kajougenron : hiroki azuma blog
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ここは、批評家・東浩紀が運営するブログです。東浩紀の経歴や業績については、hiroki azuma portalをご覧ください。
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中途半端な告知
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年12月06日14:57
結局、東工大の授業に歴史認識問題を問いただす学生などだれひとり現れず、それどころか先週はいたゼロアカ生さえすっかり消え、いささか拍子抜けした東浩紀です。
つまりは、あいつらにとっては東浩紀はネタでしかないんだよなあ、とあらためてコミュニケーション志向社会の現実に思いを馳せてしまったりしました。まあ、ぼく自身はそんなネタ化のおかげで得もしているので、トータルでは喜ぶべきなのでしょう。授業の準備のため高橋哲哉とカール・シュミットを読み直したらあらためて発見があったりして、これはこれでよかった。東工大の授業は、「ポストモダンと情報社会」というお題目などどこへいったのやら、来週はデリダの「法の力」について話したりします(少しだけど)。
しかし、授業に一回も出ないで、忘年会だけ潜り込もうとかいう連中は、そろそろ排除するべきかもしれんですねw。
■
さて、本題。ひさりぶりにももろもろ告知しておきます。これでも抜けがあるのですが、とりあえず。
・『思想地図』、今月末に第2号が発売されます。ちゃんと作ってたんですよ!
・『新潮』の「ファントム、クォンタム」は次回で第一部終了です。
・『ミステリーズ!』の連載次号は法月綸太郎編の最終回。この次からは押井守編に入る予定です。
・『文學界』の連載はあいかわらずの調子で続いています。
・次号の『SIGHT』連載は落としました。すみません!>関係者各位さま
・『アニメージュ・オリジナル』vol.2で山本寛氏と対談しています。
・『ユリイカ』初音ミク特集号で座談会に出席しています。じつはこの座談会のときは高熱が出ていました。ぼくにしては話していないのはそのためです。
・日本SF大賞の選考を行いました。今回は選考委員の意見が二分されたので、選評をお楽しみに。
・早稲田文学新人賞の締め切りが迫っているはず。応募希望者はがんばってください。
・西尾康之という現代美術作家の作品集にテクストを寄せました。
・『ザ☆ネットスター!』1月号に出演します。そのロケで母校筑波大学附属駒場高校にも行ってきました。なんで母校に、というのはわかるひとにはわかるはず。そう、あのネタです。
・12/30夜に、エクス・ポナイトに出演します。萱野稔人、鈴木謙介両氏との鼎談。
・1/28夜に、「思想地図」のシンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」を開催します。詳細はググってください。
・1/31, 2/3, 2/17に朝日カルチャーセンターで講義を行います。これもそれぞれの題目はググってみてください。
歴史認識問題についていくつか
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年12月01日19:03
ゼロアカの話題はしない、と記して幾歳月の東浩紀です。そんな方針は変わらないのですが、今日(12月1日)の日本経済新聞夕刊文化欄(最終面)に、大きくゼロアカの記事が掲載されていることぐらいは知らせておこうと思います。これはやばい。福嶋亮大や宇野常寛のコメントまで載っています。
門下生のあるチームも、ばーんとでかく写真が掲載されています。これは変なファンがつくかも。東工大の授業でも顔を合わせているゼロアカウォッチャーも、何人か写ってますねw。
■
といったところですが、その東工大の授業に関して、最近はてな界隈を賑わせているらしい標題の件について、いくつか記しておきます。当該の話題をご存知ない読者は、飛ばしてもらってけっこうです。
ちなみに、ぼくは最近、2ちゃんねるもはてなブックマークもなにも見ていません。精神の健康によくないからです。ですから、この件がはてなで話題らしいというのは、先週の授業のあと学生から直に聞きました。そういうわけで、ここでは伝聞を根拠に「こんなこと書けばいいのかな」ていどのことを書いているので、もしかしてブログ論壇的には的外れなのかもしれません。ただ、そもそもはこれはだれかに反論するためではなく、ぼくの立ち位置を明らかにするためのエントリなので、これで勘弁を。
