こんにちは!
前回に引き続き、韓国oh my newsの特集記事のコピペです。
拉致、強姦
法的にも問題があったなど、非常に興味深い内容です。
■韓国軍の慰安婦制度 1
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=3&nid=78074
韓国の方はこちらでご確認ください
↓
http://www.ohmynews.com/articleview/article_view.asp?at_code=67635
韓国軍‘特殊慰安台’は事実上の公娼
[創刊2周年記念発掘特種]韓国軍も‘慰安婦’運用した 2
記者が忠南論山の陸軍第2訓練所に入所した 1980年当時までにしても論山訓練所垣根を越せばいわゆる '毛布部隊'にあえた. 当時訓練兵だった記者が '毛布部隊'を直接目撃したことではないが訓練所助教や期間病たちは自分たちが '毛布部隊'と遭遇して '激戦'を行った '武勇談'をよく話したりした.
'毛布部隊'は訓練所垣根の外で毛布一枚を '武器' して訓練兵たちを相対する娼婦たちの俗称. こんな移動式私娼形態の毛布部隊員話は美談や神話のように聞こえたりした. しかし軍が直接慰安部隊を設置して運用したら問題が変わる.

去る 2月22日 <oh my news>に '韓国軍も慰安婦運用した'と言う発掘記事の初回分が報道された以後独自の反応は大きく三種類で分類することができる.
第一, 軍医暗い恥部を公開して反省しようということ. 第二, 旧日本軍隊慰安婦 制度とは違う公娼なので不法ではないということ. そして終わりは公娼でも私娼でも軍が戦時に士気高揚のために慰安婦を利用したのが何が過ちかと言うのだ. この 2回分記事は主にその二番目反応と直結された返事を盛っている.
この発掘企画記事の初回分でよく見たように, 韓国軍が 1951年頃から 1954年まで '特殊慰安台'という名前で固定式あるいは移動式慰安婦制度を取り入れて運用したのは否認することができない歴史的事実だ. そんな事実は陸軍本部が 1956年に編纂した公式記録である <後方戦史>(人事編)と目撃者たちの証言に裏付される.
<後方戦史>に積まれた '特殊慰安台実績統計表'は 1952年度に 4ヶ牛どおり編成された慰安台 89人が年間 20万4560人の兵力を '慰安'したと記録している. 慰安婦 1人が一日平均 6~7人の将兵を慰安したのだ. またチェ名臣・チァギュホン・ギムフィオなど予備役将軍たちも朝鮮戦争期間に経験した慰安婦制度に対して "現わしたくない恥ずかしい軍部の恥部だが事実だ"と証言している.
もちろん韓国軍慰安婦制度は句日本軍 '従軍慰安婦' 制度を真似った跡にもかかわらず二つの制度は本質的に違う. 韓国軍慰安婦は慰安婦動員方式や規模などでも句日本軍従軍慰安婦と比較にならないが, なによりも後者は強制性を帯びている国家動員体制の一環で施行されたという点が違う.
しかしその同じ根本的な差にもかかわらず韓国軍慰安台は設置同期や運営方式面で日本軍従軍慰安婦制度を真似って似ている姿をしたことまた事実だ. 言わば慰安所の前で列をなして慰安婦を待つ軍人たちと戦闘力損失を防止するために定期的に性病検診をする軍医の姿などは日本軍従軍慰安所の風景と違うところないのだ.
また軍票(日本軍) 代りにチケット(韓国軍) みたいな対価が支払いされた取り引き形式に運用された点も外形上に似ている姿だ. 日本右翼はこれを立てて余分の慰安所制度を一種の公娼制のようなことで正当化したりする. しかし軍票は日本の主要銀行がいつでもお金で取り交わしてくれる一種の '有価証券'だった. また公娼制が国家が女性の性を統制した場合なら慰安所の場合は展示という状況で国家よりもっと力強い力を発揮する軍が管理・運営の主体という点で被害女性たちに対する人権染躪はもっと極甚になるしかなかった.
韓国軍 '特殊慰安台'は事実上の公娼
ところで注目する事実は当時国軍が設置して運営したこの '特殊慰安台', すなわち固定式慰安所の性格が事実上の公娼だったという点だ. 言わば軍医公式記録には "休戦によってこのような施設の設置目的が解消されるに至って公娼廃止の潮流に順命して檀紀 4287年 3月これを一斉に閉鎖した"(<後方戦史> 148~149ページ)つらくてある. 余分の自らが '特殊慰安台'を公娼と認めているのだ.
