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【詐欺、あるいは方便】「白衣の天使と小陸軍省の狭間」 | 伝統 383|共感0
1703493| JAPANochimusha | 2008.07.21 21:28:55
TOP
*これは以下の関連スレです。
「魔法使いの弟子」あるいは「詐欺? むしろ方便?」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1955487)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1955487)
【Wikipedia】
フローレンス・ナイチンゲール(
Florence Nightingale、1820年5月12日 - 1910年8月13日

  1. 裕福なジェントリの家庭に育ち、贅の限りを尽くした教育を受けたが慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになり看護師を志し、のちに婦人病院長となった。

  2. クリミア戦争が勃発すると、翌1854年、自ら志願して38名の看護婦を率い従軍しスクタリ病院の看護師の総責任者として活躍。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた(看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する)。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれたが、ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようで、本人談としては「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」といった言葉が伝えられている。

  3. 赤十字活動には関わっておらず、むしろボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していた。これはマザー・テレサ同様「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」ということを見抜いていたためであり「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」と考えていた為とされている。そして「(クリミア戦争における英国の広告塔となる」ことをいとわなかった彼女だが、あまりにそう利用され過ぎたせいか戦後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになり、それが昂じて遺言では、墓標にはイニシャルしか記すのを許さなかった。
    *ちなみに「赤十字精神」の方はこちら。
    【付記】
    「ソルフェリーノの教訓?」
    日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956016)
    韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956016)


  4. それでも赤十字国際委員会の創設者の一人であるアンリ・デュナンはナイチンゲールの活動を高く評価し、委員会が全世界の「傷病者や障害者または紛争や災害の犠牲者に対して、偉大な勇気をもって献身的な活躍をした者や、公衆衛生や看護教育の分野で顕著な活動あるいは創造的・先駆的貢献を果たした看護師」に対して(隔年=西暦で奇数年で50人以内に)贈る記念章にも名前を残している。

  5. 超人的な仕事ぶりと必要であれば相手が誰であろうと直言を厭わない果敢な姿勢により、交渉相手となる陸軍・政府関係者から敬意を示されると同時に恐れられていた。オールド・バーリントン通りにあったナイチンゲールの住居兼事務所が関係者の間で敬意と揶揄の双方の意味を込めて「小陸軍省Little war office)」 と呼ばれていたのはその為である。

彼女の活躍を理解するには、当時を代表するこの人物の動きも追わないといけません。

【Wikipedia】第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル (Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, 1784年10月20日 - 1865年10月18日

「パックス・ブリタニカ」のシンボルとされるイギリスの政治家で、政治家であるアイルランド貴族、第2代パーマストン子爵ヘンリー・テンプル(1739年-1802年)の息子として、ハンプシャー州ブロードランズで誕生しロンドンで育つ。
  1. 1809年から1828年、軍務大臣として対アメリカ戦争などを仕切る。最初はトーリーであったが1822年からホイッグ党カニング派になる。

  2. 1830年から1841年に外相を務める。1830年から1831年ロンドン会議でベルギーの独立承認。1833年から1841年、ロシアの南下政策とフランスの東地中海進出の封じ込めに尽力。

  3. 1840年から1841年アヘン戦争を指導。特に清王朝と戦争状態にある時、エジプトを巡る第二次東方危機問題でロンドン5ヶ国海峡条約を締結してロシアとフランスの封じ込めに成功できたのは、パーマストンの優れた外交指導力の賜であったとされる。

  4. 1855年クリミア戦争で戦線が膠着状態になると、当時の首相アバディーン伯から引き継いで戦争を勝利に導きパリ条約に同意。

  5. 1856年ナポレオン3世を誘い、太平天国の乱に苦しむ清王朝に対してアロー号事件を口実に所謂「アロー号戦争」を敢行。1858年の天津条約、1860年の北京条約締結に結びつける。

  6. 1857〜1858年 インド大反乱を鎮圧してインドを直轄地にする。

  7. 1859年から1860年 イタリア統一運動を後援する。

フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)の年表
日(http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/8452/naitinngerunennpyou.htm)

1820年5月12日0歳)両親の新婚旅行中のフィレンツェ(英語名:フローレンス)で次女として生まれた。この日は現在「看護の日(ナイチンゲール記念日)」になっている。

1829年
9歳)カトリック解放法が成立し国教会徒でない人でも公職に就けるようになった。お陰で父が翌年ハンプシャー州の州長官に就任し、州の行政と治安の責任者になる事が出来た。

1930年 イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシアによるロンドン会議が開催され「ダータネルス・ボスポラス海峡が全ての国の軍船に対し平和時に閉鎖される」という内容のロンドン協定を共同歩調形式で締結。
  1. あからさまに露土戦争1928年〜1929年)で、あからさまに「軍事力をも行使しても伸張する国力をもって黒海から地中海に抜けようとする」傾向を見せつけたロシアに対して大英帝国が打った軛の一種だった。
  2. この閉塞感から何とか開放されたいという思いが後のクリミア戦争につながったとする説もある。

1832年
12歳)父は自らがケンブリッジで習ったような贅の限りを尽くした教育を娘達に授ける。フランス語・ギリシャ語・イタリア語、ラテン語(聖書や哲学の勉強の基礎となるものとして学ぶ)、ギリシア哲学(プラトン)・数学・天文学・経済学・歴史(イギリス、外国)、美術、音楽、絵画、英語(英文法、作文)、地理、心理学、詩や小説などの文学など多岐にわたって教えられたとされる。

1837年2月7日
17歳)神から最初の啓示を受ける。自らの寝室に茨の冠をかぶったキリストが光り輝く姿で現れ「我に仕えよ!(To My Service)」と言ったという。

同年9月
 母のファニーが娘達の社交界デビューのためにエンブリー荘を改装することを思い立ち、その期間、一年半あまりを一家はヨーロッパを旅行する。ニース、ジェノバ、フローレンス、ジュネーブ、パリを回った。

1839年4月
19歳)ヨーロッパ旅行から帰国し、フローレンスとパーテノープはビクトリア女王に拝謁。エンブリー荘はフローレンスの人気でイギリスの名だたる国会議員や外国からやってくる高名な学者などで賑わったという。

同年11月3日 パーマストン卿の指導下でアヘン戦争開始。
*詳細はこちらを参照の事。
【阿片伝来記6】「『阿片戦争』に至る道」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956348)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956348)
【付記】「清代中国で移民熱が発生したのは英国で喫茶習慣が大衆化したせい?」

日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1943313)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1943313)
  1. 「麻薬の密輸」という開戦理由にイギリス本国の議会では野党のウィリアム・グラッドストン後の首相)らを中心に「こんな恥さらしな戦争はない」などと反対の声が強かったが、清への出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認される。この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣する。
  2. 艦隊は問題のあった広州へは赴かず、いきなり北京に近い天津沖に姿を現した。これに驚いた清国政府では政権内の権力闘争もあって強硬派の筆頭だった林則徐を解任する。
  3. しかしイギリス艦隊が1840年11月に清政府に対して香港割譲などの要求を出すと清政府はこれを拒否したので翌年1月7日に戦火が開かれた。
  4. 虎門の戦いにおける関天培らの奮戦の様な例外はあったものの、火力に優るイギリス側が完全に制海権を握り自由に上陸地点を選択できる状況下、複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍の一方的な各個撃破が続いた。
ところで・・・
  1. 1770年代の経営危機を克服過程でイギリス政府の支援を仰いで以降東インド会社の命運はイギリス本国が掌握する様になった。
  2. ところがこの頃のイギリス本国は産業革命の振興期にあり、東インド会社によるインドと中国貿易の独占状態を非難する声が高まる。その先鋒に立ったのが『国富論』を著したアダム・スミスであり、スミスの自由貿易論は、知識人や政治家の間で多数派を形成した。
  3. 特許状の更新がなされなければ東インド会社の独占貿易は保護されないわけであり、その更新は20年ごとに行われる。1793年にはインド貿易の一部が自由化され、1813年にはインドにおける独占貿易が終了した、また1833年には中国との独占貿易も終了した、こうして東インド会社の商事会社機能は終焉を迎える事になったのである。

1840年前後
20歳代)イギリスが大変な飢饉と不況に襲われた。
  1. ナイチンゲール家の人びともリーハースト荘の近くの農村地帯を病人を見舞って歩く。
  2. そこで貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、フローレンスの心に徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいという考えが芽生えてきた。
  3. その間もずっと毎日のように自分に語りかけてくる神の声を自覚し続ける。日常生活を送る中でも突如トランス状態になり、白昼夢を見、恍惚としたりしていた。胸の中から「私を愛せ!」という声が響いてきたりした。そうした経験が日記には記されている。

