのだろう。その時分には、卒業後はHDDの開発をどっかでやるんだといっていたのだが。

Delphine%イベントオーガナイザは常勤ではないらしい。Stuffs に名前がなかった。それともまだ将来の話なのか。

[] おもしろさ このエントリーを含むブックマーク

http://wikipedia.g.hatena.ne.jp/Toki-ho/20060317

WPにかくことが楽しくないとはいわない。

しかしその楽しさは、専門のことを書くときの楽しさとは違う。

どちらかというと教養向けの授業の1コマ2コマを用意するときの楽しさだ。いろいろな意味で自分の勉強になって楽しい、が、至上のものではありえない。

 自分の意見を自分の意見として書くことができない。

 新しいことを書くことができない。

勉強になる」というからには自分にとっては新たなことが何がしかはあって、認識の深まりというのはあるが、まだ形にならないアイディアをぶつけあう、さらにそこからある突破が生まれる、そのいいがたい刺激は、記述が一般的なものにとどまる限り、そこにはない。"NPOV" "No original research" という規矩のなかでは、そうならざるをえないと理解している。

 むろん、一般的なことを一般的に語るという身ぶりのなかから得るものも多いのだが、アカデミズムの中にいる人なら、たいていは自分のまわりにそういう場をもっているだろう。だから積極的にかかわるモチベーションはそこからは生まれないだろうと予想する。議論の場ということなら、ネット上にはいろいろと、より適切な場があるんだしね。

むしろ、マイコン坊主さんが端的にそうであったように、啓蒙を旨とする人のほうに、強いモチベーションがあるのではないだろうか。

そしてある種の思惟の形、たとえばドイツ観念論のようなかたちでの形而上学志向は、啓蒙思想的な百科事典的な知のあり方とは、端的に対立するので、姿勢以前の問題でああいう形の記述にはなじまないだろう。あるいは、要約不可能な、体験として生きられるほかない知の形、真理経験の形が存在するのだと大上段にいってみようか。もちろんToki-hoさんは能を研究する以上そんなことはわかった上で、そしてその限界とからみあいつつ「紹介する」ということに意義を感じておられるのだろうし、また、まさにドイツ観念論的な垂直的で体系的な知のあり方に異議を唱えておられるのだろうけど。2年後、どう見方がかわっておられるのか、うかがってみたいと思った。

karpakarpa2006/04/25 00:2916、でなくて17、ではなからうかと存じまする……。
Suisuiさんの、「学習途中の人が一番書ける」といつてゐたのが云々。

Toki-hoToki-ho2006/04/26 10:30TBありがとうございます。以下ちょいとまじめに。まず、わたしは、ディレッタントであります。そして、日本の学の歴史は、流れ的にはディレッタントによってになわれてきたのではなかろうかと思っております。もちろん、ある「正統」を「形象として」になうアカデミズムは、存在しました。(ex 江戸時代の冷泉家の「歌道」をはじめとする家元的展開や、幕府が公認する朱子学、また各本山の学寮、学院など)。しかしながら、その周縁にいて、アカデミズム以上の仕事をしてきたのは、ディレッタントたちです。専門にはなりたくない、あるいはならないけど、「学問が好き」という人たち。「数奇者」ですよね。そんな中から、数奇が嵩じて「学者」になる人もでてきちゃった。それは、結果としてなっちゃったわけで、アカデミズムの中に入ってでてきたわけでは、(あんまり)ない。それが近代以降学問はアカデミズムがになうものだということになってしまった。ひとびとの頭のなかに「学問は数奇者がするもの」という書き込みが消えてしまった感じです。ほいで、アカデミズムの外側にいて「学問」しにくくなっちゃったようなところがあるのではないかと思います。まあ、そんななかで、物好きな数奇者(という語の反復ふくめての)として、勉強をしているわけであります。しかしながら、ディレッタントは、「手わざ」の限界がある。アカデミズムの塔の中で親方について修行をつんできたアルティザンとしての先生方には、自然にそなわっている「手わざ」です。そこんところはすごく羨ましいです。えー、なにを書いているのかわかんなくなっちゃったのですが(笑)、ともかく、Wikipediaは、アカデミズム⇔ディレッタント⇔ふつうの人 が、ヒエラルキーなしで交歓できる場ではあるなあというのが、感想です。もちろん、そのためには、互いの「尊敬」、「場への愛」が不可欠なんですが。以上考えがちらばっちゃってて、ごめんなさい。ともかく、2年がむばってみますです。南無南無。。 <追記>「まさにドイツ観念論的な垂直的で体系的な知のあり方」に異をとなえているわけではありませんよーん。ただ、その「使用方法」が、私にはわからないだけです。使用方法のわかりやすいマニュアルきぼんぬ。(と、素人は、わがままをいう。。^^;;)

BrittyBritty2006/04/28 15:11使用方法のわかりやすいマニュアル、はないです。でもときさんのように熱心な方なら2年間でそれを必要としなくなるのではないでしょうか(にっこり)。ただ、ひとつだけいえば、修練には垂直なものだけでなく、水平なものもあるのですよ。そして知が公教的なものであるなら、マニュアルは有効なのでしょうが、秘教的なまた個に帰せられるものなら、マニュアルのような形での通路を作ることはむずかしいだろうと。宗教者でもあられる方は、どうお考えなのか、ふと伺ってみたい気もしますね。

KstigarbhaKstigarbha2006/04/30 07:41…えぇっと、私自身は宗教者ではないのですが(汗。もちろん、その道に進もうと思えばいつでも進める環境にはありますが。ただ、仏教には在家信者でも居士と呼ばれる求道者がおり、私自身としては今のところ、そうした道を進もうかと考えております。
 さて、研究マニュアルですが、うちは秘教的なものは何もありませんが、また、マニュアルもありません。基盤とする曹洞宗が自らの力で一心不乱に悟りを求めるという修行スタンスを採っている事に由来するのかもしれません。(この辺の事については『正法眼藏随聞記』をお読み下さい)まあ、人文系の修士課程は研究史をどれだけ抑える事が出来たかにかかっていますので、論文を大量に読むしかないのではないでしょうか