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「江戸時代の鎖国を破ったのは一体何だったのか?」 | 伝統 849|共感7
1682263| JAPANochimusha | 2008.06.22 20:35:45
TOP

*これは以下の関連スレです。

【詐欺、あるいは方便】「白衣の天使と小陸軍省の狭間」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1955637
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1955637)
【まとめスレ】「後発工業国の経済史」と「日本帝国の申し子」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1949959)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1949959)

【資料】大阪の小中華主義が夢見た「全国の小大阪化」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1931243
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1931243)

最近、こんな事を考える様になりました。
「歴史を動かしてきたのは感動である。感動なき所には進歩も多分ない」

【改訂版】「社会の展開には感動が不可欠である。感動なき所にはまた前進もない」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=193135
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=193135)

例えば良く「ペリー艦隊の威容の前に屈っした」といわれますが果たして本当にそうでしょうか?


【前史】「南蛮貿易の終焉と鎖国が日本に及ぼした影響」
【16世紀~17世紀 ポルトガル】「ナウ船(排水量500~800t 搭載砲数不明 乗員300人程度)」

  1. 16世紀にポルトガル商人が「長崎-マカオ間定期航路(主に銀と生糸を交換)」の維持に使用していた大型帆船。

  2. 季節風を利用して年一回だけたった1隻が往復するだけで莫大な利益を生み、日本で布教活動を展開するイエスズ会の最大の資金源ともなっていた。

    *毎年、その入港時の長崎はお祭り騒ぎだった様で。私の御先祖様もその一人だったかと思うと何かと感慨深い訳で。

  3. 1609年に有馬晴信率いる50隻以上の大艦隊に包囲されて自沈したマーデレ・デ・デウス号もこのクラス。戦闘経過を見る限り「全く歯が立たなかった」のは明白だったのでこの戦闘に対する幕府中央の評価はあくまで低く、その事がやがて「岡本大八事件」事件につながっていく。

    *史料には一切書いてありませんが、この年の長崎市民は入港寸前だったこの船がこういう事になってがっくりきたと思うのですよ。色々な意味でロクな連中じゃありませんでしたが、沖縄人が「色々問題もあったけどベトナム戦争当時アメリカが地元に落としてくれた金は半端じゃなくて、その恩恵にみんなが与ってた」事実を認めざるを得ない様に。

ちなみに政治的理由でポルトガル船の入港を禁止するに当たって江戸幕府は生糸の供給量の激減を最も恐れており、同時に対馬藩とオランダ東インド会社の権限を大幅に引き上げている。また歴史のこの時点において国内における絹織物生産は事実上京の西陣商人の独占化にあり、幕府がそれを事実上追認する事によって日本の鎖国(海外貿易権益の中央政府による独占)は完了を見る。

*こうしてあたかも財閥のごとき存在として台頭してきた西陣商人は、その後底なしの需要に応える為に全国下請工場化を展開して各藩の政商による防衛的商業活動との闘争を繰り広げていく(それを裏付ける証拠はないが幕府が大阪を「天下の台所」と定め、そこでの商業活動を保護した事もある意味こうした抵抗活動の一種だったのかも)。

しかも平安時代の平氏や鎌倉時代の執権北条氏の様に「権益を独占してその反感から自滅していく道」を選ぶ愚を犯さなかった為にやがて近畿地方全体の活性化という結果を生み出していくのである。

*こうした歴史的経験が「伝統に絶対的規範性を求め全てを自らの統制下に置こうとする」京都型資本主義文化を誕生させた様な気がします。そしてそこから生まれてきた国際企業が任天堂であったりする次第。

その結果「豪商」が台頭して元禄時代の経済的繁栄が到来し、その次の段階で自己防衛の為に株仲間が構成される様になっていく(都市への集住とそこでのモラルハザードが問題となり綱吉将軍天皇の権威回復朱子学浸透に力を入れて中央権威の回復に務めたのもこの時期だし、経済的退潮が明らかとなった次の時代に出現した所謂「石門心学」もこの延長線上で語り得る)。

*歴史のこの時点になってやっと京都、長崎に続いて大阪が「国内に対する感動の発信源」として機能し始める次第。地元の感覚としては「太閤さん時代の栄華を取り戻そう」というもので、その基盤を「才覚」に求め、資本の独占が経済格差を生んで最終的には経済需要全体を縮小させてしまうジレンマへの処方箋として「着倒れ・食い倒れ」を尊ぶ大阪型資本主義文化が生まれてきた、と。