1842年8月29日 江寧(南京)条約調印により阿片戦争終結。
  1. この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めた。
  2. また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認などが追加される。
  3. このイギリスと清との不平等条約に他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約などが結ばれている。
  4. それらの公文書に、戦争の原因となった阿片の話はない。この戦争の発端となった恥ずべき原因を文書上に残すことをイギリス側が躊躇したためである。
*この直後よりイギリスとフランスの目が琉球王国に向き出した。
【資料2】琉球王朝を舞台とした「日本再布教」の前哨戦
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1889913)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1889913)


1844年
24歳)看護婦として病院で数ヶ月働きたいと言い出す。

さらに隣村に自分の家を持って自立し「教養ある女性のための誓約によらない、プロテスタントの婦人団体のようなもの」を設立したいとまで言い出して家族から大反対される。

1845年
25歳)従兄のヘンリー・ニコルソンの求婚を断る。

同年〜1949年 アイルランドを猛烈な飢饉が襲う。
【付記】「アメリカは何故、アイルランド独立を後援したのか?」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1951618)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1951618)

1847年
27歳)ブレスブリッジ夫妻という有名旅行家の友人に連れ添われローマ旅行に出掛ける。
  1. そこでローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと友人を介して知り合った。
  2. 帰国後、ハーバート夫人である通称リズことエリザベス・ハーバードとの親しい交際が始まったが、あくまでフローレンスの自立の夢を諦めさせようしていた母からエンブリー荘などの家政を任せたりもする様になる。

同年 ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵(1809年〜1881年)が東シベリア総督に就任。

  1. 弱冠38歳の人物を総督に任命する事について賛否の声が巻き起こったが、シベリアの東半分からアラスカにまでまたがる広範囲の地域を管轄する東シベリア総督職は皇帝が直接任命する職であり、誰にも口は挟めなかった。
  2. ところで1689年の清とのネルチンスク条約で、ロシアはアムール川の航行権を失っていた。しかし清国はアムール川最下流の河口部の航行権については特に何も主張していないのだった。ムラヴィヨフはその地域への進出を考え始める。
  3. それに対し、未だ1848年革命の余波が残るヨーロッパ情勢に忙殺されていたネッセリローデ宰相は、19世紀までに重要な交易相手に昇格する様になっていた中国との関係まで悪化させる事を恐れて強く抵抗した。しかしムラヴィヨフはあくまで皇帝に海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイ船長をアムール川流域やサハリンへの探検に派遣する認可を求め続け、とうとうそれを手に入れる。
  4. 1850年から1853年にかけてムラヴィヨフはいくつかの探検隊をアムール川河口およびサハリンに対して送り、ニコラエフスクをはじめとするロシアの前哨がこれらの地に設立された。これは政府内で議論を呼び、前哨の放棄やムラヴィヨフ解任も取りざたされたが、ムラヴィヨフの皇帝に対する請願によって前哨設置は一転して認可されムラヴィヨフも地位を守った。

1848年
28歳) チャドウィック(イギリスの都市の人口の死亡率の高さと平均寿命の短さを調べて、衛生改革を訴えた運動家)をリーダーとして保険局が作られて全国的な衛生活動を行なう。その頃イギリスは大規模なコレラの流行に見舞われ、二度のコレラで両方とも2万人を超える死者を出していた。

*こうしたイギリス人口調査の伝統が後に河合肇の「貧乏物語1916年)」で日本に紹介される。
【資料】河上肇の貧乏物語(1916年
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1950508)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1950508)

1849年
29歳)リチャード・モンクトン・ミルズ卿のプロポーズを断りエジプトに行く。

1850年30歳)ドイツのライン川流域小都市の一つであったカイゼルスベルトの教会が経営するディーコネス学園で学ぶ。

*実は近代看護術を確立したのは17世紀以来「多くを語らず黙々と働くSay little, do much)」日々を送ってきた修道女達で、ナイチンゲールは19世紀前半に確立したそれを学びマニュアル化したに過ぎないとする説もある。

1851年
31歳)精神を病んだ姉の看護をするという口実で両親から自立を許される。
  1. 看護婦教育も行われていたドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在し3ヶ月訓練を受ける。
  2. その後調査目的でロンドンのスラム街に足を踏み入れる。

1852年
32歳)再びキリストが現れ「救助者になれ!(To Be a Deliverer)」という啓示を残す。

1852年 ロシア軍人エフィム・ワシリエビッチ・プチャーチン(1803年〜1883年)が海軍中将・侍従武官長に栄進し日本との条約締結のために遣日全権使節に任じられる。


  1. 清がイギリスに破れたアヘン戦争敗北後に結ばれた南京条約の直後、イギリスの極東進出の危険性を察知し、ロシアの極東政策推進をニコライ1世に意見具申した人物。
  2. 本来は1843年に日本に遠征隊として派遣される予定だったが、当時はフランス七月革命運動の余波がまだヨーロッパに残っていた時期だったので極東政策は後回しにされた。

1853年33歳パーマストン卿は保険局を擁護して活動期間を伸ばそうとして努力するが、議会でチャドウィックは散々な個人攻撃を浴びて強制的に引退させられてしまう。

1853年7月18日 プチャーチンが4隻の艦隊を率いて長崎に来航。
*日本が開港に至るまでの経緯自体はこちら。
「江戸時代の鎖国を破ったのは一体何だったのか?」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1931184
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1931184)

  1. アメリカ東洋艦隊司令官マシュー・ペリー大佐の到着とほぼ同時期。
  2. そこでは日露通好条約の予備会談がもたれ、日本がロシアに最恵国待遇を与えることなどが決められたとされる。プチャーチンは一旦日本を離れた後、琉球・フィリピンの状況を視察し本国へと戻った。

同年8月 リズ・ハーバートの紹介でロンドンの「 淑女病院 」と呼ばれる私立施設の看護婦監督に就任。
  1. ただしそこは無給で年間500ポンドの生活費は数少ない理解者である父が出していた。
  2. そして就職に反対する母や姉と険悪になりながらイギリス各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴える。
  3. 当時のイギリスでは看護婦は、病院で病人の世話をする単なる召使として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていたのである。
  4. しかしこうした動きによって多少は看護と看護ケアの基準に向上がもたらされた。また能率を改善した建物への変換に関する考案もこの頃に端を発する。

同年10月
 バルカン半島で宣戦布告なくロシア軍とトルコ軍の衝突が始まりクリミア戦争が勃発する。

同年11月30日 「シノープの虐殺」を契機に英国の世論が対露強硬論に傾く。

元来は「シノープの海戦」と呼ばれ、黒海南岸の港湾都市シノープで停泊中だったトルコ艦隊が、少数のロシア黒海艦隊に奇襲されて艦船のみならず港湾施設まで徹底的に破壊された戦闘に過ぎなかった。


原因も明らかで、ロシア黒海艦隊の偵察に気づいていながらイスタンブルに援軍を要請する以外何も行わないできたトルコ側のミスなのだが、セバストポリを略取して以降要求が過大になる一方のロシアに対する警戒心の高まりもあって各国メディアが過剰反応して世論を刺激したところもなくはない様である。

最終的にイギリスはフランスと共にトルコと同盟を結びロシアに宣戦布告する事になるが、イギリスがヨーロッパへの大規模な遠征軍を編成したのは、ナポレオン戦争から第一次世界大戦に掛けての百年ではこの一度きりだった。

1854年3月34歳)イギリスとフランスがトルコ側に立ってロシアに宣戦布告。そしてシドニー・ハーバートが陸軍大臣となる。

このクリミア戦争こそ民間人記者によって生の戦争が取材された最初の戦争であった。

ある意味それは電信の発明の賜であり、戦争が起こる2年前に英仏海峡に敷設された電信用海底ケーブルの御陰で記者の書いた記事がほぼリアルタイムでロンドン市民の茶の間にも報道される様になったのも大きかった。

この時イギリスのタイムズ誌は戦場に状況を確かめる為の民間人を送り、これが後の従軍記者のルーツとなる。かくして戦争報道は民衆にとって最大の関心事となり、そうした戦争人気にあやかってそれをネタにした新聞の発行部数は一桁はね上がったりする様になる。     

なにしろこれまで銃後の市民達は戦争中最前線で何が起こっている皆目わからないのが普通だったので、それを「見知らぬ土地で起こっている非現実的でスリルに富んだ冒険活劇のようなもの」「銃が火を吹き、大砲が轟く中、勇敢な将軍に率いられた勇猛な兵士たちが、一斉に突撃して敵を見事に殲滅するといった勇ましくて格好良いもの」といった感じに勝手にイメージしてきた。

