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伊東 乾の「常識の源流探訪」

ノーベル賞を勘違いした日本人

情報の生活習慣病を考える

原子核物理学者、湯川英樹

 ノーベル財団のホームページで湯川博士の業績を見ると

 「核力の基礎的な理論的業績に基づく、中間子の存在を予言したことに対して」ノーベル物理学賞を授賞したと書かれています。しかし21世紀の多くの大学生は、後年、平和運動にも尽力した湯川博士が「核」の科学者、それも最もポイントとなる理論を作ったキーパーソンだということを、ほとんど知りません。

 湯川博士は1935(昭和10)年、原子核を構成する陽子や中性子が電磁気的な反発力を超えて「強く」結びつくメカニズムを、世界で最初に説明するモデルを提出して、ただちに各国の物理学者の注目を集めました。3年後の1938年、ナチス政権下のドイツでカイザー・ヴィルヘルム研究所長を務めていたオットー・ハーンが、先ほどの「ウラン253」を用いて核分裂反応を起こすことに成功します。そこで、今まで空想のように思われていた「原子爆弾」がにわかに現実味を帯び始めました。

 ドイツが核分裂に成功したこの年のノーべル物理学賞は、イタリアの万能物理学者、エンリコ・フェルミに与えられました。フェルミは12月にストックホルムで開かれた授賞式に出席しますが、そのままムッソリーニ政権下のイタリアには戻らず、米国に亡命してしまいます。フェルミの奥さんがユダヤ人だったからです。この亡命は歴史を大きく変えました。

 38年の時点で、世界で最も核科学が進んでいた国は、イギリス、フランスなどと並んでオットー・ハーンのドイツ、エンリコ・フェルミのイタリア、そして理論家として核力に先鞭をつけた日本でした…お気づきでしょうか。これは日・独・伊という、第2次世界大戦で負けた「枢軸国」の中心3国です。この翌年、ドイツがポーランドに侵入して第2次世界大戦が始まり、2年後の真珠湾攻撃から太平洋地域にも戦火が広がります。

 ハンガリーから米国に亡命していた若い物理学者レオ・シラード、ユージン・ウィグナー、エドワード・テラーの3人は、ヒトラーのお膝元で核分裂が成功した事実に驚愕します。そして39年、やはりナチスの惨禍を避けて亡命していたアインシュタインに署名してもらい、ルーズベルト大統領宛に原爆開発を勧める手紙を送ります。

 ほどなく41年から原子爆弾開発の「マンハッタン計画」がスタートし、イタリアから亡命したフェルミが中心的な役割を果たしました。第2次世界大戦が米国の日本への原子爆弾投下で終わるのは1945年8月、この間たった4年ほどのことです。

日本への原爆投下を巡る攻防

 当初はドイツ向けの使用を念頭に開発された原子爆弾は、45年3月の調査でナチスが原爆製造に成功していないと分かり、5月に欧州で停戦が成立すると、日本向けの使用が検討され始めます。

 米国で原爆開発に関係した科学者は、無思慮な日本への原爆投下を牽制するよう運動を始めました。6月にはドイツから亡命したユダヤ系物理学者ジェームズ・フランク(25年のノーベル物理学賞)らが原爆の使用をけん制する「フランク・レポート」が大統領の諮問機関に提出されます。しかしそれが採択されることはありませんでした。このフランク・レポートには原爆の提案者シラードも名を連ねています。7月に最初の原爆実験に成功すると、トルーマン民主党政権はこの新型兵器を早々に実戦投入することを決定します。

 さらにここからが極めて問題なのですが、原爆の破壊力の確認と、事後への威嚇の意味なども含め、原子爆弾は戦闘の最前線でなく、非戦闘員が普通に生活している都市に投下するという判断が下されます。それが広島であり長崎でした。後に共和党大統領となるアイゼンハワーやマッカーサーなど、米軍内部にも猛烈な反対もありました。

 しかし、すでに大戦後を見越して、とりわけスターリン体制のソ連への「抑止力」として原爆を利用するアイデアを、トルーマン政権は実行に移してしまいます。あろうことか原子爆弾は、核力のメカニズムを最初に明らかにした湯川博士の国、日本に「実験投下」されました。普通の暮らしをしていた数十万の非戦闘員が一瞬にして命を失い、生き残った人々は、長く放射能障害に苦しむことになってしまいました。こうした永続する2次被害は、物理学者はもとより、政治家や軍人も全く考えていませんでした。

償いとしての湯川博士への授賞

 49年、湯川博士にノーベル物理学賞が授与された背景には、ノーベル物理学賞の選考委員でもある「マンハッタン計画」に責任を持った多くの物理学者たちの明確な「後悔」と「謝罪」の念が込められています。

 学術的な流れだけで考えるなら、湯川博士の受賞は戦後の1947年、イギリスのセシル・パウエルが湯川博士の予言したπ中間子を発見したことが契機となったとされています。

 実際49年に湯川博士、50年にパウエルがノーベル賞を受賞しており、公開されたノーベル賞の推薦文書や選考経緯なども科学的に厳密な話だけで説明がつくように見えます。しかしノーベル賞には、この個別審査以前に「企画段階」というべきレベルが存在しています。湯川博士への単独授賞は、明確に「原爆投下への謝罪の意を込めて、日本科学を世界第一線のものと承認するセレモニー」としても企画されたものだと考えられます。

 強調しておきますが、これは湯川博士の業績をいささかも低めるものではありません。しかし湯川博士以前、明らかに超ノーベル賞級の業績を挙げながら、評価されなかった日本人科学者もたくさんいるのです。そもそも第1回ノーベル医学・生理学賞を受賞したベーリングの業績は、研究室のリーダーだった北里柴三郎博士の仕事のごく一部に過ぎません。業績の価値とノーベル賞が持つ政治的な意味合いは、けじめを付けて考えるべきものです。

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このコラムについて

伊東 乾の「常識の源流探訪」

私たちが常識として受け入れていること。その常識はなぜ生まれたのか、生まれる必然があったのかを、ほとんどの人は考えたことがないに違いない。しかし、そのルーツには意外な真実が隠れていることが多い。著名な音楽家として、また東京大学の准教授として世界中に知己の多い伊東乾氏が、その人脈によって得られた価値ある情報を基に、常識の源流を解き明かす。

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著者プロフィール

伊東 乾(いとう・けん)

伊東 乾

1965年生まれ。東京大学大学院物理学科博士課程中退、同総合文化研究科博士課程修了。松村禎三、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズらに学ぶ。2000年より東京大学大学院情報学環助教授(作曲=指揮・情報詩学研究室)、2007年より同准教授、東京藝術大学講師。基礎研究と演奏創作、教育を横断するプロジェクトを推進。『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』(集英社)でオウムのサリン散布実行犯豊田亨の入信や死刑求刑にいたる過程を克明に描き、第4回開高健ノンフィクション賞受賞。メディアの観点から科学技術政策や教育、倫理の問題にも深い関心を寄せる。他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)『知識・構造化ミッション』(日経BP)など。

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