そして享保期に顕著となり始めた経済停滞を打破する為に将軍吉宗は綱吉将軍の代に端を発する「側用人政治」を断固として廃し「株仲間の積極的承認」「日常生活における倹約の徹底と観光事業の振興の平行推進」「蘭学の公認」を軸とする経済改革に着手してある程度まで成功を収め、これが所謂「田沼時代」の経済的発展に繋がって行く。

ただし丁度その頃から国内に新規開墾の余地がなくなり貨幣経済浸透による伝統的共同体の崩壊が決定的となって江戸幕藩体制は本質的限界を露呈させ始めるのである(こういう状況下において国内においては朱子学の復権人材登用の能力主義化蝦夷開拓を進め、その一方でオランダとの貿易不振をロシアとの交易開始で補填しようとしたのが所謂「寛政の改革」だったのではなかろうか。ロシアとの交易自体は不振に終わるが、この時の主導者だった松平定信が祖父吉宗の時代から推進してきた「日常生活における倹約の徹底と観光事業の振興の平行推進」という戦略は「東海道中膝栗毛」の爆発的流行や「見世物文化」の高度化を契機とする未曾有の国内旅行ブームに結実する)。

*ある意味この「日常生活における倹約の徹底と遊び場や旅行中の気前の良い金遣い」が江戸型資本主義の特徴の中核の筈なのですが実際には「資本面も文化的正統性も関西方面に適わないという諦めから中央への忠誠心をもってそれを補おうとする」なんて側面の方が目立つ様で。いずれにせよこれ以降日本全体の単一経済圏としての統合が進み、それを前提として観光・接待文化を中核として職人文化出版文化が花咲いていく訳でこれ以降地方ごとの資本主義文化の違いを言い立てる事はあんまり意味がなくなってきってしまいます。。


こうして「南蛮からの黒船到来」を待望する憧憬心がすっかり薄らいだ頃に新たなる時代が到来する次第。
「フェートン号(Phaeton)」19世紀英国海軍所属のフリゲート艦
  1. イギリスにはかつて16世紀オランダとの営業競争に敗れ、経営不振の為に1623年に長崎平戸の商館を閉館した後で再開を試みるも江戸幕府に拒絶され続けていた苦い過去があった。

  2. そうした「オランダ海上帝国の繁栄」を事実上終焉させたのは「国際的主力商品の推移(スパイスの価値低下自体はそれに代わる超高級調味料醤油の登場である程度まで補われていた可能性もある。しかし絹の時代から綿の時代に推移し、日本が銀の輸出に積極的でなくなったダメージがジワジワ広がりつつあった)」に加えてナポレオン戦争によるオランダ本土陥落であった。

  3. そういう状況下において1808年10月「(アジアにおけるオランダの他の拠点同様に)オランダ商館接収」までも視野に置いてイギリス海軍のフリゲート艦フェートン号が長崎港に侵入してオランダ船の拿捕、港内の捜査、糧食の強請を実施したのが所謂「フェートン号事件」であった(ただし接収自体は日本人の感情に配慮して断念)。

  4. この時全く抗戦らしい抗戦が出来なかった長崎奉行奉行は切腹、警備を担当していた佐賀藩藩主鍋島斉直は逼塞に追い込まれている。後に自前の近代軍(なんと自領内で生産したアームストロング砲と連発銃とゴム製合羽を装備していたを投じて戊辰戦争の覇者となる佐賀藩にとって「幕末」はこの時点から始っていたのだが、残念ながらこの藩はそれを全国に広めるという思考様式に最後まで辿り付かなかったのである。

  5. 一方江戸幕府は「天保の改革」において「株仲間解散」という致命的失政を犯してしまう。これにより当時既に水面下で大幅に進みつつあった商工業自由化の流れが加速し始め、慌てて取り消したものの以前の様な経済統制能力を再び発揮する事はなかった。そうした時代を背景として佐賀藩だけでなく長州藩薩摩藩といった西国大名は公然と密輸に手を染め経済能力を高め始めたものと推測されている。

    *大した史料は残されていないけど元々九州や中国は昔からそういう土地柄。
    【資料1】日本人が意外と知らない世界史の一部としての九州史
    日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1889879)
    韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1889879)


    *この時期、薩摩藩は琉球を介したフランスとの交易開始に殆ど成功しかけている。
    【資料2】琉球王朝を舞台とした「日本再布教」の前哨戦
    日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1889913)
    韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1889913)

