2003年6月


水無月初日(日) 「地球縮小化」
今日から水無月(六月)である。六月と言えば梅雨の季節。雨がたくさん降るシーズンなのに、
なぜ「水無月」というのか不思議に思って調べてみると、水無月の「無」ってのは、実は格助詞の
「の」だったのである。つまり「水無月」とは「水の月」ということであり、「田に水を引き入れる月」
という意味だそうだ・・・・・・と、またまた字数稼ぎのためのウンチクを披露してしまった!(笑)

                 ★    ★    ★    ★    ★

ワタシとダン隊長は頻繁にメールや電話で連絡を取り合っている。既に皆さまご存知のとおり、
国際電話が高かったのはもう遥か昔の話であり、現在、NZから日本への電話料金は1分あたり
10円、つまり1時間しゃべってもわずか600円なのである。ってことは、日本でヘタに携帯電話
同士で会話するよりも、国際電話の方が安いってことになる。冷静に考えれば、これもスゴイ話
である。

その昔、「外国ってやっぱ遠いんだなぁ・・・」と思わせるモノの1つが国際電話であった。異常に
高い通話料金、劣悪な音質、タイム・ラグ(伝達時間のズレ)によるチグハグな会話・・・・・どれを
とっても「外国は遠い」ということを意識せざるを得ない要素ばかりであり、また我々も妙に素直
にそれを受け入れていた。

ところが1985年・ニューヨークで開催された「先進5ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議」での話し合
いで、米国の対日貿易収支の不均衡を是正のため、「円高ドル安政策」をとることで合意(いわ
ゆるプラザ合意)がなされた。それ以降、急激に円高が進み、それに伴って海外旅行が一気に
大ブレークするワケである。お若い方はご存知ないかもしれないが、スゴイ時には1ドル=79円
なんて時もあったのである。(1995年4月) そら銀行でUSドルに両替した時にもらえる額が、
それまでの3倍にもなりゃスゴイわ。(笑)

円高による海外旅行ブームに火がつくと、これまでと異なり一気に外国が身近なものになってき
た。さらにアメリカからの圧力によって市場開放が進み、今度は通信分野が大ブレークしはじめ
る。ポケベルから携帯電話へ、パソコン通信からインターネットへと、各種通信機器が市民生活
の中で当たり前のように使われるようになってきた。特にインターネットの普及は地球をこれまで
の1000分の1くらいの大きさにしてしまった感がある。

こうなってくると、イヤでも時代に逆行してみたくなるのがワタシの特徴である。急用じゃなけれ
ば、ワタシはできる限りEメールだけではなく自筆で手紙を書くし、電話でしゃべるよりも実際に
会って話をする方が好きなのである。やっぱ人間同士の付き合いの中に、無機質な機械が介在
するよりも、多少不便でも人間味溢れる手作業の方が気持ちが伝わりやすいのではないであろ
うか・・・・・・・な〜んて主張を、ホームページを立ち上げて、ちゃっかりインターネットを利用して配信していることに対して、何の矛盾も感じないところもワタシのカワイイ特徴である。(笑)



水無月弐日(月) 「プロフィール」
昨日、ダン隊長と電話で話をしていたら、突然、隊長がトンデモないことを言い出した!!!!

     「時々よそのホームページを見ていたら、そこの管理人のプロフィールを
      書いてるコーナーがありますよねぇ? あれって、けっこう興味をそそり
      ません? ウチでも「し〜さまのプロフィール」ってコーナーを創っちゃい
     ましょうよ〜ぉ♪」

確かにホームページの製作者や管理人のプロフィールを公開してるサイトが数多くある。中には
ご丁寧に写真入のところもある。しかーし! ワタシは自分の醜態をネットで公開する根性など
カケラもない。ダン隊長にこのワタシの強い意志を説明したのだが、隊長も見た目の優しさとは
対照的に、非常に強い意思を兼ね備えた快男児であり、言ってみりゃ、「肉食のウサギ」みたい
なモンなので、そう簡単にゃ引き下がらない。このまま討論を続ければ、PL法(製造物責任法)
まで持ち出し兼ねない。てなことで、いま非常に困っている。

これまでにも某アングラ系掲示板で、ワタシのプロフィールに関する様々な噂が飛び交ってきた
ことがある。その中での最大のデマは、「NZ在住と言うのは真っ赤なウソで、実は東北地方の
某田舎町に住んでいる」というモノであった。ワタシは東北地方は大好きなので、別に不快感は
なかったのだが、このカキコをした人の類稀なる想像力に思わず大笑いしたものである。中には
匿名&捨てメルアドでワタシに直メールを送ってこられた方もいる。メールの内容は「もし本当に
NZに在住しているのならば、その証拠を見せてください」というものであった。基本的にワタシは
頂いたメールには、その内容の如何に関わらず必ず返事を出すことにしている。もちろん、この
方にもワタシは丁寧な返事を書いた。「解かりました。そちらにコレクト・コールで電話をかけますから、電話番号とお名前を教えて下さい」と。だが、その後その人からの返事はない。(笑)

ワタシの容姿に関しては、以前、掲示板でも話題にのぼった事があるが、これまでに似ていると
言われた経験の芸能人・有名人は下記の通りである。

   イケテル系・・・・・ジョン・ローン、石井竜也(米米クラブ)、清水宏次郎、
   キワモノ系・・・・・デーモン小暮、一堂零(鬼面組)

シンガポール航空のCAさんには、頻繁に「ジョン・ローンに似ている」と言われるのだが、これが
日本人の若い女性になると、圧倒的に石井竜也に似ていると言われることが多くなり、男性から
はデーモン小暮に似ていると言われる。そして皆さんに共通しているのは、ダン隊長が主張して
いる「し〜さま=一堂零説」を聞いた途端に大爆笑することである。失礼な!!!

でも、ジョンローンと石井竜也&清水宏次郎の3人には、確かに顔の特徴に共通性があるとは
思うのだが、デーモン小暮や一堂零ってのは、ジョン・ローンとはあまりにも方向性が違うような
気がするのだが・・・・。


             
        ジョン・ローン            デーモン小暮             一堂零



水無月参日(火) 「似非大家族」
今、我家には総勢8名(大人5名・子供3名)の人々が住んでいる。元々は5人家族なのだが、
ベビーシッター1名に加えて、居候のカップルが2名住み込んでいるワケである。

父親が中2の時に他界して以来、母親と姉とワタシの3人暮らしであったせいか、ワタシは妙に
大家族ってのに憧れていた。家族が大勢いると賑やかで楽しい。食事時など賑やかなのを通り
越して、もはや戦場に近いものがある。それでもやっぱり楽しいことには変わりない。ご飯だって
1〜2合炊くよりは7〜8合炊く方が美味しくなる。家族が増えるとワタシは無性に中華を食べに
行きたくなる。中華もやはりド〜ンと注文した方が楽しいのだが、ワタシは小食なので、こういう
機会でもない限り滅多に食べに行くことはない。

さて何かにつけ楽しい大家族なのだが、1つだけ問題がある。それはお風呂(シャワー)である。
日本では当たり前の「瞬間湯沸器」ってのが、NZの一般家庭にはないのだ。つーか、そもそも
ガス自体を引いている住宅がない。コンロもすべて電気式。お湯もボイラーに貯めた水を電気で
沸かすという方式である。で、そのボイラーってのがちょうど風呂桶一杯分くらいの容量しかない
ため、一度に大人4人がシャワーを浴びるのが限界なのだ。ボイラーのお湯が空になると、当然
シャワーから出てくるのは冷水。夏ならまだしも、冬場は非常に厳しいものがある。

NZは治安の良さも手伝ってか、日本からの留学生が非常に多い。彼らの多くがNZ人の家庭で
ホームステイをしているのだが、お風呂が原因のトラブルってのがけっこう多い。NZの一般家庭
ではボイラーの容量の問題もあり、平均的な入浴時間は5分以内なのである。ところが、日本人
の感覚からすれば、お風呂は最低でも15分以上、女性ならば1時間近くかけてゆっくりと入る
のが当然だと思っている。しかも、お湯をジャンジャン使ってシャワーを浴びるため、後から入浴
する人のお湯が無くなってしまうのである。そこで、ホストが「シャワーは5分以内で済ませて!」
と注意をすると、事情を知らない日本人はキレてしまうワケである。このような事情を踏まえて、
現在、我家ではお風呂は3部制を取っている。つまり朝組・昼組・夜組に分かれてシャワーを浴
びるワケである。ちなみにワタシは朝組である。

今日の夕食は外に韓国料理を食べに行く予定である。当然ながら思いっきり体に焼き肉の匂い
が染み込むハズである。誰だってそのまま寝るのはイヤである。ってことは・・・・・・きっと帰宅後
にシャワー問題が炸裂するであろう。



水無月四日(水) 「不親切」
当たり前の話だが、日本の各テレビ局は日本語で番組を放送している。例え洋画であろうとも、
ちゃんと日本語に吹き替えて放送している。そりゃ視聴者の中には英語が堪能な人もいるとは
思うが、大半の人々は英語が不慣れであるからして、その人たちに番組を楽しんでもらうため
に、放送局は当然のように吹き替えを行うワケである。とっても親切だと思う。ところが、世の中
には不親切極まりないモノが多々ある。

車を運転していると、数多くの道路標識を見かける。その街に住んでいる人が道路標識を見る
ことはあまりない。真剣に見ているのは、大抵はその街以外のところに住んでいる人々である。
その街の地理に不案内な人々にとって、道路標識ってのはカーナビや地図と共にとても重要
な役割を果たすワケである。

ところが、中にはスゴク不親切な道路標識もある。例えば京都駅から嵐山に行くとする。標識の
案内に従って「嵐山」と書いている方に順調に運転していると、とある交差点の手前にある標識
を見た途端、焦ってしまうことがある。直進しても左折しても嵐山と書いているのだ! この標識
を作った人は、親切のつもりでそのように表記したのであろうが、不慣れなドライバーからすると
「オイオイ、どっちに行った方がエエねん!」となるワケである。

しかし、これはまだマシな方である。ヒドイ場合になると、それまで親切丁寧に案内してくれてい
たのに、差し掛かったT字交差点で何の標識も出ていないことがある。こうなると焦るどころでは
なく、もはやパニック状態に陥って、「途中で見捨てるなよ!」と叫びたくなる。とっても不親切で
あると言わざるを得ない。

さてさて日常生活の中でワタシが最も「なんて不親切じゃ!」と、怒りさえ覚えるものが1つだけ
ある。それはパソコンを購入した際に付いている取扱説明書である。何のタメライもなく難解な
用語を多用して書いてある説明書を読むたびに、スゴク腹が立ってくる。自分の読解力の無さを
棚に上げ、「これ書いていたヤツって、ひょっとしたら頭が弱いんじゃねーかぁ??」とさえ思う。
基本的に彼らは、「説明書を読む人にはパソコンに関する充分な基礎知識があるもの」と勝手に
解釈して執筆しているのではないか。

しかし、それでもイラストや写真など使って、以前よりは丁寧&解かりやすくなってはいる。この
努力はワタシも認める。ところが、パソコンを使っている最中に出てくる各種メッセージに関して
は、相変わらず「利用者無視」の傾向が強い。ワタシなど、画面に突然「不正な処理をしました」
なんてメッセージが出ると、一瞬心臓が止まりそうになる。特に変わった使い方をしていたワケ
ではないのに、何故こんなキツイ言われ方をしなきゃいけないのだろうか? 「ありゃ? ちょっと
マズイ状態かも?」とか「おイタしちゃダメじゃな〜い♪」など、もっと優しい言い方があるはずで
ある。ったく不親切である!!



水無月伍日(木) 「お別れ会」
我家に2週間ほど滞在していた居候カップルが、帰国の途についてしまった。それまで賑やかで
あった分、いなくなると急に物静かに感じられ、何だか寂しくなってしまう。特に子供達はスゴク
なついていたので、自分達が学校に行っている間に旅立ってしまったことに、ちょっとショックだ
ったようだ。

てなことで、昨夜はお別れ会を兼ねて、近所
の中華料理屋に夕食を食べに行った。別に
本格的な中華料理のレストランではないのだ
が、ここクライストチャーチではわりと人気の
レストランである。我々はフカヒレのスープを
筆頭に、食べたい物だけを適当に注文した。
注文したのはすべてSサイズ。でもやっぱり
ボリューム満点! スープ、エビのゴマ揚げ、
そして春巻きだけは2つ注文したが、残りの

       なんちゃってフカヒレ・スープ?

料理はSサイズ1つで充分みんなでシェアできる。写真の10種13品にビール3本とジュースを
3本を加えて、料金は全部でナント111NZドル(約7,500円)! やっぱり安い♪ ただ味の方
は日本で食べる中華料理の方が、やっぱり日本人の口には合っているかもしれない。

ワタシは好きな言葉に「一期一会」というのがある。ご存知の通り、これは茶道の真髄を表した
言葉で、人をもてなす場合には、これが最後の機会だと思って、最大の誠意を尽くせという意味
である。次回、また会うチャンスがある思うと、人はどうしても今の状況下では手を抜いてしまう
ものだが、2度とこの人とは出会うチャンスがないと思えば、やっぱりベストを尽くす。仮に相手
が自分の苦手なタイプであったとしても、それを受け入れることができることだってできる。

お腹一杯にゴハンを食べた後、自宅に戻ってから2次会のスタート。大いに飲んで、大いに語り
合いながら、最後の夜は静かに過ぎ去って行った。


    
          エビのゴマ揚げ             春巻き               野菜炒め
     
          鶏の唐揚げ          豚肉の辛子醤油炒め         焼きソバ
    
            上海カニ              チャーハン             麻婆豆腐



水無月六日(金) 「倹約と節約とケチ」
知人の女性から切実な話を聞いた。彼女はお見合い結婚し、旦那さんの実家で暮らしている。
そこの姑さん・・・・・・つまり旦那さんの母親ってのが、かなりスゴイ人らしい。決して悪い人では
ないそうなのだが、恐ろしいほどのケチらしいのだ。例えば、トイレの水は小用の場合には3回
に1回しか流してはイケないらしく、トイレの壁にはその旨が書いた張り紙がしてあるそうだ。
またお客さんが来る予定があっても、茶菓子などは相手が持ってくるだろうから、決してこちらで
用意してもダメだそうである。(笑) 因みに、彼女は昨年、待望の初ベビーを出産したのだが、
そのお祝いの席に親戚・知人を招待した際も、鯛のお頭付は人数分揃えて余るとモッタイない
ので、4人に1つしか割り当てがなかったそうである。

「倹約」および「節約」という言葉がある。ケチの丁寧語(又は嫌味)のような感じで使われること
もあるようだが、実際にはまったく違う概念である。ワタシの認識では「倹約」ってのは、明確に
不必要な出費を押さえることであり、「節約」とは必要で物であっても、ガマンができる範囲内で
出費を押さえることであり、「ケチ」ってのは必要と思える出費まで押さえることだと考えている。
この基準で行くと、「トイレの水は3回に1回しか流さない」ってのは、やっぱりケチと言わざるを
得ない。

