Wines of Chile | ||||||||
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フランス流と受難の時代 チリの葡萄栽培は16世紀半ばに始まった。スペインのカトリック伝道者が聖餐用ワインを造るために葡萄園を拓き、パイスという黒葡萄を植えた。これはメンドーサのクリオジャ種、カリフォルニアのミッション種と同一品種だと言われている。アメリカ大陸のワイン産地に共通する動機でチリでもワイン造りが開始されたのである。 1818年にスペインから独立したチリは、それまでスペインが支配していた銅や銀などの鉱物資源をもとに経済成長を遂げる。いわゆる鉱山富豪が続々誕生し、彼らがワイン産業のスポンサーになってチリワインの新しい時代が始まる。 1851年、フランスから大量に貴品種の苗木を輸入し、マイポ・ヴァレーをはじめセントラルヴァレーの各地に植え付けた。カルメン、コンチャ・イ・トロ、コウシニョ・マクル、エラスリス、サン・ペドロ、サンタ・リタ、サンタ・カロリーナ、ウンドラガなどはこの頃創業したワイナリーである。その時輸入された品種は、ほとんどがボルドー品種だった。カベルネ・ソーヴィニヨン、メルロー、マルベック、カルメネール、そしてソーヴィニヨン、セミヨンである。同じころ、これとは別にドイツのリースリングも持ちこまれている。19世紀半ばのブルゴーニュワインは、まだ田舎のワインだったためかピノ・ノワールとシャルドネはチリに輸入されていない。ただヴァルディビエソがスパークリングワインを造るために、少しだけシャンパーニュからシャルドネとピノ・ノワールを移植している。 この品種構成が後に大きな問題を生むことになる。1980年代から90年代にかけての世界的なヴァラエタルワインブームは、カベルネ・ソーヴィニヨンとシャルドネの二品種を軸に展開したからだ。チリには大量のカベルネ・ソーヴィニヨンはあったが、シャルドネがまったく不足していた。だからセミヨンやソーヴィニヨンを切ってそこにシャルドネを接ぎ、何とか需要に見合うだけの生産量を確保しようと躍起になったのである。 19世紀半ばには葡萄の苗木だけでなく、栽培・醸造技術者もフランスから招聘し、本格的なワイン造リを始めた。当時、鉱山富豪はフランスだけでなくヨーロッパ各地を旅し、葡萄はもとよリ醸造機器やシャトー、豪勢なゲストハウスまで、気にいったものはすべて輸入した。現在、コンチャ・イ・トロやサンタ・リタがゲストハウスに使用している建物の建築様式や家具調度は、当時のフランスそのもの。まさに鉱山が生み出したバブルの時代の産物であった。 19世紀末にはフィロキセラ渦に喘ぐヨーロッパのワイン生産地から、醸造家や栽培家がフィロキセラのいないチリに続々移住してきた。そして彼らの造ったワインを、逆にワインが枯渇し始めたヨーロッパに輸出した。1889年のパリ博覧全でチリワインの品質は大いに評判になったという。 ところが20世紀に入ると、ヨーロッパのワイン産地では生産が徐々に復興し、チリワインを必要としなくなった。また、世界的な経済不況で銅や硝石などが輸出不振に陥り、チリは経済も政治も混乱状況を呈するようになる。ワインには重税がかけられ、しばらくして生産過剰に陥った葡萄農業は、新植禁止という事態になってしまう。 第二次大戦後、社会主義急進派と保守派の政治抗争が続き、1970年にはアジェンデの社会党政権が誕生する。農地も企業も一挙に国有化され、多くの葡萄畑は小作人に分配された。ワイン産業、なかんずく大手ワイナリーには決定的な打撃で、中には財産を没収されて国外追放になったものもいる。 1973年、ピノチェットが軍事政権を樹立。これを機に国有農地の旧所有者への返還が進む。しかしワインの輸出市場は閉ざされたままで、国内需要も減少の一途。その結果、1970年代から80年代はじめに至るまで、チリの葡萄農業は深刻な生産過剰問題を抱えていた。葡萄価格はほとんどただ同然になってしまい、栽培から離れる人が多かった。 1979年にカタロニアのミゲル・トーレスがクリコに土地を購入してステンレススティールタンクなどを設置し、フレッシュ&フルーティなワインをチリの葡萄で造ってみせた。農産物の価格引き上げ策も効を奏し、'80年代に入ってやっとワイン産業にも活気が戻った。このころになってようやく葡萄畑ではパイスを抜き、シャルドネなどの貴品種をせっせと植え始めたのである。 ここに至るまでチリの葡萄畑は、一枚の畑にボルドー品種を混植した19世紀半ばのヴィンヤード・ブレンドそのままだった。ボルドーではフィロキセラ禍を経て、畑は品種毎に区分けされるようになった。それは必ずやってくる収穫期の雨というリスクを回避するために、成熟度の早い品種と遅い品種を分けておく必要があったからだ。当然、収穫期の遅すぎるカルメネールは、途中でスポイルされてしまった。しかし幸か不幸かフィロキセラもなければ秋雨の心配もないチリでは、19世紀半ばの状態を手つかずのまま、連綿と引き継いたのである。ただ、クリコやマウレでは、大量生産を目的に樹の仕立て方を変更し、傾斜棚(パロナル)を導入したという経緯はあるのだが。 葡萄栽培そのものに目を向け、畑の区画を品種毎に分けて管理するようになったのは、つい最近のこと。だからソーヴィニヨンナスとソーヴィニヨン・ブラン、メルローとカルメネールの混同という問題が20世紀も終わろうとする頃になってやっと顕在化したのである。 ともかくこうしてチリワインは1985年以降、遅れて国際市場にやってきた。 |
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