*これは以下の関連スレです。
【詐欺、あるいは方便】「白衣の天使と小陸軍省の狭間」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1955637)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1955637)
【Wikipedia】下関戦争(1863年〜1864年)

- 幕末に起きた馬関戦争(ばかんせんそう)の現代的表現である。
- 幕府による安政の開国(1854年)後も過激な攘夷政策をとっていた長州藩と、英 仏 蘭 米の列強四国との間に起きた、前後二回にわたる武力衝突事件である。
- 前段は 1863年(文久三年)5月、攘夷実行という大義のもと長州藩が馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し航行中の米仏商船に対して砲撃を加えた事に端を発する。
- 約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃して長州海軍に壊滅的打撃を与えたが長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築くと海峡封鎖を続行した。
- 後段は1864年(元治元年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国が長州に対する懲戒的報復措置をとることを決定して仏 蘭 米の三国に参加を呼び掛けて艦船17隻による連合艦隊を編成した事に端を発する。
- 同艦隊は8月5日〜7日に馬関(現 下関市)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
- 寄せ集めの四国連合艦隊に完膚なきまでに打ちのめされた長州は、以後政策を180度転換して欧米から新知識や技術を積極的に導入、軍備軍制を近代化してゆく。
- そして同時期に薩英戦争で英国に完敗して同じような近代化路線に転換した薩摩藩とともに、倒幕への道を一気に進むことになるのである。
関連状勢の推移
1853年(
嘉永6年)ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し幕府に開国を迫り、翌1854年(安政元年)幕府は日米和親条約を締結する。
1856年(
安政3年)アメリカの強い要求により、幕府は朝廷の勅許を得ることなく日米通商修好条約を締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結び、幕府の鎖国体制が完全に崩壊する。
- 貿易の急速な拡大によって国内経済は混乱し、政情が不安となり幕府の開国政策を批判する攘夷の機運が高まった。
- 孝明天皇が外国人を極度に嫌っていた事もあり京都の朝廷は開国に反対で、このため幕府に不満を持つ攘夷派は朝廷の攘夷派公卿たちに結び付くようになった。
- これを許せなかった幕府大老井伊直弼が弾圧政策(安政の大獄)で応じたものの、1860年(万延元年)水戸・薩摩脱藩浪士によって暗殺されてしまい(桜田門外の変)幕府の威信は却って揺らいだ。それに関して攘夷派による外国人殺傷事件が頻発し、諸外国はその都度、幕府から巨額の賠償金をせしめるという事態も起こった(こういう時代的流れが幕府の衰退を早めた可能性があるという見解について「偶然説」と「確信犯説」があり、今日なお泥仕合を展開している)。
- こういう状況の最中、後に倒幕の中心勢力となる長州藩では長井雅楽の「航海遠略策」による公武合体策が藩論となっていた。
- しかし1862年(文久2年)に長井は失脚してしまい、以降は中下級藩士を中心とした尊王攘夷が藩論となる。そして朝廷の攘夷派公卿と結び、京都の政局の主導権を握るようになっていったのである。
- そして同年9月、朝廷は勅使を江戸へ遣わして攘夷の実行を迫る。
1863年(
文久3年)
3月、
将軍徳川家茂が状況説明の為に陰謀渦巻く京都に上洛。
- 朝廷は従来通りの政務委任とともに攘夷の沙汰を申しつけ、幕府はやむなく5月10日をもって攘夷を実行することを奏上し、諸藩にも通達した。
- しかし諸外国との戦争につながる攘夷の実行は現実には到底不可能で、攘夷期日前日の5月9日にも薩摩藩が起こした英国人殺害事件(生麦事件)をイギリスに対して賠償金44万ドル払い込む事で穏便に解決したりしている。
同時期、攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である下関海峡に砲台を整備し、
藩兵および浪士隊からなる兵1000程、
帆走軍艦2隻(
丙辰丸、庚申丸)、
蒸気軍艦2隻(
壬戊丸、癸亥丸:いずれもイギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取っていた。
- 攘夷期日の5月10日、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ベンプローク号(Pembroke)を発見。総奉行の毛利能登は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し打ち払い決行が決定される。
- 海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったベンプローク号は周防灘へ逃走した。初めて外国船を打ち払ったことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。