そして実際、その期待に答えようとする記事もないではなかったのである。

フランス兵たちは一斉に近くの塹壕から飛び出していった。それはまるでハチの大群が群がっていくかのようだった。彼らは敵の要塞をよじのぼり、敵の数メートル鼻先を猛烈な勢いで横切っていった。そして、一分後には要塞を陥落せしめ頂上には三色旗がひるがえっているのであった」    

ただし、同じ場面が別の記者の手に掛かるとこんな風に報じられたりもするので困惑させられた事だろう。

青二才で痩せていて、とてもマスケット銃など担いで駆け足など出来そうもない若い徴集兵が、あわてふためいて怖じけづいたように退却していた。それを見た将軍がその兵士にすっ飛んで来て、貴様は高貴あるフランス兵ではないのか!と大声で怒鳴った。するとその若い兵士は、私はそんなフランス人ではありません、ありませんとどもりながら繰り返し続けた。将軍に叱責されて頭に血が上った兵士は、興奮状態となり、やにわに高台に上ると、マスケット銃を気違いのように振り回していたが、たちまち胸を蜂の巣にされて、塹壕の中にもんどり打って倒れ込んだ」   

一方、こうした戦争報道は大砲の所在地、火薬の置き場所や量、作戦の日時、兵士の士気など軍の機密事項にかかわることまで載ってる事が多く、それを読んだロシアのスパイが、その日のうちに本国に知らせる連絡網まで出来上がっていた。

後日、こうした記事に軍の検閲が入り、取材活動も制限されていく様になったのも仕方のない事である。


同年8月末 ペトロパブロフスク・カムチャツキー攻略戦
  1. 6隻からなるフランス海軍とイギリス海軍の連合艦隊がカムチャツカ半島のロシアの港湾・要塞であるペトロパブロフスク・カムチャツキーと日本海側のデ・カステリ基地を襲撃。

  2. ニコライ1世から全権を与えられたムラヴィヨフは、清の許可を得ず河口近くに軍事基地を建設し、そこを輸送拠点としてぺテロハバロフスク・カムチャッキーとデ・カステリへコサック兵をと軍需物資を送り続けた。

  3. 英仏連合軍は盛んに砲撃を行い、同年9月に上陸したが陸戦ではイギリスのジブラルタル歩兵連隊の軍旗が奪われるという惨敗を喫し、さらにデ・カステリを攻撃した英仏艦隊も撃退される(この功績により、この地を防衛した陸軍少将ヴァシーリー・ザヴォイコは海軍少将にも昇進し、ゲオルギー十字勲章を授与された)。

  4. 要塞のロシア守備隊はまだこのまま戦い続けられる体制ではあったが、アレクサンドル1世の弟コンスタンチン大公と探検家ネヴェリスコイの提案でアムール川河口に兵力を集中して戦う事になる。英仏艦隊は、まだサハリンを半島と誤認していたので宗谷海峡を封鎖してロシア艦隊を待ち受けていたが、ロシア艦隊は難なく1855年初頭に間宮海峡を抜けてアムール河口に集結した。結局、戦闘はそここまでで、ロシア側が極東の防衛に成功した事になった。

  5. ところでムラヴィヨフは、この地におけるロシアの優勢が揺らがない事を確信するとネヴェリスコイを閑職に更迭し、1855年から清との新たな国境線交渉を開始した。ところろがその矢先にニコライ1世が亡くなり、いきなり後ろ盾を失ってしまったのである。

同年9月20日
 アルマ河渡河作戦が遂行される

  1. 当初、英仏同盟軍は黒海西岸のヴァルナ現在のブルガリア東部)に上陸してオデッサを攻略する予定だったが、突如としてオーストリアが国境線に部隊を配置して同盟軍のバルカン山脈以北への進軍を阻止したため、攻撃目標をロシア黒海艦隊の基地があるクリミア半島の要衝セバストポリに変更せざるを得なくなる。

  2. しかし、主力のイギリス・フランス軍ともに現地の事情に疎く、クリミア半島に部隊を移動させた直後から現地の民兵やコサックから昼夜を問わず奇襲を受け続けた。フランス軍にいたっては黒海特有の変わりやすい天候について調べていなかったため停泊中の艦隊が嵐に巻き込まれて戦う前からその大半を失ってしまう(この後、フランスでは気象に関する研究が盛んになる)。

  3. 黒海を東進した連合軍はロシア軍の抵抗を受けることなくセバストポールの45マイル北方に上陸し南進を開始した。

  4. 一方、ロシア側は途中のアルマ河対岸に35000人の兵力を集め迎撃準備を整えていた。ここは北側が広いスロープであるのに対してロシア側の陣取る南岸は急な岩山になっており、そこに斜面を見下ろす形で大保塁と小保塁が設けられていた。防御に絶好の陣形であり必勝を確信したロシア側は女性連れの見物を決め込むものまでいたという。

  5. アルマ側を挟んで遭遇した両軍はしばらくにらみ合っていたが、やがて仏軍の受け持った右翼側に抜け道が発見される。仏軍はここに殖民地から呼び寄せた精鋭部隊を渡河させて守りの手薄な頂上部のロシア軍の奇襲に成功した。

  6. ところが仏軍のナポレオン以来のマニュアルでは歩兵部隊は常に大砲とともに進軍する事になっており、まだ荷車に梱包して搭載されたままの大砲が狭隘な登坂路を上がってくるまでは先に進めない。奇襲部隊の一部は崖を降りて後続部隊へ合流を始めたが、残りは当然ロシア軍の砲兵からの射撃を浴び始めた。

  7. 仏軍から正面攻撃の要請が届くと、Raglan将軍揮下のイギリス軍はまず前衛の2部隊を投入した。ナポレオン戦争の時代さながら幅2マイルにも達する2列横隊がロシア軍の砲弾と銃弾が雨霰と注ぐ中、犠牲も構わず進み始める

  8. それを目にしたロシア軍司令官のPrince Menschikoffはニコライ皇帝から「Wellingtonは生涯一門の砲も奪われなかった」と聞かされたのを思い出し、さっそく砲を奪われるない様に前線から後退させ始めた。御陰で英軍はかろうじて大保塁に辿り着きそれを占拠するのに成功した。

  9. 本来ならここで後衛たる近衛連隊とHighlandersが続くのがセオリーなのだが、何故か皇族のCambridge公爵が指揮する後衛は一向に前進しなかった。原因は定かではないがRaglanの幕僚の将軍からの命令が明確でなかったせいとも、実戦などまるで経験のない皇族が戦場のあまりの凄まじさに恐れをなしてしまったせいとも言われている。そうするうちにも大保塁は小保塁や崖の上から射撃を浴びせられ続け、これ以上占拠を続けると全滅する危険まで出てきた。そこでやむなく撤退を開始したが、このときになってやっと近衛兵連隊がロシア軍の射撃と砲撃が降り注ぐ中、整然と前進を開始する

  10. 先程以上の速度で屍体の山が築かれていくのに恐れをなし、ある士官がCampbell大佐に向かって「このままでは近衛歩兵は全滅します」と進言したがCampbellは「女王陛下の近衛兵は後退するより前向きに倒れることを望んでいる」と答えただけだったという。これにHighlander連隊が加わり、さらに英軍砲兵の援護射撃がロシア砲兵を沈黙させるのに成功し始めると、ロシア軍は総崩れとなって撤退を開始した。やっと砲兵が合流した仏軍歩兵が前進を再開したのは戦局がそういう段階に入ってからの事である

  11. この間、英軍の騎兵は約4,000のロシア騎兵と左翼で対峙していたが、ロシア騎兵にはずっと何の命令も届かなかった。最後にやっと届いたのが「撤退せよ」の一言で、それを受けるや否や算を乱してばらばらに潰走を開始した

  12. これを絶好の機会とみた英国騎兵はRaglanからの命令を待たずに高地に上がり、Campbellの助言に従って騎兵砲隊の擁する6門の砲で砲撃を浴びせて大損害を与えたが、そこにRaglanが副官に託した「騎兵は逃げる敵を攻撃してはならない」という命令が届き攻撃中断を余儀なくされる。

  13. 騎兵の存在は貴重であり、逃げる敵を下手に追撃して思わぬ被害を受けるのは避けるべき」との判断から出た命令だったが、その後Raglanが騎兵に与えたのは前進する砲兵の援護というこの戦局においては暢気過ぎる任務だったので、すっかりふてくされたLucanやCardiganらは度々その任務を放棄して逃げる敵兵を追いかけ回す有様だった

  14. 実は、英軍側は騎兵だけでなく大被害を受けた歩兵もまだ十分な戦闘意欲を宿していたが、仏軍側があくまで渡河時に向こう岸に残してきた背嚢の回収にこだわるので追撃は事実上不可能になってしまっていたのである

  15. その後、この戦場における1000人規模の傷病兵を収容する為、スクタリに病院施設が作られた。

  16. 前線で簡単な治療を施した後で200人を一束にして船に乗せ、300マイル近くを2~3週間掛けそこまで搬送したのだが、その間に1000人のうち74人程度が死んだ。

