最近jpnは倭寇狩りばかりしていて、チョソ狩りをしなくなったとお嘆きの皆様へ
「大陸百済」「大百済帝国」などの妄想を見たEnjoyKoreaユーザーは多いと思う。
端から妄想であるのは百も承知なのだが、最近活きのいいチョソもいないので、いわゆる大陸百済説というものの骨幹となる「百済は遼西を攻略し、百済郡を設置した」という言説についてマジスレでも立ててみようと思う。
元ネタは、言わずと知れたpolalisのいわゆる「イヤ論文」。polalisのイヤ論文といっても、polalisが書いた論文ではない。
とpolalisから釘を刺された件について( ´H`)y-~~
論文の名称は「百済略有遼西記事初探(On Records of Peakche's Advance Towards Liaoxi)」金憲淑(延辺大学社会科学基礎部,吉林 延吉 133002)という朝鮮_族の研究者が書いた論文である。この論文には、EnjoyKorea上で見られる、いわゆる大陸百済説の基礎となる主張のほとんどが含まれている。以下にその要約を挙げる。
1 論文冒頭で論者は、百済が遼西を領有したとする説には肯定論と否定論があることを認めた上で、自らが肯定論の立場をとっていることを表明している。
2 史料として採用したのは「宋書」「梁書」「南史」であり、これはEnjoyKoreaのいわゆる「百済厨」が挙げる史料に同じである。
史料1 (宋書)百濟國 、本與高驪倶在遼東之東千餘里、其後高驪略有遼東、百濟略遼西。百濟所治、謂之晉平郡晉平縣。
史料2 (梁書)其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。
史料3 (南史)其國本與句驪在遼東之東千余里、晉世句驪既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。
(凡例:紫色=宋書と南史共通 緑=梁書と南史共通 青=3者に共通)
A 論者は上記の史料を提示した上で、宋書において史書に百済伝が初めて記載されたとし、宋代には百済が国際社会の舞台で活躍した証拠とした上で、宋書の記述は信頼するに足るとしている。
B 次に梁書、南史の記述の類似性を指摘し、南史の記述は梁書の転載であるとしており、その記述と三国史記百済本紀534年の記述の双方に、百済が梁に朝貢した記録があり、その記述の一致から、梁書及び南史の遼西支配の記述は信頼できると結論づけている。
C 最後に百済が遼西を支配した可能性に言及し、「西晋当時のいわゆる五胡十六国の時代、北方が混乱した隙に乗じて百済が遼西を攻略したはずだ」としている。論者によれば、この当時遼東では鮮卑と高句麗が戦っていたとしている。
D さらに、百済がこの鮮卑と高句麗の戦争に参戦し、晋書咸康八年の記述を持ち出して「遼西に百済が進出した根拠」としている。
E また、百済が北魏と戦い、これを撃破したとする史書の記述により、北魏の数十万の騎兵が朝鮮半島南西部にまで侵攻することは高句麗に阻まれ陸路では不可能であり、北魏の海上輸送能力から海路も不可能である、故にこれは大陸の遼西で戦われた戦争に違いないとしている。これもEnjoyKorea上でしばしば見かける論法である。
F 最後に「百済は晋の時代に限らず大陸の一部に領有権を持っていた」と締めている。
以上のような要旨のイヤ論文であった。
じゃあ反論♪
Aへの反論
中国の史書の列伝に記述されることが、とりもなおさず国際社会での地位を示すという考えであれば、倭国は百済の遙か以前から中国と外交関係を樹立し、国際的な舞台で活躍していたことになる。このことは、4世紀前半以前の百済は、特に記述する価値もない、国際的には無力かつ矮小な存在だったことを示す。つまり、中国大陸の一部を領有するような有力な勢力ではなかったと、この学者自らが認めているのである。百済の国際社会へのデビューが倭より遅かったと証明してくれてありがとう。
Bへの反論
梁書と南史に見られる百済が朝貢した記録が、三国史記と一致するから、梁書及び南史に見られる「朝貢」が歴史的事実であろうと推測することには諸手をあげて賛成できる。その根拠は、異なる二ヶ所において、双方の当事者が書いた記録が一致しているからである。しかしながら、梁書と南史に見られる「百済の遼西支配」は三国史記に記述はない。つまり、両者の記述は一致しておらず、梁書と南史の記述は信用するに足りないということを自ら証明した自爆である。
Cへの反論
五胡十六国の時代、百済が大国として中国大陸の遼西から華北に進出したのなら、五胡十六国に百済が加わり、五胡十七国になっていなければならない。つまり、百済など進出していなかった証拠が「五胡十六国」という名称に現れていると言って良いのである。
Dへの反論
晋書咸康八年記述には、どこにも百済が遼西に新出したと書いておらず、なんら百済の遼西支配の根拠にはなり得ない。ここでも「書いていないものが読める民族」の面目躍如です。
Eへの反論
いつも言うように、南朝の記録には宋書を原典とする記述が見られるが、遼西を実際に支配していた北朝の記録には当該記述はない。韓国人は往々にして「自国の敗北を隠蔽したはずだ」とするが、晋書には異民族に対する晋の敗北に関する記述も普通に見られ、百済に対する敗北を隠蔽する必然性も蓋然性も存在しない。
また、海上から朝鮮半島への輸送が出来ず、陸上からは高句麗に阻まれて軍を送れないとする条件は、北魏だけでなく百済にも等しく科せられる条件であり、百済が飛び地である遼西へ大軍を派遣することが出来なかったことを示す。まあ、輸送力や輸送経路に言及したのは自爆ですよね、ということで。
Fへの反論
晋の時代に限らないとすれば、具体的に西暦何年ころから、何年頃まで、どこを領有したのか、当該地域の支配体系はどのようなものであったかということは全く説明できないのである。つまり、ただ言っているだけで根拠は全くない。要するに
「いつもながらの妄想」
結論:やっぱりバカ学者( ´H`)y-~~
ちなみに、同じ延辺大学の歴史学教授 劉子敏は、当該論文を評して「筆者は少しでも中国遼西の歴史的な沿革を知っている者であれば、百済がかつて遼西を支配したなどという記述が信用できるものであるなどとは信じるはずもなく、この問題は根本的に議論の対象にさえならない」と一刀両断している。
その後、金憲淑から劉子敏に対する明確な反証があったとは寡聞にして聞き及んでいない。もしも金憲淑及びその賛同者が、未だに明確な反論をできていないとすれば、「百済略有遼西記事初探(On Records of Peakche's Advance Towards Liaoxi)」という論文の主張は、学術的には「既に死んだ説」ということになるのである。( ´H`)y-~~
それでは、反論がある方は史料と論理に依拠した意見の開陳をどうぞ。スレッド本文で論破済みの内容を10000回書き込んでも何も解決いたしません。( ´H`)y-~~