문서번호 |
報告第三九號,京發第五一號,仁發第五二號,釜發第五三號,元發第五四號,鎭南發第五五號 |
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발송일 |
明治三十一年五月七日 (1898-05-07) |
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◆国史編纂委員会
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本文
(前半 略)
一. 近来当国の人民は日々窮困に陷り、其甚しき地方に至っては野ニ生草なからんとしつつある所以を原ぬるに京畿江原及忠淸の北部は、昨年の秋穫不作を告げたるのみならず、鎭南浦木浦開口の爲め米穀生産地と称する全羅黃海兩道の米穀は右兩港よりして
例年になく日本への輸出をなし 其他仁川ニ輻輳する所の米穀も日本の高価に喚はれて多くは日本に吸収せらるる趨勢を生したるよりここに不作小量なる米穀の更に輸出の爲め拂底を告来ることとなり
昨年九日仁川に於ては、八円台たりし中等玄米は漸々騰貴して一時は十六円殆と一倍の高価となり目下十四・五円に昇降しつつあり
元来需要に応すべき供給欠乏したるを以て此末とも指したる変象之れなき以上は
本秋の收穫迄恐らくは下落の見込可無之
尙ほ京畿道の如きは元来些少の雑穀を生する迄にして、米穀の生産地に無之其需要を他道に仰き来たるに右の事情なるを以て一層困難を極め多数の窮民を生するに至りたり
一. 興宣大院君及驪興府大夫人の禮葬費を合計三萬五千元増加し予備金中より支出の事に相成りたり
一. 東京商業會議所々長 澁澤榮一去る三日入京せり
右及具報候 敬具
明治三十一年五月七日
加藤 辨理公使
西 外務大臣 宛
要約
1・当国(朝鮮)の人民は日々困窮していた。
2・京畿江原及忠淸の北部は、昨年の秋穫不作だった。
3・鎭南浦・木浦開港したため、そこから全羅黄海兩道の米穀は日本へ輸出になった。
4・仁川に集まる米穀も日本の高値によばれて輸出された。
5・不作小量の米穀もさらに輸出されて底を告げることになった。
昨年九日、仁川においては八円台だった中等玄米は、一時ハ十六円に。
今は十四、五円に昇降しつつある。
京畿道は、もともと少しの雜穀生産地であり、米穀生産地ではないから
その需用を他道に期待するが、この事情のため一層困難をきわめ、多数の窮民を生ずるに至った。

1898年
日韓併合12年前
すでに朝鮮は日本に米を輸出して、国民が困窮していたようです。
(・⊥・)
国史編纂委員会のページはカナ表記です。
読みやすいよう平仮名に修正しました。
間違いがありましたらご指摘ください。
ありがとうございました。 (・⊥・)/