まぁ、人それぞれ考え方・生き方が違うワケであるからして、他人の財布のことまでゴチャゴチャ
干渉しようとは思わないが、ワタシ自身はケチ臭いのはキライである。特に人をもてなす場合に
は、昨日の徒然でも書いたように、最大限のことをしたいと考えている。もちろん、それは金銭的
なことだけを意味しているのではない。あくまでも心構えが先である。


例えば1万円しか持っていないのに、2万円の接待はできない。人から借金してまで2万円分の
接待をすれば、これは見栄だと思う。しかし、逆に1万円を持っているのに5千円で済ますような
接待だけは絶対にしたくない。精一杯の工夫を凝らして、1万円で数万円分の価値がある接待
をしたいワケである。これは決して無理なことではない。最高のおもてなしをしたいと言う気持ち
さえあれば、所持金の多少に関わらずスバラシイ接待ができるのだ。ただし、「できる限り安く済
ませよう」という気持ちが優先していているようでは絶対に不可能である。

ところで、ワタシは「割り勘」ってのが苦手である・・・・・・って、これだと多少誤解を生むかもしれ
ないので、もっと正確に述べると「割り勘作業」ってのがキライなのである。。コンパやOFF会なら
イザしらず、知人と飲みに行くのに割り勘ってのは、どうもスマートじゃないような気がするのだ。
特にレジの前で大の男が1円単位まで割り勘しているのを見るとイライラしてしまう。ワタシは
友人と飲みに行ったりする時は、いつも「ご馳走する」か「ご馳走される」かのどちらかである。
例えば1軒目で相手が支払ってくれれば、2軒目はワタシが支払うし、前回ご馳走してもらった
ならば、今回はこっちがご馳走すると言った感じである。結果的には割り勘と同じだと思うのだ
が、少なくともレジの前でゴチャゴチャするよりも遥かにスマートだと思う。

しかし、世の中はこのような考えの男性ばかりじゃないようで、中にはホントにスゴイ人もいる。
人のオゴリだと解かった瞬間、見苦しいくらいに暴飲暴食をやっちゃう男がいるんだ、これが!
そのくせ、自分がご馳走する段になると、妙にケチくさい注文をし始めるのだ。(笑) ちなみに、
ウチの姉・・・・じゃなくて、知人のA女史はこのようなタイプの男が大嫌いである。だから未だに
独身である。(爆)



水無月七日(土) 「続・倹約と節約とケチ」
時々ではあるが、読者の方々からこの平成徒然草を読んだ感想メールを送って頂くことがある。
最近だと「恋愛論」を書いた折、何通かのメールを頂戴した。で、昨日の徒然で書いた「ケチ」に
ついても、数人の女性からメールを頂戴したのだが、皆さん、過去においてよほど腹に据えかね
る体験があったのか、「ケチな男」に対してはかなり辛辣なご意見ばかりであった。(笑) 知人を
対象にしたヒアリング調査を行った結果でも、男女とも「男のケチだけは見苦しい!」と言う意見
を持った方が大勢いた。特に女性のご意見で多かったのは、「人を食事に誘っておいて、割り勘
にする男は最悪」というものであった。

さてさて、実はワタシも過去において、かなり気分の悪い経験をしたことがある。今から5年ほど
前のことだが、知人のF氏を(ワタシよりも10歳ほど年上の男性)から、「何か美味しい物が食べ
たいんだけど、もしイイお店を知ってたら連れて行ってくれない?」と言われ、ちょいとお世話に
になったこともあるので、そのお礼を兼ねてこの人を食事に誘った。まぁ、年長者ってこともあり、
美味しいものが食べたいというリクエストもあったので、それなりの料亭でそれなりの食事をした
のだが、F氏はワタシの奢りだと分かった途端に、急にガッツが沸いてきたのか、最初に行った
料亭では「おねーさん、お銚子をあと5本追加ね♪」といった感じで、ガツガツと飲み食いを始め
た。別に時間はタップリとあるのだから、もっとゆっくり酒と料理を楽しめばイイのに、ノリとしては
ほとんど居酒屋の「2時間食べ放題・飲み放題」の状態。

さらに、そのノリは次に行ったクラブでも衰えることはなかった。若いおねーちゃんが両隣に座っ
てくれたのがよほど嬉しかったのか、先ほどにもましてパワー全開! 外から寿司を注文して、
おねーさん方に大サービス! もちろん支払いはワタシである。高級ブランデーを軽く2本空けた
上に、3本目は自分の名前でキープ・・・。大はしゃぎするF氏の姿があまりにも恥ずかしかった
ので、「そろそろ帰りましょうか?」と言うと、「ケチくさいことを言うな!」と怒られてしまった。

午前0時近くになり、ようやくクラブからの脱出に成功したのも束の間。今度は「さっきの店では
寿司を食べ損ねたから、寿司を食べに行こうぜ!」とのお誘い。近くの寿司屋で小1時間ほどで
これまた死ぬほど飲み食いしたF氏は、キッチリ3人前のお土産寿司を注文した後、それを手に
してやっとこさ家路につき、ここでワタシも開放されたのであった・・・・・と、ここまでならば、まぁ、
品のない知人にタカられたということで諦めの1つもつくのだが、気分が悪かったのは、実はここ
からである。

後日、そのF氏が周囲の人々に、「アイツが無理に食事に誘うから仕方なく行ってやったけど、
大した店じゃないし、ツマらなかったので、途中でさっさと帰ってきたよ」と吹きまくっていたので
ある!! これを聞いてワタシはかなりムッとした。そして数週間後、ワタシがムッとしていると
いう噂を聞いてさすがに気マズイと思ったのか、ある日F氏が突然ワタシに電話をかけてきて、
「この前のお礼に、今度は俺がご馳走するよ♪」と誘ってきた。で、F氏に連れて行ってもらった
のは、「餃子の王将」であった。

ワタシは以前にもましてムッとしてしまった。誤解があるとイケないので、ハッキリ書いておくが、
ワタシは別に王将はキライじゃないし、また人からご馳走してもらったからには、感謝こそすれ、
例え連れて行ってもらったところが立ち食いうどんであろうが、それに対して文句など全くない。
ムッとしたのは、後日、F氏が周囲の人間に、「アイツ(←ワタシのこと)をよく飲みに連れて行っ
てやるんだけど、この前も中華料理を食べに連れて行ってやってねぇ、フルコース料理を食べた
んだけどさぁ、アイツよほどお腹が減っていたのか、メチャメチャたくさん食べてたよ・・・・・・・」と
吹きまくっていたからである!! ワタシはF氏からご馳走してもらったのは、後にも先にもこの
時の1回だけであり、そしてその時に注文したのは、2人で餃子2人前とビール1本のみ
であり、さらにワタシが口にしたのは、餃子1ケとビールをグラスに1杯だけであった!!

昨日の徒然の最後の方に「人のオゴリだと解かった瞬間、見苦しいくらいに暴飲暴食をし、自分
がご馳走する段になると、妙にケチくさい注文をし始める男」と書いたが、実はこのF氏のことを
頭に浮かべていたのである。(笑) やっぱ「ケチ臭い男」ってのは見苦しい!!



水無月八日(日) 「信じるということ」
昨夜、久しぶりに旧友と話をする機会があった。いろんな話題の中で、この徒然草の話題も持ち
上がったのだが、「これまでに、お笑いネタから政治ネタまで、いろんな話があったけれど、宗教
の話題だけはまだ書かれてませんよね?」という指摘があった。確かオカルトっぽい話の延長上
で多少宗教っぽい話は書いたことはあるが、正面切って書いたことはなかったと思う。

宗教・・・・非常に書きづらい話題である。というのも「世界三大宗教」と呼ばれているキリスト教、
イスラム教、そして仏教を始めとして、この世には数多くの宗教があるワケだが、どの宗教にも
長い歴史と奥深い教えがあり、それを40年間しか生きていおらず、しかも無知なワタシが論評
する自体、非常に不遜なことだと思うからである。そこで論評ではなく、ワタシの個人的な感想を
書くことにする。

宗教に対するワタシの率直な感想は、「難解」の一言に尽きる。例えば日本で馴染み深いのは
キリスト教と仏教であるが、過去に何度か仏教の経典を読んでみたことがあるのだが、漢文で
書かれていることもあり、その意味するところはまったく解からなかった。恐らく一般の方でパッと
お経を読んで、即座にその大意を理解できる人など皆無ではないだろうか? 般若心経などは
現代語に翻訳された書籍が数多く出版されているが、やはり内容的には難しい。

一方、キリスト教はどうかというと、確かに日本で出版されている聖書はすべて日本語で書かれ
ているので、もちろん理解はできることはできる。しかし、これとて表面上の理解であって、その
奥に隠された深い意義を理解しているわけではない。さらに職業柄、1つだけどうしても気にな
ることがある。それは翻訳の問題である。

むかし読んだ書物の一節の中に、「翻訳とは、例えれば100m走のようなものである」というの
があり、非常に印象に残っている。100m走で最高の記録は何かというと、0秒フラットである。
しかし、そんなことは絶対に不可能である。それでもアスリート達は0秒フラットにできる限り近い
記録を出そうと努力をする。翻訳もこれとまったく同じで、ある言語から他の言語に100%変換
することは、事実上不可能なのである。それでも、通訳はできる限り100%に近い訳を目指して
努力するわけである。

聖書にしろ般若心経の解説にしろ、基本的には訳本である。ということは訳した人がいるわけで
あり、そうなると訳している間に必ず「訳者の意思」というのが介在する可能性がある。時として
それは時の為政者に都合よく訳されてしまう場合もあった。ご存知のように、聖書は元々は古代
ヘブライ語で書かれたものであるが、原書には「聖母マリアは処女のまま受胎した」とは書いて
いないと言う話を聞いたことがある。(事の真偽は不明であるが・・・・・・) もっとも、全体の1%
すらも満足に理解していないワタシが、100%翻訳ではないことを理由に「気になる」と言うのも
これまた不遜というものであろう。

宗教と神(仏)の存在とは切っても切り離せない関係だが、非常に興味深い話がある。スペース
シャトルで日本でもお馴染みのNASA(アメリカ航空宇宙局)。そこに所属する宇宙飛行士と言
えば、スーパーエリート達ばかりであり、アメリカでは「Nuts & Bolts People (科学的なことにしか
興味のない連中
)」と呼ばれている。おおよそ宗教とは無縁とも思われている人々達なのだが、
不思議なことに宇宙飛行を終えて帰ってきた飛行士たちは、みな急に宗教に目覚めると言う。
しかも、ほとんどの飛行士たちが「宇宙で神の存在を明確に感じた」という感想を述べているの
である。一体、これは何を意味するのであろうか?

さて宗教と似た言葉で、「信仰」というのがある。宗教と言うと、ワタシは何となく組織的な活動を
イメージしてしまう。組織的活動である以上、それを維持する為にはお金が必要となり、中には
本来の目的から外れて集金活動がメインになっているのではないかと思えるところすらある。
これが「信仰」だと非常に個人的なイメージがある。何かを心から信じ、そして仰ぐというのは、
とても大切なことである。何が悲しいって、「何も信じることができない・・・」と嘆き悲しんでいる
人ほど悲しいものはない。幸運にも、ワタシの周りには心から信じられる人々、そして愛すべき
人々が大勢いる。本当に恵まれていると思う。ワタシは彼らと巡り逢うことができたということを
通して、神の存在をも信じることができたし、彼らの存在そのものが、ワタシにとっての宗教なの
かもしれない。



水無月九日(月) 「漢字」
小学校の頃、テストで散々苦労したというのに、30歳を過ぎたあたりから、やたらと漢字が好き
になってきた。正確に述べると、漢字そのものではなく、漢字の成り立ちってのがスゴク好きな
のである。例えば、「人の為」と書くと「偽」という字になるが、思わず「なるほどなぁ・・・・・」と納得
してしまう。他にもまだある。「古い女」と書いて「姑(しゅうとめ)」となり、さらにこれが熟語となる
と、「姑息(こそく)」なんてのがある。何だかスゴイ話ではないか!(笑)

さてさて、数ある漢字の中で、ワタシが一等好きな漢字が1つある。「人」偏に憂鬱の「憂」と書いて「優」という字になる。悩んでいる友人を目の前にして、何もできない自分を腹立たしく思った
経験というのは、誰でも1度や2度はあると思う。しかし(うれ)い悩んでいる時、そばに誰か
がいてくれるだけでも、実はそれは充分な「優しさ」であり、そんな人のことを「優秀」と呼ぶの
ではないかと、勝手に解釈している。

逆に不思議だなぁと思う漢字もある。それは「静」と言う字である。なぜ「青が争う」と書くのであ
ろうか? 「争う」という言葉と「静か」という言葉の間の関連性が解からないのである。漢和辞典
があれば調べられるのだが、残念ながら手元にない。どなたかお解りの方がいらっしゃったら、
ぜひぜひご教授戴きたい。

皆さんも、一度自分の名前に使われている漢字の意味を調べてみれば、何か新しい発見があ
るかもしれませんぞ。(笑)

追記 漢字で思い出したのだが、以前「笑宿の鉄人・何でも部門」において、台北市内の吉野家
    のトイレで見かけた張り紙に「果皮」と書いてあったことから、これを果物の皮だと思って
    投稿したのだが、読者のYさんからお便りがあり、この場合の「果皮」とは「ゴミ」を意味する
    らしいということが判明した!! Yさん、有難うございました!



水無月拾日(火) 「漢字・・・・・続報」
まず最初のお断りしておくが、今日の徒然はめちゃめちゃアカデミックである! これまでハゲの
話題だの便秘の話題だの、本来のワタシの姿とはかけ離れた話題・・・・・・ではなく、思いっきり
得意な話題ばかり書いていたのだが、今日のワタシは違う! 知的香りをプンプンと漂わせな
がら書いているのである!!

