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ROCKERS【完全版】 公開記念座談会

ROCKERS
70年代後半、日本のロック・シーンを震撼させた伝説のムーヴメント「東京ロッカーズ」の全貌に迫るドキュメンタリー『ROCKERS【完全版】』が10月25日、シネセゾン渋谷にて公開される。この映像は日本のミュージックビデオの第一人者である津島秀明(故人)が監督・撮影し、ほとんど公開もされず行方不明とされていたが、奇跡的に発見されストラングラーズの演奏シーンを含む[完全版]で上映される。今回『ROCKERS【完全版】』の公開を記念し、伝説を創り上げた、s-ken、Momoyo、地引雄一、山浦正彦の4名に「東京ロッカーズ」が生まれた経緯などを伺った。(インタビュー提供:株式会社トランスフォーマー)
■ ROCKERS【完全版】 オフィシャルHP >>http://www.myspace.com/tokyorockersfilm
■ ROCKERS【完全版】 MySpace >>http://www.myspace.com/tokyorockersfilm
■ 上映映画館 シネセゾン渋谷 >>
http://www.cinemabox.com/schedule/shibuya/

座談会風景
(左より:石毛栄典(司会ー株式会社トランスフォーマー社長)、Momoyo、山浦正彦、地引雄一、s-ken)

s-ken
71年CBSソニーよりデビュー。東京ロッカーズの名付け親であり、オーガナイザー的な役割を果たす。その後、s-ken & Hot Bombomsにて自作の活動を展開する傍ら、数々のアーティスト達のプロデュースを手掛ける。

Momoyo
53年、東京都荒川区に生まれる。10代後半以降、「紅蜥蜴」「リザード」等の名でバンド活動を展開。78年、東京ロッカーズに参加した後、渡英してデビュー・アルバムを制作。以後、さまざまなプロジェクトを経て現在に至る。

地引雄一
東京ロッカーズの創成期からカメラマン、マネージャー、イベンター、レーベル経営者、雑誌編集者等々としてシーンと関わる。東京ロッカーズ〜80年代前半のシーンの記録「ストリート・キングダム」が08年に再刊された。

山浦正彦
「ロッカーズ」フィルム再発見者。花の70年代をワーナー洋楽部で過ごすが、ヒッピー化して77年にdropout。78年、早々とパンク・バンドを始め(s-ken初代B)、六本木に「S-KENスタジオ」を創設。その後、マグネット・スタジオ、マネージメントからレーベルまで、また、F・B社と共に「Musicman/NET」を立ち上げて現在に至る。


●この映画、日の目を見るのはたぶん25年ぶりくらいのことだと思うのですが、まったく知らない若い世代の人たちに向けて、当時の時代背景であったり、東京ロッカーズが生まれた経緯などについて、今回お集りいただいた皆さんにお聞かせいただければと思います。


山浦:この映画が撮影されたのは、78年の大晦日前後だったと思うんだけど、なぜあの場にこれらのバンドが集まり、なぜ彼らを監督である津島秀明が撮ろうと思ったのかを、まずは掘り下げるべきだと思うんだけど。何かが同時代的にシンクロした瞬間であったのは間違いないよね。


モモヨ:s-kenや山浦さんはレコード会社関係の出身だったよね。ドゥービーやイーグルスとか洋楽の担当をやっていたと思うんだけど、それが、なんで自らバンドを組みだしたりしたの?


山浦:確かに僕は70年代の洋楽の担当をしていたんだけど、当時は洋楽が全世界で商業的な成功を収めていて、特にフラワー・ムーブメント以降のアメリカとイギリスの音楽は、ツェッペリンやプログレに代表されるようにロックの黄金期を築いていったわけですよ。ところが、当初はノリノリでやっていた僕なんかも、70年後半を迎えるにあたって、その成熟しきったロック・ビジネスに疑問を持ち始めるわけです。ロックが金とドラッグと女に染まって、成熟しつくされた印象ね。それで、もうこれで終わりにしようかと思ったバンドがイーグルスなんですよ。「ホテル・カリフォルニア」という曲がある種、その終焉を意味しているように思えて。あの曲自体はヒットしたんだけれども詞の内容はかなり退廃しているのね。僕らはその辺の状況をリアルタイムに受け取っていて、「なんかシラけちゃったな」という気持ちになったんだよね。今の言葉でいうと、リセット感覚のようなムードになったわけ。で、その勢いで会社を辞めてしまった。かといって何かをやりたかったわけでもないんだけど、バンドでも組んでみようかな? と。だけど、商業的な方向にはさっぱり向くつもりはなくて、そんなタイミングの時にニューヨークやロンドンあたりで面白い動きがあることを知るんだよね。「コレだ〜!」って思ってね。だけど僕らのバンドにはボーカルがいなかった。そこへ旧友のs-kenが何やらニューヨークから凄い勢いで帰って来たんですね(笑)。


モモヨ:俺は山浦さん達より若い世代なんだけど、当時もみんなのことは知っていて、レコード会社の人たちがなんでバンドを組み始めたのかな? ってトコに凄く興味があったんだよね。


s-ken:僕は71年にソニーからデビューしているんですよ。で、その後はYAMAHAの財団に籍を置いて、作曲をしながら雑誌編集の仕事を両建てでやっていたのね。かなり珍しいスタンスだったと思うんだけど、ある時、煮詰まった時期があってね。それで「特派員」ってことでアメリカに行かせてくれないかって会社に頼んで、実際に行かせてもらったのが74年のことです。なんで僕が雑誌編集なのかっていうのは自分でも不思議に思ってたけど、そこで細野晴臣や山浦君にも会うしね。結構、関係は広がったと思うよ。で、アメリカに行ったわけだけど、イーストとウェスト両方に行こうと思っててね。まずはロスに行って、状況は一緒だということに気づくのね。


山浦:ニューヨークに行って何があったのか? ってトコが聞きたいね。


s-ken:まず、その前にロスで観たボブ・マーリーに一番のショックを受けたのね。75年のロキシー・シアターでした。商業的な部分とメッセージ性と音楽のクオリティを全部背負い込んでさ、「あぁ、こんなのがあるんだ」ってね。客席では僕の周りにいるのが、マイク・ラブやリンダ・ロンシュタットとかのミュージシャンばかりでね。その彼らが直に衝撃を受けているのが分かったのね。声すら出ないっていう(笑)。なので僕はパンク以前に、まずはウェスト・コーストのレゲエだったんだよね。その後、イーストに移るんだけど、予想通り、何も面白いものがなくてね。だけど、たまたまレコード屋で雑誌の記事を見てね、42丁目をバックにマーベルスっていうグループが立ってる写真で「ニューヨーク・ロッカーズ」云々って内容だったんだけど、これは何かあるなって予感がしてね。その直後にCBGBやマクシス・カンザスシティを知るんですよ。それで実際に行ったら「エッ?」って感じで。まだ、アメリカのメイジャーやジャーナリストは見向きもしてなかったですね。僕はビートルズの世代ですから、彼らがどんな環境から生まれてきたのか? っていうのを知っているわけです。まさにそれが目の前で展開してるって感じでした。CBGBはボワリー地区っていう割と怖い場所にあったんだけど、その扉を開けた時の熱気といったら、今までに経験したこともない異常なモノだったんですよ。で、ステージと客席の距離がね、垣根をまったく感じさせない雰囲気でね。結局、毎日のように入り浸っていました。


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-2008.10.6 掲載


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