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【参考資料】【阿片の歴史前編】「『阿片戦争』それ以前とその後」 | 伝統 823|共感1
1646924| JAPANochimusha | 2008.06.22 18:58:45
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*この投稿は以下の関連スレです。
【阿片の歴史後編】「インドの経済成長が、日本の大衆薬を滅ぼす?」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1903407)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1903407)

【あらましメモ】檀君信仰と韓医学の関係について
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1903598)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1903598)



韓国人が歴史を語る上で世界史を意識しない自由を甘受出来ている最大の理由の一つは、「阿片戦争(1840-1842)」を学校できちんと習わない点にあります。

しかし実は日本人の大半も、この戦争が後世に及ぼした影響について完璧な知識は持っていなかったりする訳で、知らない事にについてはどんな形で隙を突かれるか判ったもんじゃありません。

 【阿片の歴史前編】「『阿片戦争』それ以前とその後」 
中国軍艦を駆逐するイギリス戦艦ネメシス号
*参考
「麻薬アヘン(阿片)とケシの歴史と科学 」

日(http://www2.odn.ne.jp/~had26900/about_souyaku/about_ahen.htm)

*下手な文献より詳しい薬学史サイト。ただ何となく「北の情報戦略臭がする」のが玉に傷。

*そして、以下に引用した【歴史パート】に関する記述は概ねWikipediaの「阿片」の項目を基底としつつ色々加筆したものの様に見えます。そのうちある程度まではWikipedia上で参考文献として挙げられた『大東亜の特殊資源(佐藤弘/1943年)』 『続・現代史料集 12(第一部第三資料)』『戦争と日本阿片史(二反長半/1977年)』 『阿片(マーティン・ブース/日本語版発売1998年)』辺りに拠るものなのかもしれません。

 【阿片伝来史1】ケシが古代オリエントで栽培され始めた 

  1. アヘンの原料植物であるケシは文明の発生とともに栽培されていたとしても不思議ではないが、実際に栽培されていた事が確かめられてる最古の例はメソポタミアにおけるシュメール人である。

    現在のバクダッドの南部から発掘された約5000年前の粘土板には楔形文字でケシの栽培、ケシ汁の採集についての記述があり、その中でシュメール人はケシをHul Gil、すなわち”歓喜、至福(Gil)をもたらす植物(Hul)”と呼んでいる。
    *Wikipedea「阿片」の説明ではここは「紀元前3000年頃に記述されたと見られるイランで見つかった石版にはシュメール人の乳液の採取について記述されている」となっている。

  2. 後にそれはアッシリアやバビロリアにも伝えられた。

    *アッシリア人はケシ汁を"aratpa-pal"と名付け、これがケシ属の植物学的分類のラテン名であるPapaverの語源となったとされている。

    *ニューヨークメトロポリタン美術館の古代アッシリアのレリーフギャラリーには、女神の天使が長い茎がついたケシの実の束をもっている姿が描かれている。ケシは花の方が美しい筈なのになぜあえて実の方を? もしかしたらこの頃には既にケシの実の乳液が痛みを和らげ安らぎを与える効力がある事が知られており、既に実自体が不思議な魔力を持つものと特別視されていたのかもしれない。
    *Wikipedea「阿片」の説明ではここは「メトロポリタン美術館のアッシリアン・リリーフ・ギャラリーにある、アッシュールナツィルパル2世の宮殿にあった紀元前879年に作られた浮き彫りの有翼神獣が運んでいるのはケシの未熟果の束である可能性が高い。ただし美術館はザクロと説明している」となっている。

  3. 次いでケシはエジプトにも伝えられた。直接の形ではないが、この地の記録には既に薬物として知られていた形跡が見られる。

    「Opium Thebaicum(アヘンのラテン名)」も「thebaine(テバイン。重要なアヘンアルカロイドの一種)」も古代エジプトの町Thebesに由来すると言われている。

    ツタンカーメン王時代には国中がケシ栽培であふれていたといわれるが、宗教者、魔術師、兵士以外には知れわたっていなかった。

    古代エジプトの知恵、学問、創造の神トトはアヘンを「死に至らしめるもの」と諭している。その一方で、女神イシスは太陽神ラーの頭痛を治す為にアヘンを用いたとされている。