昨日の徒然で「静」という字の成り立ちについての疑問を書いたところ、早速Hさんという方から
お便りがあり、非常に詳しい解説をして頂いた。

そもそも一口に「漢字の成り立ち」と言っても、実は大きく分けて次の6種類がある。

1)象形(しょうけい)・・・・・物の形をかたどって字形としたもの。「日」「月」「山」「木」など。

2)指事(しじ)・・・・・・・・・・数量や位置などの抽象的概念を字形の上に表すもの。
                  「一」「二」「上」「下」「末」「本」など。

3)形声(けいせい)・・・・・・音を表す字と意味を表す字を合わせてできた字。
                  「河」「鳩」「問」「婆」など。

4)会意(かいい)・・・・・・・・二字以上の漢字を組み合わせ、同時にそれぞれの意味を
                   も合わせてできた字。「日」と「月」を合わせて「明」、「車」を
                   三つ合わせて「轟」とするなど。

5)転注(てんちゅう)・・・・・ ある漢字の本来の意義を他の近似した意義に転用する
                   こと。例えば本来は「音楽」を意味する「楽」という字は、
                   音楽を聞くと楽しいことから「楽しい」という意味になった。

6)仮借(かしゃ)・・・・・・・・ある語を表す漢字がない場合、その語の意味とは無関係の
                  別の同音の漢字を借りて表す方法。戈(ほこ)の意の「我(が)」を
                  自分の意を表す文字として使ったりする類。

で、問題の「静」の字は3)の「形声」というタイプなのだそうだ。そんなこんなの基本的なお約束
を踏まえたところで、いよいよ「静」の字の解析に入ることにしよう。

形声タイプである「静」の字は、発音を表す「青」の部分と、意味を表す「争」の2つのパーツから
できているのだが、ここで1つ非常に複雑怪奇なお約束が発生する! それは「青」という字が
発音を表す文字として使用された場合、となりにある意味を表すパーツの部分に、「制する」とか
「抑(おさ)える」などの意味が追加されるのだそうだ。てなことで、「静」の字は最初にワタシが
考えていた「青が争う」ではなく、「争いを抑える」という意味になり、転じて「静か」になったワケ
である・・・・・・・・と、まるで最初から自分が知っていたかのようにエラそうに書いているが、無論
すべてHさんからのウケ売りであることは言うまでもない。(笑) 

とにかく、これでまた1つ賢くなった。メデタシ、メデタシ♪ Hさん、どうも有難うございました!



水無月拾壱日(火) 「マニュアルの落とし穴」
現代は「マニュアル社会」であると言われている。あらゆる分野でマニュアルが活用されている
ワケだが、外食産業ではそれがかなり進んでいる。特にチェーン・レストランでは、マニュアル化のおかげで、全国各地どこの店で食べても「均一品質・均一サービス・均一価格」を実現して
いる。「面白みがない」と言ってしまえばそれまでだが、逆に言えば、知らない土地でも安心して
入れるという魅力はある。

そんなマニュアル全盛の外食産業界の中にあって、今人気のスターバックス・コーヒーは例外的
に接客マニュアルってのがないそうである。同社では航空会社のクルーと同様に、デビュー前に
数十時間に及ぶ研修があるのだが、この研修でコーヒーに関する深い知識を得ることによって
「マニュアルには頼らない人材育成を目指す」というのがその理由らしい。確かにスターバックス
のように、お客様からの細かな注文まで応じる店では、単にマニュアルを暗記しただけの接客
ではダメなのかもしれない。(ちなみに、家から自分のマグカップを持参して、それにコーヒーを
注いでもらった場合、20円引きになるって知ってましたぁ?)

マニュアルというのは複雑なシステムを効率的に使いこなすのに抜群の威力を発揮する反面、
恐ろしい落とし穴もある。1つは「マニュアル外の事態に対応できない」ことで、そしてもう1つは
「習慣化による思考停止」である。

すべてがシナリオ通り順調に流れている時は、当たり前の話だが問題はない。だがシステムが
複雑になったり、接客サービスのように、人によって千差万別の対応が求められる時など、必ず
発生するのがイレギュラー(例外的事象)である。ある程度のイレギュラーなら予想できるので、
当然マニュアルの中にもその対処法を書いてある。しかし、ある一定のレベルを超えた予想外
の事象になると、マニュアルでは対処できなくなってしまうのだ。これが「マニュアル型人間には
応用力がない」と言われる所以である。

さらに問題なのは「習慣化による思考停止」である。よく笑い話で引用される例なのだが、大手のハンバーガーチェーン店に1人で入ってきたお客さんがハンバーガーを20個注文したところ、
応対した店員が「こちらでお召し上がりですか?」と尋ねたという。恐らくこの店員はマニュアル
に書いてある通りの対応を、ついつい習慣的にしたのであろうが、思考は停止していたと言わざ
るを得ない。

実はワタシ自身、過去にマニュアルの落とし穴に思いっきりハマってしまったことがある。ワタシ
はたまに飛行機を操縦することがある。飛行機は操縦に際してアホほどチェックしなければなら
ない項目がある。飛行機に乗り込む前の外部点検から始まり、エンジン始動、地上滑走、離陸、
上昇、水平飛行、旋回、降下、着陸、エンジン停止に至るまで、チェックの連続である。特に重要
なフェイズ(段階)での点検に関しては、「チェック・リスト」と呼ばれるマニュアルがあり、それを
音読しながら実施することになっている。

ある日のこと、着陸を数分後に控えて、ワタシは着陸に際して必要な各種点検を実施していた。
Landing Check List」と呼ばれるマニュアルを読み上げながら、1つ1つ丁寧にチェックしていた
つもりだったのだが、着陸に際して非常に重要な「フラップ」という装置を下げるのを忘れたまま
着陸してしまったのである。主翼の後ろ辺りの席に座ったことがある方々なら、一度は見たこと
があるかと思うが、飛行機が着陸する際に、主翼の後の部分から「ウィ〜ン!」という音と共に、
ヘンテコな板キレが徐々に後方にせり出してくる。あの板キレが、いわゆる「フラップ」と言われて
いる装置である。

ここでフラップについて、皆さんお馴染みのチャリンコ(自転車)を例にして簡単に説明しよう。
チャリンコは走っている最中は非常に安定しているのだが、走り始めと、止まる寸前は不安定な
状態になる。理由はスピードが落ちたことでバランスが取りにくくなったからである。だからと言って、まさかスピードを出したまま駐輪場に突っ込むのワケにはいかないし、結局はみんな適当に
スピードが落ちたところで、自転車から降りて手押しで駐輪場に停めるのが普通である。

一方、子供用の自転車には補助輪と言うのが後輪の横に付いている。これがあれば、どんなに
遅いスピードで走っていてもフラフラすることはない。だから狙いを定めて、ゆっくりと安全&確実
に駐輪場に進入していくことができる。ならば大人用の自転車にも補助輪を付ければイイとは
思うのだが、補助輪はゆっくりと走っている場合にはメリットがあるが、スピードが出てくると逆に
邪魔になってくるし、そもそも補助輪があるとスピードが出せない。となると、理想的なチャリンコってのは、走り始めと止まる寸前だけ補助輪が降りてきて、普通に走行している時には補助輪
が格納されるようなチャリンコということになる。

飛行機もこれと非常によく似ている。「飛行機の主翼=チャリンコの車輪」、「フラップ=補助輪」
ってな感じでイメージしてくれればイイと思う。詳しい説明は省略するが、飛行機は前進すること
によって主翼の下から機体を空中に持ち上げるための「力」が発生する。そしてこの力ってのは
スピードが速ければ速いほど、もしくは主翼の面積が広ければ広いほど増加してくるのだが、
もし機体を空中に留めておくため、離着陸に際して猛烈なスピードで突っ込んだとしたら、かなり長い滑走路が必要となるし、第一危険である。逆に主翼の面積を広くすれば低速で空中に浮い
ていることができ、スピードが遅い分、着陸に必要な滑走路も短くて済む。しかし、主翼が大きい
と、スピードを出そうと思った時には逆に邪魔になってしまうワケである。

そこで考え出されたのがフラップと言う装置である。フラップは補助輪と同じように、離着陸の際
など低速で飛行する場合、主翼の後の部分がビヨ〜ンと斜め下に伸びてきて主翼の面積が広
がり、低速でも空中に浮いていられるようにし、高速で飛びたい時には、主翼の中に格納される
仕組みなのだ。

では、フラップを出さずにスピードを落とすとどうなるかと言うと、機体は空中に浮いていられなく
なり、ストンと落下してしまう。いわゆる「失速」というヤツである。高度が高ければ、失速しても
回復操作ができるのだが、着陸寸前など高度が低い時には致命傷となってしまう。

・・・・・・・と、フラップの説明が長くなってしまったが、そのくらい重要な操作を、ワタシはコロっと
忘れてしまったのである!! 幸いにも小型機と言うのは、大型旅客機と比べて性能的に失速
しにくい特性を持っているため、大事には至らなかったが、それでも接地の瞬間にはドス〜ンと
言う音と共に、かなり強い衝撃があった。(ヘタをすれば車輪が折れて大事故になっていた)

後からよく考えてみると、あの時のワタシは「Landing Check List」を読むことは方法論の1つに
過ぎないのに、それ自体が目的となってしまい、肝心の点検が疎かになっていたのだと思う。
チェック・リストに書かれている内容は重要な項目ばかりなので、万が一にも忘れたり、省略して
しまったりすることのないよう、必ず音読して実施する。ところが飛行の経験を重ねているうちに
イヤでもその内容を全て暗記してしまう。そこに「慣れ」と「気の緩み」が加わり、チェック・リストを
音読したことで、あたかもチェックまで終了してしまったような錯覚に陥ってしまっていたのだ。

実はこの時、ワタシは人から頼まれて外の景色を撮影するため、ビデオカメラを持ち込み、機内
に固定してカメラを回しっ放しにしていた。つまり事故の一部始終がカメラにおさまっていたので
ある。もう10年ほど前の話ではあるが、今でも反省の意味を込めて、時々そのビデオを観なが
ら、「マニュアルはあくまでも方法論の1つ過ぎない」ということを肝に銘じている。



水無月拾弐日(木) 「天空の彼方へ Part1」
その日の徒然に何を書くかは、まず原稿用紙を目の前にして、しばしの瞑想に入り、心が落ち
着いたところで、おもむろに決めている・・・・・・なーんて書くと何やらゲージツ家っぽいのだが、
実はいつもギリギリまでなーんにも考えていない。ただし、日記みたいな感じで書いたところで、
ワタシの日常生活なんか誰も関心はないだろうから、できる限り万人に共通の話題を取り上げ
て書くように心がけてはいる。

ところが一口に「万人に共通の話題」と言っても、これがまたかなり難しいのである。老若男女、
文系・理系にラテン系、右翼・中道・左翼、金持ち・中流・ビンボーに共通する話題なんざぁ、そう
簡単には見つかるワケがない。「さてさて、今日の徒然は何を書いてゴマかそうか?」と考える
こと30分、やっとそれなりのテーマを思いついた! それは「死」に関してである。

太古の時代より、人は不老不死を願ってきた。しかし、残念ながら死は如何なる人々であろうと
避けることができない宿命である。そう言う意味では、この世で唯一「平等」と云える事象である
かもしれない。避けられないと解かったとき、次に人が考えるのは「どのような死を迎えるか」で
ある。老衰・病気・事件・事故など、人は様々な原因で死を迎える。その中で今日は特に「自殺」
に絞って考えてみた。

自殺するのは卑怯である・・・・・・・これはかの有名なナポレオンの言葉である。「卑怯」とまでは
言わないにしても、自殺は現代でも世間一般的にはマイナス思考の末の死と考えられている。
そして残された者は口を揃えて、「何も死ぬことはなかったのに・・・・・・」と、その人の死を悼む。

誤解を恐れずに言うならば、実は私は世間一般の人ほど自殺に対して否定的な意見は持って
いない。何かに行き詰まり、どうにもこうにも行かなくなることってのは絶対にある。そして不幸に
して、本人やその周囲の人々に解決手段が見つけられなかった場合、その人が最終手段として
自殺というオプションを選んだとしても、誰にも責めることはできないと思うのだ。何も積極的に
自殺を肯定し、ましてや勧めているわけではない。「死ぬ気でやれ!」とか言うセリフがあるが、
そのくらい死というのは潜在的に恐ろしいものであり、ましてや自ら己の命を絶つというは、ある
意味で非常に勇気のいる行動だと思うのである。それを、もちろん最善の努力はしたかもしれな
いが、たまたま問題の解決方法を発見できた人々が非難することに、私はある種の抵抗を感じ
てしまうのだ。

他人の悩みを聞いてあげる時には、まずその人の天秤で量ってあげなければならない。しかし
悲しいかな、人はいきなり自分の天秤で相手を量ってしまう。そして自分の天秤で量りきれなく
なると、「そんなことくらいで・・・」と、相手の力量を無視して勝手な自己主張をし始める。

最近、新聞や雑誌など読んでいると、「アイデンティティー(identity)」という言葉をよく見かける。
英和辞典で調べてみると「主体性、本性」と和訳されているが、もっと解かりやすく説明すると、
「私は〜である」の「〜」に当たる部分のことである。従って、「私は男である」とか「私は学生で
ある」、「私はニンジンが嫌いな人である」など、いろんなパターンがあるであろう。

ここで皆さんに紙とペンを用意して戴きたい。そして、思いつく限りの「私は〜である」を書き出し
てほしい。最低でも20個、できれば50個ほど。次に書き出した物の中から、特にあなたにとって
重要だと思われるもの5つを選び出し、さらにその5つに優先順位をつける。優先順位をつける
際に、その割合も書いてほしい。例えば35個ほど書き出せたとして、その中から「女」「日本人」
「ケーキが大好き」「○○さんを愛している」「貯金が500万円ある」の5つを選び出したとする。
そしてそれぞれに優先順位とその割合をつけると・・・・・

            @「○○さんを愛してる」  ・・・70%
            A「女」             ・・・15%
            B「貯金が500万円」」   ・・・ 7%
            C「日本人」          ・・・ 5%
            D「ケーキが大好き」     ・・・ 3%

                                         ・・・・・・となったと仮定しよう。

これを円形グラフにしてみればもっととよく解かるのだが、この人のアイデンティティーの大半は
「私は○○さんを愛している」で占められている。ラブラブのカップルであれば、別段珍しいこと
ではない。ところが、ある1つの項目が全体の半分以上を占めているというのは、実はかなりの
リスクも伴っている。つまり、優先順位一位であり、全体の半分以上を占めている「愛している」
の部分を失ってしまったとき、この人は残りの4項目で自分を支えなければならなくなるからで
ある。残り4項目の合計は30%しかない。これで全体の100を支えることはかなり難しい。この
ような状態のことを「自己危機(identity Crisis)」と呼んでいる。

自殺してしまう人というのは、優先順位一位の項目の占める割合が、恐らく95%以上あったの
ではないかと思う。例えば、会社の倒産を苦にして自殺した経営者は、「私は経営者である」と
言うのがidentity のほとんどを占めていたのかもしれない。例えその部分が優先順位一位であ
ったとしても、その割合が45%程度であり、他の4項目の中に「私は家族を愛している人である」

とか、「私は多くの友人に恵まれている人である」とかがあれば、それら残りの合計55%で充分
に危機を乗り越えられたかもしれないのだ。

もちろん優先順位1位にある項目の割合を減らすことは容易ではないし、それこそマイナス思考
と言うものである。そうではなく、普段から2位から5位までの項目をこれまで以上に充実させる
ことにより、identity のバランスを保つことが自己危機(自殺)を回避する有効な手段だと思う。
                                                     (つづく)

追記: 
  今回のテーマである「死」に関しては、どれが正しいとか間違いとかの問題ではないと思う。
  皆それぞれが死生観を持っているわけであり、今日の徒然で書いた内容はあくまでも私の
  死生観であり、これをもって他者の死生観を否定するものでは決してない。



水無月拾参日(金) 「天空の彼方へ Part2」
昨日の徒然に続いて、今日も「死」ついて書いてみようと思う。先ほど昨日の徒然を読み返して
みたのだが、内容的にかなり重くなってしまった感がある。 もっとも、この手のテーマを軽く書く
なんてことはできないし、多少の重さはやむを得ないとは思うのだが、読者の中には、出勤前に
この徒然を読んで下さる方々も大勢いらっしゃるようなので、今日は少しは肩の凝らない文章に
なるよう努力しようと思う。

さて、今日は事故による死を考えてみた。(・・・って、いきなり重いやん!)  TVや新聞などでは
毎日のように交通事故のニュースが流れている。ワタシはこの手のニュースで時々引用されて
いる「事故統計」ってのに、いつも恐怖を感じてしまう。例えば、毎年12月になると、「この事故で
これまでの交通事故による死亡者は去年の同じ時期より53人多い9,325人にのぼり、このまま
行くと、今年1年間の死亡者数は1万人を越えると予想されています・・・」ってな感じのコメントが
必ず流れてくが、まったくもってイヤな統計予想である。日本全国で何人の人々がそのニュース
を観ているかは分らないが、「あなたたちの内の何人かは、あと1ヶ月以内に確実に犠牲になる
んですよ!」と宣言していると同じでなのである。

年末年始の帰省ラッシュ、5月のゴールデン・ウィーク、そしてお盆休みにも、毎年必ず交通事故
が発生していて、その内の何件かは家族全員が犠牲になってしまうという悲惨な事故である。
毎年毎年必ず一家が全滅してしまう事故が起きているのに、やはりTVの前の我々は「他人事」
としてクールに聞き流している。ひょっとしたら来年は自分の番かもしれないのにである。統計
による冷酷なまでの予想を前に、なぜ我々はこうも無関心でいれるのであろうか?