同年10月
 ロンドンタイムス特派員であるウィリアム・ハワード・ラッセルがクリミア戦争の後方部隊が如何に悲惨な状況にあるかを記事として新聞に載せ世論を沸騰させる。

負傷兵は、苦しみもだえても、医療品は不足し手術する外科医もいなければ看護婦もいない。傷口を手当てするガーゼすらなく、包帯する布さえもないありさ まだ。シーツや古着を切り裂いてそれに代用しているほどである。寒さと疫病に悩みながら、毎日多くの兵士が命を落としている。我々には、なぜ、慈善婦人会 がないのか? 優しい心を持ち、献身的なイギリス女性はたくさんいるはずなのに・・・

同年10月21日
 クリミアでの奉仕を申し出るフローレンスの手紙と、同じく奉仕を彼女に求めるシドニー・ハーバートの手紙が郵便局ですれ違う。「 トルコにおけるイギリス陸軍病院看護婦監督 」の公式任命が下り、シスター24人、職業看護婦14人の計38人の看護団を組織して出発。

同年10月25日 クリミア半島の南端港のある村、バラクラヴァで戦闘が行われる。

ザ・タイムズ1854年11月14日の記事
朝の太陽の輝きのもと、わがイギリスの軽騎兵旅団は誇り高く突撃した。200メートルほど前方から敵が一斉に大砲を撃ち出した。たちまち、平原には砂ぼこりが舞い、戦死した兵士や軍馬が折り重なった。乗り手のいなくなった軍馬が戸惑うように立ちすくんでいるのが見える
                 
それでも、騎兵旅団は突撃を止めず、光り輝くサーベルを引き抜くと、勇敢に敵の陣地に飛び込んでいった。軽騎兵たちは、敵の砲兵陣地を蹂躙し、ロシアの砲兵たちをサーベルで次々と斬り殺していった。見事、敵を蹴散らし任務を達成した軽騎兵たちは、勝利の凱歌とともに、味方の陣地に意気揚々と帰って来るはずであった。しかし、次の瞬間、悪夢が起こった。丘の上に配置されていた敵の砲列が猛烈に火を吹いたのだ」   

ものすごい砲声が数分間続き、戦場は土けむりと硝煙で視界が全く閉ざされてしまった。しかし、まもなくして、あらわれた光景は惨たんたるものだった。そこには、もはや生きている者は誰一人なく、累々と横たわる馬と兵士の死体だけであった。こうして、突撃開始以来、わずか20分ほどで敵味方双方の何百という人間がことごとく死に絶えてしまったのである」     


同年11月4日
 フローレンスの看護団、後方基地と病院のあるスクタリに上陸。しかし兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった。

同年11月5日 インカーマン(クリミア半島のセバストポリを見下ろす尾根の名前)で激戦が行われる。


ここでも英仏連合軍は大損害を出すが、これ以上「正攻法で犠牲をかえりみずにひたすら前進攻撃する英軍」と「理性的ながらマニュアル通りにしか行動できない仏軍」の齟齬を追求しても仕方がないので割愛。

産業革命に遅れを取っていたロシアは兵器の性能面で圧倒的にイギリスやフランスに劣っていた。大砲一つ取っても青銅製で鋼鉄製のイギリスの大砲に比べて射程距離も半分ほどしかなく威力も全然及ばない。そしてそれに輪を掛けて作戦遂行能力が低いので、ある段階から攻撃よりも守りに専念する戦略を取り始める。

まず湾内に旧式の軍艦を沈めて同盟側の艦隊が近付けないようにした上で市街地全体を要塞に構築し、塹壕を縦横にアリの巣のように張り巡らした。これがセバストポール要塞で、同盟側はクリミア半島の要とも言えるこの要塞を落とそうと全兵力を動員して来たが攻防はこれ以降すっかり膠着状態に陥り、以降1年以上睨み合いが続く事になる。


戦争と平和」を書き、後に世界的文豪として知られることになる若きトルストイもこの戦いに一兵士として参加していたという。


同年11月
 当初現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦を病室入れることを拒んでいた。
  1. しかしフローレンスは病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいく。
  2. またヴィクトリア女王はハーバード戦時大臣に対しナイチンゲールからの報告を直接女王に届けるよう命じ、ハーバードはすぐその知らせを戦地に送って病院内に張り出して無言の圧力を掛けたという。
  3. 一方インカーマンの激戦で大量の傷病兵が送られてきて入院者が12,000人以上に増え、パニック状態となったスクタリの病院はそうした意地を張ってられなくなった。
  4. フローレンスは看護に没頭する最中、3度目の神の声を聞く。

同年12月
 第二陣の看護団、アイルランドの修道女達が到着。
  1. 人口過密のため泊める場所もなく立ち往生しかける。
  2. 彼女らはフローレンスの指揮下に入ることを拒否してバラクラヴァの病院らに勝手に分在した。
  3. この頃からやっとフローレンスとマクドナルドの奔走で物資が回り始める。

同年
 プチャーチンが再来航して日露和親条約が締結される。
  1. ディアナ号に乗り換えて再び日本へ来航し、函館、大阪、そして下田へ入港。
  2. 会談の後条約が締結され、領事裁判権、ロシアの日本駐在員の派遣、函館・下田・長崎の開港、そして両国領土の確定(この時点では樺太は両国雑居状態、択捉島以南は日本、ウルップ島以北はロシア)などが定められた。
  3. その直後安政東海地震1854年12月23日)で旗艦ディアナ号が沈没してしまう。
  4. そこで日本は伊豆の戸田村へだむら、現沼津市)においてロシア人指導下、日本の船大工により3ヶ月の突貫工事で代わりの船を造船して引き渡した。感激したプチャーチンは「ヘダ号」と命名し乗艦して首都サンクトペテルブルクまで帰還する。

1855年1月
35歳)熱病が流行し、死亡率をピークに迎える。軍医や看護婦も数多く死亡し調達官まで死亡してフローレンスが調達責任者となる。

同年2月 旧友のパーマストン卿が首相となる。
初の従軍記者を送ったイギリスの新聞『タイムス』の記事が「膨大な時間を物資をつぎ込みながらも陥落しそうにない状況」「軍隊給与の不完全」「病院施設の不備」などを次々と暴露した事による非難の嵐の中でアバティーン内閣が倒れ、パーマストン内閣が成立する。
とにかく最初の課題は「一体誰が責任者なのか、誰に許可を取ればよいのか」はっきりさせる事により「ナイチンゲール一人だけがまともに見える」状況を解消する事、つまり軍政改革の強行であった。
  1. 戦時省と陸軍省が合併すると若干事態は好転し、新陸軍省は補給問題を査察する『マクネル・タロッチ委員会』と『衛生委員会』を戦地に派遣した。
  2. 衛生委員会の働きで給水・排水と換気の問題が改善され、この後死亡率が急激に下がる。
  3. この月のスクタリの病院における死亡率は42パーセントであったが、その一方でもっと劣悪な補給状態と看護体制だったバラクラヴァは死亡率13パーセントであったことが後に判明した。
  4. 今日では兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったとであったと考えられている。
ところで・・・
  1. 当時のイギリス陸軍の組織は、まだ王権が強力だった頃から存在した歩兵や騎兵隊は国王の新任する長官の指揮下にある一方で、ブルジョアジーが強力になった 近代になってから登場した砲兵や工兵といった兵科に関する指揮権は議会が握っていた。さらに砲兵の武器弾薬、衛生・経理・輜重の権限は、議会の監督下にあ る財務部が握っているという有様で、その上植民地と第三国との戦争を管轄する植民地相には軍の作戦計画に対する口出し権限が一切なかったりと問題だらけ だったのである。

  2. パーマストン首相は「非常事態である」の一言で全ての抵抗をねじ伏せ、これらの入り乱れた軍事に関する責任関係を全て一元的に纏め上げ内閣の一省が管轄する仕 組みを一気に構築した。その結果誕生したのが世界初の国内唯一の司令塔としての「陸軍省War Office)」である。統帥権(国王の任命する軍の最高長官は国王にのみ責任を持ち、他のいかなる機関からの干渉を受けない)だけはいきな り廃止するわけにはいかなかったが、それさえも十数年のちのグラッドストーン内閣において「軍の最高長官も陸軍大臣の管轄下に置く」決定がなされて最終的 には葬り去られている。

同年3月2日 
ロシア皇帝ニコライ1世病没。
この時点から、新たに即位したアレクサンドル2世により同盟国側と和平交渉が開始された。

同年4月 スクタリの病院の死亡率が14.5パーセントまでさがった。。

同年5月 スクタリの病院の死亡率が5パーセントにまで下がった。

フローレンスは娯楽施設をつくり、兵士がお酒や売春婦に走らないようにし、節約した金を本国の家族に送金できるようなシステムを作った(その後半年の間に7万1千ポンドが送金されている)。