    Wikipedea「阿片」の説明には「紀元前1500年頃にエジプトにてアヘン製造がされていた事がわかるパピルスの文献が見つかっている。文献によれば、アヘンは当時のエジプトにおいて鎮痛剤などの薬剤として用いられていた」という記載がある。

 【阿片伝来史2】古代ギリシャで阿片の生成が始まった。 
ケシはエジプトからさらに地中海の諸地方にも伝わった。
  1. 地中海カプリ島(フランス領)から発掘された紀元前1500年前の青銅器時代後期の工芸品の中にはケシの実を模したと思われるものが含まれている。

  2. 紀元前9世紀にホーマーが表したというギリシア時代の叙事詩「オデッセイ(The Odyssey)」には”ケシは死の眠りで満ちあふれている”という記述がある。

    *古代ギリシアではしばしば阿片が眠りの神Hypnos、夢の神Morpheus、夜の神Nyx、死の神Thanatosに例えられたが、その最初期の出現例である。

  3. 阿片が確かな文献に記述される様になったのは紀元前400年頃、つまりギリシア時代以降である。

    *ケシ中の麻薬成分含量は高くない(通常の品種では0.3~0.5%)ので、それを生薬あるいは医薬原料として使う為にまず濃縮(植物体に比べて数百倍以上)する様になった。

    こうして濃縮されて乾燥させられたケシの実の乳液を一般にアヘン阿片英語でopium)と呼ぶ。その語源は一般に古代ギリシア語の「opion=汁(poppy juice)」と考えtられている。
    *Wikipedea「阿片」の説明ではここは「ローマ帝国ネロ帝の侍医ディオスコリデスは、アヘンの採取法及び薬効を著書の中で詳しく述べている。この時代には、アヘンはすでに鎮痛剤、睡眠剤として利用されていた。一部でレクリエーショナルな使用も行われたが、多くは薬用であった。英語名 opium は、この時代のラテン語名 opium を引き継いだものである」となっている。

    日本の俗称における「ケシ坊主(ケシの未熟果実。英語ではcapsuleかpodであり不思議とfruit とは呼ばれない)に何度も傷をつけて出る乳液をとことん搾り取って集め乾燥したものをアヘンopiumと称するようになる。乳液を集めて乾燥した もので表面は真っ黒であるが、中はむしろ白っぽく粉末にすると白灰色になる。

    ”医学の父”として著名なヒポクラテス(Hippocrates, BC.460 - BC.377 )は既に迷信を徹底的に排除する立場からアヘンの麻酔、鎮静、収斂作用が実際に病気の治療に有効である事を認めていたし、アリストテレスの後継者にして「生薬学の父」ともいうべき存在であるテオフラテス(Theophrates, ca.372 - ca.287 BC)もまた、その著書「植物の歴史」の中で生薬学的視点からアヘン、ケシについて記載している。

  4. 阿片の製法については、紀元1世紀ころ、ギリシアのディオスコリデス(Dioscorides, ca.40 - ca.90 AD)が”ケシ坊主”に傷をつけて滲み出る乳液を集める採取法を詳述している。

    *「見渡す限りの広大なケシ畑で、一つ一つのケシ坊主にナイフで傷をつけヘラで乳液を掻き取り続ける」という退屈な単純労働で、その実施には一般に「驚くほどの低賃金で黙々と請け負う膨大な労働力」が必要となる。砂糖キビ栽培や綿花栽培と同様に阿片栽培が「貧民や奴隷の酷使」というイメージを持つに至ったのはこの為である。

    この方法ではケシに含まれるモルヒネなどの”麻薬成分”のごく一部を取り出すに過ぎなくて化学成分の収量という観点からは効率が悪いが、それでも生アヘンの採取は今日なおこの方法で行われ続けている。

    *それではそれ以前には阿片はどうやって製造されていたのか?