ぼくはただ、ネットでぼくの話題を追っているひとが、ぼくにとってけっこう重要なこの問題について、不正確な引用だけを根拠にぼくの立場について誤解してしまうとまずいと思ったので、書くだけです。
というわけで、あらためて。
■
1.私的信念について
東浩紀は南京大虐殺は(規模の議論はともあれ)あったと考える。
これは随所で公言している。
2.公的真実について
東浩紀が「リアルのゆくえ」および今年後期の東工大の授業で展開している主張は、下記のとおり。
A.いまの日本社会に、南京大虐殺があったと断言するひとと、なかったと断言するひとがそれぞれかなりのボリュームでいるのは事実である(この場合の南京大虐殺は例)。
B.ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している。
C.だとすれば。ポストモダニズム系リベラルは、たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである(この場合の「耳を傾ける」=「同意する」ではない)。
C'.逆に、もし「南京大虐殺がなかったと考えるなどとんでもない」と鼻から言うのであれば、そのひとはもはやポストモダニズム系リベラルの名に値しない。
C''. むろん、上記の主張は、右と左を入れ替えても言える。
D.ポストモダニズム系リベラリズムの立場とは、このようにハードで、ときに自己矛盾を抱えかねないものなのだ。
3.デリダについて
デリダが上記のような主張をしたとは、授業ではひとことも言っていないし、ぼくもそんことは主張するつもりはまったくありません。それは単純な誤解、というか速記の恣意的な読みこみです。したがって、「東浩紀のデリダ解釈がおかしい!」とか言っているらしいひとは、単に的を外しています。この点については速記者(id:nitar)に確認をとってもらってもけっこうです。
4.付録
ちなみに、ぼくは90年代前半に南京に旅行で言ったことがあります。同じ時期にアウシュヴィッツにも行きました。アウシュヴィッツ(ビルケナウ)にはまだ人骨が転がっていました。ぼくは、そのとき手で掬った灰の感触をいまでも覚えている。他方、南京のほうはといえば、記念館は意外に小さな作りで、しかもなかの資料は本多勝一の著書からの孫引きばかりだった(具体的には多くのパネルが本多の著書の拡大コピーだった)。これ、いささか政治的にやばそうな話だし、おまえの記憶違いだとか言われるとなにもこちらも証拠がないのでいままであまり書いたことがなかったのだけど、とりあえずぼくの記憶としてはそうです。ちなみに、東工大の授業でもこの話はしたのですが、速記者に言ってオフレコにしてもらいました。
だから、きわめて私的な印象として、ガス室の有無はぼくとしては疑いえない。そりゃむろん、ポーランドのクラコフ郊外にあるあの膨大な敷地がすべて偽物でトゥルーマン・ショーだったといわれればどうしようもないけれど、そうでないかぎりで疑いえない。けれど、南京大虐殺の有無についてはそのような強い実感がない。
これがなにを意味するかといえば、もしかりにこれから、「ガス室はなかった」「南京大虐殺はなかった」キャンペーンが大々的に始まったとして、ガス室については、ぼくは死ぬまで「じゃあ、あの俺がみたものはなんだったんだ」と思うことができる。けれども、南京についてはそんな思いは残らない。だから、ぼくは転向するかもしれない。それは弱さだけれども、しかし、南京まで出向いたあげく、ぼくの心のなかにそういう差異が生まれたことは否定できない。南京まで行って出会えたのは本多勝一だった、この失望は決して浅くない(ちなみにぼくは中学生当時の教師の影響で、本多勝一の朝日文庫はほとんど読んでいます)。むろん、それは虐殺の事実性に疑いを挟ませるものではない。それはむしろ、単純に当時の中国政府の余裕のなさ、というかある種の怠慢を意味しているだけなのかもしれない。それに、いまでは状況はかなり違うだろう。きっと新資料などもあるのだろう。しかし、いまよりも事件に近かったはずの、90年代の状況がずいぶん違ったことは事実です。
以上、これは基本的には本題に関係がない、というより、むしろますますぼくへの不信感を呼び、こんどはこっちの文章が根拠に叩かれるかもしれない私的な感想ですが、ぼくがただ適当に南京大虐殺の例を挙げていると思われたらいやなので、書いておきます。それに、歴史的真実が云々というのならば、ぼくにとっては、まず20歳代のときの以上の体験が「真実」です。