病院の修復を一旦裁可されたが、150名の職人のストライキで大蔵大臣が手を引いた為に自分の財源から費用を支払って新たに200人の職人を雇い、、期日までに病室を増やして新たに500人の傷病兵を受け入れた。

前線の病院を視察後にクリミア熱(チフス?)で倒れ二週間前後生死の境を彷徨う。このニュースにイギリスの世論は沸騰し、シドニー・ハーバートの呼びかけによって『ナイチンゲール基金』が集められた。

スクタリの病院での死者はさらに200人ほどに減り、フローレンスの発案で倉庫が建てられる様になってイギリスからの補給も格段によくなった。そしてさらに年内のうちに同盟軍のフランスの方の病院までものが分けられる様になった。


同年9月11日 セバストポリ陥落

  1. 3日間連続で続いた最後の総攻撃には、サルデーニャ王国が派遣したピエモンテ駐屯軍精鋭15000人)が加わっていた。ナポレオン三世の歓心を買いハプスブルグ家からの独立を後援して貰う為の布石の様なものだった。
    【1948年革命序曲】「イタリア革命史」
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    韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1954536)


  2. この時点で既にイギリスでは戦費の過剰な負担が原因で財政が破綻しており内閣は総辞職せざるを得なくなっていたし、またこの直後にザカフカースの要衝であるカルス要塞がロシア軍の前に降伏したことから事実上戦勝国はどこもない有様となった。

同年冬     スクタリの病院での死亡率がついに2パーセントまで下がる。

1856年(36歳)ジョン・ホール医師が本国にむかってフローレンスを中傷する文章を次々と送っていた為、彼とフローレンスの深刻な対立が有名となる。

同年1月マクニル・タロッチ委員会』の戦場調査により補給体制が滅茶苦茶な事が暴露され、それを読んだ将軍達が激怒して二人を激しく糾弾した。

同年3月 密命を帯びて派遣されたレフロイ大佐の報告からフローレンスの方が全て正しいという判定が下り、陸軍大臣のパンミュア大臣よりフローレンス・ナイチンゲールの指揮下に全て従うようにという手紙が届く。
  1. その後フローレンスがバラクラヴァの病院に乗り込む際も、ホール軍医は「どんな種類の食糧も彼女に供給されないように」命令を出したが先見の明のある彼女はあらかじめ大量に食糧を用意してあり10日間の旅行中不便を感じなかった。一方アイルランドの修道女達は国に帰る。
  2. それ以降もホール軍医長官はナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯にその活動を制限し続けた、最終的にこの部分が修正された新たな女王名入り辞令が届いたのは講和直前であった。

同年3月30日 パリで平和条約が締結される。
明確な戦勝国のない状況で始められたパリでの講和会議は、戦争終結に貢献したということで発言権を増したサルデーニャ王国のカミッロ・カヴールのロビイ活動によりハプスブルグ批判に終始し、結局は大まかに戦前の大国間の立場を再確認したにとどまった。

開戦当初に掲げられたポーランドの解放やバルカン諸国の安全保障などの話題は完全に出される事なく終わったのである。そこに再びスポットライトが当たるのは、ヨーロッパ全体が大不況に陥って紛争介入どころではなくなり、かつオスマン帝国も巻き添えで財政破綻に苦しんでいた時期に発生した「ボスニア蜂起」と、その延長線に出現した「露土戦争1877年)」の時代に入ってからの事だった。。

【付記】オスマン帝国の西洋化 *露土戦争の詳細はこちら。
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あえて挙げるなら、最大の敗者はオーストリアだったかもしれない。ギリギリまで中立の立場を守り続け、最後に反ロシアの立場で参戦する事でイギリスとフランスの信頼を失い、ロシアから恨みを買ってしまったからである。その一方で器用に立ち回って計画通りフランスの後援を確実なものとしたサルディーニャ王国は、また一歩「
第二次イタリア戦争1851年〜1861年)」に向けての準備を着実に進める事に成功したのだった。

【付記】「ソルフェリーノの教訓?」 *第二次イタリア戦争の詳細はこちら。
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956016)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956016)


同年4月29日  クリミア戦争終結。

同年5月 病院も一つずつ閉鎖され、看護婦も帰国を始める。この戦争の死者は2万1千人。内、病死した人が1万6千人。多くは伝染病による死亡者であった。フローレンスはクリミアに滞在中に2000人を超える臨終に立ち会い、7000ポンドに及ぶ個人財産を支出した。

同年7月16日 スクタリの病院の最後の患者が退院して後、帰国の途に着く。

同年8月6日 自分が偶像化され、虚像が一人歩きすることを恐れ、スミスという偽名を使用して人知れず帰国するなど、人前に出ることを避けた。本国で民衆は熱狂して迎える。女王はブローチを贈り勲功を讃える。

1856年10月8日 パーマストン卿の主導下で所謂「アロー号戦争」開始。
  1. 清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、清人船員12名を海賊の容疑で逮捕した。
  2. これに対し当時の広東領事ハリー・S・パークスは清の両広総督・欽差大臣である葉名琛に対してイギリス船籍の船に対する清官憲の臨検は不当であると主張し、また逮捕の時に清の官憲がイギリスの国旗を引き摺り下ろした事は、イギリスに対する侮辱だとして抗議した。
  3. 葉名琛はこれに対して国旗は当時掲げられていなかったと主張したが、パークスは強硬に自説を主張し、交渉は決裂した。実際には、事件当時に既にアロー号の船籍登録は期限が過ぎており、アロー号にはイギリス国旗を掲げる権利は無いし、官憲によるアロー号船員の逮捕は全くの合法であったが、こうした行動の背景には全く別の問題が潜んでいた。
  4. 1840年のアヘン戦争後の南京条約により、上海ほか5港の開港を清に約束させ、アヘンの輸出も事実上公認させたイギリスであったが、内地へと入ることは認められておらず、また清国内での反英運動も激しくなり、イギリスが期待した程の商業利益は上がっていなかったのである。これを理由にイギリスの政界では、再び戦争を起こしてでも条約の改正を求めるべきだとの意見が強くなってきていた。
  5. 見事にパークスの挑発に乗った清国駐在全権使節兼香港総督バウリングは現地のイギリス海軍を動かして広州付近の砲台を占領させた。これに対して広州の反英運動は頂点に達し、居留地が焼き払われた。
  6. イギリス首相ヘンリー・パーマストンは現地の対応を支持し、本国軍の派遣を決定するが、議会の反対により頓挫。そこでパーマストンは解散総選挙を行い、今度は議会の支持を受けて、現地に前カナダ総督エルギンと兵士5000を派遣した。同時にフランスのナポレオン3世に共同出兵を求め、フランスは宣教師が逮捕斬首にあった事を口実として出兵した。
  7. アメリカやロシアも戦争には加わらないものの条約改正には参加すると表明した。

同年11月
 社会的に葬られかかっているマクニルやタロックを救う為、帰国したナイチンゲールチームはバーリントンホテルに再集結し、タロック大佐の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を始める。
  1. その結果、世論は逆に将軍達の側を非難する様になり、マクニルとタロックは名誉を回復したばかりか叙勲され国民的英雄となったのだった

1857年〜1859年37歳パーマストン卿の主導下でインド大反乱鎮圧。
*詳しくはこちら。
【付記】インド大反乱
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韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956352)
  1. これに戦力を裂かれていたのもイギリスが単独でアロー戦争1857年〜1860年)を遂行できなかった理由の一つとされている。

同年 日本との交渉をまとめたプチャーチンが清との全権大使に任命される。
  1. ところがこれにムラヴィヨフが反発し、サンクトペテルブルクまで戻ると東シベリア総督の辞職を願い出る。
  2. これを聞いたアレクサンドル 2世は彼を慰留し、さらに侍従武官の職に就けた。これでムラヴィヨフは直接皇帝に意見を上奏したり、プチャーチンとは別個に清と交渉を行えることになったのである。

同年5月
病院の内情を調べる『ロイヤル・コミッション』開催。
  1. 委員長には元陸軍省長のシドニー・ハーバートが就任した。
  2. この時初めてフローレンスはスクタリにおける死亡率の高さは衛生状態の悪さが原因であった事を理解して良心の呵責に苦しみ、全く食事を受け付けなくなってしまって衰弱する。
  3. シドニー・ハーバートに「スクタリの病院は失敗であったことを国民に正直に公表して欲しい」と頼んだが頑として受け付けないまま『ロイヤル・コミッション』は夏 に終了した。