意外に思われるかもしれないが、航空機の墜落事故ってのも、小型機の事故も含めれば、毎週
必ず世界のどこかでは起きている。ワタシは仕事で飛行機に乗る機会が多いのだが、やっぱり
心のどこかで、ある種の「覚悟」みたいなものをしている自分がいる。知人からは「取り越し苦労
だよ」と笑われてしまうのだが、それでも出張に出かける際には、いつも必ず身の回りを整えて
から旅立つし、家人には万が一の際の対応手順を毎回伝えている。(典型的なA型人間??)

先日も飛行機の窓から外の景色を眺めて
いて、あらためてゾっとしてしてまった。。。
乗っていたのはボーイング737型機という
飛行機だったのだが、外壁と内壁の厚さ
が8cm程度しかないのである。実際には
外壁と内壁の間は空洞であり、外壁本来
の厚さは3〜5mm しかないそうである。

もちろん、飛行機が最新テクノロジーを用いて頑丈に作られていることは知っている。けれども、
やはりワタシ自身が石器時代の頭を持っているのか、妙に不安になってしまったのである。。。

皆さんの中に、「飛行機事故で死ぬ時って、どんな感じなんだろう?」と考えたことのある方々は
いらっしゃるであろうか? 航空機事故の場合、乗客のほとんどは即死であり、痛みや苦しみを
感じる暇は実際にはないとは思う。しかし、飛行機がどんどん急降下して行き、地面に激突する
瞬間というのはどんな感じなのであろうか? テレビを観ている最中に停電して画面がプツっと
切れてしまったし時のように、突然目の前の光景が消えてしまうのであろうか? ワタシ自身は
飛行機のライセンスを取得する際の訓練で、急降下の経験は何度もある。キリモミ状態で落ち
て行く時ってのは、安全に充分すぎるほど考慮しているとは言えマジで怖い! 初めて訓練した
時など、思わず教官に日本語で 「オッさん、ナニさらすねん!!!」と叫んだくらいである。その
ような経験から、キリモミ状態や背面状態で落ちて行く時の様子は、ハッキリとイメージできるの
だが、その後の最後の瞬間だけはまったくイメージできない。

飛行機事故で思い出したのだが、日本人は航空機事故で家族が死んだ場合、とりあえず事故
現場に赴き、遺体との対面を強く望む。例えそれがどんなに無残な姿であっても、一緒に家まで
連れて帰ってあげたいという気持ちで一杯なのである。ところが欧米人の場合には現場に行く
どころか、遺体の引取りすら拒む家族が多いと言う。欧米人は魂のない肉体など、セミの抜け殻
と同じようなもので、そこには何の意味もなく、その抜け殻(遺体)を見て悲しみを新たにするより
も、故人との想い出を胸にして生きていきたいと考えるらしい。

実際、その昔、フランスのパリ郊外にトルコ航空のDC10型旅客機が墜落した際、日本人犠牲者
の家族は現地に向い、即座に遺体との対面を要求したのだが、現地警察当局は「人道的見地
から遺体を見せるわけにはいかない」との理由で遺族の要求を拒否したところ、逆に日本人の
遺族が「遺体に対面させないことの方が非人道的である」と反論する場面があったそうである。

また遺体確認の際、もし係官から「息子さんに間違いありませんか?」と問われた場合、日本人
であれば、もしそうであれば、「はい、間違いなく私の息子です」と答えると思う。しかし、これが
英語だと「Yes, he was.(はい、息子でした)」と、過去形で答えるのが普通である。このあたりの
感覚は、日本人には到底理解というか、納得できない部分だと思う。脳死患者からの臓器移植
が、日本よりも欧米の方が盛んなのも、このような考え方が大きな影響を及ぼしているのかもし
れない。

この前の日本出稼ぎツアーの折、機内でSMAPの草g剛クン主演の「黄泉がえり」という映画を
観た。 九州のとある地方で死者が当時のままで蘇り、自分のことを想い続けてくれていた人々
の前に姿を現すのだが、そのタイムリミットはわずか3週間だけという愛の物語である。アメリカ
にも、1990年に日本でも大ヒットした映画、「ゴースト〜ニューヨークの幻」のように、蘇りを題材
にした愛の物語はあるが、これはあくまでも魂の蘇りであり、肉体まで蘇ってしまえば「ゾンビ」に
代表されるスリラー映画になってしまう。逆に日本では魂だけが蘇ると、それこそ「四谷怪談」に
なってしまう。文化・風習の違いとはいえ、何ともスゴイ話である。
                                                   またつづく



水無月拾四日(土) 「天空の彼方へ Part3」
1976年の暮れも押し迫った12月14日の夕方5 時過ぎのこと。私が学校から帰宅した時に、
いつもいるはずの母親が家にいなかった。買い物にでも出かけたのだろうか?・・・・・私は別段
気に留めることも泣く、自室の机の上ににカバンを放り投げると、いつもようにスナック菓子を食
べながらテレビを観ていた。午後6時半、突然かかってきた1本の電話で、私はパニックに陥っ
てしまった。

       「今すぐに市民病院に来なさい。お父さんが死んじゃうかもしれない!」

                                  電話の向こうには涙声の母がいた・・・・。

その日の昼過ぎに会社で突然意識を失って病院に担ぎ込まれた父は、懸命の治療もむなしく、
日付が12月17日に変わって間もなく、わずか47年間の人生に幕を下ろした。あまりにも呆気ない最期であった。

恐らく現代日本で最も一般的なのは病死であろう。父の死因は脳卒中であった。ご存知ように、
脳卒中を始めある種の疾病は、まるで事故のように、ある日突然我々を襲ってくる。正確に述べ
るならば、「突然」ではなく、それ以前からその兆候は出ていたのかもしれない。父は晩酌を常と
したいたことこから、本人も気づかないうちに血圧が高くなっていたのだと思う。

一方、癌などは長い闘病生活の末の最期となる場合が多い。本人だけではなく、看病する家族
も肉体的・精神的な戦いを余儀なくされる。私は以前、尊敬する先輩の1人を癌で失ったことが
ある。その先輩は大阪の某病院のホスピス棟に入院していた。ホスピスというのは末期癌患者
を対象にした病棟で、病院が担っている「治療行為」を目的とせず、各種の薬物により肉体的な
苦痛を取り除くことによって、最期の瞬間まで患者の精神的活動をサポートすることを目的とし
ている。

その先輩を見舞うため、その病院の本館最上階にあるホスピス棟に初めて足を踏み入れた私
は、驚きのあまり声を失ってしまった。エレベーターのドアが開いた途端、神聖なまでに平和な
香りが漂っていたのである。私の知っている殺伐として無機質な雰囲気の病棟とは似ても似つ
かないのだ。別に壁の色が違うとか、照明がお洒落なものにしてあるとか物質的な違いではな
い。それらはすべて一般の病棟と同じである。違うのは、そこにある精神的な「空気」であった。
廊下ですれ違う患者さんや、その付き添いの方の顔はみな穏やかであり、悟りを開いた聖職者
のような雰囲気が漂っている。無論そこに至るまでには、私などでは想像もできないような葛藤
があったと思う。いや、「あったと思う」ではなく、きっと今でも眠れぬ夜もあるに違いない。

私は決して運命論者ではないが、もしからしたら人はこの世に生を受けた時から、「私の人生」
という名の台本を与えられていて、すべてはその台本通りに進んでいるのではないかと思うこと
がある。例えば、私にも「私の人生」というタイトルの台本があって、その954,924ページの3行目
に「Night Flightというホームページを作る」とか、その次のページには「東京にてOFF会を開催」
とか書いてあったのではないかと思うのだ。そして、その台本を書いているのはやはり神様なの
かもしれないと。。。

事故や脳卒中などで急逝した人々は、もちろん自分の人生の台本が残り何ページあったのかを
知らずに旅立ってしまた。ところが告知を受けた癌患者は残りのページ数を明確に悟り、そして
最期の瞬間を迎える。一体どちらの方が幸せなのであろうか? もちろん、今の私には自分の
人生の台本が、一体あと何ページ残されているのかは解らない。しかし、仮に残りのページ数が
知ることがあったとしたら、たとえ神に背いてでも、最期の数行だけは何か1つでも自分自身で
文字を書き込みたいと思ている。天空の彼方へ旅立つ前の数行だけは・・・・。



水無月拾伍日(日) 「MY DAY OFF」
昨日、ナイフラのVIPゲストである兄ィ氏が東京から遊びに来られた。先日、使者の方を通して
数多くの貢物を頂戴したばかりなのに、今回は御大自らが日本酒4本を始めとして、アジの開き
やホタルイカの沖漬けなどなど、山海の珍味をスーツケースとダンボール箱一杯に持ってきて
戴いた。

当然ながら昼前から酒盛りが始まり、夜からは近所に住む爽やか青年のテッちゃんも参加して、
気がついたら午前3時半を回っていた。ってことは、延々と16時間半も飲んでいたことになる。
普通ならば、二日酔いの1つにでもなるのだろうが、特殊体質のワタシは飲めば飲むほど体調
が良くなってくる。(単なるアル中かもしれんが・・・)  てなことで、今朝もワタシは朝っぱらから
ビール片手に絶好調である♪

本日は久しぶりにお仕事もお休み。さ〜ぁ、今からまた飲むぞ〜〜〜! と、ワイン片手に気合
を入れてナイフラの更新をしているワタシであった。(笑)



水無月拾六日(月) 「とんだヘマを・・・・」
ワタシ、またまたやっちまいました! 実は3日前(6月13日)の金曜日、ワタシは出稼ぎのため
に朝からオークランドってとこに行き、翌14日の朝に日本からオークランドに到着予定であった
兄ィ氏と合流し、一緒に午後一番の便でクライストチャーチに戻る予定であった。

13日の朝、9時45分の飛行機に乗るため、ワタシにしては珍しく1時間前にクライストチャーチ
空港に到着した。チケットはE−チケット(ネット上で予約するチケットレス・サービス)である。
で、「さぁ、チェックインをしようかいのぉ♪」と思って、カウンターに行ってお姉さんに予約番号を
伝えると、そのお姉さんからトンでもないことを言われてしまったのである!!

  「あの・・・この便は午後9時45分発なんですけど・・・」

ガ------------------------------ン! それマジっすかぁ?????????????
しかも、予約の変更も払い戻しも不可! さらにさらに、その日は午後5時発の便までぜ〜んぶ
満席! まさに泣きっ面に蜂の状態であった・・・・・と、ここまで読んだ方々は、きっと「オイオイ、
それってめちゃめちゃトロいんじゃねーか?」とお思いのことであろう。しかし! ワタシにもそれ
なりの言い分があにはあるのだ。

通常、飛行機の時刻表ってのは世界的に24時間制で表示されている。つまり午後9時45分で
あれば、「21:45」と表示されているワケである。ところが、NZ航空の場合には12時間制表示
だったのである。もちろん、時刻の横には「AM」または「PM」と書いてあるのだが、予約の際の
確認画面ではその部分が必ず文字化けしてしまうのである! しかもエンコードを西ヨーロッパ
言語に設定しても必ず文字化けするのだ。従って確認画面には「9:45」としか表示されないワケ
である。まぁ、ダブルチェックをしなかったワタシも確かにトロいが、この予約画面にもかなり問題
があると思うんだけどなぁ。。。

しかし、ワタシは過去にこの手の不注意によるミスってのを、実は何度もやらかしている前科が
あるのだ。例えば、むかし昔、クライストチャーチ発の最終便でオークランドに向って、その日は
オークランド空港の近くのホテルで1泊し、翌日の早朝便でシドニーに向かう予定の出稼ぎがあ
ったのだが、なんと間違えて愚妻のパスポートを持ってきてしまったことがある! 

確かこの時もE−チケットだったので、前日の夜にクライストチャーチを出発する際、カウンター
のお姉さんに堂々と愚妻のパスポートを提示していた。ところがお姉さんはパスポートのミスに
気がつかず、思いっきり発券してくれたのだ。まぁ、クライストチャーチからオークランドまでって
のは国内線区間なので、お姉さんも真剣にはパスポートをチェックしていなかったのかもしれない。

しかし、スゴイのはここからである! 翌朝、まだ間違いにぜんぜん気がついていないワタシは、
オークランド空港のチェックインカウンターで、堂々と愚妻のパスポートを提出して、シドニーまで
の国際線区間の搭乗手続きをした。そして・・・・・・・・なんと搭乗手続きができてしまったのだ!
チェックイン・カウンターの係員は、鼻歌まじりに搭乗手続きを完了すると、搭乗券を渡しながら
Have a good flight!」と笑顔で送りだしてくれたのである。(爆)

で、出国審査の列に並んでいる最中、使い込んで汚れているはずのワタシのパスポートが妙に
キレイなので、「ま、まさか・・・・」と思って中身を確認すると、思いっきり愚妻のパスポートだった
ワケである。「さすがNZ!」と言ってしまえばそれまでなのだが、それにしてもスゴ過ぎると思う
のはワタシだけだろうか?