それにしても、前々から思っていたのだけど、右でも左でも、ネットや2ちゃんねるで歴史認識問題についてアツく語っているひとの、どれくらいが強制収容所のあととか南京の資料館とかに足を運んでいるのでしょうか。かくいうぼくも、別にバックパッカーで世界放浪とかいうタイプではないから偉そうなことは言えないのだけど、学部生のころは韓国にも中国にもドイツにもポーランドにも沖縄にも行って、半世紀前の記憶のあとをしみじみ辿ったりぐらいはしました。ネットだけで「歴史の真実性」について叫んでいるひとを見ると、やはり(デリディアンとしてこんなことは言いたくないけど)、文字情報の相対性や弱さに単純に無自覚なように見えてならない。「リアルのゆくえ」でぼくがいったのは、そんなふうに文字情報ばかりで構成された世界観など、文字情報によってすぐひっくりかえるのだから、少しはみな自重したほうがいいのではないか、ということです。
5.付録の付録
文字情報ばかりといえば、はてなブログでは、ぼくが公認してもいない速記の断片的引用ばかりがコピーされ「東浩紀、許さん!」とか言われているらしいのだけど、上記のように、ぼくからすればそれは授業の内容についても僕の立場についても明らかに誤解している。そもそも、そんなに真実が大事だと思うのならば、そのかたがたは実際にぼくの授業に来て質問したらいいのではないでしょうか。
PS
投稿して二時間ぐらいたって、本多勝一氏の「本多」を「本田」と変換していたことに気づきました。ここに訂正しますが、むかしはこういうとき、2ちゃんねるとかはてなとかですぐタイポが指摘されていたので、逆に安心だったんですよね。なにも見ないのも、むしろ厳しいものです。
批評の書き方実践編
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年11月19日17:32
風の便りに、東浩紀スレッドが哲学版からサブカル板へと移ったと聞いた東浩紀です。このまま流浪のスレッドになるといいのではないかと思います。
さて、来年の1月に、朝日カルチャーセンターで下記のような講座を行います(じつはこれ以外にももうひとつ講座があるのですが、そっちはとくに紹介する必要はないでしょう)。
http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=35284&userflg=0
講座概要のとおり、完全に実践的な講義です。段落はこのぐらいの長さで切ろうとか、マイナーな固有名を出すときにはこういうテクニックを使おうとか、「だ」と「である」はこういうふうに使い分けると効果的だとか、そういう話をしようと思います。文章講座といっても、批評文の歴史がどうとか、三島と谷崎の『文章読本』を較べるとこうとか、そういう話はまったくしないので、なにも期待しないでください(笑)。単純に、東浩紀という批評家の文章の書き方を、みなさんに教えようというだけの頭の悪い講座です。
めずらしい機会だとは思いますので、ご興味があるかたはぜひ。ちょっと値段が高いのが難点ですが。
いちおう自分の文章を添削することにしていますが、可能なら、生徒さんの批評文の添削をしてみたいところです。授業のその場でみんなの前で添削されたいという豪気なかたがいたら、朝日カルチャーセンターに申し出てみてください。
ゼロアカ
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年11月13日11:51
東浩紀です。
ゼロアカについてあれこれ言いたいほうだい言われて、いささか神経症気味になってきました。あまり寝れません。2ちゃんねるの東スレも見ていますが、ちょっとこれはひどい。まあいまさらですが。
いちおう事実だけ述べておくと、形而上学女郎館とフランス乞食を買ったのは、太田さんの了解をとってのことで、あそこで太田さんがぼくを派手に止めていたのは演出、というかボケです。あんなことを、了解を取らないでするわけがありません。
あと、坂上秋成、斎藤ミツだけを上に上げたのは、同人誌への貢献度だけではなく、坂上さんと山田さん、斎藤さんと文尾さんの文章を読み比べれば理由は明らかではないかと思います。同人誌への貢献度については、個人的に確認を取っています。そもそも(道場破りの山田さんは知りませんが)、文尾さんは、評論にはあまり興味がないことをブログでも告白している。10000部でデビューさせるのは難しいでしょう。