檀紀を西紀に換算すれば, 慰安所を '一斉に閉鎖'一時点は 1954年 3月だ. ところで 1947年 11月11日米軍政庁が公布した公娼廃止領(法律第7号)の発效した時点は 1948年 2月からだ. 明確な記録はないが慰安所設置時点は 1951年に推定される. したがって郡は公娼廃止領江戸かかわらず 1951年から 1954年まで約 3年間不法で公娼を設置・運営した犯法行為をほしいままにしたのだ.
結局軍が '公娼廃止の潮流に順命して慰安所を閉鎖した'と言う記録はふと見れば事実のようだが実際では自分の犯法行為を隠蔽するために事実を巧みに歪曲したのだ. 軍は政府の公娼廃止領にもかかわらず事実上の公娼を 3年間も不法で運営したけれども '公娼廃止の潮流に順命して閉鎖'したことのように記録しているからだ.
それなら朝鮮戦争当時余分の慰安所を設置・運営する犯法行為の主体は誰だろう. これに対してはまだ明確な記録や証言を捜すことができない. ただ韓国軍の '慰安台' 運用事実を初めて申し立てたギムグィオック博士(慶南大北朝鮮専門大学院ビジティングプロフェッサー)は <後方戦史>と予備役将軍たちの回顧録そして関連者の証言などを土台でこんなに主張する.
"'特殊慰安台', すなわち余分の慰安所は陸軍によって設置されたのは間違いない事実だ. 当時韓国軍の作戦体系上余分の慰安台の設置及び管理問題に対しての上では国連軍の最終承認の下に運営されたことに推定されて, 下では特殊慰安台部隊長の責任の下に総括されたことと見える."
国連軍の最終承認の下に運営されたはずだという推定は 1950年 7月韓国政府が陸・海・空軍の作戦指揮圏を国連軍総司令官に委任したことに根拠を置いている. しかし <後方戦史>も明らかにしているように, 慰安所運営は電線ではない後方に限っていた. また慰安台のさばる作戦指揮圏の範疇に含まれないから国連軍の最終スングインハに運営されたはずだという推定は説得力が劣ったように見える.
しかし当時国防省と陸軍の首脳部はこのような不法行為の責任で自由ではないようだ(国防省に合同参謀会議の設置された時点は '特殊慰安台'を閉鎖することわずか一月前の 1954年 2月なので合同参謀は慰安婦設置・運営の繋船上から除かれる).

慰安所を設置・運営した時点の歴代陸軍参謀総長は △5代チョ@ン・イルグォン中将(1950. 6~1951. 6) △6台李鍾賛中将(1951. 6~1952. 7) △7台バックソンヨブ大将(1952. 7~1954. 2) △8代チョ@ン・イルグォン大将(1954. 2~1956. 6) などだ. 1951年に推定される設置時点で見ればチョ@ン・イルグォン・李鍾賛二人の総長の一人だ.
1948年創軍当時の軍首脳部人脈が大部分日本軍・関東軍出身だったが, 二人の総長皆日本陸士出身だ. 朝鮮戦争時代に慰安婦制度を目撃したギムフィオ将軍(予備役陸軍所長)の "過去日本軍隊従軍経験がある一部連帯幹部たちが部下詐欺高揚のための発想から始まったこと"という証言はそれに対する手がかりを提供する. ギムグィオック博士も "軍隊慰安婦創設の企画者が確かに日本軍や関東軍出身者とか彼に影響を受けた者に推正することができる"と明らかにする.
余分の関係者たちは李鍾賛総長が 1952年釜山政治波動の時軍医政治的中立を力説した '本当に軍人の象徴'で見なされて来た点に映して一応チョ@ン・イルグォン総長の方に余分の慰安台設置・運営可能性の比重を大きく置く. 一方当時国防省長官の中では第2代シン・ソンモ長官(1949. 3~1951. 5)課題3台イギブング長官(1951. 5~1952. 3) の一人が設置を承認したことに推定される.
韓国軍慰安婦, これらはだれか?
それなら果して軍隊慰安婦, これらは誰だろう. ところで既存の資料どこにも慰安婦正体に対する言及はない. ギムグィオック博士によれば, ただいくつかの文献では少なくない帰還日製余分の慰安婦たちが朝鮮戦争当時性売買業で流れて行ったという経験的陳述による推定だけあるだけだ. 1996年から束草で越南民研究をしてから初めて韓国軍慰安婦問題に対して関心を持って関連者たちをインタビューして来た金博士の推定によれば慰安婦の正体と類型は何種類で分けられる.