- 次いで23日、長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャンシャン号(Kien-Chang)が長府沖に停泊しているのを発見。長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。
キャンシャン号は備砲で応戦したが事情が分からず(ベンプローク号が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせる。しかし藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水兵4人が死亡した。そこで急ぎ海峡を通りぬける事にし、庚申丸と癸亥丸に追われて損傷を受けつつも何とか振り切り、翌日長崎に到着したのだった。
- そして26日にはオランダ東洋艦隊所属のメジューサ号(Medusa)が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入る。
キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり鎖国時代からの長い友好関係があり攻撃対象とされまいと考えたのである。
しかし見境をなくしていた長州藩の砲台は容赦なく攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲戦となる。メデューサ号は1時間ほど交戦したが死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した。この砲撃によって長州藩に対する心証はさらに悪化した。
そして、こうした長州藩の行動に対して列強各国の懲罰的報復措置が開始される。
- この時期のアメリカは南北戦争の最中で軍艦ワイオミング号(砲6門)が南軍の襲撃艦アラバマ号の追跡のためにアジアに派遣されていたが、アメリカ公使の要請を受けて横浜に入港する。
そしてアメリカ商船ベンプローク号が攻撃を受けたことを知らされたデービット・マックドガール艦長はただちに報復攻撃を決意して横浜を出港したのだった。
6月1日には下関海峡に入る。不意を打たれた先の船と異なり砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸、壬戊丸、癸亥丸を発見してまず壬戊丸に狙いを定めて砲撃を開始した。
壬戊丸は逃走するが遙かに性能に勝るワイオミング号はこれを追跡して撃沈。救援に駆け付けた庚申丸や癸亥丸も返り討ちにされ庚申丸は撃沈、癸亥丸は大破。もともと貧弱だった長州海軍はこれで壊滅状態となった。
さらに沿岸砲台も射程外から存分に叩いてから「これで十分報復の戦果はあげた」として海峡を瀬戸内海へ出て横浜へ帰還した。
- 6月5日にはフランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号(砲36門)とタンクレード号(砲6門)が報復攻撃のため海峡に入る。
セミラミス号は砲36門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を派兵して砲台を占拠した。
長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払って砲を破壊した。長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれる。その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊もまた横浜へと帰還していった。
- こうした一連の「懲戒的報復措置(これでもまだ警告のうちである)」を通じて欧米の軍事力の手強さを思い知らされた長州藩は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決定。高杉晋作が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を編成し、併せて膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの諸隊も結成した。
さらに砲台も増強し長州藩はあくまで強硬な姿勢を固持し続けたのだった。
同年7月、
薩英戦争が勃発。
- 【西洋史断章】薩英戦争(1863年)
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956440)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1956440)
この時の敗北をもって薩摩藩は攘夷の愚かさを知り、イギリスと和平を結んで接近し、軍備の充実に努める様になる。
同年8月13日、三条実美ら攘夷派公卿の画策により、孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征の詔が下った(
大和行幸)。
- これに呼応して大和国において天誅組が挙兵する(天誅組の変)。
- その時点では京都の政局は長州藩を支持する攘夷派が掌握していたが18日には薩摩藩と京都守護職の会津藩が結託してクーデターを起こす。
- 攘夷派公卿は失脚し、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされた(八月十八日の政変)。
- この勢いに乗じて幕府は巻き返しにかかり、天誅組は周辺諸藩の討伐を受けて壊滅。長州藩をはじめとする攘夷派も京都からの後退を余儀なくされ、志士達は潜伏の日々を送るようになる。
