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トップ > 京極夏彦先生 インタビュー
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★『幽談』が書かれるまで 京極■ 「旧耳袋」は江戸時代に書かれた『耳嚢』を『新耳袋』風に書き改めてみようという試みでした。もちろん、作品としては様々な企みもコンセプトもあるわけですが、「幽」という雑誌を軸にして眺める限りは企画ものですよね。「あれ?『新耳袋』かなと思ったら『耳嚢』じゃん!」という(笑)。作品そのものの佇まいや在り方ととはまた別に、雑誌のコーナーとして見る限りは一発ネタになってしまうわけで。だからそんなに長くは連載できないだろうと思っていました。 そもそも、『耳嚢』にそんなに怖い話は載ってないんですよ。というか、ない(笑)。 ── そ、そうなんですか(笑)。 京極■ 僕は『耳嚢』は何度も読みましたが、怖いと思ったことは一度もなかったんですよ。『新耳袋』を読んで、ああ怪談としても読めるのか、と気付いたくらいで。 いや『新耳袋』以前にも『新耳袋』というタイトルの本はあって、それはまったく怪談じゃないの。ただの随筆集ですよ。『耳嚢』=怪談というのは、木原・中山登場以降の話で。 元になる『耳嚢』に怖い話が少ないんですから、連載するにしても何回も続かない。怖くもなんともない話を怪談風にしてみた、なんて作品もあったわけです。 連載5回目あたりで、東編集長に「もう終わりにしていいですか」と相談をしたんです(注:「旧耳袋」連載は6号まで)。「よし、これで卒業だ」という腹積もりだったんですが、許してもらえなくて(笑)、何か新連載していただけるならやめていいです、みたいな感じで。 さすがに働かせるのが上手なんですよ(笑)。 でも、ご存じのとおり「幽」は怪談専門誌ですよね。しかし、そもそも僕は「怪談は書けません」と宣言して久しいわけですよ。怪談は難しいんです。物書きとしてかなり高度なテクニックが必要だから、僕なんかにはとうてい書けない、書けるようになるまで修行を積みます……と、僕はデビュー以来ずっと言い続けているわけです。しかも、まず最初に宣言した相手が当時の「幻想文学」編集長、現「幽」編集長の東雅夫さんだったという(笑)。 で、「何だかわからない小説でいいですか?」と申し上げたわけです。雑誌に載せにくい感じの、ジャンルが何だかわからんような小説なら書きます、みたいなことを東さんに言ったら、それでいいですと(笑)。いや、だからこの『幽談』は怪談じゃないんですよ。自分的には。少なくとも読者を怖がらせようと思って書いたものじゃないんです。 ただ、一方で、デビュー以来、僕の作品はミステリのパッケージで売られていたわけです。しかし思い起こせば、ミステリを書こうと思って小説を書いたことはないんですよね。もちろんミステリは大好きですし、ミステリとして読んでいただけたことに関してはありがたいことだなと思ってるんですけど、実を言うなら「ミステリが書きたい!」なんて強く思ったことは、そうないんですよ。 同じように『幽談』を読まれて、怪談だと思われた方がいたなら、それはもう光栄ですよ。「いや、これは怪談じゃないから」なんて言うつもりはまったくありません。どんな時にも作者が読者に読み方を押し付けるようなことはあっちゃいけませんからね。 僕は常々、小説にはストーリーだのテーマだのはいらないという暴言を吐いているわけで(笑)。 読み始めたら止まらない、いや、読み終えずとも手に取った人が「読む」という行為をしてくれさえすれば、それでいいと思っているわけです。作者の主義主張なんか邪魔なだけだし、物語の結構性だの描写だの、そういうものだって読んでもらうための手段でしかないですよ。「文字を追う目が止まらない」という状況が生み出せれば、それで本望。それができるなら、起承転結もいらなければ筋もトリックもいらない。感動やら笑いやら怒りやら哲学やら、そうしたものはテキストの中にあるのじゃなくて、読者の中に涌くものなんです。 ところがですね、いざ書くと、どうしても何かに縛られてしまうもので。ジャンルだの媒体だの、縛るヒモはたくさんあるんです。 たとえば、ミステリのラベルを貼る限り、「何だかわからない」はいけませんよね。「犯人は、まあきっとどこかにいたんでしょ」みたいな(笑)。叱られますね。それは、やっぱりミステリじゃないわけですよ。ジャンル小説として世に出すならば、そのジャンルの肝だけは抑えておかなくちゃいけない。 いや、もちろん、何を書いたって構わないといえば構わないのですが、ノンジャンル・ノンシリーズで、しかも連載というのは、エンターティンメントではけっこう難しいんですね。読者より先に売り手が戸惑うという(笑) カテゴライズしにくい作品って、売り手次第では純文学風にプレゼンされてしまったりもし兼ねないわけで、それはそれで違うだろうと。そうした売り方もラベリングには違いないわけです。繰り返しますが深遠なテーマだとか文学的な価値だとか、そういうものは読み手側が汲み出すもので、売り手が標榜するもんじゃないわけですよ。ラベリングすることで何か強要しちゃう結果になるのはいかんし、読む前からそういうものを求められてしまうと、やっぱり違うだろうなあと。 