    *ディオスコリデスは同じ著作物の中でケシ坊主を砕いて圧搾し、絞り出した液汁から製する「メコニウム(meconium, ギリシア語のmek onionが語源)」についても記載している。阿片より効力の点で劣るが収量はずっと多く、後に欧州で実際に用いられてきたものも多くはこれだったと考えられている。

 【阿片伝来史3】「アレキサンドロスの遠征」と「アラビア人との交易」を通じ東進 

  1. やがて阿片は紀元前330年頃の古代マケドニアのアレキサンドロス大王(Alexandros, 356 - 323 BC)の遠征を契機としてさらに東への伝搬を開始する。

    おそらくアレキサンドロスはペルシア遠征のときアヘンを持参したのであろう。兵士の疲れを癒す目的でも使われたかもしれない
    *Wikipedea「阿片」の説明には「アレキサンダー遠征と阿片伝来の関連性」について述べた個所はない。

    アレキサンドロス自身のインド遠征は失敗に終わり、本人は病に倒れてペルシアで客死したが、程なくインドでも阿片が用いられ始める
    *Wikipedea「阿片」の説明では「インドへも5世紀前後のイスラム圏交易網を通じてもたらされた」となっている。

  2. そして中国人が東アジアで最初にアヘンに遭遇した。どうやらインド経由ではなく、5世紀頃にアラビア人が伝えたのが起源らしいのだが、その後辿った歴史を含めて今日なお不明点が多い。

    中国六朝時代の医学者兼科学者で道教の茅山派の開祖としても知られる陶弘景(456年~536年)の著した「唐本草」には既に「アヘンの薬味は辛苦、気は平」と記載されている。

    *だから当時から薬用に用いられていたのは間違いないが「傷寒論」や「金匱要略」にその用法は収載されておらず、正当な伝統医学の処方には使われていなかったのもまた認めざるを得ない。
    *Wikipedea「阿片」の説明には「シルクロードを通じて持ち込まれた医薬品、底野迦(てりあか)にはアヘンが含まれていたとの指摘や、三国時代の医師である華佗の用いた麻酔薬、麻沸散にアヘンが含まれていたとの指摘もある」といった記載がある。

 【阿片伝来史4】むしろその止瀉効果に注目したアラビア医学 

欧州が所謂「暗黒時代」にあった頃、栄華を極めていたのはむしろ西半球にサラセン帝国を築いたアラビア民族の方であった。そして当時のアラビア医学では、阿片を「眠りを誘う」「痛みを緩和する」という従来の用法だけでなく赤痢の治療にも用いている。

*アヘンの強い止瀉作用によってその激しい下痢を止めると、実際に赤痢の感染力をある程度まで押さえ込む事が出来る。この結果「阿片には疫病を治療する効果もある」という俗信が生まれ、それは中国にも伝わった。

 【阿片伝来史5】阿片を喫煙する危険な用法が中国で生まれる 

  1. 欧州でアヘンが普及し始めたのは、長い政治、経済、文化的沈滞から抜け出て自信を取り戻し始めたルネッサンス後、スイスの錬金術師パラセルラス(Paracelsus, 1490 - 1541)が現在でいうアヘンチンキを発明してローダナム(Laudanum)の名で販売し始めて以降となる。

    *以降は医薬品としての阿片の有効性が知れ渡り、1680年には英国の名声ある内科医シデナム(Thomas Sydenham, 1624年~1689年)をして”全能の神が人々の苦悩を救うために与え賜うた薬物の中でアヘン程万能で有効なものはない”(原文:Of all the remedies which a kind Providence has bestowed upon mankind for the purpose of lighting its miseries, there is not one which equals opium in its power to moderate the violence of so many maladies and even to cure some of them.)とまで言い切らせている。

    *そのシデナムが自らの名前を冠して売り出したのが、神経障害にも効果があるとされたSydenham's Laudanumである。これはワイン、ハーブ、ミカンジュースにアヘンを配合したものであったが、当時の欧州で流行し人々を恐怖に陥れていた伝染病ペストにも有効であるとして好評を得た。

  2. その一方で大航海時代になると新大陸から欧州にタバコと喫煙の習慣が持ち込まれた。西洋でまたたく間に広がった後、明朝時代の中国にも伝えられたが、当時の中国人はタバコとアヘンを混ぜて喫煙する事を思い付き、さらに快感を追求して100%のアヘンの喫煙までもが登場してきた。

    *1500年頃、ポルトガル人は欧州にアヘンの喫煙を初めて紹介したが、これは中国人から学んだとされている。ただし当時は「喫煙」といっても、当時は阿片を炊いて煙を吸引したり、あるいは葉巻の様にして火をつけて吸っていたようだ。

    *19世紀から20世紀に掛けて中国のアヘン窟を席巻した煙管を用いる喫煙法は1700年頃にオランダ人が台湾経由で中国に持ち込んだものである。これによってアヘンをキセルで喫煙する習慣が一気に広まった。

    それまでの経口服用より速効性があるが、当時の中国において既にこれは野蛮な習慣と考えられていた様である。

    *サイトの意図からするると「眉唾して拝聴しないといけない個所」なので要注意!!

