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毎日新聞大阪発行120年:関西人物列伝 東洋のマンチェスター・大阪

 ◇紡績業モデルを確立--大阪紡績技術者・山辺丈夫

 石見国(現島根県)津和野に生まれた山辺(やまのべ)丈夫(たけお)は、同郷の教育者、西周(にしあまね)の塾や慶応義塾大阪分舎などで学び、26歳で旧藩主の息子の英国留学に随行、経済学を学んでいた。

 そこへ、「日本資本主義の父」といわれる実業家、渋沢栄一(しぶさわえいいち)から手紙が舞い込む。「新たな紡績会社を作るので協力してほしい」というのだ。山辺は紡績業の研究を決意。当時の世界最大の紡績業都市、マンチェスターなどで紡績工場に入って実習を重ねた。

 1880年、山辺は帰国し、渋沢らと奔走。大阪府から貸し下げられた大阪・三軒家の土地に「大阪紡績」(後の東洋紡)を設立した。大阪、東京の資本家も出資し、資本金は当時としては破格の25万円。レンガ造りの大工場だった。

 山辺は腕を振るった。2交代制による昼夜生産、安いインド・中国産綿花の輸入、アジアへの綿糸輸出などを次々に打ち出し、紡績業のビジネスモデルを確立した。大阪紡績の成長に引っ張られ、1890年前後には有力紡績会社が相次いで誕生。大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになった。

 1898年、山辺は大阪紡績の社長に就任。1914年には別の紡績会社と合併した「東洋紡績」の社長となった。こうして日本の繊維産業は発展を遂げ、昭和初期に英国を抜いて世界最大の綿織物の輸出国となった。

 山辺は後進の育成、学校への寄付などの社会貢献にも熱心だった。同様に大阪の紡績業発展に尽力した武藤山治(むとうさんじ)は、山辺について「氏を尊敬するゆえんは氏の人格である。道義的観念とか人格とかいうものが薄らいで行く現在において、氏の人格の光輝は現在を救う光明である」と評した。

 ◇ベンチャー投資、先駆け--北浜銀行頭取・岩下清周

 岩下清周(いわしたせいしゅう)は、明治・大正期における「ベンチャー・キャピタリスト」だった。

 信州生まれの岩下は東京商法講習所などで学び、三井物産に入社。その後、三井銀行に移ったが、1896年に辞職して、同年の北浜銀行の設立に参加した。後に岩下は頭取となり、「岩下の北銀」「北銀の岩下」と言われるほどになる。

 岩下の手法は、当時の銀行経営の常識を覆すものだった。堅実な取引先に限られていた融資先を新しい分野に広げ、紡績、鉄道、電力などの会社の社債引き受けを積極的に行った。特に鉄道事業に大きな関心を寄せ、1907年、箕面有馬電気軌道(後の阪急)を設立して社長となり、三井銀行時代の部下、小林一三(こばやしいちぞう)を専務に据えた。その前年の大阪電気軌道(後の近鉄)設立にも関与。社長となって生駒山のトンネル工事に挑戦した。緩い地盤に悩まされ、落盤事故にも見舞われたが、1914年開通した。

 しかし同年、北浜銀行の融資を巡る暴露記事に端を発した取り付け騒ぎ「北浜銀行事件」が発生した。岩下は頭取を辞任し、翌年には背任罪などで起訴され、有罪判決を受けた。岩下は一切の公職を捨てて富士山のすそ野にこもり70歳で波乱の生涯を閉じた。

 「放漫経営、放漫融資」と批判する声もあった。しかし、小林一三、豊田自動織機の創業者・豊田佐吉(とよださきち)、生駒山のトンネル工事を手掛けた大林組の創業者・大林芳五郎(おおばやしよしごろう)など、岩下が支援した企業家や事業はその後、大きな成功を収めた。岩下の優れた先見性が、関西や大阪に大きな果実をもたらした。岩下を知る人々は「もう10年、20年持ちこたえていれば、大実業家になっていた」と評した。

 ◇都市整備「大大阪」築く--第7代大阪市長・関一

 大阪のメーンストリート・御堂筋や地下鉄の建設、大阪城天守閣の再建などで、近代大阪を築いた大正・昭和初期の大阪市長、関一(せきはじめ)。その時代は名実ともに「大大阪」だった。