まぁ、そんなこんなで、トラブルの際に相手方にも多少の落ち度があるせいか、なかなか「心から
反省する」ってのができないワタシである。



水無月拾七日(火) 「ドッジボール論」
皆さんは小学生の頃にどんな遊びをしていらっしゃったであろうか? ワタシにも一応は小学生
の頃があり、「缶蹴り」や「巡ドロ」とかいろんな遊びをやっていたが、一番よくやったのは何かと
言えば、やっぱりドッジボールである。

さてさて、ちょいとインターネットで調べてみると、このドッジボールの歴史ってのは意外に古く、
今から100年ほど前にアメリカで考案された「デッドボール」というスポーツがその起源らしい。
当時は現在のような四角ではなく、円形のコートだったそうな。それが明治42年に初めて日本
に紹介され、そして大正6年には四角コート版も紹介された。大正15年になると、名称がそれま
での「デッドボール」から「ドッジボール」に改名された。ちなみにドッジボールの「ドッジ(dodge)」
とは「ひらりと身をかわす」という意味の英語である。

戦後になり、たった1つのボールで大勢の人間が手軽に遊べることから、全国の小学校を中心
に大ブレーク。それに合わせて、各地域によって様々なルールもできあがってきた。このブーム
は戦後一貫して衰えることはなく、平成3年には「JDBA・日本ドッジボール協会 ( Japan Dodge
Ball Assosiation
) なるものまで設立され、全国大会まで開催されている・・・・・・・・・・と、あれこれ
ドッジボールの歴史を書いてきたが、このままで終わったんじゃ徒然らしくないので、ここでそろ
そろ辛口トークに移ることにしよう。(笑)

5〜6年ほど前、小学生によるドッジボールの全国大会の模様を取材したドキュメント番組を観
たことがある。全国大会優勝を目指して、日々の厳しい練習に耐える小学生。コーチの先生は
あまりの厳しさに挫けそうになる生徒たちを、「立て! オマエら、優勝したくないのか!」と励ま
しながら指導を続ける。そして念願の全国大会優勝。その一方で惜しくも負けてしまった学校の
生徒達は「来年こそは絶対に!」と新たな誓いを立てて会場を去っていく。ある意味では感動的
なドキュメントなのかもしれないが、ワタシは観ているうちに、なんだか妙な違和感と不快感を覚
えた。

ドッジボールってのは、少なくともワタシが小学生の頃は「遊び」であった。でも、その単なる遊び
を通じて、知らず知らずのうちに子供達はいろんなことを学習していったのではないかと思う。
例えば、ワタシの学校では相手のどこにボールをぶつけてもOKだったのだが、隣りの学校では
頭はセーフであった。さらに隣りの学校ではヒザから下もセーフであった。これら地域や学校ごと
の特別ルールは、そこに住む子供たちが彼ら自身で知恵を絞ったり、子供なりのモラルというも
の意識した結果、生まれてきたのではないかと思う。つまり地域によるルールの違いってのは、
そのまま「子供の個性の象徴」であり、ドッチボールと言う遊びは「発想の現場」でもあったワケ
である。

ところが、公式ルールを作り、そして全国大会をやってまで競い合わせるってのは、何だか大人
のエゴイズム丸だしのような気がしてならないのである。別に公式ルールなんてなくてもイイで
はないか。子供がいろいろと考えて創り出したルールで遊ぶことに、一体なんの問題があるの
だろうか? 要するに、他にもスポーツはいっぱいあるのだから、ナニもわざわざ楽しかったはず
のドッジボールと言う「遊び」にまで、「試練」だの「根性」だの、そんな野暮なモノを求めてほしく
ないワケである。

これまでナイフラは基本的に毎日更新を目指してやってきた。しかし、よく友人から「遊びなんだ
から、もっと肩の力を抜きなよぉ。たまには休んでもイイじゃない♪」というアドバイスを受ける。
最初は彼らのアドバイスに「ん??」と思っていたのだが、OPEN してから月日が流れ、ある時
ふと徒然とかを読み返してみると、遊び心を持って書いたときの徒然は面白いのだが、義務感
みたいなものを感じながら書いたものはまったくオモシロクない。(というか、そもそも文章自体、
極端に短い) やっぱり「遊び心」ってのはスゴク大切である。仕事でさえ、時にはこの遊び心が
必要な時もある。ある意味でそれは「心の余裕」と同義語である。

「単なるノスタルジーだろ?」と言われれば反論の余地などまったくないのだが、それでもワタシ
はドッジボールだけはスポーツではなく、ずっと子供の楽しい遊びであって欲しいなぁ〜と思って
しまう。



水無月拾八日(水) 「素敵な思い出」
「空の旅」をテーマにしたサイトにもかかわらず、それ関係の話がほとんど徒然に書かれていな
いってのも何なので、今日はちと「旅の思い出」ってことで書いてみようと思う。

旅をしていると、珍しい体験や出逢い、そしてトラブルに至るまで、様々な出来事が起こる。さて
皆さんがこれまで旅をされてきた中で、最も想い出深い出来事は何であろうか? ワタシの一番の想い出は、ある偶然から生まれた素敵な出逢いである。

今から10年前ほど前、ワタシは飛行機の免許を取得するため、NZに2ヶ月ほど滞在していた。
何とか当初予定していたスケジュール内で無事に免許も取得でき、ワタシは帰国の途に着いた
のだが、その際に利用したオークランドからシンガポールに向かう飛行機の中で、素敵な出逢い
のプロローグは始まった。

元々「飛行機大好き野郎」であったワタシは、食事サービスが一段落した後で、CAさんに「もし
お時間があったら、コクピット内の写真を撮影してきて頂けないでしょうか?」と、自分のカメラを
手渡しながら頼んでみた。するとCAさんは笑顔で了承してくれて、カメラと共にコクピットの方に
消え去ったのだが、すぐにワタシの席まで戻ってきて、「あの、キャプテンがコクピットに招待して
おりますので、もしよろしければどうぞ」と誘ってくれたのだ。

コクピット・・・・・・・それは数多くの計器類に囲まれた、まさに「電子の城」である。その城の中で、
キャプテンが笑顔でワタシを迎えてくれた。いろいろな話の中で、ワタシが飛行機の免許を取得
したことを話すと、城の中のみんなが一斉に「おめでとう!!」と祝福してくれた。そして約30分
くらい経過したところで、ワタシがそろそろ座席に戻ろうとすると、キャプテンが「もし良かったら、
シンガポール空港に着陸するところをコクピットで見学していかないかい? 着陸の30分くらい
前になったら、CAに呼びに行かすから。」と誘ってくれたのだ。実はコクピット見学自体は、何度
か経験があったのだが、着陸時というのはそれが初めてであった。

そして着陸30分前。再びコクピットにお邪魔すると、キャプテンを始めクルー全員が待ち構えて
いたかのようにワタシにヘッド・セット(ヘッドフォン)を手渡し、着陸のためのミーティングを始め
た。キャプテンは部外者であるはずのワタシにまで、常に確認を求めながらミーティングを進め
ていく。その間にもヘッドフォンを通して管制官からの指示が次々に飛び込んでくる。そして夜の
シンガポール上空を旋回しながら、我々を乗せたB747-300型機は、まるで白鳥が静かな湖面に
舞い降りるかのように、ゆっくりとシンガポール・チャンギ空港に着陸した。感無量・・・・・・まさに
そんな言葉がピッタリであった。所定のスポットで機体が止まると、ようやくコクピット内に静寂が
戻ってきた。ワタシはキャプテンとクルー達にお礼を述べ、コクピットを後にした・・・・と、普通なら
これで物語は終わりのはずなのだが、実はここまでがプロローグなのである。

シンガポールで3日間ほど滞在予定であったワタシは、入国審査を済ませるとターンテーブルの
前で預けた手荷物が出てくるのを待っていた。そこに先ほどのコクピットクルー達もやってきた。
改めてお礼を述べると、キャプテンはワタシが予想もしなかったことを口にした・・・・・

     「明日の夜、友人達とパーティーを開くことになっているのですが、
                        もしご迷惑でなければ、ご一緒に如何ですが?」

            ・・・・・ワタシに断る理由など何もない。「もちろん喜んで!」と笑顔で答えた。

そして次の日の夜、指定されたレストランに行ってみると、そこにはキャプテンに混じって、年配
のオヤジ連中がいっぱい集まっていた。ワタシが現れたことに気付いたキャプテンは、フォーク
でグラスを叩く。それを合図にそれまで各自で会話の花を咲かせていたオヤジ連中が、急に静
まり返ってキャプテンとワタシに注目する。キャプテンはよく通る声で、みんなにワタシのことを
紹介し始めた。

   「みなさん、今度我々の仲間に入ることになった、新人パイロットのMr.○○です。」

すると、それまでの静寂を打ち破るかのように、オヤジ連中が一斉に拍手喝采を始めた。ワタシ
は思わず目頭が熱くなってしまった。これほど嬉しい紹介のされ方をしたのは、生まれて初めて
である。自己紹介をしようにも声が詰まってしまって、その時は何もしゃべれなかった。

そしてパーティーが始まり、ワタシは自己紹介を兼ねてオヤジ1人1人に挨拶をして回ったのだ
が、ここでワタシはスゴイ事実を知ることになる。なんと、そのパーティーに参加していたオヤジ
連中、みんなシンガポール航空のキャプテンだったのである!! 人生の中でこれほどコーフン
したことはなかった。大好きな飛行機の話を、憧れと言うよりは、まさに「雲の上の人」のような
国際線のキャプテンを務める方々から直接聞くことができるのだから、これでコーフンしない方
がおかしい。

3時間ほどでパーティーはお開きになったのだが、その後も数人のオヤジと共に、チャンギ空港
の近くにあるキャプテンの住む高級マンションに移動し、今度はそこで遥か遠くに見える空港の
灯をオードブルにワインを飲みながらいろいろ語り合った。この時ほど「英語がしゃべれて良かっ
たぁ〜〜ぁ♪」と思ったことはない。いま思い出しても「夢のような一夜であった。もちろんその日
出逢ったキャプテン達とは、今でもお付き合いをさせて戴いている。

「出逢い」というのは、ちょっとした偶然で始まることが多い。でも、その後のお付き合いは、偶然
だけでは決して続かない。このHPを通して、ワタシはいろんな方との新しい出逢いを経験させ
てもらっている。みんな素敵な人々ばかりであり、本当に自分は恵まれていると思う。また、まだ
出逢ってはいないけれど、毎日のようにこのHPを訪問して下さっている方々にも、心から感謝
している。Night Flightは決して我々スタッフだけで成立しているのではない。皆々さんの温かい
応援と協力があってこそ、初めて存在しうるのである。

だから皆さん! 決して一読者に甘んじることなく、スタッフの一員となったつもりで、たくさんの
笑食写真を送ってちょーだい!(爆) 



水無月拾九日(木) 「台風論」
いつからか、毎朝ネットで「世界の天気」を見るのが日課の1つになっている。来るべき次の出張
に備えて、常に世界の天気を把握しておくことは大切なことである・・・・などと言う高尚な考えが
あってのことではない。単に「妙な性癖の1つ」と思っていただいて差し支えない。

さて、今朝も例によって天気予報を見てみると、台風6号が日本に接近しているらしい。台風と
言えば、過去にも「伊勢湾台風」や「室戸台風」など、超大型の台風が何度も日本を襲い、数多く
の犠牲者を出している。地震と並んで、日本人が最も恐れる自然災害の1つであった。

ここで少しだけ台風に関するウンチクを述べてみよう。そもそも「台風とはなんぞい?」と言うと、
物の本には「北太平洋南西部に発生する熱帯低気圧のうち、最大風速が17.2/m以上に発達し
たもの」と説明してある。これが北太平洋北部から大西洋西部、カリブ海やメキシコ湾で発生で
発生すると「ハリケーン」、そしてインド洋・ベンガル湾・アラビア海で発生したモノは「サイクロン」
と呼ばれている。

台風は地球の自転の関係で、通常は北東に進むことが多い。そして周囲の風は時計と逆周り
に中心に向かって吹き込んでいく。つまり台風の中心から進行方向の左側の部分では「↓」向き
の風が吹き、右側では「↑」の風が吹く。以下、上は「←」の風が、そして下では「→」の風が吹い
ているワケである。(下記の図参照。○が台風の中心」
                            ←
                        ↓  ○  ↑
                            →

飛行機好きの方ならご存知かと思うが、日本では東行きの便と西行きの便では、同じ区間を飛
んでも飛行時間がかなり違っている。これは日本上空では通常は西から東に風が吹いているた
めで、例えば大阪から沖縄に向かう時には、逆風の中を飛行することになるため、飛行時間は
2時間ほどかかり、逆に沖縄から大阪に向かう場合には1時間半ほどである。台風の風だって
この日本上空の気流の流れに大きな影響を受ける。台風の進行方向が東(→)だったとすると、
     
     1)日本上空では「→」の風が吹いている。
     2)台風の進行方向の右側でも「→」の風が吹いている。
     3)よって、「→」+「→」ってことになり、猛烈な風が吹く

ということになり、台風の進路の右側ってのは非常に危険なワケである。逆に進行方向の左側
はどうなっているかというと、

     1)日本上空では「→」の風が吹いている。
     2)台風の進行方向の左側では「←」の風が吹いている。
     3)よって、「→」+「←」ってことになり、風は少々弱くなる。

            ・・・・・ってな具合で、進行方向の右側に比べれば、多少はマシなのである。

と、まぁ、理科の授業はこのくらいにしておいて、ここからが本題である。

非常に不謹慎な言い草ではあるが、子供の頃、「台風が来る」と聞いて、何だか妙にワクワクし
なかったであろうか? もちろん台風の通り道である地域の方々にとっては、「ワクワク」ではなく
「ドキドキ」であったと思うが、子供にとっては一種の「お祭り」みたいな感じだったと思う。学校は
当然ながら休校となり、家では父親が雨戸を閉めた上から板を十字に貼り付け、そして母親は
停電に備えてロウソクを準備したり、なぜかオニギリまで用意する。

そして家族は一箇所に集まって、ラジオから流れる台風情報に真剣に耳を傾ける。「大型で強い
波の勢力を持った台風5号は、現在、室戸岬の南南西80kmの海上を、時速20kmという非常
にゆっくりとした速度で北北東に進んでおり、今夜半には和歌山県・潮ノ岬付近に上陸する模様
です・・・」などと流れてこようものならコーフンはピークに達し、お爺ちゃんなどは、「台風の野郎
来やがったなぁ!」と、ほとんど凶悪犯扱いである。台風ってのが、これまたスゴク「擬人化」って
のがよく似合う。「上陸する」って表現もそうだし、ワタシなど「台風の目」と聞いただけで、マジで
鬼太郎のオヤジみたいな大きな目をもったオバケみたいなヤツを想像したりなんかしていた。