1864年(
元治元年)
2月 幕府が横浜鎖港を諸外国に持ち出す。
- 長州藩は攘夷の姿勢を崩さず、下関海峡は通行不能となっており、これは日本と貿易を行う諸外国にとって非常な不都合を生じていた。
- しかしアジアにおいて最も有力な戦力を有し、対日貿易でも順調に利益を上げていたイギリスは海峡封鎖でも直接被害を受けていないこともあり、本国側が多額の戦費のかかる武力行使に消極的だった。
- しかし駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖によって、横浜に次いで重要な長崎での貿易が麻痺状態になっていることを問題視し、さらに長州藩による攘夷が継続していることにより幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持っていた。
- そこへもってこの話が出たのでオールコックは「文明国」の武力を示して日本人に攘夷の不可能を思い知らせる必要を更に痛感し長州藩への懲罰的報復攻撃を決意したのである。
同年4月 オールコックが提唱した長州藩への懲罰的報復攻撃の決行にフランス、オランダ、アメリカも同意し四国連合による武力行使が決定された。
- オールコックは本国に下関を攻撃する旨の書簡を送ったが本国外務省はあくまで日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的だった。
- それでこれを否認する旨の訓示を日本へ送るがこの当時はイギリスと日本との連絡には二カ月から半年かかった為に訓示が到着したのは結局攻撃実行後となった。
同年6月10日 イギリスに留学していた長州藩士
伊藤俊輔と
井上聞多が横浜に到着する。
- 二人は三カ月前に四国連合による下関攻撃が近い事を知り、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国の途についたのである。どちらも現地でイギリスの国力と機械技術が日本より遙かに優れている事を知って戦争をしても絶対に勝てないことを実感していた。
- 伊藤と井上はオールコックに面会して藩主を説得することを約束した。オールコックもこれを承知し、二人を軍艦に乗せて豊後国まで送り、長州へ帰させる。
- 二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に止戦を説いたが、長州藩では依然として強硬論が中心であり、徒労に終わった。
同年6月19日 四国連合が
20日以内に海峡封鎖が解かれない限り実力排除する旨を幕府に通達する。
同年7月8日(
元治元年6月5日)、新撰組主導の池田屋事件により攘夷派志士多数が殺害捕縛される。
同年8月20日(
元治元年7月19日)
禁門の変が遂行される。
- 孤立を深め追い詰められた長州藩が「藩主の冤罪を帝に訴える」と称して兵を京都へ派遣し、局面の一挙打開を図ろうとしたものである。
- 長州軍は強引に入京を図ろうとしたが、待ち構えた会津、薩摩、桑名を主力とする幕府側大軍に無謀な戦闘を仕掛け惨敗しただけに終わった。
1864年9月5日~9月7日(
元治元年8月5日~8月7日)英蘭仏米の
四国連合艦隊(
17 隻)が長州藩の下関海岸砲台を攻撃、一部は上陸して藩兵と戦い、海峡沿岸の砲台を全滅させた。
- 7月27日〜28日 キューパー中将(英)を総司令官とする四国連合艦隊が横浜を出港。
艦隊は17隻で、イギリス軍艦9隻(砲164門)、フランス軍艦3隻(砲64門)、オランダ軍艦4隻(砲54門)、アメリカ仮装軍艦1隻(砲4門)からなり、総員約5000の兵力であった。
また横浜にはイギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港から移駐してきた陸軍分遣隊1350人が待機していた。
- 8月4日、四国連合艦隊の来襲が近いことを知った藩庁はようやく海峡通行を保障する止戦方針を決め、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせるが、艦隊は既に戦闘態勢に入っており手遅れであった。
- 下関を守る長州藩の兵力は奇兵隊(高杉は前年に解任されており総管は赤根武人)など2000人、砲約120門であり、禁門の変のため主力部隊を京都へ派遣していたこともあって弱体であった。大砲の数が足りず、木製の砲をつくってダミーとすることもしていた。
- 5日午後、四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始した。長州藩兵も応戦するが火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられた。艦隊は前田浜で砲撃支援の下で陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊した。

フランス海軍陸戦隊によって占拠された長府の前田砲台
- 6日 壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監山縣有朋は至近に投錨していた敵艦に砲撃して一時混乱に陥れる。だが、艦隊はすぐに態勢を立て直し、砲撃をしかけ陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊するとともに、一部は下関市街を目指して内陸部へ進軍して長州藩兵と交戦した。
