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つむぎ唄:春よ、来い 赤ひげ診療譚/2 医師免許取得で焼け跡に診療所 /長野

 ◇10坪の砦で休みなく

 48(昭和23)年秋、旧水内中白鳥(しろとり)分校に市川俊夫青年が赴任した。にわか学級担任と卒業を半年後に控えた3年生21人は雪深い冬を越え、生涯忘れられない春を迎えることになる。

 「色が白くて、すっと細く、ハンサムな先生でねえ」

 教え子だった島田房代さん(74)は当時をよく覚えている。兵隊帰りの怖い教師が多かった中、口数の少ない物静かな優しい青年は憧(あこが)れだった。数学、理科を中心に全教科を習った。

 卒業を間近に控えた3月のある朝のこと。教室の黒板いっぱいに、白墨で大きな字が書かれていた。

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

 福沢諭吉の「学問のすゝめ(すすめ)」の有名な一節。生徒たちは食い入るように読み、意味を考えた。

 教壇に立った市川先生は普段の語り口そのまま、教え子に訥々(とつとつ)と語りかけた。

 「これからは働きに出る子も、進学する子もいる。けれど、どんな道をたどっても人は平等であってほしい」

 生徒たちは黙って聴き入った。教え子のひとり、古川栄子さん(74)=東京在住=の胸にもじんと響いた。後年、看護師として、市川医師と同じ病院で働くことになるとは、まだ15歳だった少女はこの時、夢だに思わなかった。

  ◇  ◇  ◇

 市川青年は半年間の代用教員の任期を終えると、研修医として医大がある石川・金沢に戻った。

 医師免許を取得後、知人の紹介で、東京・品川の診療所に着任した。焼け跡にバラック小屋が軒を連ねる街。貧しいが、皆で助け合い、生きることに懸命だった時代に、地域の住民らが金を出し合って建てた診療所だった。広さはわずか10坪と手狭だったが、住民たちの最後の砦(とりで)だった。

 医師は市川青年しかおらず、昼夜なく働いた。その後、診療所が立ち退きになり、同じ品川の「ゆたか診療所」に移った。それから半世紀。70歳で退職しても、なじみの患者を診るために非常勤医として働き続けた。

 「できるところまで、医師は続けよう」。生涯現役医師にこだわり続けた。

 07年11月、長野県のある村長が老医師を訪ねてきた。亡き父の出身地・栄村の高橋彦芳村長(80)=当時=はあいさつもそこそこに切り出した。

 「栄村が無医村になってしまう。力を貸してくれないか」

 80歳を前にして転機が訪れた。=つづく

毎日新聞 2008年12月3日 地方版

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