                    
                    ワタシの像像していた台風の姿

ところがである! なんだか最近の台風はぜんぜん面白くない。正体がミエミエで、何だかバカ
みたいに思える。以前、あれだけ畏敬の念を持っていた「台風の目」ってヤツも、気象衛星から
送られてくる高解析画像で見せられると、「な〜んだ! 単なる穴ポコじゃん!」ってことになり、
住宅も以前のような木造ではなく、鉄骨が主流となった今では、「強風? だから何?」ってこと
で誰も見向きもしない。だいたい、気象衛星とTVのライブ中継により、台風の位置や勢力など、
その正体がリアルタイムで白日の下に晒されている状態では、たぶん台風自身だってガッツが
沸かず、半分以上はやる気を失っているのではないだろうか? ワタシは台風に同情すら禁じ
えない。

科学の進歩により、これまで「大自然の脅威」と恐れられていたものが、次々と解明されていき、
人々は次第に緊張感を失ってきている。 でも、こんなナメた態度をとっていたら、いつの日にか
「オマエらなぁ、オレだってやる時にゃ〜やるよぉ!」ってことで、絶対に台風の逆襲に遭うような
気がするよなぁ・・・・。



水無月弐拾日(金) 「イライラ論」
実はワタシ、自分のことを「気の長い人間」だと思っている。(爆) イヤイヤ、マジで日常生活の
中では滅多に「怒り爆発」なんてことはないのだが(但しビジネスは除く)、「イライラする〜ぅ!」
ってことは多々ある。その代表が「並ぶ」という行為である。

根本的に「並ぶ」という行為ほど、人間の神経を逆撫でするモノはないと思っている。いや、正確
に述べると、並ぶこと自体は理性的動物である人間だけが持つ崇高な行為であるだからして、
特にイライラすることはないし、ましてやスムーズに流れているときなどはまったく問題はない。
ところが必ず1人はいるんだ、トロいやつがぁ! このたった1人のトロいヤツのために、血液型
がA型のワタシは「イライラ・シンドローム」が炸裂してしまうのである。

例えば、駅の自動発券機の前の行列。列の後方から観察していると、機械の前に来てから上に
貼ってある料金表を見ているバカがいる。どうして並んでいる間にチェックしておかないのであろ
うか? そして、しばらく料金表と睨めっこした後で、ようやく機械の方に向き直し、ここでやっと
切符を買うのかと思いきや、今度はカバンの中をゴソゴソ・・・そう、財布を探し始めるのである。
普通の人間であれば、当然ここで「財布の準備くらいしとけよぉ・・・・」と思うことであろう。

さらに傍若無人な行為は続く。やっと財布が見つかったと思ったら、10円玉をジャラジャラと機械
の中に入れ始める。しかも、必ず途中で1枚コインを落とすんだ、これが! 思わず「こんな時に
小銭処理をするんじゃない!」とシャウトしたくなるのが人情ってモノである。そして「これでよう
やく自分の番が回ってきた」と思ったのも束の間。ナント切符は2枚買う予定だったらしく、また
また最初から同じ行為を繰り返し始めやがるのだ! 急いでいる時など、「殺意」すら感じる。
ワタシは心の平静を取り戻すため、心の中で「彼らは血液型はO型に違いない・・・」と、何度も
つぶやくことになる。(笑)

また血液型の話になってしまうが、O型の人ってのは見事に周囲の状況を全く見ていない!!
(あっ! 徒然をず〜っと読んで下さっている方はお分かりだと思いますが、ワタシが書く血液型
の話ってのは、あくまでも単なるシャレですよ、シャ〜レ♪ だからムキになって怒ったりしないで
下さいネ。) ホントにキレーさっぱり目の前の現象しか見ていない。ほら、銀行のATM なんかでもいるでしょ? 大勢の人が後に並んでいるのに、残高照会はおろか、やれ振込みだの引出し
だの連続して操作し、軽く5分以上は機械を独占してしまう人ってのが。ありゃ間違いなくO型である。間違えてもA型人間には、あんな厚かましい行為などできない! さらにO型の典型的な
特徴として、操作終了後もしばらくATMの前にたたずみ、レシートや通帳を眺める悪癖がある。
後の人から「ちょっとすみません!」と注意されるまで、まったく気がつかないのだ。

「オイオイ、そりゃワガママの典型であるB 型の仕業だよ!」と思われる人がいるかもしれない。
しかし、B 型人間はO 型と違って実に要領がイイ。決して混雑している時にATMに行ったりなど
しないのである。それどころか、「今日、銀行でお金おろすの忘れちゃった♪」と、実に明るい声
で周囲にアピールし、ちゃっかり昼メシをご馳走になったりなんかしている。実に羨ましい限りで
ある。

・・・・・・・てなことで、典型的なA型であるワタシは列に並んでいる際にトロいヤツを見かけると、
すっかり平常心を失ってしまうワケだが、最終的にはいつもガマンをしてしまう。 それどころか、
相手が「あっ、どうもスミマセン・・・・・・」などと言おうものなら、「イエイエ。ごゆっくりどうぞ♪」と、
なぜか反射的に笑顔で答えてしまう。これまたA型の悲しい性である・・・・・。

   PS  全国うん千万人O型の皆様、クドイようですがシャレですので、どうかお気に
       なさらないように・・・・って、O型の人は気にしないか。(爆)



水無月弐拾壱日(土) 「日常 vs 非日常」
逆境に堪えうる人の中で、一体何人が順境に堪えうるであろうか・・・・これは某哲学者が呟いた
言葉である。確かに逆境と言うのは多くの苦痛を伴うが、順境もまた「退屈さ」という苦痛を伴う
場合が多々あることは事実である。

先日の徒然で「子供の頃は台風が来ると妙に嬉しかった」と書いたが、周囲の人間に尋ねてみ
ると、ほとんどの方がこれとまったく同じ意見であった。さらにその理由としては「学校が休みに
なったから」と言う、極めて単純なものであった。過去には台風によって被害を受けた方が大勢
いるというのに、「嬉しい」というのは極めて不謹慎な感想ではあるが、子供に現実検討能力を
求めるのも無理な話である。

しかし、大人だって似たようなものではないかと思うことがある。例えば足摺岬や付近の港など
で台風中継をやっているTVレポーターってのも、妙に嬉しそうにしているような気がするのだ。
「私は今、足摺岬に来ております。昼過ぎ頃から次第に雨と風が強くなり、現在ではじっと立って
いるのが困難な状況です!」と言いながら、その暴風雨では何の役にも立たないであろう雨傘
をわざとらしくさして、ヨロヨロしている姿を見ると、思わず「じっと立っていられないほどの強風だ
ったら、さっさと避難しろよ〜ぉ」とツッコンでしまいたくなる。

要するに人間ってのは「日常的な事」を維持しながらも、心の奥底では「非日常的な事」ってのを
常に追い求めているのかもしれない。旅行ってのはその典型的な例であろうし、不倫ってのも、
最初の切っかけはそれではないだろうか? しかし、いくら「非日常的な事」を追い求めていると
言っても、実際に起こってしまうと困ってしまうことってのも多々ある。例えば「停電」。現代社会
で停電なんか起ころうものなら、すべての社会機能が麻痺してしまうことは必須である。台風が
もたらす被害の中にはこの停電も含まれるワケだが、気象観測技術の発達により前もって予想
ができるため、被害を最小限度に抑えることができる。だからこそ、台風を一種の余興と見なし
てしまうのかもしれない。

昔は「先が見えなかった」のに対し、現在はある程度は「先が見える」生活を送ることが出来る。
その余裕が我々に「非日常的な事」を追い求めさせているのか・・・・そんなことを考えていたら、
ふと先日、友人2人と一緒に飲んだ時の話題を思い出してしまった。

友人の1人はサラリーマン、そしてもう1人は公務員。まだまだ日本に吹き荒れている不況の嵐
を嘆きながら、サラリーマンの友人が「オレの人生、ぜんぜん先が見えなくて、ホントにイヤにな
っちゃうよ・・・・」と、彼はため息をついた。すると公務員の友人が、「オマエさぁ、先が見えない
ってのもツライかもしれんが、オレみたいな先が見えてる人生ってのも、男としてはツライぞ・・・」
と、これまたため息をつきながら呟いた。逆境と順境、日常と非日常・・・・・・・不惑の歳を迎えた
男には、やはりどちらもツライものである。。。。。



水無月弐拾弐日(日) 「清貧」
知人の学生がパスポートや財布など貴重品の入ったバッグを盗まれてしまった。彼の話による
と、今日のお昼頃、彼がインターネット・カフェでPCゲームに興じていると、隣りに見知らぬ若者
が座ってきて、やたらと親しげに話し掛けてきた。知人が無視してゲームを続けていると、若者
は話し掛けるのを諦めたのか、その場を去って行った。それに気が付いた知人が、ふと自分の
足元を見ると、置いてあったはずのバッグが持ち去られていたというワケである。このカフェには
防犯ビデオが設置してあり、後で確認してみると、手ぶらで入店してきた若者が、店を出る時は
シッカリと知人のバッグを持って出て行くシーンが鮮明に写っていた。ま、この知人の場合、これ
までにも同じようなパターンで何度も盗まれており、全く危機管理がなっていないのではあるが、
もちろん根本的に悪いのは盗んだ若者である。

青臭いことを言うようではあるが、ワタシは「置き引き」や「遺失物横領」など、いわるゆ窃盗犯の
神経ってのが全く理解できない。何で人のものを盗むのだろうか? かなり昔、ワタシが京都の
某小料理屋で飲んでいると、冴えない服装の中年男性がやって来て、たまたま空いていた私の
隣りの席に座ったかと思うと、いきなり陽気に飲み始めた。女将さんだけではなく、初対面である
ワタシを含め周囲の人間にも酒を勧める大盤振舞い! あまりに太っ腹な振る舞いに、女将さん
が「何だか今日はとっても嬉しそうだけど、何か良いことでもあったの?」と尋ねると、ナントその
男は「実はな、さっき仕事帰りに道端で財布を拾ったんや。で、中を見てみたら10万円も入って
いたワケや。今日は飲むでぇ!」と、明るく答えたのだ。

女将さんも周囲の客も一瞬にして固まってしまった。しかし苦笑いする他に仕方がなかったのか
またすぐにそれぞれ飲み始めた。(もっともそれ以降、その男からの振舞い酒は断っていたが。)
一般的には「苦笑して済ませる」というのが、大人の対応なのかもしれない。しかし、ワタシには
どうしてもこの男が許せなかった。そこでワタシは、「今頃、きっと落とした人は困ってると思いま
すよ。ちゃんと警察に届けましょうよ。」と、ごくごく当たり前の注意をしてしまった。すると、この男
は別に怒るワケでもなく、かと言って居直るワケでもなく、淡々と「そんなもん、ワシかて今までに
何度か財布を落としたことあるけど、1回も戻ってきたことないがな。だからワシかて返す必要は
ないやろ。違うか?」と言い放ったのである。恐らく、これがこの中年男の頭で考えられる精一杯
の論理であり、また精一杯の理性だったのであろう。しかし、盗んだ金で飲んだ酒でも、美味しく
飲めるその神経が理解できない。

これまた昔の話ではあるが、まだ独身の頃、ワタシは京都・太秦にあるワンルーム・マンションに
住んでいた。ある日の朝、仕事に出かけようとしていたら、マンションの通路の途中に財布が落
ちていた。中身を確認してみると、現金7〜8万円と共に学生証と免許証も入っていた。免許証
に記された名前を見てみると、どうもどこかで見覚えがある。さらに記載されている住所を見て、
やっと思い出した。落とし主はワタシの部屋の2〜3軒ほど隣りの住人だったのである。ワタシ
はすぐに通路を引き返し、その人の部屋に行ってチャイムを鳴らしたが、既に出かけてしまった
のか、留守であった。そこで財布をドアの新聞受けの中に放り込んでおいた。

その日、やっとこさ仕事から開放されマンションに戻ったのは午後11時過ぎであった。いつもの
ように、エレベーターで3Fまで行った後、長い通路を歩いて部屋に向かって行く途中、当然なが
ら、例の落とし主の部屋の前も通った。すると、その人の部屋の前に張り紙がしてあった。


         どこのどなたかは分かりませんが、財布を届けて下さって
         本当に有難うございました。財布の中のお金は、今月の
         バイト代がぜんぶ入っていたのです。もしあれが無かったら
         食事代はおろか、家賃も払えないことになっていました。
         本当に有難うございました。
                                305号室 ○○

ひょっとしたら、マンション外の住人が拾って届けてくれてたかもしれない。そうだったとすれば、
この張り紙はまったくの無駄になる。でも、この若者は本当に嬉しくて嬉しくて、誰が拾ってくれた
かは分からないけれど、感謝の言葉を述べずにはいられなかったのであろう。例えそれが徒労
で終わったとしても。張り紙を読んだ途端に、ワタシまで何だかすごく「幸せな気分」になってしま
った。

ワタシは別に善行をしたワケではない。ぜんぜん自慢にもなりゃしない。財布を拾った → 落とし
主のところに届けた・・・・・たったそれだけのことであり、「眠かった → 寝た」ってのと、ほとんど
同じノリである。落とした物が持ち主のところに返るのは当たり前の話なのだ。「清貧」って言葉
があるが、どんなに貧乏をしても「盗んだ金」で喜びを感じる人間にだけはなりたくはないのだ。

その夜、自室で飲んだビールは最高に美味しかった。青年の「喜び」と「心遣い」が最高のツマミ
となった。小料理屋で出会った中年オヤジには、恐らくこのビールの美味さは一生理解できない
であろう・・・・。



水無月弐拾参日(月) 「JANさん」
このところ非常にマジメに徒然を更新しているワタシだが、その日の徒然に何を書くかっていう
のを考えるのが結構シンドイ。ちょうど主婦が毎日の夕飯メニューを考えるのに苦労しているの
とよく似ているかもしれない。ワタシの場合、話題さえ決まれれば、それなりに筆は進むのだが、
なんせ半年以上も書き続けていると、ネタ枯渇してしまって書くことがなくなってしまうのである。
もちろん、その日にあったことを日記形式で書くって方法もあるだろうが、それじゃ読んでいる方
がつまらないだろうし・・・・・・てなことで、徒然に書くネタを大募集しています!(爆)

さてさて今日からまたまた新しい週が始まったワケだが、今週末からワタシはシドニーに出稼ぎ
に行く予定が入っている。またカンタスを利用するのだが、今度はどんな独創的な機内食が出
てくるのか今から楽しみである。ところで皆さんは飛行機のチケット購入の際には、もちろん旅行
代理店で買っていらっしゃると思うが、どのような基準でお店を選ばれているであろうか?

まぁ、一般的に旅行代理店を選ぶ際の基準として、1)価格、2)実績 3)信頼性 4)店の場所、
5)アフターサービスなどがあるが、ワタシ自身が一番重視しているのは3)の信頼性である。
ワタシの場合、ほとんどは出稼ぎに伴っての航空券購入なので、信頼性がないとすべての予定
が狂ってしまい、ヘタすりゃ「食いっぱぐれ」になってしまう可能性もある。

てなワケで、ワタシがNZに住み初めてからずーっとお世話になっているのが、Smart Travel 社
である。料金だけを見るならば、同社よりも安いところは数多く存在するが、アフターサービスや
信頼性など、他の4つの要素を考慮すれば、Smart Travel社がNo.1じゃないかとワタシは思っ
ている。中でもワタシの旅をサポートしてくれている同社Reccarton支店JANさんは飛び切り
信頼できる女性であり、まさにワタシはゾッコン惚れている!