    *同時代、対馬藩と安東金氏勢道政治下の朝鮮王朝も1850年頃まで何やら密輸(朝鮮史上の表現では「互市」に引っ掛けて「後市」というらしい)で大儲けしてる気配があります。


そして、ついにアメリカ艦隊が日本を訪れる様になる訳ですが…
アメリカが日本に送った派遣艦隊(第1回

*殆ど絵姿が残ってない。当時の日本に如何に視野に入ってなかったか忍ばせる。

米墨戦争によってカリフォルニアを領土にする直前の1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドル提督率いる軍用帆船2艇が浦賀に入港し、幕府に開国の意志があるか打診だけして帰国した。江戸幕府の態度を硬化させただけでむしろ逆効果しかなかった。

コロンバス号(全長75m 排水量2480t 砲83門 乗員は海兵を含め800人程度)
三層の砲甲板を有する巨大軍艦。

ビンセンス号(全長40m前後 排水量700t 砲24門  乗員は海兵を含め200人程度

意外なほど日本人はこれに驚いてない。それどころかこの程度の陣容で長崎港に突入していたら既に装備が始っていた佐賀藩のアームストロング砲に叩きのめされていた可能性さえある(ただしその数はこの段階では12門程度だった様で本当に勝負になったかどうかはまた別問題、と)。

【資料3】「『薩長土肥』の『肥』」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1794969
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1794969)


アメリカが日本に送った派遣艦隊(第2回
蒸気外輪フリゲート艦サスケハナ号及び同型艦ミシシッピ号(1850年建造

全長78.3m 排水量2450t 砲多数搭載 乗員300人)

  1. 米墨戦争の決定打となった「メキシコシティ奇襲作戦」に完成が間に合わずフィルモア政権倒壊の原因となったとする説もある程「金食い虫」だった当時最先端の巨大蒸気戦艦。元をとる為に東インド艦隊旗艦に旗艦として就役して1853年1854年の日本に来航し、その威容が「日米和親条約」締結の突破口となったともされているがこの形式の艦は後のトルコでの戦争で「外輪を砲撃されるとすぐに足が止まる」弱点が判明し以降採用される事はなかった。つまりある意味「実戦の役には立たない見掛け倒し」だった次第。

  2. この時江戸湾防衛を任された井伊直弼は、佐賀藩と交渉して相当数のアームストロング砲を江戸港湾内に配備していたといわれる(その功績で大老に昇進したとも)。標的が外輪型蒸気戦艦だった事もあり、実際に砲撃戦になっていたら案外戦えていたのかもしれない。ただし幕府は実はオランダ経由の報告で「本当は15隻くらいで推し掛けるつもりだったらしい」事も承知しており(この時点でオランダに出来る憂さ晴らしは、憎っくき英米に関する情報を出来るだけ正確に伝える事くらいだった。後には幕府の軍隊近代化にも積極的に協力し、その結果寛政の改革以降抜擢されながら出世の限界に突き当たっていた勝海舟ら新興幕臣達の多くが海外研修も経て開国派に転じる事になる)下手に刺激したくなかったと考えられる。

    保身しか考えない当時の因循姑息な幕臣達当時の腐り切った朝鮮王の朝儒臣達のどちらが人間として優秀だったろうか? 個人的には同じくらい傲慢で無能で小心者だったかもしれないが、あまり他を犠牲にしてまで自分の身を守ろうとする行動を見せなかった前者に軍配を上げたい。
  3. それにもかかわらず、この戦艦の到来が黒船来航史上のブレークスルーとなり得たのは何故か? どう考えてみてもそれは全国中から集まってきた物凄い数の見物客の前で何の制約もなく航行してみせ好き放題「砲撃演習」をしてみせたからであったとしか思えない(空砲しか撃たないと知っていた観客は花火感覚で喝采していたらしい)。一応は100トン程度が上限だった日本の千石船に比べて20倍以上の大きさがあったので「伊豆大島が動き出したような巨大な船」と誰もが素直に驚き、それが「(新規ビジネス出現の予感を含む新しい時代の到来」を日本全体に知らしめたのである。

  4. そして「日米和親条約」が締結された年の江戸の街はもう「渡り物の珍しい織物」が溢れ返っている(「武江年表」等記録多数)。「幕府だけが海外貿易を独占する」という意味での「鎖国体制」はこの時点では既に形骸化していたのである。