 静岡県出身の関は東京で学者としての道を歩んでいた。東京高等商業学校(現一橋大学)で社会政策の研究を重ねていた1914年、時の市長、池上四郎(いけがみしろう)にスカウトされて大阪市助役に。東京高商では強い「関教授留任運動」が起きたという。

 23年、関は大阪市の第7代市長に就任。助役から市長時代の大阪は急激な膨張、それに追いつかない住宅や交通といった都市問題に直面していた。これらの解決のため、関は専門としていた社会政策、都市計画の実践に取り組んだ。

1937年の完成当時の御堂筋を長堀通から北に向けて撮影した風景
1937年の完成当時の御堂筋を長堀通から北に向けて撮影した風景

 「周辺市町と一体となった都市計画事業を」と25年、東成、西成両郡を合併。大阪市は181平方キロ、人口211万人の国内最大の都市となった。

 御堂筋の構想は、助役時代に会長を務めていた都市改良計画調査会が19年に発表した街路計画案にさかのぼる。26年に始まった用地買収は難航し、幅44メートル、長さ4・4キロという巨大道路には「飛行場でも造るのか」「向こう側に渡れん」など強い反対の声が上がった。しかし関は「大阪の道路の軸は東西のみ。南北を結ぶ軸が必要」と動じなかった。

 大阪商科大(現大阪市立大)の開校、公設市場の設立、大阪電灯の買収といった「民営から公営へ」の政策は現代とは逆の流れだが、関は「これらの事業で市財政が潤う」と考えたのだった。

 出勤前の1時間は書斎で過ごし、出張中は外国語の原書を読んだという学者政治家の関。35年1月、現役市長のまま生涯を閉じた。御堂筋の完成はその2年後のことだった。

 ◇黒部ダム建設を指揮--関西電力初代社長・太田垣士郎

 北アルプスの秘境にある黒部ダム(愛称・黒四ダム)。建設をめぐる壮絶なドラマは映画や小説、そして今年は舞台で演じられる。この「世紀の大事業」の陣頭指揮を執ったのが関西電力初代社長、太田垣士郎(おおたがきしろう)である。

 兵庫県城崎町の医師の家に生まれた。京都帝大を卒業し、銀行勤務を経て阪神急行(後の阪急電鉄)に入社。終戦直後の1946年、京阪神急行の社長となった。労働運動が盛り上がっていた時期。太田垣は私鉄総連などとの労使交渉の矢面に立ちながら、47年に長男と長女を相次いで亡くした。失意のどん底から、太田垣は「2人の子どもに代わり、半生を世の中にささげよう。この苦しみに比べれば、どんな苦労も苦労と思わず働ける」と決意したという。

難航した黒部ダムの工事。7年の歳月をかけて完成した=1958年8月撮影
難航した黒部ダムの工事。7年の歳月をかけて完成した=1958年8月撮影

 経営手腕を買われ、関電の初代社長に請われたのは51年。当時は停電が相次いでいた。大規模な水力発電所建設は急務だった。

 黒部ダムの建設工事は56年7月に始まった。破砕帯に遭遇し、大量の水が工事を阻んだ。この時、太田垣は工事現場に乗り込み、宣言した。「鉛筆1本、紙1枚を節約してでも、工事には不自由させない」。この言葉が社内の結束を強くした。7年の歳月と延べ1000万人の労力を注いだ難工事は63年6月、竣工(しゅんこう)の日を迎えた。翌年3月、太田垣は息を引き取った。当時の首相、池田勇人(いけだはやと)は太田垣を追想する一文でこう記している。「困難にぶつかるたびごとに、勇気をふるいおこし、悪条件のなかに可能性を見いだそうと苦闘した故人の姿に、わたしは限りない魅力を感じていた」

 社長退任後、何度か国鉄総裁への就任を打診されても、太田垣は「私は大阪に骨を埋める」と固辞。太田垣は最後まで関西の発展を願い続けた。

島野庄三郎
島野庄三郎

 ◇都市型商品、次々に開発

 大正・昭和初期には大衆の生活を豊かにする「都市型商品」が大阪から続々と生まれた。

 カキの煮汁に栄養素グリコーゲンが含まれていることを発見し、1921年に栄養菓子「グリコ」を発売した江崎グリコの創業者・江崎利一(えざきりいち)▽「やってみなはれ」精神で1937年に国産ウイスキー「角瓶」を完成させるなど、国産洋酒のパイオニアとなったサントリーの創業者・鳥井信治郎(とりいしんじろう)▽カレーライスを家庭料理として普及・定着させたハウス食品創業者の浦上靖介(うらかみせいすけ)と次男の郁夫(いくお)--などだ。