徒然の読者の中には、飛行機の予約・発券についてプロ並の知識とスキルを有されている方々
も大勢いらっしゃると思うが、残念ながらワタシはその両方がまったくない。新幹線の時刻表を
調べるだけでも四苦八苦しているくらいである。従って、出稼ぎ先での労働が長引き、予定して
いた飛行機の予約を変更しなければならないような事態が発生しようものなら、まさにパニック
状態に陥ってしまうのである。

そんな時、JANさんの存在はスゴーク頼もしい! 出稼ぎ先から「明日の飛行機には乗れそうに
ないので、明後日の同じ便に変更しておいてほしいなぁ♪」とメールを送っておけば、営業時間
内であれば、10分以内に返事が戻ってくる。しかも、その返事がまたイカしている!

                    DONE!

いつも「DONE(完了)!」の一言だけなのである。誤解のないように言っておくが、JANさんって
女性は決して無愛想な人ではない。それどころか非常にフレンドリーである。ただ、出張先から
予約変更を依頼してきたワタシが最も早く知りたいのは、変更ができたのかどうか、その結果で
ある。JANさんはそのことを充分に承知した上で、1分1秒でも早く結果を知らせるために、一言
メールを送ってくるワケなのだ。シブイ! シブ過ぎる!!

先月の徒然で、5月の日本出稼ぎツアーの際、「予約していたシンガポール航空の便がフライト
キャンセルになった時、シンガポール航空からも旅行代理店からも何の連絡もなかった」と書い
たが、あの時のチケットはちょいとしたシガラミというか、仕事上のお付き合いがあったために、
JANさんのところではなく、NZではかなり有名な某旅行代理店で購入したものであった。因みに
JANさんのところで予約・発券をして出稼ぎに行き、旅先でフライト・キャンセルの憂き目に遭遇
したことは過去に何度かあったのだが、JANさんはフライトキャンセルの情報を入手した時点で
ワタシのアドレス宛へのE-mailだけではなく、宿泊先ホテルへも電話、FAX、E-mailなど、ありと
あらゆる手段でコンタクトを取る努力をしてくれるのである。もちろん単にキャンセルの情報を伝
えるだけではなく、同時に「オリジナルの予定を出来る限り崩さないような新たなプラン」を、複数
用意してくれているのだ! カンペキである!! もう惚れ惚れしてしまう!!!  JANさんの
力強いサポートにより、いつもワタシは安心して出稼ぎに行ける。 Thanks a lot, JAN!

            
                       JANさんの雄姿!



水無月弐拾四日(火) 「タバコ論」
7月1日からタバコが20円〜30円ほど値上がりする。ワタシはタバコを吸う。しかも思いっきり。
そんなワタシの愛しの相棒・セブンスターも250円から270円になるそうである。これまでなら、
500円玉をたった1枚だけ握りしめ自販機の前に行けば、あの神々しいまでに美しい相棒君が
2箱買えたのに、これからは1箱しか買えない。まさに断腸の思いである・・・てなことで、今日は
私憤を込めて「タバコ」について語ってみようと思う。

ワタシがタバコ・デビューを果たしたのは、確か小学校4〜5年の頃だと思う。もちろんその動機
は「好奇心」であり、入手先もこれまた定番の父親が買い置きしてあったタバコから1箱失敬した
ワケである。以来、約30年のタバコと共に歩んできた人生の中で、「禁煙」などという軟弱なこと
を考えたことなど、ただの1度もない! 男が一度「吸う!」と決めたのだから、途中で逃げ出す
ような卑怯者には成り下がりたくないのである。(と、ここまで書いた時点で、既に読者の8割を
敵に回してしまったような気がする・・・・・・笑)

実際のところワタシだけではなく、「禁煙なんざぁ〜考えたこともないワイ!」ってオヤジは実に
多い。医師から禁煙するように言われてもヤメない連中が、たかだか20〜30円の値上がりで
タバコをヤメるはずがない。日本政府もこのことを充分に承知しており、それを見込んで値上げ
を行っているワケである。もし、みんなが一斉に「もうタバコはヤメた!」などと言おうものなら、
税収が激減することになり、それこそ役人は真っ青になってしまうであろう。我々「愛煙家」と言う
のは、愛すべき国家を存亡の危機に晒すワケにはいかないので、身を呈してタバコを吸ってい
るのである。(ここで9割が敵になったかな? 爆)

さてワタシの住むNZのタバコ事情はどうかというと、これが非常に良くない! まず第一に値段
がアホほど高いのである。どれも平均して1箱700円! またレストランやほとんどのオフィス・
ビルの中ではタバコを吸うことはできない。以前、レストランで食事をした後、タバコが吸いたくな
ったので、タバコをポケットから取り出しながら店の外に出ようとした。すると隣りのテーブルに座
っていたNZ人のババアが、「知らないの? タバコは体に良くないのよ! 今すぐにおヤメなさ
いよ!」と、ヒステリックに話しかけてきた。これが「健康オタク」に言われるのならば、まだ納得
できる。ところが、そのババアは超肥満体(恐らく150kgはあったと思う)であり、デザートで出て
きた巨大アイスクリームを爆食しているところであった。ワタシはニッコリ笑いながら、ババアに
こう言い返した。

        ご忠告ありがとうございます
        でも、これからずっとタバコを
        吸い続けたとしても
        少なくともあなたより20年は
        長生きできると思います♪


このババアに限らず、NZ人やAU人の多くはタバコのことを毛嫌いしている。そしてアホの1つ
覚えのように「健康を害する」と言うのだが、NZやAUに比較して喫煙率が異常に高く、さらには
思いっきりストレス社会である日本の方が、平均寿命が両国よりも遥かに高いという事実を、彼
らはまったく知らないのである。(9割5分達成かぁ?)

さらにワタシが疑問を感じてしまうのは、飛行機が全面禁煙になってしまったことである。これが
純粋に安全上の理由であれば別に文句はない。黙ってそれに従うべきである。ところが実際に
は「世界の流れが禁煙だから」という理由だけなのである。禁煙ブームってのは、確かアメリカで
どこかのアホが「タバコを吸っていたら健康を害してしまった」と、タバコ会社を相手に損害賠償
訴訟を起こしたのが発端だと聞いてきる。スゴイのはそれで訴えが認められて、タバコ会社から
多額の賠償金を勝ち取ったことである!! この結果にすっかりビビってしまった航空会社は、
今度は乗客の中の非喫煙者が、副流煙の問題で訴訟を起こされるのを恐れ、禁煙に踏み切り
始めたそうな。

確かに副流煙の問題は大きいと思う。タバコを吸うのは本人の勝手だが、無理やり煙を吸わさ
れる方はタマッタものではない。従って以前のような何の仕切りもないのに、突然「この列からは
禁煙席です」なんてパターンの区切り分けってのは、まったく意味がないと思う。だからワタシは
東京〜大阪や東京〜福岡のようなビジネス路線かつ運行便数の多い路線については、「全席
喫煙席」って便を朝と夜に1便ずつ設定すればイイんじゃないかと思うのである。いや、実際に
同じようなことを考えた人はいたらしく、以前「AIR DO」という航空会社が喫煙便を飛ばそうとし
ていた。ところが禁煙団体からイチャモンが入ったらしく、結局その企画はボツになってしまった
そうである。こうなると、「オイオイ、禁煙団体ってのは何様のつもりなんだよ!」とシャウトしたく
なってしまうワケである。吸わない権利があるのであれば、吸う権利だって等しく存在するのは
当たり前の話である。それを「禁煙は善、喫煙は悪」という、極めて単純な根拠で糾弾している
輩に至っては、頭の弱さを露呈していると言わざるを得ない。(9割9分9厘決定!)

・・・・と、タバコ擁護の話ばかりしてきたが、喫煙者にも問題がないワケではない。それはマナー
の問題である。タバコの煙ってのは、文句なく煙い! タバコを吸うワタシですら、他人のタバコ
から出てくる煙はかなり鬱陶しいのだから、吸わない人にしてみれば、まさに生き地獄だと思う。
特に女性であれば、出勤途中にいきなりタバコの煙攻撃に遭遇し、髪の毛や洋服にタバコの匂
いが染み込んだりなんかしようものなら、恐らくその日は一日中ずっと憂鬱な気分になってしまう
ことであろう。

ワタシは「喫煙者はタバコを吸う際、自分の吐き出した煙が、どの方向に流れて行くかをチェック
し、出来る限り他の人に煙がかからないように注意しなければならない」という義務があると思っ
ている。これは最低限のマナーである。ところがバス停や駅のベンチで座っているオヤジ連中
の中には、自分の吐いたタバコの煙が思いっきり隣りにいる人の顔面を直撃しているのに、全く
それに気がつかず(というか気にせず)に吸い続けているバカどもが大勢いる。ヒドイのになると
公衆電話ボックスの中で電話をしながらタバコを吹かしている大バカ野郎もいる。こんな大バカ
どもの愚かな行為のために、ついに東京の千代田区では路上での喫煙が条例で禁止されてしまい、違反者はその場で罰金2千円を徴収されるそうである。(8割に復活かぁ?)

ワタシ個人の見解としては、政治的な匂いがプンプン漂う「禁煙運動」などというヒステリックな
ことをやるよりも、喫煙者のマナー向上をもっと全面的に押し出した運動をするべきではないか
と思う。その際、千代田区のように違反者に罰金を科すのも方法としては大いにアリだと思うし、
「人のいる方に向けて煙を吐き出してはいけない」とか「学校の近くでの歩きタバコは禁止」など
細かいルールを設けるのもアリだと思う・・・・・・・・・・と、ここまで一気に書き上げてしまったので
メチャメチャ疲れてしまった。さて一服でもするか♪ プハ〜〜〜ッ・・・・・ウマイ!!(爆)



水無月弐拾伍日(水) 「王手!」
今日6月25日は沢田研二の誕生日である。またワタシの40才最後の日でもある。つまり明日
6月26日はプロ・ボクシング世界Jr.フライ級の元チャンピョン・具志堅用高の誕生日でもあり、
ワタシの41回目の誕生日でもある。ちょうど1年前の6月25日、ワタシはかなりヘコんでいた。
そりゃ考えてもみてほしい。30代と40代じゃぜんぜん気分が違う。990円のTシャツと1,000
のTシャツでは、印象が大きく異なるのと同じことである。そんなワケで、ワタシは「30代」という
のに未練タラタラだったのだ。もっとも、花のティーン・エージャー諸氏からすりゃ、30代だろうが
40代であろうが、「オジン」の一言で終わってしまうのだろうが・・・・・・。

ワタシは昭和37年生まれなのだが、年齢のことが話題に出ると、必ず1人は「ボクは昭和40年
生まれです♪」と、妙な自慢をしてくるヤツが出てくる。昭和30年代生まれと40年代生まれの
間にいかなる差があるのかは不明だが、自信タップリにそう言われると、ついつい「イイよなぁ」
と羨ましく思ってしまう。しかし、生来「負けず嫌い」な性格のワタシは、すぐに「同じ1960年代
生まれやんけぇ〜!」と反論してしまう。すると、ここでまた違うヤツがしゃしゃり出てきて、「ボク
は昭和56年生まれですよ♪」と、その場を真空にしてしまうようなことを言う。一気に70年代を
通り越して80年代に突入してしまうのだから、極悪非道と言わざるを得ない。でもワタシは負け
ない! 多少顔を引きつらせながらも、笑顔で「同じ20世紀生まれやんけぇ!」と、さらなる反撃
に転じる。でも、そのウチに「ボクは2003年生まれなんですけど・・・・・・」ってヤツがきっと出現
してくるに違いない。その時は・・・・・・・・その時には「同じ地球に住む人間やんけぇ〜!」とでも
言うか。(笑)

ま、誕生日が嬉しいなんてのは20歳未満か80歳以上の話であり、その間にいる人々にとって
は、さほど嬉しいものでもない。特に男の30代ってのは人生において最もシンドイ時期のせい
か、誕生日を喜んでいるヒマもない。決して「若い」という年齢ではなく、さりとて「落ち着いてる」
という年齢でもない。毎日残業に明け暮れている割には給料は少なく、また結婚して所帯を持つ
年齢でもあるため、独身時代と違ってやたらと出費も多くなる。誕生日どころではないのだ。

その点、今年の誕生日は非常に平穏な気持ちで迎えられそうである。悪戦苦闘の30代も過ぎ
去り、40歳の1年間を何とかツツガナク終えた身にすりゃ、41歳なんざぁ〜「屁」みたいなモン
である・・・・・・・・と、自分自身に対して強いエールを送りながら、明日の誕生日を迎えようとして
いる今日此頃である。チャン、チャン♪



水無月弐拾六日(木) 「徒然草〜癒し系版」
必死の抵抗も虚しく、やはり41歳の誕生日が来てしまった。でも今この原稿を書いている時点
では、まだハワイ時間であれば40歳である!(←かなり未練がましい?)

さてさて、最近の徒然のネタってのは、実は不精者のワタシの代わりにダン隊長が考えてくれる
ことが多い。タダ単にお題だけを指定してくるのではなく、ワタシが書きやすいようにと、「ヒント」
というか「ツカミ」というか、ダン隊長のミニ・エッセイまで添えて指示書が送られてくるのである。
ダン隊長の執筆による徒然を読まれたことがある方ならお解りかと思うが、彼の文章というのは
ホントに優しさが漂っていて、読む人をホッとさせるモノがある。早い話が「癒し系」のエッセイな
ワケである。(さしずめワタシは「卑しい系」かぁ?) 2日ほど前にも、またまた癒し系のメールと
言うか指示書が届いていたのでご紹介しよう。


                      ★   ★   ★   ★

    ○お題: 梅雨
       梅雨・・・・・・・・・・・・・・洗濯物がまず乾かない! とくに京都は
       「もともと湿気が多い」ので、梅雨時分だけに限らないのですが、
       それでも部屋のなかに洗濯物が飾ってあると鬱陶しいです。
       で、最近思ったのは、部屋のなかで干していると、匂いが変なん
       ですよね! なんかタオルも雑巾のような匂いがしますし、この
       匂いのもとはやっぱり「雑菌?」 気持ち悪いですよねえ。

       で、ふと思ってしまいました。天気がいい日って基本的に
       気持ちがいいですよねえ。(し〜さまはど〜だかわかんない
       けど 笑)  んで、雨だと、失恋したときは別にして、やっぱり
       気分が、悪くはないかもしれないけれども、決して良くはない!

