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【付記】インド大反乱 | 伝統 184|共感0
1703493| JAPANochimusha | 2008.07.06 17:05:30
TOP
*これは以下の関連スレです。
【付記】所謂「植民地戦争」一覧
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1958188)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1958188)

【詐欺、あるいは方便】「白衣の天使と小陸軍省の狭間」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1955637
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1955637)

【Wikipedia】
インド大反乱
1857年〜1859年

  1. 1857年から1859年の間にインドで起きたイギリスの植民地支配に対する民族的反抗運動。
  2. かつては「シパーヒー(セポイ)の乱」と呼ばれたが、反乱参加者の出身が広くインド社会全体に広がっていた事から「インド大反乱」と呼ばれる様になる。
  3. インド側からは第一次インド独立戦争という呼ばれ方をされる事もある。

 背景 

  1. イギリスはアンボイナ事件1623年)以降(インドネシアを断念して)インドへの進出を開始し、イギリス東インド会社を通じて本格的にインドの植民地化をすすめていた。
  2. このときイギリスは、インドを本国で製品を生産するための原料供給地並びに、自国の綿製品を売り込む市場と位置づけたため、インドの資源はイギリスに吸い取られ、産業革命を成功させた大量の良質な綿製品がインドに流入したため、極端なインフレ状態になり国内は混乱し土着の綿工業は急激に衰退した。
  3. この過程で権力や財産を失ったかつての支配階層から、木綿工業の衰退による失業者まで、階層を問わず、また市民・農民の区別なく多くのインド人がイギリスへの反感を持つに至り、反乱への参加者の増加につながった。
  4. そのため、この大反乱はインドで初めての民族的反乱となったものである。

 反乱の詳細 

1857年5月 インド北部の都市メーラトでシパーヒーが蜂起。
  1. シパーヒー(sipahi)とはイギリス東インド会社が編成したインド人傭兵のことで、セポイ(sepoy)ともいわれる。この傭兵団は上層カーストに位置するヒンドゥー教徒と上流階級のイスラム教徒で構成されていた。
  2. 彼らが反乱を起こした直接的な原因は、イギリス本国で新たに採用されたライフル銃(それまでの滑腔銃と異なり正確な命中精度と強力な威力を持つ)P1853エンフィールド銃薬包(先込め銃に装填する一発分の火薬と弾丸をセットで紙包みで包んだもの)に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂とイスラム教徒が不浄とみなしている豚の脂が使われており、この銃がシパーヒーにも配備されるという噂が流れたことである。
  3. 確かに19世紀中葉から始まった銃器の技術革新の最初の成果だったエンフィールド銃は紙製の薬包を使用しており、この薬包には防湿油として脂が塗られていた。
  4. そしてこの薬包を使ってエンフィールド銃を装填するには、まず口で薬包の端を食いちぎって火薬を銃口から流し込み、弾丸と弾押さえ(薬包を口中で噛んで柔らかくしたもの)を押しこまなければならない。噂が本当であれば、彼らは戦闘時に宗教的禁忌(牛または豚を口にすること)を犯すことになってしまうのだった。
  5. 彼らはこれを宗教的侮辱と受け取って弾薬の受領を拒否するなどしたが、これらの行為は懲罰の対象とされた。
そして・・・
  1. シパーヒーの反乱を機に、旧王侯、旧地主、農民、都市住民らが、宗教・階級の枠を越えて一斉に蜂起、反乱はインド北部(特にガンジス川流域)を中心に拡大し、デリーを占領してバハドゥール・シャー2世を擁立しムガル帝国の復活を宣言するなど、その勢力は一時国土の3分の2にまで及んだ。デリーはムガル帝国の首都となり、国家体制が一時整えられたかに見えた。

  2. しかし内紛もあり反乱軍はまとまりに欠き、支配地域の拡大にも陰りが見え始めた。シパーヒーが離脱したことによって兵力不足となっていたイギリスは、周辺民族や旧支配階級を懐柔するなど政治的工作の面で反乱勢力をリードして軍を再建し、翌1858年には装備で勝る東インド会社の軍隊の反攻が始まった。

  3. イギリスは反乱の原因となったエンフィールド銃を大量に配備し、不正確な命中精度で短い射程でしか射撃できない旧式の滑腔銃を持った反乱軍(18世紀的な密集銃隊で運用された)を射程外の距離から正確に射撃する事で圧倒した。

  4. また捕虜となった反乱軍兵士への残虐な処刑(大砲の砲口に縛り付け、木製の砲弾を発射して体を四散させる)を見せしめとして行い、恐怖で反乱軍とインド民衆の士気を砕こうとした。

  5. ムガル皇帝が先導者として力不足であったことなども影響し、騎兵を率いて“インドのジャンヌダルク”と呼ばれた美女戦士であるラクシュミー・バーイーなどの活躍はあったものの、反乱軍は最終的には個別撃破されて消滅した。