 【阿片伝来史6】「阿片戦争」に至る道 

*こちらを参照の事。
【阿片伝来記6】「『阿片戦争』に至る道」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956348)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956348)

 【阿片伝来史7】「阿片」の薬効成分がついに解明される 

アヘンの効果はギリシア時代から知られていたが、多くの科学者の関心にもかかわらずその薬効の本体は19世紀に至るまで謎のままであった。
  1. 1803年、パリのデロスネ(Jean-Francois Derosne, 1774 - 1855)がアヘンの麻酔作用成分としてナルコチン(narcotine)を単離したと発表したが、後にそれには麻酔鎮痛作用が判明して「ノスカピン(noscapine)」と改称される。
    *阿片における天然含量率3~6%。現在では主に鎮咳薬として用いられる。

  2. 1806年、ドイツの薬剤師セルチュルナー(Friedrich Wilhelm Serturner, 1783 - 1841)がアヘンの麻酔鎮痛作用成分の本体を初めて明らかにし、かつそれが前例のない有機塩基性化合物であることも指摘したがその研究結果はあまり広く認められなかった。

  3. 1817年、セルチュルナーが新たな研究結果を添えて再発表を行う。この時初めてアヘンから単離精製した麻酔鎮痛物質に「モルヒネ(morphine:ギリシア語の「夢の神Morpheus」に因む)」の名が与えられた。
    *阿片中における含量率7~17%。主に催眠鎮痛剤として使われるが「阿片の止瀉効果」は実はこの成分の副作用である。

  4. 1818年 ドイツ人薬剤師マイスナー(Karl F. W. Meissner)がモルヒネの様な天然起源の塩基性物質の総称として「アルカロイド」を使い始める。

  5. 1832年、阿片からコデイン(codeine)が単離される。
    *阿片中における天然含量率 0.7~2%。モルヒネの1/5の鎮痛効果と鎮咳効果を併せ持つ。これを還元して得られるジヒドロコデイン(dihydrocodeine)は専ら風邪薬の中に配合される。

  6. 1848年 阿片からパパベリン(papaverine)が単離される。
    *阿片中における天然含量率0.5~3%。主として鎮痙薬に使われる。
こうした研究成果を受けてやっと習慣性や耽溺性を伴う「阿片チンキ」が、より安全性の高い「麻酔鎮痛剤」「風邪薬」「咳止め」「鎮痙薬」に置き換えられ始めるのである。

 【阿片伝来史8】アメリカのヘロイン禍 

*こちらを参照の事。
【阿片伝来史8】アメリカのヘロイン禍
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956361)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956361)

 【阿片伝来史9】そして「日本」ではどうだったか? 
  1. 日本にアヘンが伝わったのは約500年前で中国経由とされるが、当時の明朝政府がアヘンの喫煙を野蛮視していたことと関連してか喫煙の習慣は伝えられなかった。

  2. 漢方医学では全く用いられていないが、江戸時代にケシを栽培していたという記録自体はある。

    *「普救類方(江戸時代の民間医療書)」に「反胃は、食したるものを吐(はき)かへすなり、時すぎて吐(はき)かへすもあり、或(あるい)は、今日食したる物を明日吐(はき)かへすもあり、---」なる時、「罌粟殻(けしのから)を水にて煎じの(飲)みてよし」とある。

    こうしてどうやら民間でもケシが薬用に供されたことはわかるがアヘンを採取していたかどうかは微妙とされている。栽培規模もごく小規模で「食用として種子を採る」「ケシ殻を薬用として利用する」といった程度の話に過ぎないというのが今の定説である。

