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Britty aka User:Aphaia の ウィキメディアプロジェクト回遊日誌
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2006-05-18

[] すみませーん このエントリーを含むブックマーク

Tomo○さのアンテナにふっと眼にとまった

http://jawikipeda.blogspot.com/

誰か新しい記事を投稿したのかなとおもってみにいったけど、なかった。

TBスパムかしら。

気にはなっているけど、正直リアルやらなんやらで忙しくて手が回らない。

まあなるようになるか。

2006-05-11存在の大いなる連鎖

[][] 足だけでなく、手も頭も。 このエントリーを含むブックマーク

http://wikipedia.g.hatena.ne.jp/Miya/20060510#1147254239

Steward の定義をめぐって、もちろんそれは Meta にも書いてあるのだが、細かい理解は案外各人でずれがあるということを発見。外部に聞かれたときに説明にいつも困るのよーと Ant がいっていたことを思い出す。

Sjが、「マスコミは、admin/bureaucrat/steward が権威であるかのように、なにか特別な権限を*1もっているように誤解しやすい」という。数が少ないことが、その誤解に拍車をかけるようだ。少ししかいない、ということが、実際にはそれは仕事がそれで足りるくらいしかないということなんだけども、権力を握っている少数の中核の人々という誤解に昇華してしまいがちなんだとか。

してみると、ESWPの「誰でもビューロ」政策はとても正しかったのかも。。

ともあれ、毎回個別に「sysop……はなんでないか」の説明を繰り返すのは不毛だから、文書化しませんか、と提案しておいた。Miyaさんも、せっかくよい対話相手とめぐりあったのでしたら、ぜひその過程を文書に残していただきたく。少なくとも、Miyaさんの次の取材機会のためには役立つのではないでしょうかね。:-)

[] それは、生き、動く。 このエントリーを含むブックマーク

大事なのは Wiki Love です。

 てのはうそだけど。

一番大事なものなんてない。一番大事なのはしいていえば、全体だ。それがそこにあって動いているということだ。これは部分を犠牲にしてよいということではない。部分は全体の部分で、全体は部分からなりたっているから。一番大事なものなんてない。誰かが、何かが、一番大事だとあなたがいうとき、実はあなたが失うものは世界の全てだ。あなたが一番大事だという、そのものをも含めて、あなたはすべてを失う。

 一番大事だと、あなたが思っていた、その部分を代替しがたいものとして含んでいた、その世界を。

 なので吉本はいう。対幻想と共同幻想は共存しえないと。てのは冗談だから信じちゃいけないよ(くす)。

すべては、繋がって、ひとつの全体を作っている。Lovejoy 的だな。なんか。

[] here comes a new sysop! このエントリーを含むブックマーク

http://wikipedia.g.hatena.ne.jp/karpa/20060509/1147193709

遅ればせですが、あらためまして、おめでとうございます。ていうかよろしくお願いします。そういや、第二外国語は何にしたのだね、貴兄は。

*1:そりゃ技術的にはそうなんだけどね

karpakarpa2006/05/12 00:16第二は Arabic になりますかね。

BrittyBritty2006/05/12 15:24じゃ、クルアーンよろ。

karpakarpa2006/05/12 19:55現代アラビア語なので古典アラビアはまだですね

BrittyBritty2006/05/18 15:10じゃ、アルジャジーラ等からネタ拾ってJAWNに投稿よろ。

2006-05-10

[] 情報の縮約 このエントリーを含むブックマーク

http://wikipedia.g.hatena.ne.jp/karpa/20060508/1147104705

もちろん sysop は職務でも立場でも肩書きでもないが、一般論としては肩書きは外部に向かって話すときにこそ便利なものだ。あなた個人のことを知らない人というべきか。

 何をできて、何をできないのか。

 何を知って(いる可能性があって)、何を知らないのか。

あなたを知る人には、ある意見があなたのものであるというだけで十分だろうが、あなたを知らない人はどの立場からあなたが語っているのかを知りたがる。もちろん、知っている人同士の場合でも、発言が個人としてのものなのか、ある立場(それはある団体を代表して、あるいはある職務においてということだが)からのものなのか、そのことを明快にしておくことは、ときに重要だ。

 foundation-l で4月に Michael Davis が指摘したように。

 Anthere はかつて、「sysop あるいは steward であることが、外部の人たちにとって何か意味をもつとは思えない」といった。だから、彼女にとって、外部の人に渡す名刺(business card)に、そういった肩書きをすりこむことは、「起こりえない」ことだった。だが実際には、sysop がインタビューを受ければ、えてして「○○の sysop であるだれだれ氏」として紹介される。amgine が、 mav がそうであったように。

sysop であるということは、プロジェクトへの参加意識の深度をあらわすわかりやすい指標のひとつだから。そして往々にして、ひとはなにものでもないあなた個人ではなく、わかりやすく限界付けられたなにものかである誰かの声を聞きたいのだ。肩書きは、そのような、情報の縮約にやくだつ。だから人はそれを使う。そこで、肩書きではないものも、また縮約のために動員される。

 それは人の認識の構造に多く益があることで、その害と益を比べれば益はあきらかだから、だから人はラベルによる縮約をつかいづづける。倫理の問題ではないのだ。

 だから、それは JA でも起こる。そのことに驚きはない。そしてほかでも、たぶんそうなる。禁止したところで意味はないだろう、マスコミがそうした表現を使うことを私たちはたぶんとどめられない。

 なので、必要なことは、そうした事実を踏まえた上でどのように振舞うかについての知恵を蓄積していくことなのだろう、と思っている。そこには、誤解を招く表現を除く、ということも、おそらくは含まれる。

[] misuse このエントリーを含むブックマーク

http://wikipedia.g.hatena.ne.jp/Miya/20060510#1147220607

百科事典はそもそも「何かを詳しく知る」ために存在するものではないと思います。百科事典の項目を読んで、何かを知った気になる人というのは、それだけで危ないとおもっています。玄関のない建物はないでしょうが、建物は玄関だけでできているのではないのですから。

Wikipediaについては、信頼性向上につとめている、という一方で、私たちがWikipediaが他のすべての知的リソースにかわりうるものだとも考えていないということを私たちはいいつづけています。Wikipediaは、知の世界への敷居を限りなく低くすることを目指していますが、すべてであろうとしているわけではない。むしろ、芳醇な知の世界への門となろうとしています。参考文献を明示しよう、あるいは進んで参考文献や典拠の提示できない記述は除去しよう、という動きはそうした信頼性の向上と他の知的資源との関係を見据える中ででてきました。日本語圏は残念ながら、そうした議論をするほどにまでWPが成熟していないのかもしれませんが、そう遠くない将来、こうした外部からの目に促されつつ、そうした議論が出てくるであろうという希望も感じる今日この頃です。