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まだ十分調べ切れてないのだけれど、こうしてみると実は「何故韓国人は『竹島は韓国領』という無意味なナショナリズムを持つようになったか」という設問こそが重要で、その答えは「副作用が恐ろしい部分を削り落としていったらそれだけ残った」という事ではないかと考え始めた次第。 |
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で、真面目に独島関連団体が「リャンコ大王」の英雄化に着手し始めてるみたいなので、将来それが安重根や壇君に代わる21世紀韓国の象徴になる事も有り得るかもしれないと思う次第。例えば壇君は「白頭山を回復せよ」というイデオロギーの産物だったりする訳で、それよりは余程「無害」なのが良い訳で。 |
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いままで全く利用価値もなかった遠くのやんこ岩礁が、日本人に雇われて行くようになって、それが生活や現金収入に影響するようになり身近になった事から、生活の一部、縄張り意識が出てきたのではないか、と勝手に推測します。 |
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「日本人だけが行ける海驢取り放題の島があり、その儲けで日本人は皆良い船に乗ってる」みたいな巷説の記録を探してるんですがないですね。 |
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日本人が鬱陵島の香木や巨木を島根に持って帰ってその利益で船を作り・・・とかいったのを読んだ事がありますが、すみません、すぐにどの本か判りません。 |
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私が読んだ本では同時進行で「瀬戸内や九州における綿花栽培規模拡大を背景に魚肥が高騰し、その売上をもって買った高性能船を購入した船主が朝鮮沿岸に進出」とありました。では当時のトレンドはというと・・・物の値段の乱高下が激しくて良く判らないというのが現状です。 |
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そもそも鬱陵島への日本人の渡航が増えたのは1890代くらいだったか、改良船という新しい舟が出来てからで、そのあと漁業が、1903年頃から日本人によって活発化したことは朴九秉も認めています。韓国人は若布や雑魚、鰯などは取っていたようです。烏賊は日本人は1903年頃から、韓国人は1907年頃からはじめました。 |
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「改良船」・・・実は「朝鮮紀行」に出てくる「朝鮮領民が採集した魚肥を集めて日本船が持ち帰る」場面というのが妙に気になってて。 |
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改良舟の登場前は、結構航海で死ぬ人が少なくなかったそうですが、この舟の登場によって山口や隠岐からの通漁船による鬱陵島への渡航や鱶漁などがしやすくなったと聞いております。 |
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それにしてもこの海驢は海驢の割にはかなり大きいですね・・・・・・さすが大王 |
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こいつなら鬱陵島に現れて「牛」と間違われても不思議ないかも。 |
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写経しようかどうか迷ってるのですが、一方当時の朝鮮腐敗役人ときたら「金に困ったときは理由なんて何でも良いから羽振り良くやってる商人を投獄して財産を絞り上げれば良い」なんぞと宣ってる様な有様で(当時の新聞記事より。ただし典型的な朝鮮式ケンチャナ記事で本当に悪いのが誰かは不明)。 |
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この記事自体は1880年代ですけど、実は日朝ともに「成金は全員悪魔に魅入られた犠牲者で必ず非業の最期を遂げる」みたいな前近代的偏見をどう乗り越えていったかが鍵で、そういう意味では貴重な史料な次第。 |
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そして誰も「世界最大級のニホンアシカ」には突っ込まない・・・剥製の説明にある文言だそうです。 |
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なんというか。無学な俺にはためになるサイトだなwあと、親父に聞いたら李承晩ライン当時のこと覚えてたわ、漁船がいっぱい拿捕されたなぁーーみたいなこと言ってたw |
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本当は「竹島」自体は付属物に過ぎない訳ですな。日本からすればあくまで「超法規的措置でマッカーサーラインの消失を韓国が許さなかった」事こそが重要で、その拠点として竹島を接収したのなんでグリコのおまけに過ぎない訳ですよ。 |
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「それでは何故朝鮮漁業は危機に瀕していたの?」と聞かれると「それまであった大日本帝国の庇護が消失したから」というのが答え。しかも日本側は捕獲した漁民を人質にした交渉で港湾設備への投資の回収を放棄させられる訳です。 |
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日本側がそういう事を思い出すと「たかが岩礁の領有権」では済まなくなって・・・ま、もう手遅れの感がありますが。 |
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