- 7日 艦隊は彦島の砲台群を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ砲60門を鹵獲した。8日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊された。陸戦でも長州藩兵は旧式銃や槍弓矢しか持たず、新式の後装ライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退した。長州藩の死傷者は47人、連合軍の死傷者は62人だった。
同年9月14日(
8月8日)戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じた。
- この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊旗艦のユーリアス号に乗り込んでキューパー司令官との談判に臨んだ。
- イギリス側通訳のアーネスト・サトウはこの時の高杉の様子を非常に傲然としていたが、出された要求は何の反対もせずに全て受け入れたと述べている。
- 18日に下関海峡の外国船の通行の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立した。
- ただし賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになった。これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能なこともあるが、今回の外国船への攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったまでという名目であった。
- この談判の際に「四国連合側のすべての要求を受け入れた高杉が彦島の租借だけは断固として拒否し、高杉の努力によって彦島が香港のような外国の領土になるのを防いだ」という逸話が有名だが、この話は当時の記録にはなく、ずっと後年になってこの交渉の時に長州側の通訳をした伊藤博文が述懐した話であり、真実か否かは不明である。
同年 第一次長州征伐- 朝廷は禁門の変に際して長州藩が京都御所へ向かって発砲を行ったことを理由に長州を朝敵とし、幕府に対して長州征討の勅命を下した。
- 幕府は前尾張藩主徳川慶勝を総督に広島へ36藩15万の兵を集結させて長州へ進軍させる。
- 一方、長州藩内部では下関戦争の後に藩論が分裂し、保守派(俗論派)が政権を握る。征長総督参謀の西郷吉之助は、禁門の変の責任者である三家老(国司信濃・益田右衛門介・福原越後)の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝え、藩庁は11月にはこれに従い禁門の変の責任者を処罰して恭順を決定。幕府側はこの処置に不満であったが、12月には総督により撤兵令が発せられる。
- しかしその隙を見計らって同年同月高杉晋作が奇兵隊を率いて俗論党政権に対して挙兵する(功山寺挙兵)。
1865年(
慶応元年)
功山寺挙兵に始まった
元治の内乱に高杉らが勝利し、倒幕派が長州藩の主導権を握るようになる。
- とはいえ下関戦争の敗戦を受けて攘夷の不可能を知り、以後はイギリスに接近して西洋式軍制を採用した民兵として奇兵隊や長州藩諸隊を再編し、大村益次郎を登用してゲベール銃やミニエー銃などの新式兵器の配備し、さらに戦術の転換といった軍事改革を敢行した。
- こうした不穏な動きに刺激された14代将軍徳川家茂は大坂城へ入り再び長州征討の遂行を決定する。しかし既に土佐藩の坂本龍馬らが仲介した薩長盟約で密かに長州と結びつくようになっていた薩摩藩がまず出兵を拒否した。
- 幕府は大目付永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を進めたのだった。
1866年(慶応2年)第二次長州征伐に幕府側が惨敗- 6月7日 幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まる。
- 13日には芸州口・小瀬川口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。長州側は山口の藩政府の合議制により作戦が指揮された。
- 大島口では幕府陸軍の洋式歩兵隊と四国各藩の兵が大島を一気に上陸占領。しかし幕府海軍と高杉率いる艦隊の戦いは奇襲戦法により幕府海軍の敗走という結果に終わり、その後世良修三指揮下の長州軍が大島を奪還したが島内に逃げ散った幕府軍残党の掃討戦は終戦まで続いた。
- 芸州口では、幕府歩兵隊や紀州藩兵などとの戦闘が行われたが、緒戦で彦根藩兵が壊滅したりと散々であった。
- 石州口は大村が指揮し(指揮役は清末藩主毛利元純)、中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田藩へ侵攻して18日浜田城を陥落させている。
- 小倉口では、総督小笠原長行が指揮する九州諸藩との戦闘(小倉戦争)が関門海峡をはさんで数度行われた。一時肥後藩が互角の戦いを見せるものの、小笠原の指揮が振るわず諸藩は随時撤兵。将軍家茂の死去の報を受けると小笠原も戦線を離脱して孤立した小倉藩は8月1日城に火を放って香春に退却した。
- これで事実上、幕府軍の全面敗北に終わり、次代将軍となる徳川慶喜も勝海舟を遣わして宮島で停戦を行うしかなくなったのである。
- ちなみに戦いの長期化に備えて各藩が兵糧米を備蓄した事によって米価が暴騰し、全国各地で一揆や打ちこわしが起こって幕藩体制はますます瓦解に向かい始めた。
1867年11月9日(
慶応3年10月14日)大政奉還が敢行され江戸時代が終焉。