でも、「幽」だったらいいかなと思ったんですね(笑)。怪談は難しい半面、懐も広い。擬態しやすい。で、東さんにお伺いをたてたところ、「いいです」と即答が。深く考えられたのか、考えられなかったのかは僕にはわかりませんが(笑)。 ★「全部はない」が「幽談」の世界 ── 「幽談」というのはなんとも不思議で、味わい深いタイトルですね。 京極■ 京極■ いざ載せてもらうことになって、編集Rが「タイトルはどうしましょう?」と聞いてきたので、「幽」に載るんだから「幽談」でいいや、みたいな、軽い返事をして。「怪」だったら「怪談」でしたねと言われて、そりゃ危なかった「ムー」だったら「ムー談」になっちゃうぞと(笑)。実にあさはかな小説家と編集者の会話があって。 でも、名は体を表す、という言葉の通り、タイトルを付けてみると、それなりに中身もともなってくるものなんです。これは連作ではなく、一作一作まったく関係ない話なんですけど、通底するものとして「かそけきもの」という佇まいはどうしても出てくるんですよ。 かそけきですから、「全部はない」ってことです。そのへんは少し目指したところでもあって、食い足りなさというか掴み足りなさというか。 ── 食い足りない? ですか。 京極■ 茶碗にご飯が半膳で、焼き魚も片身で、みそ汁さえ半分しか入ってなくて、見た目は揃ってるけどちょっと食い足りない──そういう感じ。もっと食べたいと思っていただけたなら、うれしいですけど。美味しくないから残そうと思ったら、もう食べ終わってるじゃんみたいな(笑)。 その半分しかない感じね。いつの間にか始まっていて、気がつくと終わってるというか、満足感がいつまでもないというか。 だから、「怖さ」を考慮したということはないんですよね。 怖さというより虚しさというか──だって、これ、怖くないでしょ。 ── そんなことはありません。ゾっとしました。 京極■ 前に「あの作品のあのくだり、怖いですねえ」という感想をいただいて、びっくりしたことがあるんですよ。僕としては普通に書いた箇所だったので驚いたんですね。「ありがとうございます」と答えましたけども。ですから『幽談』を怖いと感じていただいても、もちろんありがたい話なんですけど、僕自身は──ぜんぜん怖くない。ご飯もうちょっと食べたい、せめて腹八分目くらい食わせて、という小説にしたかったんですね。 作中に、「幽霊は半分くらいしか見えない」(「こわいもの」)というような台詞が出てくるんですけど、まさに、この小説集は半分しかないんです。こんなもんが全部あると、きっと野暮なんですよ。 日本の幽霊のスタイルは歌舞伎や絵画のテクニックとして確立されたものです。そもそも「人」なんですから、区別しにくいでしょう。「生きていないよ」ということを知らしめるために、顔を傘で半分隠すとか、そういう工夫がされてきた。いちばん原初的な幽霊記号は「隠蔽」です。半分隠す。隠されたところに何があるのかわからない、何があるの見てはいけない──その粋なお約束が了解されるからこそ、この世とあの世が地続きになるんですね。 だからタイトルは「幽談」で良かったのかな、と。これは後づけなんですけど、そんなに間違ってはいなかったかなと思います。 ── 「幽談」の「談」のほうですけど、どれも一人称で、語り手の視点に固定されています。彼らが見たもの、経験したことしか書かれていない。そもそも、語り手がどこまで信用に足るかもわからない。まさに半分、あるいは一部分しか見えてこない。それゆえに、想像力が刺激されます。 京極■ 実際、多くの小説がそうなんですけどね。「地の文は事実」というのも、お約束にすぎないわけです。一人称で書かれた小説の場合は、作中での保証すらない。いや、僕の場合はデビュー作からしてそんな小説だったから(笑)。小説なんて、字だけなんですからね。本来、事実も虚構もあったもんじゃないんですよ。体験談だろうが何だろうが、言葉になった時点で事実じゃない。そういう本質的な──というか身も蓋もないというか、もともとそういう芸風なんです(笑)。 ── 『幽談』を読んでいると、読者の側がどんなものを想像してもかまわないというか、自らの体験を重ね合わせつつ、恐怖を誘い出されているような奇妙な感覚を覚えました。 京極■ テキストはあくまで文字の羅列にすぎないわけですから、読み手次第でテキストの意味なんていくらでも変わってしまうんですよね。限定的な意味合いしか導き出せない書き方は、あまり小説向きじゃないと思うし、もっともっと徹底したいんですけども。 これまでも何度もインタビューで引き合いに出したのでお読みになった方もいらっしゃるかもしれませんが、筒井康隆さんとお話しをしていた時に、筒井さんが「小説は結末がなくてはいけないものではないでよすね。作者がいい結末を思いつかなければ、ここで終わりでいいと思いませんか?」とおっしゃられて。わが意を得たり、という感じでした。 いや、ほんとうにそうだと思うんですよ。完結していて、結構性が保たれていればいい小説だなんてことはないわけでしょう。そうなら国枝史郎の『神州纐纈城』なんて駄作中の駄作になってしまうわけで。結末がないんですから。でもあれば面白いですよね。 |
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