 また、中山太一(なかやまたいち)は1903年、雑貨・化粧品卸業の中山太陽堂(現クラブコスメチックス)を創業。化粧品産業の近代化に尽力した。黒田善太郎(くろだぜんたろう)は1905年に「黒田表紙店」を開業。洋式帳簿の生産などで経理の近代化に貢献した。同店は総合事務用品・文具メーカー「コクヨ」へと成長。戦後、プレハブ住宅「ミゼットハウス」を売り出した石橋信夫(いしばしのぶお)は「大和ハウス工業」を国内最大級の総合生活産業に育てた。

松下幸之助
松下幸之助

 モノづくりの伝統も生き続ける。田嶋一雄(たしまかずお)は1928年に「日独写真機商店」(後のミノルタ、現コニカミノルタ)を創業、翌年、国産カメラ1号機「ニフカレッテ」を発売した。島野庄三郎(しまのしょうざぶろう)は1921年、島野鉄工所を創業。自転車の部品生産で評価を高めた。その後、発展したシマノはアウトドア関連の代表的企業となった。

 関西の家電産業を育てた松下幸之助(まつしたこうのすけ)。二股ソケット、自転車ランプ、電気アイロンなどを次々に開発した。創業の「松下電器産業」は今年10月、「パナソニック」と社名を変え、世界的な企業としてさらに発展している。

 ◇商都から文化人も輩出

 商業の街・大阪は、文化人や芸術家も多く輩出している。

織田作之助
織田作之助

 ホステスと結婚した純情な中学校教師の姿を描いた映画「秋深き」(池田敏春監督)が公開された。原作は織田作之助(おださくのすけ)(1913~47)。法善寺かいわいなどを舞台にした「夫婦善哉(めおとぜんざい)」で知られる、大阪を代表する作家の一人だ。

 大阪生まれの著名作家は数多い。歴史作家の司馬遼太郎(しばりょうたろう)(1923~96)は「竜馬がゆく」「翔(と)ぶが如(ごと)く」「坂の上の雲」など数々の名作を残した。綿密な資料の分析を基に歴史上の問題を俯瞰(ふかん)的にとらえた「司馬史観」は多くのファンを魅了する。

 2007年にMBSなどで放送されたテレビドラマ「華麗なる一族」の原作は、毎日新聞大阪本社学芸部の記者を経て作家になった山崎豊子(やまさきとよこ)(1924~)の同名小説。「大地の子」「沈まぬ太陽」など社会問題を扱った作品も多い。

司馬遼太郎
司馬遼太郎

 開高健(かいこうたけし)(1930~89)は寿屋(現サントリー)に入社、コピーライター、さらに作家として一世を風靡(ふうび)した。「団塊の世代」で知られる作家の堺屋太一(さかいやたいち)(1935~)は大阪万博の企画も手がけた。同じ万博でサブ・テーマ委員などを務めたSF作家、小松左京(こまつさきょう)(1931~)は「日本沈没」などで有名だ。

 音楽界の巨匠、朝比奈隆(あさひなたかし)(1908~2001)。東京出身だが、大阪フィルハーモニー交響楽団の前身・関西交響楽団を47年に設立し、関西の音楽界を引っ張り続けた。

 美術では、フランスを中心に活動した洋画家、佐伯祐三(さえきゆうぞう)(1898~1928)がいる。大阪市で生まれて渡仏し、パリ郊外の病院で死去した。【大阪編=編集局次長・若菜英晴、社会部副部長・関野正】

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 ◇発展呼んだ幕府の防災工事

 大和川は奈良県から河内平野に流れ出し、ほぼまっすぐ西に向かって大阪湾に注いでいる。だが、それは大和川の「付け替え」(1704年)後の話だ。

 昔は今の大阪府柏原市辺りから北上して淀川に合流していた。湿地帯だった流域は洪水の常襲地帯。地元農民らが「川筋の変更」の懇願を続けたのも無理はなく、聞き届けた徳川幕府が決断し、諸藩の「お手伝い普請」で約15キロの新しい川筋ができた。防災を目的とした公共工事による人為的な「西流」だったというわけである。