それから、なんか面倒になってきたのでぶっちゃけて言うと、ぼくが現時点で最終通過者としてもっとも有力だと思っているのは、やずや、峰尾の2人です。つぎに村上、三ツ野、坂上。村上は同人誌のFate論も元長への手紙もよかった。斜に構えたところがなくなれば伸びるでしょう。三ツ野は今回の同人誌を読んで一皮剥けた感じがした。坂上はオーソドックスすぎるけど可能性がある。この3人はいずれも、自分の殻を自分で壊せていない感じがします。そこが越えられれば、いいものを書くでしょう。やずやはエッセイ志向だし、峰尾は自分の世界しか見えていないので、村上・三ツ野・坂上のいずれかが第5次で傑出したところを見せれば、ぼくはそちらを一押しにして最終関門に臨むつもりです。
雑賀・筑井組は今回たいへん期待していたのですが、百合特集は表層的で心に響いてきませんでした。正直、「女の子」を売りにしようとしたあまり、ぬるい内容にしかなっていなかったと思います。百合のイメージとしての紹介になっているだけで、分析がない。これでは評論系同人誌ではない。少しは論考もほしかった(雑賀のは論考の名に値しない)。斎藤さんは真面目で教養もあるけれど、今回の同人誌では、腐女子による腐女子のための批評しか考えていない。別にそれを否定するわけではないけれど、そのスタンスはゼロアカ道場にはそぐわない。立ち位置が変わらなければ、次回は落とすことになるでしょう。
■
そもそもこの企画、ぼくが趣味でやっているものではない。時間点の導入にしろなんにしろ、全部講談社と協議して決めているし、全体の盛り上げのためにとても頭を使っている。門下生にもめちゃめちゃ気をつかっている。懇親会だって、正直、ぼくはとても疲れていて、スタッフだけでゆっくりと飲んで癒されたかったのだけど、それだと盛り上がらないからバカみたいにテンションをあげているわけです。それなのに、どうしてぼくばかりが非難されるのか。そしてなんでぼくひとりが、このブログで対応し続けなければならないのか。しかも、あちらこちらに気をつかって。
このままでは、ぼくは潰れるような予感がします。
もともとぼくの仕事のなかで、ゼロアカは小さな一部にすぎない。とりあえず、このブログでは、しばらくゼロアカについての話題は行わないことにします。あと、ゼロアカについて抗議があるかたは、講談社BOXまでお願いします。門下生も含め。
文学フリマ追記
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年11月13日04:23
東浩紀です。もろもろ仕事が溜まってクビが回らない状況になっています。
文学フリマについて「講評まだー」との声を多数頂いていますが、正直、けっこう時間が経ってからの発表になると思います。なんといっても、分量が多いし、ぼくも疲れている。ゼロアカの準備で、ぼくもいままでかなりリソースをつぎこんできました。ゼロアカだけで生活しているわけではないので、少しは他の仕事もさせてください。
ご理解をよろしくお願いいたします。
■
……なのですが、下記のエントリには答える必要があるでしょう。参加者のひとりから、ふたたび批判を頂きました。
http://d.hatena.ne.jp/boilednepenthes/20081112/p2
文尾さんが言いたいことは心情的にはわかります。ただ、あのときの状況を正確に思い出してほしい。そもそもぼくと太田さんは、当日急遽「時間点」を導入していた。では、それによって圧倒的に有利になったのはだれなのか。じつはそれが、文尾さん・斎藤さんのコンビだったのです。もし突然の時間点導入がなければ、文尾さんたちは5位確定で、完売しても形而上学女郎館、フランス乞食には審査点で適わなかったはずです(正確には、腐女子が完売しても、形而上学女郎館なら456冊、フランス乞食なら461冊売れればダメでした)。
ぼくがあのとき、形而上学女郎館とフランス乞食の2冊を買ったのは、ひとことで言えば、時間点導入が引き起こしたそのアンバランスに対して、逆のバランスをとるためでした。もう少し細かく記せば、ぼくの発想の順番はこんな感じです。