同年8月 フローレンスの疲労と失望が極度に達っして危篤に陥ったがサザランドが一ヶ月近く懸命に看病して何とか一命を取りとめる。

フローレンスは「自分がスクタリの病院に送られたのは間違いなく神の意志であり、自分が間違いを犯すことさえも神の計画の一部だったのだ」と考える様になった。

そしてそれ以降もイギリス国内の兵舎の改造と新築に関わり続ける。当事、国内の兵士の死亡率は都市のスラムの死亡率の3倍だった。それで、その話と同時進行で陸軍に新しい規則を受け入れさせ、衛生知識を普及させようとしたのだった。

そしてサザランドに教わりながら病院建築を勉強し空気の流れを考えながらパビリオン方式を考出する。


1858年 プチャーキンが再来日し、幕府と日露修好通商条約を締結して本国に帰国する。
  1. プチャーキンは日本と条約を結んだ功績により、伯爵に叙され、元帥に栄進した。

同年2月 天津条約締結
  1. 前年12月29日、英仏連合軍は広州を占領して葉名琛を捕らえた。
  2. そしてこの年英仏露米全権大使連名により北京政府に対する条約改正交渉が要求されたが、これに対する清の回答が不満足なものであったので連合軍は再び北上して天津を制圧し天津条約が結ばれた。
  3. この条約の骨子は公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金などであり、またこの条約による関税率改定により、事実上アヘンの輸入が公認化される事になった。
  4. 条約締結を見た連合軍は引き上げたが、すると北京では天津条約を非難する声が強くなり、この条約内容を変更しようという動きが現れる。
  5. 1859年6月17日に英仏の艦隊 は天津条約の批准のために天津の南の白河口に到来すると、これに対する清の迎接が無かったどころか白河に遡行を妨げる障害物が配置されていた。これを取り 除いている最中に大砲で清の攻撃を受けた英仏艦隊はモンゴル人将軍センゲリンチンの軍に敗れ上海へ引き返さざるを得なくなる。
  6. 激怒した英仏軍は大艦隊と約1万7 千人の兵隊という大軍で再度進軍して清の砲台を占領して清側に交渉を求めたが、ここでパークスらが皇帝の指示によってサンゴリンチンに囚われるという事件 が起こる。この為に交渉は決裂し、連合軍が北京に迫り、狼狽した咸豊帝は熱河に避難した。
  7. 10月7日には仏軍が単独で略奪行為を実施。
  8. 10月18日に英仏連合軍は、パークス拉致の報復として恭親王が隠れていた円明園に放火。拉致された使節団が一時期円明園に監禁されていて、そこで11名までが拷問の上で殺害されていたことが、この時明らかとなる。

同年 ムラヴィヨフは全権委員として清朝と交渉して愛琿条約を締結。これでアムール川左岸はロシアの共有地となった。
  1. 太平天国の乱やアロー戦争で疲弊した清の役人たちは当初アムール川にどのような種類の境界線も設置することを拒み、これらの地域がロシアと清の事実上の共同管理のもとにある現状を追認し維持しようとしたが、ムラヴィヨフは彼らに「ロシアの意図は中国を助けイギリスの侵略を防ぐことにあり、平和的で建設的なものである」と説得することに成功したのである。
  2. アイグン条約はアムール川を清とロシアの国境であるとし、ロシアにアムールを通じた太平洋へのアクセスを保障した。この結果、ムラヴィヨフは「アムールスキー伯爵アムール川の伯爵)」の称号を得た。
  3. 条約調印を祝って、北京では大々的なイルミネーションやシベリアの諸都市での祭典が行われた。ロシアの得た新領土はアムール左岸一帯で、プリアムーリエ沿アムール、現在のアムール州)、および現在のハバロフスク地方の大部分を含むものだった。
  4. アロー号戦争の攻撃対象が極東ロシア領にまで及ぶことを恐れたムラヴィヨフは「モンロー主義を堅持し露骨な介入ができず、また少なくとも建前上はフェアプレーの精神を好み、門戸開放・機会均等を伝統的な外交政策として掲げる」アメリカと手を組むことにし「アムール川周辺を自由貿易区域とする方針」を餌にアメリカ公使リードに近づき、一緒に英仏連合軍に同行する。

1859年(39歳) イギリスの病院においては、死亡統計だけでなく疾病の分類や看護日数などの基本事項の統一すらほとんどとられていないことを発見し、友人のファー博士と戸籍庁の協力を得て、独自の統一基準を考案して同年出版した。

1859年 ムラヴィヨフ=アムールスキーが日本に来航
  1. 自ら軍艦7隻を率いて江戸湾の品川に停泊。軍事力による威嚇を背景に、サハリン全土はロシア領と主張したが、江戸幕府は頑としてこの主張を認めなかった。
  2. 実はムラヴィヨフは日本にも「ロシアの意図は日本を助け英米仏の侵略を防ぐことにあり、平和的で建設的なものである」と伝え、それを真に受けた「おろしあを頼みあめりかを防がしむる案」の支持者が幕閣の大半を占めていたのだが、徳川斉昭(水戸烈公)一人のみは「樺太に対するロシアの進出の仕方から見ても、ロシア帝国が日本に好意を抱く事実は断じて認められない」として主張して譲らず、それでその意見が通ったのだという。

1860年1月(40歳) 主婦達に直接呼びかけた『看護覚え書』が出版されてベストセラーとなる。

英国の随筆の古典であり、主婦達が家の窓を開け、家の側に貯められてあった汚物を遠くへ運び、通りの掃除をするようになって衛生状態が改善され、翌年からイギリスの都市部の死亡率が下がる。

同年6月24日
 戦時中に作られたナイチンゲール基金が45000ポンドに達すると、聖トーマス病院内にナイチンゲール看護学校がつくられる(学生は約10人)。校長は病院の婦長ウォードローバーが当たったが、運営に関してはナイチンゲールも協力した。その後、同様の各種養成学校がイギリス内に作られ、現在に近い看護婦養成体制が整い始めた。

イングランドの職工たちの中にいる真実を求める人たちへの思想上の提案』を出版。神に対する信仰、天地創造、悪の起源、未来の生活、必然と自由意志、法則、道徳の本質といった問題を説く。

第4回国際統計会議が開催されたのを機会に、イギリス統計学会の会員に選ばれ、この国際会議の運営に関与する。そして病院と公衆衛生に関わる分科会において、病院統計の統一基準について統一基準の採択が行われた。

こうして数々の統計資料を作成して改革のためにつくられた各種委員会に提出し、それが保健制度のみではなく、陸軍全体の組織改革につながったのでイギリスではナイチンゲールが統計学の先駆者として考えられる様になる。

1860年  北京条約締結
  1. 北京を占領した連合軍は10・11月にロシア公使ニコライ・イグナチェフの調停の下に北京条約を締結した。
  2. この条約で清は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島の割譲、中国人の海外への渡航許可などを認めさせられる。
  3. 最後の渡航許可というのは中国人労働者を劣悪な条件で移民させる苦力貿易を公認するもので、この条項は労働者移民の公認と、それによる一定の移民保護を目的に入れられたとされる。
  4. これまでの根回が効いてロシアは、1860年の北京条約においてもアイグン条約は確認されたうえ、さらに多くの領土ウスリー地方、および旧沿海州の南部)がロシア領として認められた。

1861年41歳) シドニー・ハーバートと側近のアーサー・クラフが死去。忠実なメイ叔母も去った後で大きな発作を起こして死の境を彷徨う。この病気のあと、仕事はサザランド博士との筆談によって長く続けられる。

同年 インドのための『ロイヤル・コミッション』を立ち上げる。
  1. 衛生学者であるファー博士とサザランド博士を委員に任命。
  2. そしてインドの衛生改善を指導し兵士の死亡率を徐々に下げていった。
  3. また現地に各地衛生委員会設立を呼びかけ、カルカッタやマドラスなどの大都市に下水道を引く努力をする。
  4. 飢餓から救うために政治家達にインドに灌漑用水を引くことを呼びかける。
  5. こうした努力のせいでフローレンスは後に『インドの母』とも呼ばれるようになる。

同年 プチャーキン、文部大臣(国民啓蒙大臣)に任命される。
  1. 大学を中心とする学生運動、革命運動を弾圧したため、政治家としての評判は芳しくなかった。

同年 
ムラヴィヨフ=アムールスキーが総督職を辞す。
  1. 東シベリアを二つの地区に分割する提案を行ったが拒否された」というのが公式の理由となっている。
  2. ムラヴィヨフはアムール川沿岸への植民を進めようとしたが、自発的にアムール川流域に移住しようとする人があまりにも少なかった為にほとんどが失敗に終わった。
  3. バイカル湖東部のコサック(バイカル・コサック)の軍管区からいくつかの部隊を移したりとか、鉱山労働を課せられていたネルチンスクの農民を「移民すればそれを免除する」という交換条件で誘致してみたりと試行錯誤を続けたが首都ペテルブルクの官僚達は最後まで冷笑的態度を続けたという。
  4. また、アムール川の蒸気船運送を組織化して郵便航路を作ろうという試みもあったが、これも失敗に終わっている。
*しかしこの前後から沿海州は大量の移住者を擁するようになっていくのだった。
【付記】
「在外コリアン達の近況(
2003年)」