       で、高気圧のとき、気持ちいい。低気圧のとき、気持ち良くない。
       でもね、高気圧って言葉からすると、すごい高い圧力で押さえ
       つけられているような気がするもんですから、=圧迫感があるはず
       だから、しんどいはずだとイメージしてしまいました。
 
       でも低気圧って言葉だと気圧が低いという響きですから、
       頭をうえから抑えられる力が減って圧迫感は薄れ、
       宇宙遊泳じゃないけど、単純に「楽」なはずなのになあ・・・・・
       ・・・・・とか思いました。

       もちろん「重力」君がここに加われば難しいんでしょうけれど、
       気圧とかし〜さまは専門ですよね?

       梅雨が「乗らない季節」であるのは、ただ太陽が見えないせい?
       湿気が多いせい? それとも「低気圧のせい?」


                    ★   ★   ★   ★

どうです? なんか思わず優しい気持ちになれたのでは? 通常であれば、この指示書兼ミニ・
エッセイをヒントにして徒然を書くワケだが、たまには皆さんにもダン隊長の癒し系エッセイって
のを、そのまま読んで味わって戴いた方がイイと思うので、ワタシは心を鬼にして「梅雨」を題材
にした徒然を書くのを断念することにした。ホントはいろいろ書きたいことがあったのだが、イヤ、
実に残念である!(爆) まぁ、誕生日ってことで、多少の怠慢はお許しを♪


水無月弐拾七日(金) 「ホーム・シック」
明日6月28日から約1週間の予定でシドニーへ出稼ぎに行くというのに、まだぜ〜んぜん何も
用意をしていない。「旅慣れる」という言葉があるが、年間に何度も何度も出稼ぎをやってると、
どーも緊張感ってのがなくなってくる。それに実を言うと、ワタシには生活拠点を離れると、いつも「極度のホーム・シック」に陥ってしまうという、致命的欠陥があったのだ。

例えば、まだ京都に住んでいた時などは、自宅からタクシーで京都駅に向い、そこから関空特急
「はるか」で空港に向かうのだが、タクシーの中で既にワタシは涙目になっている! そして携帯
電話をジッと見つめながら、クライアントから「今回の会議はキャンセルになりました!」なんて
連絡が入らないかなぁ・・・・・・と、いつも期待していた。

さらに、この状態は「はるか」に乗車した後も続く。やたらと家人に電話して、「親戚で誰か死んで
ない?」とか「家、燃えてない?」など、出稼ぎをキャンセルする理由を探す努力を惜しまない。
必死の努力も空しく何事もなく関空に到着してからも、ワタシの抵抗はまだまだ続く。チェックイン
カウンターに行って、受付のお姉さんに開口一番、「今日のフライト、機材トラブルとか到着便の
到着遅れとかで、キャンセルになってませんか?」と期待を込めて尋ねる。そして「本日は平常
通りの運行予定ですのでご安心下さいませ♪」とお姉さんに言われると、ワタシは落胆の表情
で「そうですか・・・・」と答えることになる。

普通であれば、さすがに飛行機が離陸してしまえば諦めるものなのだが、ワタシの場合はまだ
未練がましく希望を持ち続ける。「今、エンジン・トラブルが発生したら、高知空港に緊急着陸だ
よなぁ・・・・・・高知から大阪への便はめちゃ多いから、夕方までには京都に帰れるなぁ・・・・・」と
考えながら、窓の下の我が祖国を見つめる・・・・・こんな感じの状態が、石垣島を通過するまで
続くのである。やっとこさ「しゃーない。今回は諦めて仕事するっぺか・・・・」と悟りが開けるのは、
石垣島を通過して台湾領域に入った頃になってからである。

さてワタシのこの「ホームシック」だが、記憶を辿っていくと、小学生の頃の林間学校や修学旅行
で既にハッキリとその兆候が現れていた。例え1泊でも家を離れると、その途端に落ち込んでし
まい、「自分がいない間に両親が離婚していたらどうしようか・・・・」とか「火事で家が焼けていた
らどうしようか」とかなど、ほとんど病的な妄想が頭の中を支配してしまうのである。気分的には
ほとんど「みなしごハッチ」であった。

知人A(いわゆる姉)にそのことを話すと、「えぇ? そうなん? わたしゃそんなことぜ〜んぜん
考えたこともなかったワ。ガッハッハッハッハッ!」と高笑いしていた。ちなみに知人AはO型で、
ワタシはA型である。同じ家に育った姉弟同士でも、血液型が違うと「感受性」や「繊細さ」ってのがこれだけ違ってくるワケである。

・・・・・と、幼少の頃を思い出しながら書いたら、もう1つワタシ自身のスゴイ特長というか性癖を
思い出したぁ! 実はワタシ、その昔は他所様の家のゴハンってのが全く食べられなかったので
ある!(ただしレストランは除く) 母方の田舎に行った時など、ゴハンはおろかコーラさえも手を
つけなかった。「どうして?」と聞かれたら、「イヤだったから・・・・」としか答えようがないのだが、
少なくとも「母の作った料理がメチャメチャ美味しかったから」という理由でないことだけは確かで
ある。とにかく苦手だったのである。

さらにタオルも苦手だった。ホラ、他所の家のタオルって、自分の家のタオルと匂いが違うと思いません? クサイとかそんなのじゃなくて、タンスの匂いなのか、はたまた家独自の匂いなのか
は解からないが、幼心にもタオルの匂いってのには違和感がありダメだったのである。

・・・と、まぁ、やたらと神経質な思い出話ばかり書いてきたが、さすがに最近はこれほどナーバス
ではない。タクシーの中で泣くこともなくなったし、知人の家のゴハンも食べられるようになった。
それにタオルだってちゃ〜んと使えるようにもなった。これって、やっぱオヤジ症候群??(笑)



水無月弐拾八日(土) 「新・学問のススメ」
非常に唐突な話で恐縮なのだが、ワタシは辞書を引くのが好きである。どうして辞書を引くのが
好きかと言うと、ダン隊長から送られてきた指示書に「今日のお題は<辞書>」と書いてあった
ので、話の流れの都合上、今日から突然に好きになったのである。(爆)

さて今、ワタシの手元に受験生御用達の「英和中辞典(研究社)」がある。おもむろに表紙をめく
ると、まず最初に恐らく誰も読まないであろう「まえがき」が書いてある。そして次に「この辞書の
使い方」という、誠に親切な解説が7Pに渡って書いてあり、その後でいよいよ辞書本来の仕事
である単語の解説が始まっている。

最初に出てくる単語は「a」である。思わず「さすがだ!」と唸ってしまう。著者がいくら「k」が好き
であろうとも、やはりここはアルファベットの最初の文字である「a」から始めるのが人の道という
ものである。そしてこの記念すべき最初の英単語である「a」の意味を見てみると、まさに見事な
解説が述べられている・・・・・「エイ。英語アルファトの第1文字」 カンペキである! これ以上、
a」に対して何を望むというのか? 充分過ぎるほど充分である。最初の単語の解説を読んだ
だけでも分かると思うが、英語の辞書というのは、アホでも理解できるかるように非常に丁寧に
解説していくれているとっても親切でイイ奴なのである。

これに対して、国語辞典の身辺調査をしてみると、どーもヤツは性格が陰険であることが判明
した。例えば、大辞林第二版(インターネット版)で「耳」という単語を調べてみると、事もあろうに
「耳介(じかい)。耳殻(じかく)に同じ」と書いてある。マトモな神経では到底考えられない説明で
あり、ほとんど捨てゼリフである。本気で説明する気があるのだろうか? さらに今度は「耳殻」と
いう単語を調べてみると、なんと「外耳の最外部。軟骨とそれをおおう皮膚から成り、集音器の
役を果たす。哺乳類のみにあり、人間では貝殻状。耳介。耳翼。耳。」と解説している。ワタシが最初に調べた単語は「耳」である。説明するまでもなく顔面の両横についている有名な耳、誰も
が知っているでああろう、あの耳である。その「耳」の意味が本当に解からなくて、真剣に辞書で
調べようとしてる人が仮にいたとして、、その人に上記のような投げやりな解説をして理解を求
める方がどうかしている。国語辞典の著者ってのはバカなのだろうか? 

学生時代、「辞書を引く」というのは非常に面倒臭いことで、またツマラナイ作業でもあった。とこ
ろが、大人になってからはナゼか急に辞書を引くのが楽しくなってきた。学生時代に辞書を使う
のは、当然ながら勉強している過程で解からないことが出てくるからである。そもそも勉強って
のは「勉(つと)めを強(し)いる」と書くところからも分かるように、いわゆる「嫌なことを強制的に」
やらされているワケであって、んなもんが楽しいはずがない。一方、大人になってから辞書を引く
というのは、「勉強」ではなく「学問」の過程での作業である。学問・・・・・即ち「学び、そして問う」
というのは、誰かから強制されたものではなく、あくまでも自主的なものである。これは文句なく
楽しい! 

この徒然を読んでいる方の中には、学生の方も大勢いらっしゃると思う。これからは「勉強」では
なく、ぜひ学問をして欲しい。そして「なぜだろう?」「どうしてだろう?」など、「問う」という気持ち
を大切にしてほしい。その気持ちを持って辞書に接すれば、辞書はきっとあなたにとっての強力
な助っ人になるはずである。



水無月弐拾九日(日) 「あ〜疲れた」
昨日の夜からシドニーに来ている。実はシドニー到着時、ヒマというかアホな税関職員に呼び止
められ、なんと税関審査場で1時間半も拘束されてしまった。1時間半の内訳は、手荷物検査が
15分、尋問が15分、そして残りの1時間は、ワタシのパスポートに問題がないかどうかを調べ
るため、職員の1人が事務所にパスポートを消え去り、そのまま税関審査カウンターで1時間も
待たされたのである! 

前から感じていたことだが、シドニーの税関職員ってのは、ホントに態度がでかくて失礼な奴が
多い。自分が呼びとめたた乗客については、何が何でも違反事項を見つけてやろうと、必死で
アラ探しを始めるのである。まぁ、呼び止めてしまった手前、手ぶらでは仲間に対してカッコ悪い
とでも思っているのであろう。もちろんワタシには何らヤマシイところがあるはずもなく、最終的
には疑いは晴れたのだが、ワタシを呼びとめた税関職員はどうも頭が弱いタイプらしく、取調べ
の間に失礼では済まされないようなミスをいくつも犯していた。その中で最大の過失は、取調べ
の初期の段階で、ワタシはそいつに航空券を取り上げられていたのだが、上司らしきの職員が
やって来て、ワタシに「航空券を見せて頂けますか?」と聞くので、「彼に渡したよ」と答えると、
こともあろうに「知らない。俺は持ってない。オマエが持っているはずだ」と抜かしやがったのだ

ハイ、ここでワタシは当然キレました! 「人の航空券を取り上げておいて、知らないとはどうい
うことだ! 早く探さんかい!」と、教育的指導をしたワケである。で、1分後、航空券はそいつの
横にあった小さな机の下の床に落ちているのが見つかったのだが、そいつはまるで何もなかっ
たように上司に航空券を手渡したので、その上司に「オイオイ、人から預かった物を杜撰に管理
しておきながら、それを責任転嫁した挙句、自分のミスだと判っても何の謝罪がないのは、一体
どういうことだ?」と、教育的指導PART2をしてあげた。さすがに上司もこりゃマズイと思ったの
か、そいつに「オイ、謝りなさい」と言うと、そいつは反省の気持ちのカケラもないようなフテ腐れ
た態度で「Sorry」とだけ言った。

まぁ、1時間半も足止めを食らったのだから、別れ際には嫌味の1つも言ってあげるのが礼儀と
言うものである。ワタシは優しく彼の労をねぎらってあげた。

   ワタシ: 「エライ悔しそうじゃん。何も見つからなかったのが残念だったか? (笑)」
   職 員: 「そんなことは思っていない。単に任務を遂行しただけだ。」
   ワタシ: 「任務? じゃ、チケットを預かったことを忘れるのも任務の1つかぁ?(爆)」
   職 員: 「・・・・・・・」


誤解のないように書いておくが、ワタシは1時間半も足止めを食らったことについては、もちろん
気分のイイことではないが、基本的に税関職員は一般人の安全を守るために日夜努力をして
くれているワケだから、それはそれでこちらも協力すべきだと思っている。しかし、昨日の彼の
エラソウな態度は、決して任務の重大さからくる「威厳」とか「誇り」、そして「プライド」からきたも
のではなかったと思う。単に品性の無さからくる無礼であり、最初から自分が上で、こっちが下という認識を持って、まるでチンピラのような態度で取調べを行なっていたのである。無礼な人間に礼を尽くしても、相手は勘違いしてツケ上がるだけであり、何の意味も無いのである。

まぁ、そんなこんなで昨日の夜は本来であれば和食レストラン「東(azuma)にでも行って、豪華
なディナーをとる予定だったのだが、ホテルにチェックインした時点で、既に午後9時半を回っていたために断念、おとなしくホテルのBARで飲み明かしたとさ。



水無月参拾日(月) 「亡国」
今、けっこうハマっている本がある。「亡国のイージス上・下(講談社文庫・福井晴敏著)」という
本である。個人が国家に対して戦いを挑む物語である。

ご存知の通り、「個人」と言うのは「組織」に対してあまりにも無力である。例えば松本サリン事件
の被害者でもあり、容疑者にもされてしまった河野さんなどは、国家(警察)やマスコミによって、
血祭りにされてしまった。いくら無実を訴えても信じてもらえず、マスコミは容疑者ではなく、完全
に河野氏のことを犯人として報道し、そこには何の尊厳も存在せず、人権は踏みにじられ、氏は
国家と大衆を相手に孤独な戦いを強いられた。

時々、新聞などで「国を相手取り訴訟を起こした」というセリフを見かける。このセリフを見るにつ
けて、いつもワタシは不思議に思ってしまう。国って何? 国家と言うのは明らかに「意思」という
のを持っている。そして、国家の意思というのは誰によって決めれるかと言うと、国民の信任を
得て選ばれた国会議員の総意によって決められる・・・・ということになっているらしい。ところが、
実際問題、議員全員が本当に地元民の信任を得ているかと言うと、ほとんど絶望的である。
2世議員が誕生する際によく使われる「地盤を引き継ぐ」というセリフ、あれは「利権を引き継ぐ」
と言ったほうが的を射ている場合が多い。そして問題が発生すると、「国家」という、ある意味で
実体のない抽象的な概念を持ち出して、自らの責任を回避しようとする・・・まさに「亡国」以外の
何物でもない。

近代国家としての日本の礎を築いた明治時代の政治家たちは、私欲を捨て公益を追求してい
た偉人が大勢いたという。その頃の政治家は、まさに命を張って政治を行なっていた。ヘタをす
れば「暗殺」されることもあったのだから、そりゃ根性も入っていたことであろう。ところが、今の
平和大国ニッポンでは要人の暗殺など起こるはずもなく、皆さん安心して私欲に走ることができ
るってワケである。

経済力や権力、そして組織力を持った為政者に対して、個人というのは悲しいほど無力である。
何の抵抗もできず、ただ座して死を待つしかできない。 でも本当に「正義」というものは、権力
に対して何の意味もなさないのであろうか? そんなことはないと信じたい自分がここにいる



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