ぼくたちはまず時間点を導入した。あまりに観客の数が多いので、そうしないと企画の主旨(観客の支持を考慮する)に反したからです。新ルールのおかげで、文尾さんたちにも当選の可能性が出てきた。そして実際に腐女子チームは完売となった。形而上学女郎館とフランス乞食がそれを追随し、場も盛り上がってきた。ここまではよかった。しかし同時に、時間は残り一時間を切り、ブース周辺も様子見のひとが多くなってきた。これはまずくなってきた。なぜなら、旧ルールの前提にあったのがどのチームも完売しないことだったとしたら、今度は時間点導入の前提にあったのは、午前中のような売り上げの速度が維持され、どんどん完売が出ることだったからです。ところがその点ではまた状況が変わってきた。ではどうするか。このままでは、新ルールがあまりに形而上学女郎館に不利に働いてしまう。彼女たちも完売するからこその、時間点勝負だったはずだ。そこでぼくは、場を再活性化し、全体の売り上げを加速し、ふたたび通過者を運命の手に委ねるために、形而上学女郎館をパフォーマンスとして一冊買うことにした。同時に、形而上学女郎館とフランス乞食はもともと5点差なので、彼らは同等に扱うべきだと考え、フランス乞食も買った。
決戦の現場でのこのようなルール変更、道場主本人による場への介入が、挑戦者のあいだに不信感を呼ぶことは理解しています。しかし、ではあのとき(じつは結果として、時間点を加算しない場合と大して変わらない順位にはなっているのですが)、時間点を加算せず、「はい、腐女子売れましたか、でも東・太田点が低いからダメですね」でよかったのかといえば、やはりそうは思えない。むろん、主催者側としてはそのまま放置がもっともリスクが低い選択(ルールはルールだから!の一点張り)なのですが、ぼくたちはリスクが高くてもみんながもりあがれる、おもしろい企画を望んでいる。だからぼくは新ルールを作った。しかし、今度はそれによって特定のチームが不利になった。ではそれはそれでいいのかといえば、やはりそうも思えない(たぶんそうしたら、筑井さんと雑賀さんが文尾さん以上に不満をもったでしょう)。だから個別に調整した。しかし、そういう調整は、事前の同意なしに勘で行われるしかないので、誤解も生みやすい。そういうことだったのです。
これで納得してくれると嬉しいのですが。
■
まあ、該当エントリを見るかぎり、文尾さんもそれほど真剣には文句を言っているわけではないのかもしれません。
もしそうだとしたら、このエントリはネタにマジレスということで、スルーしてくださいw。
ただひとつ、それでもこれだけは指摘させてほしいのですが、あのぼくの行為に文尾さんたちを落としたいという意図を見るのは、やっぱり不合理です。なぜなら、もしぼくにそんな意図があるのなら、ぼくはそもそも、あんなパフォーマンスをする必要などなく、単純に時間点を導入しなければよかっただけのことだからです。
時間点を導入する時点で、それが形而上学女郎館に不利に、腐女子チームに有利に働くことは明らかでした。それはすぐわかることです。でもぼくはそれを導入した。その意味を考えてほしい。そうでないと、ぼくもちょっと悲しいです。
いずれにせよ、ゼロアカ道場で道場主として「公正である」ことは、あるいは少なくとも「公正であるように見せる」ことは、回が進み、みなさんと人間的にも交流が深まるにつれて、ますます難しくなっています。みんなに平等に接する、といったって、ぼく自身が審査員なのだから平等に接していてどうする、という感じがするし、おまけに全体の場も盛り上げなければならない。季節柄大学受験に喩えれば、いわばぼくはこの場で、予備校の教師と試験監督と採点者の3役を同時に任されているのであり、これは原理的にひとりでこなすには不可能な役回りのような気がします。にもかかわらず、ゼロアカ道場は、この文フリをきっかけにまたいちだんと注目を集めている。となると、今後、ゼロアカ道場に対しては、やっかみを含めさまざまな批判や非難が来るでしょう。
ぼく個人は、そういう反応には慣れています。けれども、できれば、門下生のみなさんには、それでもぼくがそんなに変なことをしていないことだけは信じてほしい。それはぼくの願いです。
文フリ感謝/1/28思想地図シンポ
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年11月11日11:25
おはようございます。文フリの嵐の一日が終わり、翌日熱を出してしまった東浩紀です。まだ熱があります。喉が痛くて声もまともに出ません。
思えば、10月19日の早稲田文学10時間連続シンポジウムから始まり、25日、26日のザ☆ネットスター!秋葉原祭り、そして一昨日の文学フリマと、ここのところお祭りが続きすぎました。さすがにぼくも若くないので、身体のあちこちに限界が来つつあります。
■