  3. 日本人が薬としてのアヘンを初めて知ったのは幕末になってからで、シーボルトなどオランダ人がアヘンを持ち込んで弟子の日本人蘭医に使い方を教えたのが始まりであると考えられている。
    *Wikipedea「阿片」の説明には「江戸時代の末期である1837年には、太田四郎兵衛がアヘンの製造に成功したとの記述がある。その後、明治維新の前後には、栽培が全国に広がっていた。アヘン戦争の教訓から江戸幕府は、安政五カ国条約にアヘン輸入禁止の条項を設けたが、この条項は部分的な条件下で諸外国にアヘンの所持や密売に対して罰則を設けるものであった」「当時日本と唯一通商関係を持っていたヨーロッパの国であったオランダは、日本との通商関係の維持を優先してイギリスが清に行ったようなアヘンの密貿易を忌避していたとされ、開国後も鎖国時代と同様の幕府の好意を維持するために1857年の安政追加条約(日蘭和親条約の改訂)においてアヘン貿易の禁止条項を真っ先に受け入れ、結果的にこれが他の欧米諸国もこれに同意させることになった」とある。

  4. さらにケシ栽培が本格的に始まったのは20世紀に入ってからで、大阪出身の二反長音蔵が水田の裏作としてケシ栽培を振興したのが起源とされる。当時の内務省も栽培には積極的だったようで、音蔵は講師として多忙だったと伝えられている。
    *Wikipedea「阿片」の説明には「明治政府は、1868年(慶応4年)に太政官布告慶応4年第319号を布告し、1870年(明治3年)8月19日には販売鴉片烟律と生鴉片取扱規則を布告。使用や売買を厳禁とし、重罪とした。1879年(明治12年)5月1日には薬用阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行した。この法律において、政府は国内外におけるアヘンを独占的に購入し、許可薬局のみの専売とした。また、購入は医療用途のみとし、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。この専売制は日清戦争の戦需品として、政府に利益をもたらした」とある。

  5. 始めは薬用目的のアヘン製造だったと思われるが、昭和6年、満州事変次いで日中戦争の勃発後は満州国の維持と100万の軍隊の駐留費用の調達手段へと変貌を遂げる。そこで、音蔵は当時、日本領であった朝鮮や満州国にケシ栽培の奨励のため講師として招聘される事になるのである。

  6. 当時の朝鮮総督府と満州国政府はケシ栽培を管理してアヘンを専売制とし、当時まだ膨大な人数がいたといわれる中国のアヘン喫煙者に売りつける事で莫大な利益を上げた。ちょうど1世紀前にイギリスが当時の清国に対して行ったことを繰り返した訳で、満州国の運営費用もそれで概ねが賄われていたとする説まである。
    *Wikipedea「阿片」の説明には「日本は下関条約の締結を経て、台湾を統治した。当時台湾においてアヘンの使用が広がっていたことを背景に、後藤新平は伊藤博文にアヘンの漸禁政策案を提出し、1897年には台湾阿片令が敷かれる。阿片令において、アヘン中毒者へのアヘン販売が許可された。1898年の台湾阿片令にて台湾におけるケシ栽培が禁止され、台湾総督府専売局によりアヘンは独占的に販売された。その結果内地におけるアヘン製造が活性化した。その後、日本は関東州、満州においてもアヘンを厳禁としない漸禁政策を敷く。また、1915年にはモルヒネの国内生産が成功し、アヘンの需要は高まった。関東州、満州においてもアヘンは製造された。日中戦争下において、関東軍は影佐禎昭大佐の指導で里見甫が中国の犯罪組織の青幇や紅幇と連携し里見機関を設立、上海でのアヘンやモルヒネを大量に密売した」とある。

    *穿った意見の中には「熱河作戦そのものが国防や富国強兵意識と無関係に『中国有数の阿片栽培地の奪取を目的としていた」なんて意見まであります。現時点ではそれを肯定する史料も否定する史料も見た事がありません。

  7. こうした事は最近になって「当時のアヘンの栽培の実体を知る関係者」と称する人物の著作で明らかにされたのだが、そこには「日本が日中戦争において行った最大の国家犯罪」というセンセーショナルなサブタイトルがつけられていた。