  5. しかし、その鎖国体制の申し子ともいうべき西陣の旦那集は明治以降もライバルに先駆けてジャガード織機を導入する等して時代に逸早く対応し、決っして首位の座を明渡す事はなかった。「日本の保守主義的伝統」というのはかくして実力主義をもって維持されてきた次第である。

もちろんあくまで実際の歴史は「阿片戦争」に始る「列強に植民地化される恐怖」に対する社会上層の「徳川幕藩体制の放棄と西洋型国家の志向」を主軸に動いていくのだけど「日本人はどうしてそういう時代の流れに素直に従ったのか」を考えるに当たっては、こうした当時の実社会における経済感覚に密着した心情史も見逃せない様な気がしてなりません。

ちなみに朝鮮半島の場合、これに当たる心情史はこういう感じになる様です。

  1. そもそも朝鮮王朝にとって海外との交易は「(仲介者たる居倭(朝鮮半島内のあちこちに拠点を設けて半定住状態を送っていた倭人集団。史料を見る限り建国当初は海岸線のあちこちに普通にいたらしい外交僧(朝鮮王朝は仏教教団を天敵認定していたに膝を屈っする」行為しか意味しておらず、両者を視野から完全に一掃しないと精神的安定を得る事が出来なかったが、庶民は必要に応じて好きな様に考えていたものと推測される。

  2. 朝鮮王朝が(軍備を含む)外交を疎かにしたせいで倭胡両乱による被害が最大限に達っしたが宮廷側はそれを全て「外国の悪辣さ」のせいにして特別な対応は一切取らなかった。庶民は「外国は悪辣だからどうしようもない」というこの言い訳を「この国の指導者も同じくらいどうしようもない」「本当に善良で礼儀正しいのは私達だけ」という革新とセットで受容した。

    *当時を調べると「日本の将軍や清の皇帝に朝鮮王が何度も土下座した」という巷説が数多く残っている。当時の朝鮮庶民にとって「外国人」が江戸庶民にとっての「切支丹」同様に「一度も会った事ないから本当の事は何も分らないけど、とにかく憎まないといけないから想像の限り嫌な属性を付加してみる対象」だったのは確かだが(「国土の全てが毒で覆われてて、朝鮮から輸入した人参がないと忽ち全員死に絶えてしまう」なんてのまである)朝鮮庶民は自国の権力者だけが非難を免れるのをどうやら心情的に許せなかった様なのである。

    *こうした国民感情への対抗意識が一方では「三田渡碑」を国辱記念碑と考えさせ、中華序列世界では不可欠とされた「三跪九叩頭の礼」を恥辱と考える独特の感性を上層部に芽生えさせる。朝鮮王朝実録等をみると「今回も賢明に立ち回って三跪九叩頭の礼を逃れた」的な自慢が幾らでも見つかるが、実はそれは中華序列世界において最大の悪とされる虚礼に他ならない(日本が対馬藩や琉球王国といった仲介者的存在を立て、自らが中華序列世界に組み込まれるの避けたのは同様の矛盾に巻き込まれるのを避ける為)。実はこうした虚礼を礼賛する風潮の登場こそが後に朝鮮王朝のモラルハザード崩壊に歯止めが効かなくなった最大の原因とも考えられなくない。
  3. 安東金氏の勢道政治時代に「海外との交易による利益は全て時の権門に吸い上げられる」というネガティブなイメージが庶民の間に広がる。

    *ちなみに今の所これを実証する記録は1930年代に朝鮮半島に潜入して布教を行っていたアンペール司教がローマ法王宛てに送った書簡くらいしかありません。
  4. だから「阿片戦争への清国敗北」の報が入ると「海外との交流を百害あって一利なしとする確信」の純化がかえって強まり、それを汲む形で「朝鮮中華主義」によって朝鮮臣民を一つにまとめる事に成功したのが興宣大院君政権である(しかし実際にはどこからともなく相当量の銃や火薬を密輸してたりしてるので、実質上は「中央による海外貿易の独占」という伝統型鎖国の一種に過ぎなかったとする説もある)。

    *私が興宣大院君政権がビスマルクに似てると思うのはこういう部分。ドイツにおいてはこうした「国民は馬鹿な愛国者でさえあれば良い」という風潮が無制限に助長していった結果、ナチズムが台頭したと考えられている。

  5. 興宣大院君政権を政争で打倒した閔氏政権は開国後「近代化=自政権の安定」とみなして留学生を大量に日本に派遣する(所謂「朝鮮紳士御遊覧」時代)。しかしそれは庶民の目には「利益が全て時の権門に吸い上げられる」安東金氏の勢道政治時代の再来を予告するものとしか感じられず、従ってその大半が壬午事変(1882年を心情的に支持する事になった。