金博士がまず注目したことは, たとえ小規模ではあるが日本ミリタリズムの '慰安婦' 募集形態を瓜二つな形態の慰安婦が存在したという事実だ. それはちょうどブックパゴングザックワンと慰安婦の '不幸な出会い'だった. 匿名を要請したブックパゴングザックワン出身人士とのインタビューを通じて金博士が明らかにしたこの一番目類型は拉致と強姦によって '慰安婦'になった事例だ.
ムンアムゲ(69) さんは 1951年 5月頃原産前海にある島で他の女性同盟院 3人と一緒に集まっている途中当時原産前海の女道で諜報工作活動をしたブックパゴングザックワンドルに拉致されてからなかでも一人(李何某下士官)に劫奪あった後強制で '慰安婦'になったケース.
門さんは結局 1953年 7月停電になるまで女道で以下士官の子供を生んで一緒に暮した. 一緒に拉致された他の女性たちも昼には軍人たちのご飯と洗濯をして夜には '慰安婦'にならなければならなかった. こんな事は隣近譲り渡しでもあった.
金博士によればムンさんを拉致したブックパゴングザックワン催何某さんは "部隊内に慰安婦を連れていることは過ちだが, '私たち'が '日本軍'とは違わないか, 私たちとは血が通わアンヌニャであり拉致した慰安婦問題に対する説明を濁ごした"と言うのだ. また他の類型は本隊と落ちて独立的に炊事生活をしなければならなかったブックパゴングザックワン部隊員たちが '慰安婦'を雇ったケース. 金博士は自分の論文でこれらの正体に対してこんなに明らかにしている.
"ブックパゴングザックワン 1は余分の慰安婦たちは職業的に身を売る女性たちだったと一蹴した. ブックパゴングザックワン 2度ここに同意した. ところでブックパゴングザックワン 1や 2行っていた原産先に進むに慰安婦で全女性は 'その島へ来て郡だって飯をたいて洗濯してくれてほしい元金新調することができる'と言う話にだまされて来たと工作員 2は行き違う証言を言った. 戦争未亡人として生活苦に苦しみながら一種の 'だね労務者'になったことは彼の選択だったと言っても軍隊慰安婦になったことは断ることができない強制的な状況で起こった事だった. なおかつ拉致された女性たちに選択権や拒絶圏は与えられなかった."

1950年当時医科大学生だった李何某(73) さんは拉致または強要によって軍隊慰安婦になる所だったまた他の女性の事例だ. 6・25 当時ソウルに残ってから人民軍に協力したことから国軍に逮捕したこのさんは他の女医大生 3人と一緒に引き継ぎされた部隊の将校 4人に '割当'になった. このさんは幸いに自分を可愛想にここは一将校の助けで釈放されたが他の 3人はあの時以後二度と見られなかった.
拉致または強要によって事実上の軍 '慰安婦' 役を一事例は多くないが朝鮮戦争に参戦した予備役将軍たちの回顧録にも一部登場する. 1951年 8月陸軍いわゆる(総合31期)に任官して 1984年 8月陸軍所長に予編したギムフィオ将軍の回顧録 <人間の香り>(2000年)がそれだ.
1951年 8月任官するやいなや東部戦線首都社団(師団長ソングヨチァン)に倍速されて香炉峰戦闘に参加したギムフィオ将軍が当時に導いた小隊院たちは大部分首都社団が咸境道に進撃してから中共君の介入で興南撤収作戦の時にデ洞(帯同) 越南した主に咸興-原産地域高校出身の現地入隊青少年たちだった. ところで当時国軍は男子学生たちだけではなく一部女子高生たちも '特殊目的'で大同越南したことと見える.
北朝鮮女性拉致して '慰安婦'で利用したり
ギムフィオ将軍の回顧録によれば, 以後電線をすり抜けて来た首都社団は 1951年 11月~1952年 4月智異山工費討伐作戦に動員されて当時南原に位したバックソンヨブ将軍が導く西南誌で戦闘司令部隷下主力部隊で 8社団などと合同で作戦に参加した. 金将軍は小将時代討伐作戦途中に智異山の戦闘地域指揮所で目撃した光景をこんなに記録している.
