済州島事件
済州島事件 1948年4月
・解放後、島の人口は帰還者を含めて約30万人でした。
・共産党系の人民委員会が島民の間に大きな根を張っていて、
1948年当時の南労党員は6万人程度。
・島民の80%が南労党支持。
・最悪な事に、対アメリカ戦に備えて旧日本軍が島を陣地化していて、それが残っていた。
・4月3日深夜、旧日本軍の武器を手にした武装グループが蜂起。
・韓国で一番高い山と、その山の千数百の洞窟を使い、ゲリラ戦を行う。
・韓国軍(アメリカの支配下なので「国防警備隊」)により、鎮圧。
・韓国政府は、正確な被害者数を未だに公表していない。
・韓国政府の発表では、
「共産主義者の手により」
死者 15000人
400の村のうち、300が被害を蒙った。
二万戸の家が火災で焼け、六万五千人が家を失った。と、されている。
・政府関係者が口にしているのは死者六万人~七万人。
・反体制の人々は死者十万人以上を主張していた。
・アメリカ人学者ジョン・メリルは「正確な事は解らないが、死者は3万人あまり」と記している。
麗水・順天反乱事件
麗水・順天反乱事件 1948年10月
済州島事件の鎮圧に赴くはずだった第14連隊の1個大隊が反乱。
10月21日 反乱部隊包囲される。
10月22日 順天鎮圧。
10月27日 麗水鎮圧。
反乱軍は人民裁判により、400人以上の警官やその家族などを殺害した。
鎮圧軍は、順天町民5000人を順天北国民学校の校庭に集め(中略)
人民裁判に積極的に参加した者を一級、消極的に参加した者を二級、
曖昧な者を三級とし、反乱軍と一級をその場で棍棒で殴り殺した。
国民保導連盟事件
国民保導連盟事件 1950年夏。
韓国各地で、無抵抗で非武装の国民、合計300000人を虐殺。
殺されたのは国民保導連盟の人達。
国民補導連盟とは、今まで厳罰一辺倒だった共産分子への対応を改め、自首期間中に、共産党の甘い言葉に騙された人は、自首して国民保導連盟に所属すれば、罪は問われない、としたもの。
しかし、人民解放戦争(朝鮮戦争)勃発と共に、韓国人によって全て虐殺された。
国民防衛軍事件
国民防衛軍事件 1950年冬。
死者 数十万人。(詳細は、東亜日報にて連載された。)
中国の人民解放軍が”義勇軍”として介入すると、
米韓軍は南に退却した。
このときに、北朝鮮の占領地域に青年達を残してゆくと、北朝鮮側に使われる事になる。
敵を利してはならない。というので、これらの青年を狩り集めて、南に連れて帰った。
この時の受け皿となったのが「国民防衛軍」であった。
しかし、南に連れて帰るとはいっても、輸送手段も無く、宿泊施設も、食料も、衣類も、寝具も無い。
酷寒の中を、ただひたすらに、南へ南へと進んだ。
通称「死の行進」「死の南下」
数十万人が死んだと言われている。
以上、ごく一部を掲載してみました。
これ以外にも、韓国軍による韓国人ライ病患者
の虐殺などもありました…
