|
- 3 -
●東京ロッカーズの呼称はs-kenさんによるものですか?
地引:s-kenスタジオのオープニングが5月にあって、その直後、7月くらいのライブからは冠に「ブラスト・オフ・東京ロッカーズ」って、名乗っているね。
s-ken:ちょうどその頃にポピュラーになっていったんだけど、都市単位で「ロンドン・パンク」「ワシントンD.C.〜」「キングストン〜」とか呼ぶようになってたのね。で、最初に言った「ニューヨーク・ロッカーズ」の記事を思い出してね。それで付けたんだと思う。大阪より東京の方が偉いっていうワケじゃなかったんだけど、当時はずいぶん勘違いされてたみたいだね。
山浦:最初はダサイと思ってたけどな。
s-ken:誰かが決めないといけなかったわけですよ。メディアにアプローチする時も必要なワケだし。
●結局、「東京ロッカーズ」を名乗っていた期間は短かったんですよね。
地引:翌年のライブ・レコーディングの直後の発売記念ツアーまでだね。そこでもう使うのはやめようとなっていた。
●ところで、この映画はいつ完成したのですか?
山浦:80年の頃でしたね。
●地引さんと彼らの出会いっていうのは?
地引:僕は北区の前の2月の屋根裏だったんだけど、紅蜥蜴を初めて観て。その前に「ロッキンドール」っていう小嶋さちほさん(後のZELDA)が作っていたミニコミで紅蜥蜴のことを知るようになったのね。そうしたらモモヨからハガキが来て、「次のライブに来い!」って。
モモヨ:命令形でね。
地引:それからの付き合いだね。だから北区の時は、スタッフみたいな関わり方をしていました。
s-ken:言葉でいうとアバウトな気分だったと思うんだけど、時代が一変するようなイメージが確かにあったね。ニューヨークから帰る時に「オマエは日本では社会復帰できないぞ! すぐ戻ってこいよ!」って、いろいろなヤツに言われていたから、このふっ切れない東京にいるんだったら、やるっきゃないぜ! っていう状況だった。「ぶちやぶれ」っていう曲はまさにその時の気分を代表していた気がするよ。僕とは違って、レックやモモヨは様式的には完成していたからなぁ。
●s-kenスタジオの運営は、オーガナイザー的な役割の延長として目論んでいたのですか?
山浦:練習場所を確保すると同時にイベントなんかも主宰してね。今、考えるとあり得ないけど、50人くらいしか入れないところに200人くらい入れちゃったりね。
s-ken:絶対に必要な空間だったね。ひとりふたりが頑張れば形になる! っていうね。
山浦:アレがライブハウスだったら今に続くね。
●当時のライブハウスは、そういうバンドに対しての理解はないんですか?
全員:ないない(笑)。
s-ken:新宿ロフトだって、交渉に行ったらハコで貸すって言われたよ。金、払えって。
モモヨ:30万だっけ? で、断ったら、秋なら空いてるんで9万でどう? って言ってきた。ロフトは当時、ニューミュージックを中心にブッキングしてて、それもだんだん上手くいかなくなって「ウチも経営が大変なんだよね」とか言ってた(笑)。東京ではいろんなトコでやったけど、場所には苦労したな。逆に関西の方が充実していたね。
地引:ロックって言ったら、当時、屋根裏しかなかったもんね。
山浦:でも、ロフトは次の世代のBOφWYでブレイクするんだよね。
地引:だけどロフト側は、ロフトの始まりは東京ロッカーズだ、って言ってるみたいよ。
s-ken:ははは(笑)。そうなんだ。
|