先月下旬、表彰式のあった岡山県文学選奨(同県など主催)で、三年ぶりに小説A部門(長編)の審査を担当した。応募二十三編で、残念ながら賞に値する作品には出合えなかった。
それはともかくとして、応募作品に、戦後の苦労話も含めた広い意味での「戦争体験」をつづるものが皆無だったのには、驚きとともに時代の加速度的な進展を実感させられた。
小説B部門(短編)も含め、ここ十年くらいで数度の審査員を経験しているが、初めてのことだし、かつてはかなり幅さえ利かせていたことを思うと、まさに隔世の感だ。来年また登場するかもしれないけれど、体験者の年齢を思えば、今後の数の減少は否めないだろう。
作品の巧拙は別として、彼ら彼女らは明確なメッセージを携えていた。悲惨な体験と表裏一体の平和への熱い思いである。これをどう引き継いでいくか、われら続く世代に課せられた極めて重い責務だ。
政府の見解に拘束されるべき自衛隊の幹部が、論文で侵略戦争肯定論を公然と展開するような愚がまかり通ったりもしているが、評論家の佐高信さんは、背景にある「自虐史観批判」を、「自虐史観の反対は『自慢史観』であり、身勝手な自慢話ほど聞きにくいものはないのである」(十一月十二日付本紙朝刊)となで切っている。
事実は客観的に検証する。それが歴史に学ぶということだ。
迎えて八日は、太平洋戦争開戦から六十七年。わけても、肝に銘じたい。
(特別編集委員・横田賢一)