さて、その文学フリマ、たいへんな盛り上がりでした。
最終的な集計の公式発表はまだなのですが、全8チームのうち5チームが500冊完売で、平均でおそらく450冊以上売れたのではないかと思います(ここに速報があります)。参加者全員がほぼ無名で、販売時間が5時間しかないことを考えれば、これは奇跡のような集客です。
この数にはぼくも太田さんも驚きました。あまりにも客が多かったので、来場されたかたならご存知のように、採点方法や合格者数を変えなければならなかったぐらいです。
いまだから言いますが、太田さんは事前には、全チーム中マックスで200部ぐらいしか売れないだろうという意見でした。ぼくはそれより多少多かったのですが、それでも完売はないだろうと考えていた。つまりは、そもそも今回の採点方法は、500部の完売がないことを前提としていたわけです。だから、完売チームが5つも出て、あとは太田点と東点の合計だけで決まるのは主旨に反する。そこで、すでにあちこちでルポされているように、「時間点」の導入に加え、合格者を増やすことになりました。その判断について2ちゃんねるではやたらと非難されていますが、4位チームからひとりづつ選んだ人選を含め、ぼくは自分の判断には自信をもっています。点数や通過者の詳細については、そのうち公式サイトでも告知が出ることでしょう。
いずれにせよ、ゼロアカ道場はじつはまだ第4回。次回の第5関門で急に盛り下がらないように、がんばらねばならないですね。
いろいろ書きたいことはあるのですが、ぼくはじつはこれから、明後日締め切りで「パンドラ」用に総括原稿を書かねばならないので、それとネタが被るとアレなのでここでは控えておきますw。
とにもかくにも、門下生のみなさん、道場破りのみなさん、そして文学フリマのスタッフのみなさん、ご苦労さまでした! あと、主催者側として内輪に感謝することになってしまうのかもしれないけど、講談社BOXのスタッフのみなさんも、本当によくやってくれました。
みなさん、本当にありがとう。
なお、一部で話題の藤田直哉揉み上げ断髪式動画(撮影:濱野智史)は、このブログの公開のあと関係者に送るので、そのうちだれかがニコ動に投稿すると思いますw。
■
といったとこころで、今回の本題。
標題のとおり、来年の1月28日水曜日夜、東工大大岡山キャンパス講堂で『思想地図』のシンポジウムを行います。
テーマは「アーキテクチャと批判的言語の可能性」。パネリストは、磯崎新、浅田彰、宮台真司、宇野常寛、濱野智史、東浩紀(司会)。
シンポジウム冒頭で、宇野さんと濱野さんに15分づつレクチャーをしてもらい、それを叩き台に、社会設計としてのアーキテクチャ、ネットのアーキテクチャ、そして文字どおり「建築」のアーキテクチャの3つの領域が重なるところで議論を進める予定です。
このシンポジウムは、来年4月あるいは5月発売の『思想地図』第3号に掲載されます。特集は「アーキテクチャ」。同号には、このシンポジウム掲載と並行して、北田暁大、東浩紀、あと二人の参加者による座談会「『東京から考える』再考」(仮)も掲載予定です。
そもそも『思想地図』が創刊できたのは、ぼくと北田さんの対談本『東京から考える』が意外と売れたからでした。第3号は、その原点を捉え直す特集でもあります。
いや、原点回帰という意味では、第3号全体はもっと古くまで戻るかもしれません。上記の「アーキテクチャと批判的言語の可能性」というテーマは、ぼくのなかでは、あの10年前の『批評空間』のシンポジウム、「批評の場所はいまどこにあるのか」に繋がっている。コンテンツよりもコミュニケーションが優位で、したがって作品論よりも下部構造分析が優位になってしまう世界において、批評的=批判的思考が生き残るとすればそれはどのような方向においてなのか。それが、今回ぼくが議論したいことです。
いずれにせよ、月末の平日夜という社会人には難しい条件ではありますが、かわりに無料なので、1月28日はぜひご来場ください。よろしくお願いいたします。
■
といったところで、告知は終わりです。
なんか、本題のほうがあっさりしていますが、『思想地図』は別にブログでおもしろおかしくもりあげるようなものでもないので、こんなもんで十分でしょうw。
シンポジウムの人選の意図は、わかるひとにはわかるはずです。ぼくとしては、磯崎さん、浅田さん、宮台さんのご3方に出席を快諾いただけたのは、個人的にとても感謝しています。あとは、司会として、ただの世代対立や論壇プロレスではないおもしろい議論にできるかどうか、ぼくの腕の見せどころですね。