"大隊長天幕の中で分明して戦闘服を着した少女一人が出て伸びを伸ばして体操をしているのではないか! 先任下賜にどうする英文なのか問って見たら大隊長が北進当時咸興女子高生を愛妾で連れ, 撤収して作戦期間の中でスンチョ@ンに仕えてから最近 OPで伴ったというのだった. 数日後代代丈室で手水大領指示があったのか当番病が飯ごうで水を暖めて持って行っていた."

金将軍は当時行軍する時綿布団寝具と女化粧品箱が戦闘小隊院の貸し下げをの中でリュックサックの上にお負けで載せられて行く悲しい現実を木刀して怒ったが, 占領地での強姦と拉致は実はたくさんある状況だった. '軍隊慰安婦'になる所だった前の李何某さんと国軍出身で人民軍解放戦死になった非転向長期囚量定号さんや他の国軍出身者たちの証言によれば, 国連軍と国軍は 1950年 10月~12月北朝鮮地域を占領したうちにかなり多い数の民間女性たちを劫奪したことと見える. これに対してギムグィオック博士はこんなに推正する.
"特に左翼賦役疑いがいる若い女性に対する強姦は実際及び仮想的に対する統制及び悉歯方式の一つだった. 非公式的に 1950年にも軍隊慰安婦や慰安台は存在したことと見えて, むしろ軍医風紀紊乱を憂慮して 1951年以後余分の慰安台を公式創設したし一線軍部隊でも非定期的に軍隊慰安婦を動員したことと見える."
そしてこのように民間人強姦と拉致によってもう '慰安婦' 生活を経験した女性たちのかなり多い数は自暴自棄の心情で私娼で流れて行ってから再び '軍隊慰安婦'という公娼に編入される悪循環を繰り返えしたように見える.
予備役将軍たちが憶えるまた他の類型は売春町から仕こんで来た貧しい女性たちに関するのだ. こんな女性たちに対する '慰安'の対価は買うという恤兵部も開くんだってあいさつ先で出費したというのだ. しかしこれらの証言でも現われる明らかな事実は展示の下に特別慰安台を利用すること以外にも前方の部隊たちは必要の時軍隊慰安婦を採用することができたならことと見える. それでギムグィオック博士は余分の政府が明らかにした慰安台廃止時点に対しても次と問題を申し立てる.
"軍部隊が公式運営した公娼としての慰安台は 1954年 3月に消滅したのか分からないが, ブックパゴングザックワンの証言では事実上の慰安台が存在している. その慰安台は私娼の形式で存在するが軍部隊が公式的な '厚生費'の名目で出費してブックパゴングザックワンに対する褒賞の形態で存在して来たようだ."
それなら朝鮮戦争当時韓国軍慰安婦の規模はどの位だったろうか. ギムグィオック博士は "現在としては朝鮮戦争当時公式・非公式的慰安婦規模が分かるあてがない"と前提しながらも "ただ戦争直前私娼の規模をしのぐと推正するだけだ"と言う.

ところで関連記録によれば, 1947年 11月米軍政庁が公娼廃止領を発表する直前の 1947年 10月20日現在公娼の規模は 2124人だった. しかし翌年 2月公娼廃止領が発效した後人 1948年 10月末になると私娼は 5万名余で急増する. また朝鮮戦争が終わった後性売買をする女性は 30余万人で増える. 公娼が廃止されながら私娼は急増したのだ.
一部女性学者たちはこのように性売買女性の増えたことは生活苦だけではなく '日製末期数千名医慰安婦たちが解放以後故国に入って来て生計を引き継ぐことができなくて娼妓と転落'したところも原因があったことに推定される. しかし他の一方では前で例であげた場合のように, 民間女性たちが拉致と強制の形態で慰安婦になった事例もあったのだ. 次は金博士の指摘だ.
"もし一足譲歩して軍隊慰安婦が過去球・私娼出身だったと言っても, 朝鮮戦争戦前5万名余の球・私娼が前後 30余万人で増えた問題とかかって見る時説明されない. 軍隊慰安婦がどんなに動員されたしその規模はどのゾングドヨッヌンがに対して確かに糾明することはできないとしてもまだ朝鮮戦争当時軍部責任を引き受けた者等が生存しているので政府政府はこの問題に対して真相を糾明する責任がある"
韓国の人は日本を批判して恥ずかしくないですか?