    *ちなみにこれを実証する記録としては、当時最も朝鮮の真相に迫っていた日本人特派員半井桃水の取材記事辺りが秀逸である。
    【資料3】「今日、この本が事実上絶版と知りました・・・」
    日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1931001
    韓(
    http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1931001
    )

  6. こういう庶民の心境が日本統治時代に克服される事がなかったのは仕方がないとしても、こうした鎖国戦略李承晩政権時代(事実上アメリカからの援助とその権益独占で成立していた朴正煕政権時代(事実上日本を手本とする工業化戦略を採用して相応の経済発展を遂げたにも継続した事は韓国人にとって不幸だったとしか言い様がない。
  7. 「ソウル大改造」を読む限り李明博大統領はこうした韓民族の心情史についてどうやら気付いている様なのだが「こうした感情を一変させるには相応の感動が必用だ」という意識には乏しい様に見える。そういうスタンスではむしろ(18世紀に朝鮮ルネサンスを現出させた星湖派実学者達の様に)下手にそれを刺激してしまって自滅に終わる可能性が高い様に思われるのだが果たしてどうだろうか?

そもそも本当の意味で「青天の霹靂の様に突然感動が襲ってきて全てを一変させる」なんて事態はどこの世でもそうは起らない訳で。日本の鎖国の終焉にしたってこれだけの前史があるという話でした。

IP xxx.6.xxx.252
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ochimusha|01-27 21:22
「私貿易や密輸による交易の活発化」だけでは歴史は動かないのだという事を改めて確認した次第。でもいざ歴史の登場人物に踊り出ようとしても動こうとしても破産状態や内紛の最中ではどうにもならない次第で、例えばこういう年表に日本の水戸藩とかは登場してこない訳で。
falstaff|01-27 21:24
推薦! 艦船に関して若干突っ込みたいところはあるものの、良いまとめ方ではないでしょうか。(,⌒-⌒) っ/ ∩
 → ochimusha|01-27 21:29
スペックとかは結構ネットから拾い集めてきた感じで。ナウ船の話とかも昔から集めてるんですが、中々正体がつかめない感じで。「メキシコ=マニラ航路」に就役してた奴の方が有名ですが「巨大だから無敵」説と「英蘭海賊の格好の餌食」説が入り混じってますね。
ochimusha|01-27 21:44
ま、歴史の次の瞬間には日本の庶民は「安政の大地震もコレラの流行も近年の物価高騰もペリーのせい!!」とか叫んだり「村請制の廃止」を自治権侵害と考えて反政府一揆を起したりする訳ですが、決して「このままずっと鎖国していたい」という意見が大勢を占める事はなかった、と。しかし逆に今日の韓国の世論は未だに公式には「一刻も早く鎖国時代に戻りたい」という意見が大勢を占めている様にしか見えない、と。往生際が悪すぎるよ、と。
 → ochimusha|01-27 22:00
「たかが庶民、されど庶民」という奴で無数の無言の国民も案外歴史の舵取りには参加している、と。ただ「政治の使命=国民の本音に盲目的に従う事」と勘違いしてしまうとそれはそれで恐ろしい結果が…韓国でいう「民衆専制主義」ってそんな感じ。
breakinghabit|01-27 21:48
凄いなぁ。ほんとに凄い。いつも楽しく読ませてもらってますnnnnn(='ω')っ∩ 「全く葉が立たなかった」のところ意外、私には突っ込む事も突っ込む知識もありませんがw
 → ochimusha|01-27 21:50
直します…
swjung1029|01-27 22:08
日本人も日本を理解することができない部分が多いということがおもしろいですね ^^ とにかく開港幕府の滅亡,,,, 理解しにくい部分が多いことは実はでありますね
 → ochimusha|01-27 22:16
「徳川幕府から明治政府への交代」は意外と上層の人達が都合に合わせて勝手に進めちゃった感じですね。まだこの時の日本は「国民国家」には程遠い状態にあったのでそれはそれで仕方がない事でした。
0020__|01-27 23:08
面白い。推薦。
▲ソビエト及びソビエト支配下地域からの日本人引揚及び北緯38度以北の朝鮮への朝鮮/人送還【SCAPIN1421】 [4]
- 「江戸時代の鎖国を破ったのは一体何だったのか?」 [10]
【おまけ】「社会の展開には感動が不可欠である。感動なき所にはまた前進もない」