 備考(主にWikipedia「東インド会社」より) 

  1. プラッシーの戦い1757年6月23日)に勝利してインドからフランスの影響を排除するのに成功したイギリス東インド会社は、以降ベンガル地方への内政干渉を強めアッラーバードの協定1765年)をもってベンガル太守の軍備保有を禁止するとともにベンガル、オリッサ、ビハールの財務長官に就任した。

  2. そして1772年に はウォーレン・ヘースティングズが東インド会社の取締役会の決定に基づいて初代ベンガル総督に就任したが、この時期の東インド会社の社員のほとんどは、貿 易以外には無知であり、沿岸地帯の自らの居住地域以外に、外から出かけることもなかった。加えて、現地職員が私服を肥やすための私貿易が放任されている一 方で実際の徴税業務はインド人に丸投げされているような有様だった。

  3. ヘースティングズは、1772年の取締役会の業務報告において「われわれが目指すべきインド統治の方針は、できる限り古代インド以来のインドの習慣と制度に従いつつ、われわれの法律をインド人の生活、社会、国家の諸問題に適用すること」と述べ「法体系の整備」「徴税制度の整備」「軍備の増強」の三大改革に着手する。

    法体系の整備」  ヘースティングズは1776年に、ヒンドゥー法典編纂委員会を創設し、サンスクリットで述べられていた様々な判例を一つずつ調査する膨大な翻訳作業を開 始した。これを契機に、ヒンドゥーとムスリムの区別がインド国内で明確に区別されるようになり、またイギリスにおいて東洋学研究が始まる端緒となる。

    徴税制度の整備」 抜 本的改革は第3代総督チャールズ・コーンウォリスの時代になってから行われた。コーンウォリスは、徴税業務を担っていたインド人全員を解雇してイギリス人 に入れ替えた上で、彼らに高い給料と年金の保証、上級職の独占を認めることと引き換えに、私貿易の禁止を行ったのである(この時インド人を上級職から排除 した事が後のインド統治における人種差別問題を誘発した事は否めない)。コーンウォリスの改革は、そのあとに総督に就任したリチャード・ウェルズリーに よって完成するが、この時代にはカルカッタ(現コルカタ)におけるフォート・ウィリアムズ・カレッジの創立やイギリス本国でのヘイリーベリー・カレッジの 創設が相次ぎ、インドの諸言語を学習する機会が実際の業務に着任する前に与えられ、イギリスの徴税業務がある程度軌道に乗り始めた。

    軍備の増強」 これもまたベンガル、後にインド全域を防衛するための観点からも欠かすことのできないものであり、宗教とカーストに配慮した糧食の支給、海外派兵はないことを約束した上で、現地のインド人を「スィパーヒー」として雇い、常備軍としての訓練を施していった。

  4. 1789年段階で、10万人強だった陸軍は、ナポレオン戦争時代には、155,000人の歩兵と騎兵を擁する軍隊へ成長していったが東インド会社は、常に、兵士の反乱や抗議に対して、警戒しなければならなかった。

  5. そしてついにインド大反乱が起こり、イギリス政府は東インド会社によるインド統治の限界を痛感する。そして1858年8月2日にはイギリス議会がインド統治改善法を可決し、東インド会社が保有する全ての権限をイギリス国王に委譲させたのだった。

  6. 250年以上にわたり、活動を展開したイギリス東インド会社の歴史はこの時点で終わりを告げた訳だが東インド会社はその後も、1874年まで、小さいながらも会社組織としては継続した。これはイギリス政府が株主に対してこの年までの配当の支払いを約束していたからであり、正式に会社の歴史の幕を下ろしたのは残務整理が終了した1874年1月1日である。

  7. 同時にインドでは1877年、ヴィクトリアを皇帝として推戴するイギリス領インド帝国が成立することとなる。
*そのインド帝国でも「阿片栽培」が主要産業の一つであった事は否定できない事実。
【阿片伝来記6】「『阿片戦争』に至る道」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956348)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956348)

ちなみに、こうしてイギリスがインドで得てきた運営ノウハウは、ある意味3.1独立運動後の朝鮮半島に導入された斉藤総督の「文治政治」にも相応の影響を与えた次第。
 【朝鮮半島「近代化」の傍証2】「3.1独立運動前後の英米の視線の変化」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1915329
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1915329)

このインド大反乱は、シャーロックホームズシリーズ長編第二作「四つの署名」の背景にもなっています。
【阿片伝来史8】アメリカのヘロイン禍
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956361)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956361)
IP xxx.224.xxx.82
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【付記】「ソルフェリーノの教訓?」
- 【付記】インド大反乱
【西洋史断章】薩英戦争(1863年)