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1861年3月 
対馬事件が起こる
  1. 江戸時代後期のこの年、ロシアの戦艦ポサドニックが浅茅湾に投錨。
  2. 対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠した事件。
  3. 5月には外国奉行の小栗忠順が派遣される。
  4. 7月にイギリス公使オールコックがロシア軍艦を退去させた

1863年7月
 薩英戦争が勃発。
【西洋史断章】
薩英戦争(
1863年
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1864年8月 下関戦争が勃発
【西洋史断章】「下関戦争(1863年〜1864年)」
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1867年
 
アメリカ合衆国がロシア帝国領アラスカを購入。

  1. ロシア人は、18世紀末から狩猟や交易のため露米会社を設立し北米大陸太平洋岸一帯に進出しており、一部はカリフォルニア州にまで達していた。
  2. その後、クリミア戦争1853年〜1856年)で被った経済的疲弊から回復する為にこれを決意したが、クリミア戦争でも敵対したイギリスにだけは絶対に売却したくないのでアメリカ合衆国を取引の相手に選んだのだという。
  3. 実はロシアは1859年にも1度アメリカに売却意向を打診しているが、その時は南北戦争の影響もありうまくまとまらなかったという。
  4. アメリカとの交渉経験もあるムラヴィヨフが一枚噛んでいるという説もあるが詳細は不明である。
  5. 提示額は720万ドルだったが、当時はアメリカの国家予算が3億7千万ドルだった時代で「この値段は高すぎる」とアメリカの新聞に叩かれてしまう、結局新聞社を買収した上でやっと商談が成立したという話もあるようである。

1868年〜-1874年 
ウィリアム・グラッドストンの第一次内閣
  1. リヴァプールの豪商の家に生まれ、イートン校・オックスフォード大学に学ぶ。
  2. 1833年より保守党所属の下院議員となり1835年に植民次官、1843年に商務院総裁、1845年に植民相を歴任する。
  3. 1846年、穀物法の廃止に際してロバート・ピールを支持し、保守党からは次第に離れて1852年アバディーン連立内閣に蔵相として入閣。1855年に辞任して1858年に「ホメロス研究」を発表する。
  4. 1859年〜1866年再び蔵相を務め、特にシチリア反乱1860年の以降のイタリア情勢に効果的に介入。
  5. 1866年にジョン・ブライトと結び、都市労働者と下層中産階級の参政権要求運動を支持しはじめる。同年に穏健な労働者階級への選挙権付与法案を提出したが、自党であるホイッグに反対の末葬り去られ蔵相を辞任。
  6. 1867年、自由党党首となり1868年から1874年に掛けて首相としてアイルランド国教廃止第1次アイルランド土地法軍制改革秘密投票法司法制度の改革を成立させた。
    【付記】「アメリカは何故、アイルランド独立を後援したのか?」
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  7. また1870年にホワイトホールへの公務員の登用に公開試験を導入、貴族階級の情実による猟官排除に成功する。

1870年
50歳) ようやく体調を回復し、ナイチンゲール学校の卒業生達を自宅に招いて面談が出来るようになる。その中から良きリーダーになりそうな女性をリクルートし、その人達を定期的にインタビューしてよい看護活動が出来るように援助する。

1870年~1871年 普仏戦争。ビスマルク宰相主導下のプロイセンがフランスに勝利してドイツ帝国が成立する。

1872年52歳)国際赤十字のアンリ・デュナンがナイチンゲールを高く評価する声明を出す。
*アンリ・デュナンについて詳しくはこちら。
【付記】
「ソルフェリーノの教訓?」
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1875年 大英国主義者だったベンジャミン・ディズレーリ首相在位1868年、1874年〜1880年、現在に至るまでイギリス首相となった唯一のユダヤ人)が首相となる。
  1. ユダヤ人大資本家ロスチャイルドから借金をしてスエズ運河(国際スエズ運河会社)を買収(株式の44%、17万株を取得)。
    【宗主国と私】「エジプトとトルコの関係史」
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  2. ディズレーリ首相は統計データの信憑性を皮肉って"There are three kinds of lies: lies, damned lies, and statistics"(「世の中には3つの嘘がある。一つは嘘、次に大嘘。そして統計である」)という言葉を残した。

  3. また「16歳で自由党員にあらざる者は、心を持たぬ。60歳で保守党員にあらざる者は、頭を持たぬ」と語ったありチャーチルの名言の元かもしれないとされている。

1878年 ベルリン会議ではビスマルクの事実上の協力もあり、イギリスはロシアの南下政策を阻止しつつキプロス島を獲得するのに成功する。
  1. これによって首相として関与したベンジャミン・ディズレーリと外相として関与したロバート・ソールズベリ侯の保守党コンビは名を上げた。

1880年 アフガニスタンに再宣戦布告を行い、南アフリカで第1次ボーア戦争が勃発するとイギリスは苦戦を強いられるようになり、同年に行われた総選挙で保守党は敗北。
ディズレーリ首相責任を取って辞職した。

同年〜1885年 ウィリアム・グラッドストンの第二次内閣
  1. 第3次選挙法改正を行い戸主選挙区を州選挙区まで拡大し、農業労働者と鉱山労働者がついに選挙権を手に入れた。

  2. 1881年の土地法では公平な地代と小作権の保証をアイルランド農民に与えた。
    【付記】「アメリカは何故、アイルランド独立を後援したのか?」
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  3. 1881年からの南アフリカでの抗争激化(マジュバの悲劇及び1885年におけるエジプト守備隊のスーダンからの撤退失敗(ゴードンの戦死)で民意を失う。特に後者はGOMGrand Old Man=偉大なる老人)として国民に親しまれていたグラッドストンが、一転してMOGMurderer of Gordon=ゴードンの殺害者)として責められる契機となった。その結果、政権は保守党のソールズベリー侯の手に移る事になる。
    【宗主国と私】「エジプトとトルコの関係史」
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 1881年
社会民主同盟SDL)が設立される。
  1. マルクス主義政党で後に労働代表委員会に参加するも、労働党には不参加

1884年 フェビアン協会が設立される。
【付記】「空想的社会主義の時代(19世紀前半)」
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  1. シドニー・ウェッブ、ベアトリス・ウェッブ夫妻によって設立されジョージ・バーナード・ショーやH・G・ウェルズも参加していた。
  2. 後の労働党の前身となる。

1885年〜1887年 
巨文島事件
  1. 1885年4月、巨文島は海軍本部の命により、イギリス海軍の3隻の軍艦によって占領された。
  2. これはアフガニスタンでのパンジェ紛争 (Panjdeh Incident) に直面して、ロシアの伸張の機先を制するためのものだった。
  3. イギリスは清国と日本に巨文島の占拠を通告し、住民を動員して兵舎や防御施設を建て、また上海との間に電信線を敷設した。
  4. 清国は当初、ロシアへの対抗策として、および朝鮮に対する自国の優先権を国際的に確認するために、イギリスによる巨文島占拠をある程度は認めるつもりだった。
  5. しかし、朝鮮問題に発言力を持つ李鴻章の強い反対により態度を変え、イギリスに退去を求めるとともに、朝鮮政府の支援に転じた。
  6. 朝鮮政府は現地調査のために、政府有司堂上・厳世永と外務協辦外交顧問)を務めていたメレンドルフを派遣し、巨文島のイギリス海軍の指揮官や長崎に滞在していたイギリス東洋艦隊司令官と交渉を行ったが、決定的な対応を得ることはできなかった。
  7. その間もイギリスは、巨文島を「第2の香港」とするべく既成事実化を進めたが、各国の反対は強硬だった。特にロシア公使ヴェーバーは、ロシアがイギリスに対抗して朝鮮の適当な土地を占領することを公言し、積極的な反対運動を展開。そしてアフガニスタンにおけるロシアの脅威が縮小した後にイギリスと清国の間で交渉が行われ、最終的にイギリス艦隊は巨文島の基地を放棄することに決まった。
  8. イギリス人は1887年2月27日に基地を破壊して立ち去ったが、その後も彼らは島々が日本の統治に入った1910まで頻繁に訪問を続け、若い水兵をそこに埋葬することもあった。
  9. 一方、20世紀初頭には山口県の網元が移住してイリコや塩サバの製造に取り組み、大きな経済的成功を収める。
  10. これを嚆矢として、飽和状態にあった沿海漁業に見切りをつけた西日本各地の漁民が入植し、水産加工、鉄工・造船、娯楽、宿泊、公共施設などを設けて集落を形成していき東シナ海における重要な漁業基地となっていく。
  11. 1942年昭和17年)の調査によると、古島(巨文里)には内地人78戸(309人)・朝鮮ゆっけ人223戸(1092人)の計301戸(1401人)が居住していた。
  12. 第二次世界大戦の敗戦とともに、日本人は巨文島を去る。
  13. サンフランシスコ講和条約でも「日本は済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対する権利を放棄する」と特記され、この島にあった日本人の墓も撤去された。
  14. しかし、イギリス人の墓は今も残されている。