- おりしも倒幕派公家の岩倉具視らの画策によって討幕の密勅が下されようとしていた時期であったが、慶喜は先手を打ってこれを行うことにより討幕の名分を失わせたのだった。
- 慶喜はさらに10月24日征夷大将軍職辞職も朝廷に申し出る。これは一旦形式的に政権を返上するも当時の朝廷には政権を運営する能力も体制もなく、いずれ徳川家が実質的に政権を担い実権を握れると考えてのことであった。
- 実際、朝廷は外交に関しては全くなすすべが無く10月23日に外交については引き続き幕府が中心となって行なうことを認める通知を出し11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告、28日のロシアとの改税約書締結を幕府の役人に行わせている。
- またこの時点で倒幕派公家が朝廷内の主導権を握っていたわけでもなかった。前年にあたる慶応2年12月の親徳川派孝明天皇崩御を受け、慶応3年1月に践祚した明治天皇は満15歳と年若く、やはり親徳川派である関白二条斉敬が約80年ぶりとなる摂政に就任していたからである。
- 朝廷内には二条家を含め支配的な力を持つ五摂家があり、一時期は近衛家が親薩摩、鷹司家が親長州となっていたものの、この頃には徳川家支持に傾いていた。
- 一方三条実美ら過激長州派公家は文久3年8月18日の政変以来廟堂から追放されたままであり、岩倉ら少数の倒幕派公家は家柄が低くそれなりの影響力はあっても朝廷内の主導権を握ってはいなかった。
- つまり朝廷は当時二条や賀陽宮朝彦親王(維新後久邇宮)ら親徳川派上級公家によって主導されていたのであり、さきに挙げた討幕の密勅もまた主導権を持たない中下級公家である倒幕派と薩長の非常手段として画策されたものと考えられ、実際に公式文書としては不備が多い為に偽勅説が有力視されている。
- このように正規の形式・手続きによって朝廷内の権力を掌握することが望めない倒幕派はクーデターにより(江戸幕府はもちろん)、親徳川派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止して、天皇親政の新体制(建前上は、摂関政治以前の本来の体制である天皇親政に復古することでクーデターを正当化)の下で討幕派公家および薩長藩閥が実権を掌握することを目指す事になる。
- そしてその結果が1868年1月3日(慶応3年12月9日)の「王政復古の大号令」だった。
1868年1月27日 神戸事件(明治政府最初の外交事件といわれる)
*どうしてもクーデター直後で脆弱な明治政府の隙を突いたとしか思えない。
【例3】「開花期日本の偉い侍達と清末の偉い外交官」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1936948)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1936948)
【余談】「下関賠償金」
- 下関戦争後の四国連合と長州藩との講和談判によって300万ドルもの巨額の賠償金が幕府に請求されることになった。
- イギリスはこれを交渉材料に幕府に兵庫、新潟の開港と江戸、大坂での外国人の居留許可を認めさせようとする。
- しかし兵庫は京都の至近であり、朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は300万ドルの賠償金を受け入れる事を決定した。その後150万ドルまで払い込み、明治維新後は新政府が残額を1874年(明治7年)まで分割で支払って完済している。
- そして1883年(明治16年)2月23日、チェスター・A・アーサー米国大統領が不当に受領した下関賠償金(78万5000ドル87セント)の日本への返還を決裁する。
- 300万ドルの賠償金の分配はアメリカ、フランス、オランダの3ヶ国の船艦が42万ドルを分け、残額258万ドルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、米国は合計で78万5000ドルを得ていた。
- 実際の米国の損失は、「米国船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500ドル、長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル、水夫への危険手当2000ドル」程度であり、ワイオミング号の損害は日本への威圧の為に起った事で日本ではそれ以上の損害が発生している。また連合艦隊への参加は商船タキアン号1艘のみなのに64万5千ドル得た事になっており、実質上の米国の損害は合計1万ドル程度に過ぎなかったという。
- しかもこの賠償金は米国政府の公認を得たものでなく、弱小日本に対する威圧によって得たいわば不当なものと考えられる為にアメリカ合衆国国務省は日本から分割金を受領するたびに国庫に納めず国債として保管してきたのだった。
- その実情を1872年(明治5年)、フィッシュ国務長官(Hamilton Fish)が森有礼公使に伝えた事から、日本側では機会をとらえては返還の要請をしてきた。
- そして日本では1889年(明治22年)、返還金の元利金約140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当する事を決定し、1896年(明治29年)5月に完成している。
以前別スレで「蝋燭デモの暴走による韓国政権の国際的信頼の失墜、およびそれを食い止めようとする媚態による国内支持の低落が李昭博政権が倒れるならこの時期の日本にあった事と似てますね」と書いたことがありますが、こうして改めてまとめてみると全然似てませんね。