■
追記。
書き忘れていました。
文学フリマ、ぼくの友人もたくさん出店していて、本当はいろいろなところに挨拶にでかけようと思っていたのだけど、当日はつぎつぎに来客は来るわ、太田さんと密談しなければならないわ、取材は来るわで、結局まったく他のブースを回れませんでした。ゼロアカが文フリ参加者のみなさんにあるていど迷惑をかけているのは確かなので、そのお詫びもかねて回らなければならなかったのですが、すみません。それだけ心残りです。
というかそもそも、ぼくはあの日、他のブースを回るどころか、朝食も昼食もまったく食べる暇がなくて、懇親会でもフードのテーブルに近づくことすらできず、ようやくものを口にできたのは夜10時過ぎ、二次会だか三次会だかでの焼きそばがはじめてでした。翌日、高熱が出たのも当然です。倒れなかったのがふしぎなくらいです。懇親会でも、なにを話してだれに紹介されていたのか、かなり記憶が混然としています。
とにかく、すごい熱狂でした。
あらためて、あのお祭りに参加したみなさん、お疲れさまでした。そしてありがとう。
山本寛氏と対談(追記あり)
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年11月08日11:50
こんにちは。和解イヤーの流れは止まるところを知らず、5年ぶりに村上隆氏よりメールが来たり、7年ぶりに岡崎乾二郎氏と再会したりしている東浩紀です。
ほんと、阿部くんが言ったとおり、ぼくは死ぬのかもしれません。というか、天がそう言っている感じがします。不気味です。
さて、ザ☆ネットスターの反省会でさんざん番組批判をしてクビになりかけたり、ついにゼロアカ/文学フリマ前日を迎えたりといろいろ語ることはあるのですが、今回はちょっと別の話を。
上記写真のように、一昨日の木曜日、アニメ監督の山本寛氏と対談をしてきました。『アニメージュ・オリジナル』の次号に掲載される予定です。
山本さんは『涼宮ハルヒの憂鬱』の演出と『らき☆すた』(4話まで)の監督でいちやく有名になったかたで、アニメには批評が足りない、と随所で熱く語っているめずらしい監督さんです。というわけで、当日も(『かんなぎ』や『らき☆すた』の話もありつつも)、なぜアニメには批評がないのか、あるいは少なくとも、なぜ内部からそう言われてしまう状況があるのかを、実作者の山本さんと批評家のぼくが双方の立場から分析するようなかたちで対談が行われました。たがいに毒舌ばかりになってしまったので、おそらく掲載時にはほとんどカットなのではないかと思いますがw、楽しい時間を過ごしました。
そして、そんななか、ぼくにとってとくに嬉しかったのは(これもカットされるかもしれませんが)、山本さんが、ぼくがいまから10年以上前、『エヴァンゲリオン』のときに行ったアニメ批評の仕事について、「たいへん刺激をうけた」と言ってくださったことです。
古い読者なら知ってると思いますが、実際にはぼくはそのあと、さまざまなところから「東はアニメがわかってない」と叩かれ、某ライター氏からは、面と向かって「あなたの存在自体迷惑だから、今後オタク関係について語るな」と罵倒されたりすることになります。というわけで、やべえ、この業界まじで怖いわ、と思って、アニメ業界からは微妙に距離をとることにしてきた(そしてその結果、美少女ゲームとかライトノベルについて多く語るようになった)のですが、そんな経験をもつぼくにとって、山本さんのその発言は——むろん、ぼくのアニメについての知識は実際に貧弱なので、山本さんは例外的に好意的なのだと思うのですが——、なんか、むかしの仕事がようやく報われたような気がして、素朴に嬉しくなりました。そうか、読んでくれている関係者もいたのだなあ、と。
帰り際に、山本さんより、「東さん、もういっかいむかしみたいにアニメについて熱く語ってください」と言われて、少々元気も出てきました。実際、ぼくの立ち位置も多少は変わってきたのだし、今後はアニメ(テレビアニメ)について趣味的に語ってもいいのかもしれません。
あ、そうそう>山本監督
ぼくは『涼宮ハルヒの憂鬱』第9話は傑作だと思いますよ! ギミック志向ではない山本さんの魅力は、あそこに十全に現れている。当日、それを言うのを忘れてました。今度、一緒にご飯でも食べましょう。
■■10時間後ぐらいの追記■■
内容が内容だけになんか来るかなと思っていたら、さっそくどこかのサイトで、「東はハルヒについて第9話とか言っても意味がないことを知らないからエヴァでも叩かれたんじゃないでしょうかね」とか嫌みを書かれていました。