 一方、大阪の「産業革命」は大阪紡績の操業(1883年)に始まるとされる。そして、先陣の同社などが大阪の軽工業を発展させていった背景には、綿の産地が近隣にあったからだとの見方は多い。大和川の旧流域が広大な農地に生まれ変わり、綿栽培が奨励された--。維新後も綿の産地だった大阪の1877年時点の生産量は全国の20%に達し、愛知の13%を上回っていた。大阪の紡績業はインド、中国からの原綿輸入でさらに発展したが、産業革命のルーツは幕府の防災公共工事にあったともいえた。

 ◇電力、ガス事業の始まり

 1888年前後、京阪神3市に電灯(電力)会社が次々に生まれた。京都、神戸の2社は米国エジソン電灯会社と提携した東京電灯(85年創業)傘下のスタート。大阪電灯だけが、別の米国会社と結んでの創業となった。電灯の「売り」は「風が吹いても消えず、火事も出さず、ホヤ(ランプガラス)の手入れも不要」。とはいえ、電気の用途は主に電灯だけで、料金も高い。軌道に乗ったのは、90年以降の「新町焼け」「天満焼け」「難波焼け」など、数度の大火事後の大量加入のため。「焼け太り」とささやかれたという。草創期の社長は土居通夫。後に財界リーダーとなり、行楽地「新世界」開業(1912年)のシンボル「通天閣」は彼の名に由来するという声がもっぱらだ。

 一方、東京ではガス灯が電灯に先行したが、大阪ガスの供給開始は大電創業16年後の1905年。大電(現関西電力)と大ガスの競合には1世紀余の歴史があるという次第。ただ当初は、大電が照明と動力、大ガスが燃料と、役割を分け合っていたようだ。大電のその後の成長は、20世紀に本格化する電鉄各社の鉄道網の拡充などと並行してのものとなる。

 ◇最後の「内国博」に530万人

 「文明開化」の最先端を披露する政府主催の「内国勧業博覧会」は、産業見本市ともいえる明治期の大型催事。1~3回は東京・上野、4回は京都・岡崎で。空前の観衆を集めた5回は1903年3~7月、大阪で開かれた。

 主な会場は今の天王寺公園と新世界。京都開催の10倍強に及ぶ敷地31.7万平方メートルに、各地の物産展や、欧米など十数カ国の初出展が並んだ。京都開催の5倍近く(530万人)が入場する、にぎやかで派手なお祭りである。

 騒がれたのは、初モノが多かったため。国内初の大掛かりな「電気イルミネーション」が夜景を彩った。本邦初の「冷蔵庫」「人工の雪」「自動ドア」「メリーゴーラウンド」「アイスクリン(クリーム)」などが入場客を大喜びさせた。

 娯楽系の「世界一周館」や、「不思議館」での「電気光線応用大舞踏」も、大行列の人気を呼んでいる。

 跡地に計画された「新世界」は大林組が工事を担い、1912年に開業。初代通天閣(高さ75メートル)が建ち上がったのもこの時。そして、内国博は「役目を終えた」としてこの大阪開催が最後となる。

 ◇技術生かし魔法瓶を国産

 大阪は国産魔法瓶の全部を作っている。象印、タイガー、ピーコック、エベレストなど国産ブランドの6社はすべて大阪系。関連業を含む12社が加盟する「全国魔法瓶工業組合」も大阪市にある。

 欧州で発明・商品化された魔法瓶の輸入が始まったのは1909年。それが、2年を待たずして国産化された。

 魔法瓶にはガラスと真空技術が必要で、手工業の集積地だった大阪にガラス職人が多かったのが効いた。原料ガラスの仕入れ先が日本電気硝子(大津市)に絞られ、大阪から工場を移せなくなった一面もあるという。

 魔法瓶メーカーは戦後、電気ポットや炊飯器など、調理家電へと製造品目を拡充。魔法瓶もステンレス製が増え、電気ポットも普及したが、電気を使わない、昔ながらのガラス製が今、割安さとエコブームで人気だ。

 普及品を大量生産している中国を除けば、大阪の魔法瓶は世界の最先端。卓越したセンターともいえる。ただ、名付けた人やメーカーが商標登録していないため「魔法瓶」は一般名詞のまま。「万年筆」と同様、命名者の鷹揚(おうよう)さの表れかもしれない。

2008年11月28日

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