  8. これはイギリスの対中アヘン貿易を「近代においてもっとも長く続いた計画的な国際犯罪」と形容した米国ハーバード大学の著名な歴史学者フェアバンク(J. K. Fairbank)のスローガンのコピーである。しかしイギリスもまたこの件では国際社会において一切反省してこなかった経緯もあり、この事は東京裁判でも戦後体制の中でも一切問題視されて来なかった。

 【阿片伝来史10】そして、ついでに朝鮮半島ではどうだったか? 
  1. 朝鮮半島にはアヘンからモルヒネを抽出してそれを売りつけてきた伝統自体はある様である。しかし日本と同じくアヘンの喫煙の習慣がなく、それによってモルヒネ中毒患者や廃人が蔓延したという話も全然聞かない。

  2. ところで近年、北ゆっけ朝鮮で大規模なケシ栽培が行われ、アヘンが闇ルートで売りさばいている疑惑についての報道があったが、テレビ映像で紹介されたケシ畑で栽培されていたのは明らかに日本で開発された「一貫種」だった。

 【まとめ】とりあえず「それは知りませんでした、御免なさい」と無条件に謝罪したり「戦犯国家日本の犯罪がまた一つ暴かれた」と無条件に弾劾したり「日本は間違った事はしてない」と開き直ったりする前に 

日本人も確かにここまで詳しくは学校っで習ってませんが、概ねは調べればすぐに判る話なので昔から別に秘密でも何でもありませんでした。「この件に関して中国は、どの証言を見ても朝鮮半島を日本を同じくらい本気で怨んでいる」というただ1点を除いて。

これについて責められた場合の弁明として以下の様なものが考えられます。

【弁明案1】麻薬に手を染めるか否かは個人の選択の問題であって、個人責任の要素がかなり大きい。戦前の日本でも国内でかなりの規模のケシ栽培が行われていたが、それによってアヘン禍が起きることはなかった。 

イギリスの場合、自民族からもは大量のアヘン常習者を出し続けた(ただし摂取方法の違いから廃人は生み出されず、その事が中国における事態の深刻さを見誤らせたとする説もある)。

*そういえば日本は清国より割譲を受けた台湾で「阿片喫煙中毒者の蔓延する状況」を撲滅するのに成功している。中華人民共和国もまたそうである。

【弁明案2】戦前の軍国日本がアヘンを売りさばいて利益をあげたとしても、またイギリスが清国に対してインド産アヘンの交易で膨大な利益をあげたとしても、名目上は資本主義経済の下で一定の市場があるところへ商品を売りさばいた商業行為の一つに過ぎず一般の犯罪行為とは明らかに違うのである。

戦国時代の日本において豊臣秀吉とイエズス会士のこんな会話が記録に残されている。
豊臣秀吉  「ポルトガル商人の中に日本人を奴隷として買い求める者がいる」
イエスズ会士「日本人が売るから、彼らが買うのである」
どちらも裏では同朋のその行為を取り締まりながらの弁明であるのは当然の事。
我々が生きているのは、つまりはこういう世界である。
*Wikipedea「阿片」の説明では「時代こそ違うもののイギリスだけでなくオランダ、日本、トルコ、ペルシアなどもアヘン貿易で資金を獲得した経験を有する」と指摘されている。

ただしこの立場を取る以上、当然米国ブッシュ大統領が「悪の枢軸」と断じるのに声を合わせて北朝鮮のアヘンの密貿易疑惑の道義性を問う事は出来なくなります。冒頭で「サイト全体が北ゆっけ朝鮮の情報戦略の一環臭い」と指摘したのは、実はそのせいだったりする訳です。

*実際、アメリカ政府は最近の宥和政策の一環として北ゆっけ朝鮮を「麻薬供給国リスト」から外してきました。日本政府の対応も昔から同様の態度を取り続けています。ここで挙げた弁明案自体に詭弁の要素はありませんが、それは両刃の剣かもしれないって事です。
IP xxx.6.xxx.252
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【素朴な疑問】「これが自民党右派?」 [15]
- 【参考資料】【阿片の歴史前編】「『阿片戦争』それ以前とその後」
【参考資料】「インドの経済成長が、日本の大衆薬を滅ぼす?」