あらためて言うまでもなく、ハルヒのアニメは放映とDVDでは収録順が違う。くだんのひとはぼくがそのことすら知らないと考えたようです。しかし、ぼくもむろん、そんなことは知っている(疑うひとはぼくと私的にハルヒの話をしたことがあるひとに聞くとよい)。ぼくとしては、そもそも文脈的に、ぼくが山本氏が監督の回を指しているのは明らかなので、DVDの話数を調べるのも面倒だし、放映時の記憶で話数を記したまでのことです。というわけで、ぼくが指していたのは、「サムデイ……」というタイトルのエピソードでした。キョンが暖房器具取りに行くやつです。
まあ、考えてみれば、確かに不親切、というか、むしろこれくらいのほうが通っぽくっていいのかな、といった変な邪念がありました。すみません。でも、嫌みを書かれるほどのことじゃないと思いますが……w。
☆
さて、そのコメントはどうでもよいのですが、それを見て考えたので追記。
まず大前提として、批評とはなにか。それは、書評や宣伝文とは違います。批評はそれそのもので自律した論理をもっている独自のジャンルです(とくに日本では)。したがって、批評家は批評家で誇りをもって仕事をしているのであって、独自の判断で対象作品やジャンルを選んでいる。裏返せば、いくら作品が好きでも、面倒な作家や読者がいるジャンルには手を出さないことがある。蓮實重彦が映画を選んだのは、彼が映画が好きだったからだけではない。彼の批評にとって、映画が必要で、また(言葉は悪いですが)映画が利用できたからです。創作と批評はそういう共犯関係を結ぶときがある。
したがって、アニメに批評がないのは、アニメへの愛が足りないからだ、とかいうのはきわめて一面的な見方です。そのようなことを言うひとは、批評家の心理について無知すぎる。
ぼくの考えでは、アニメ批評がいまなぜ低調かといえば、知識があるひとがいないとか情熱があるひとがいないとか以前に、そもそもアニメ批評は、読者の(読者の、です。書き手の、ではありません)質があまりに悪すぎて、いま批評を志す人間にとってコストが高いわりにリターンが少ないからです。具体的に言えば、一生懸命なにか考えて書いても、ちょっとした名前のミスとかなんとかで鬼の首でも取ったように非難する、そしてそれを「見識」だとカンチガイしている読者が多すぎるからです(これは、山本さんも同じことを「妄想ノオト」の出張版で書いていますね)。だから、ほかのジャンルについても批評が書けるひとは、もはやアニメについて批評を書かなくなっている。『思想地図』に『らき☆すた』論を書いた黒瀬さんも、ネットで枝葉末節ばかり突っ込まれていたので、そのあとはすっかり現代美術の世界に戻ってしまいました(ぼくの印象だから本人の意識としては違うかもしれないけど)。そうやって、アニメについてしか書けないひと、語らないひとばかりが、アニメ批評を占有していくことになる。
したがって、もし今後、みなさんがアニメについておもしろい「批評」を読みたいと思うのなら、言いかえれば、多角的なジャンルについて批評が書ける才能をアニメについての批評にひきずりこんでいきたいと思うのならば、まずはこの状況を変えたほうがよい(どうせ批評なんてくだらないんだから、と考えているひとは、むろんこの意見は聞かなくていいんですよ)。アニメ批評が育たないのはなぜか、ライターが既得権益を守っているからだ、編集者が怠慢だからだ、というのはやさしいけれど、本当の原因はぼくはそこにはないと思う。アニメ批評の読者が育っていないことこそが、問題なのです。批評というだけでヒステリーを起こし、くだらない揚げ足取りをするひとばかりが目立つのでは、だれもアニメについて批評なんかしなくなるに決まっている。そもそも悪口は褒め言葉より目立つものです。アニメについてなにか新しく書こうと思ったとき、そのひとが信じられる読者がどれくらいいるのか。アニメ批評の未来はそこにかかっているのではないでしょうか。
ま、これはアニメ批評以外にも言えることではあるのですが……。
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というわけで、山本さんの情熱にほだされてしまったのか、ひさしぶりにフレーミングを起こしそうなエントリーを上げてしまいましたw。
こういう話題についての「議論」は経験的に不毛なだけなので、ぼくは今後、この話題を続けるつもりはありません。書きっぱなしですみませんが、とにもかくにも、ぼくはそんなふうに思っているということです。
蛇足まで。