1886年
66歳)看護界の一部から登録看護婦制度の導入の動きが出るが、単なる資格試験によってのみ登録制度を運用することへの危惧を抱き、時期尚早と反対を唱える。
  1. 登録制度推進派が英国看護婦協会を結成するとフロレンスは大多数の看護学校の支持を得て、看護界を二分する論戦を展開した。
  2. 結果的には勅許状として看護婦として申請した者の氏名リストを保管する権限が協会に与えられただけで両者の勝敗はつかないまま終わる。
  3. それ以降も幾つか意見書などを書いたが少しずつ実務から遠ざかるようになる。

同年 ウィリアム・グラッドストンの第三次内閣
  1. グラッドストンはさらにアイルランド自治への要求に応える為、アイルランド国民党の党首パーネルによる「新教徒が住む北アイルランドのアルスターを新しいアイルランドの一部にする」という要求を自由党に受け容れさせた。
    【付記】「アメリカは何故、アイルランド独立を後援したのか?」
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  2. この為イギリスの選挙民は動揺し、その結果内閣は崩壊し、自由党も分裂する事になる。

1887年67歳)英国看護協会が設立される。

1892年〜1894年 ウィリアム・グラッドストンの第四次内閣
  1. アイルランド独立の闘士パーネルと仲違いし、グラッドストンの掲げる自治法案の大義名分はアイルランドにとってさえ疑わしくなってきた。それもあってアイルランド自治法案は上院で否決される。
    【付記】「アメリカは何故、アイルランド独立を後援したのか?」
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  2. 選挙法改正により大衆をイギリス民主主義に動員することに成功したグラッドストンであったが、そのグラッドストンの雄弁をもってさえ大衆を制御するのは難しくなりつつあった。

  3. 彼の生涯を俯瞰する多くの人々は、古い世界の最良の規準を全く失うことなく、近代民主主義の諸条件にイギリス国家の機構と政治家の慣行を適合させるのに、グラッドストンが他の誰よりも多くの貢献をしたと結論するだろう」と、イギリスの歴史家トレヴェリアンは統括している。

1893年
73歳)シカゴ博覧会で看護の本質に関するナイチンゲールの信念を明確にした演説が行われ「この職業は一つの芸術であり、科学である」と語ったとされる。

1896年 独立労働党が設立される。

 1900年 社会民主同盟、フェビアン協会、独立労働党の3団体と65の労働組合が参加して労働代表委員会を結成

1901年1月22日81歳)ヴィクトリア女王、死去。

1906年 労働代表委員会を議会政党に組織変更し労働党と改称。同年の総選挙で26議席獲得

1907年87歳)女性としては初めて、メリット勲章を授与される。

1908年 ジョルジュ・ソレル(Georges Sorel、1847年11月2日 - 1922年8月29日)が「暴力論(『暴力に関する考察』Reflexions sur la Violence) を発表

*ベルグソンの「生の調薬の哲学」を中核に据えた革命論。
【Wikipedia】「生の飛躍の哲学」
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革命という妖怪スペクトル:フランス語版「共産党宣言」の冒頭にある句を最も大胆に扱える政党
こそが、未来を我が物とするであろう」第一章「革命と暴力」より抜粋(資本主義社会は基本的に豊かで、だからこそ未来を薔薇色に見せつつ、貧者の待遇改善を後回しにするのが得意だが、そちらの「妖怪」に騙されてはいけないとした上で

正統的マルクス主義者であることを誇っている人々は、師(マルクス)が書いたことに対して、重要なものを何も付け加えようとしないまま、プロレタリアートについて議論するために、ブルジョアジーの歴史において学んだことを利用しようとした。その結果彼らは、自動的な従属の実現しようとする強制力force)と、そうした権威autorite)に抵抗revolte)する暴力violence)の間に、解明されるべき違いがあるのだということに気づかないまま権威に向かって進んで行ったのである。彼らによると、プロレタリアートは、ブルジョアジーが獲得したように強制力を獲得しなければならないのであり、ブルジョアジーが用いたように強制力を用いなければならないのであり、そしてついには社会主義国家にブルジョア国家の跡を継がせねばならないということになる」第5章「政治的ゼネスト」より抜粋
  1. フランス・シェルブールのワイン商人の家に生まれエコール・ポリテクニークを卒業。
  2. はじめはフランス政府の技監だったが、社会問題を研究するようになり1890年代にマルクス主義に傾倒する。
  3. 1898年に労働組合の団結と闘争とを説き、その反議会主義と直接行動志向が当時の知識人と労働者に歓迎された。
  4. 最初はマルクス主義理論の弱点と考えたものを補おうとしたが、やがて史的唯物論と弁証法的唯物論とプロレタリア国際主義を拒絶するに至る。
  5. そして正統派マルクス主義においては大衆を一致した行動に導く原動力とされた「歴史的必然」を、技師の本領を発揮して「慎重に設計された神話」と言い換えた上で「直接行動による強制だけがブルジョワ民主主義社会を変革し得る」とするジャコバン派の伝統と結びつける事でた点に最大の特長がある。
  6. そういう立場上、レーニンに対する態度は常に肯定的で、主著たる「暴力論」第五版の付録として「レーニンのためにPour Lenine)」という題の論文を書き下ろして憲法制定会議をボイコットして社会主義を宣言したレーニンの行為を弁護し、ロシア革命をたたえている。
  7. 彼の思想は反民主主義的政治傾向、特にファシズムに絶大な影響を与えた。例えばムッソリーニなどは彼を「ファシズムの精神的な父」と褒め称えている。そしてソレルが亡くなった折にはスターリンとムッソリーニが哀悼の意を表している。

1910年8月13日90歳)死去。墓石には故人の意思により、ただ「F. N. Born 1820. Died 1910.F.N 1820年生 1910年没)」とだけ記された。

なんとなくこの年表を作成しながら思った事のまとめ。
  1. こうして俯瞰してみると「会議外交と政党政治の全盛期」とされるこの時期にナイチンゲールが果たした役割は、ある意味「反戦問題に関する修正主義」「植民地問題に関する修正主義」と統括できるやも。

  2. ところで反議会主義の立場から労働者の直接行動のみを信じた社会理論家ジョルジュ・ソレルは「暴力論1908年)」において「楽観主義者は嫌いだし、第一危険だ。何故なら自分の楽観的世界観を否定されたり、傷付けられたりするとすぐに本気で復讐を考え出すから」といった考えを綿密な分析を交えながら展開してる次第。

  3. 実際に19世紀に政権を握った「楽観主義者達」はそんな単純な精神構造の持ち主ではなく、それなりの均衡を保ち得るメカニズムを保持していた様にも見受けられるが、いずれにせよそうした旧世代の「元老院的政治観に基づく慎重に設計された神話は普通選挙の定着によって自由主義の理念が達成された19世紀末以降には大きな見直しを迫られる事になったという事なのやも。

  4. 代わりに台頭してきた「ニュー・リベラリズム」と「南アフリカ問題」を扱ったのはこちら。
    【付記】四冊の「帝国主義論」
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ochimusha|06-23 09:24
とりあえずグラッドストンが「我々が甘受したのと同様の権利をアイルランド人も甘受すべきだ」と主張し始めた時点で「自由主義万能神話」が齟齬を来したという辺りまで把握。そこから先は・・・以下続報ってな感じ。
 → ochimusha|06-23 09:41
「神話」といっても多分少なくとも19世紀後半の段階では「毎日目にする新聞や雑誌の紙面構成や読み物から、読者が自分はどんな世界に生きてると想定するか」といった程度のもの。例えば戦前の日本の新聞でいうと「西洋では国民にパンが行き渡らないと革命が起こるという。日本では米が下々にまで行き渡ってれば革命は起こらない」なんて下世話な奴が案外強力でした。
「魔法使いの弟子」あるいは「詐欺? むしろ方便?」 [41]
- 【詐欺、あるいは方便】「白衣の天使と小陸軍省の狭間」 [2]
【付記】「台湾国父の深謀」