2008年 11月 25日
後れを取る日本 ― 中国崩壊論の崩壊4 |
常に中国の後塵を拝す日本、リーダーシップをとるべき人には猛省をしてもらいたい。
最近のニュースを見ると中国の後塵を拝するというニュースばかりだ、小生はネットウヨではなくても、ネットブヨなみにこれらのニュースに憤りと心配を覚えるのである。政治家をはじめ、日本のリーダーシップをとるべき人には猛省をしてもらいたい。(まず、応援クリックしていただければ感謝します。)
○ 中南米外交
中国の胡錦濤主席はAPECに出席する途上、キューバを訪れ伝統的な友好関係を再確認した。その後、最近台湾と断行し、中共を承認したコスタリカを訪問して大規模な経済援助を行うことを約束した。経済発展も外交的安定も米国に依存する中国は、米国への対抗は表に出さず、米国とのアプローチの違いで中南米の各国を取り込もうとしている。同主席は、国会演説で「中国は、大小、強弱、貧富で各国を分け隔てすることなく、各国人民が発展の道を自ら選ぶ権利を尊重する。」と述べて、中南米に対する影響力をアジアにおけるのと同様拡大し、資源などの実利を中南米各国から得ようとして二国間のEFTA協定を進め影響力を拡大している。
これに対して、日本はAPECの中で農業分野の自由化がネックになり、独り取り残される懸念が強まっている。そのような中で、中国の攻勢には送れつつも21日にやっと鉱物資源大国のペルーと経済協力の協定を締結したという。コスタリカも見捨てた台湾は馬政権になってほぼ日本勢力圏から中国勢力圏になったかのようであり、中共内の一国二制度の香港のようになるのかもしれないと危惧する。李登輝など日本時代を知る親日台湾人は減る一方だ。日本に対抗手段はないものか?

写真はAPEC(リマ)での中台会談
○ 宇宙開発
友人人工衛星や宇宙遊泳を成功させた中国と比べて、日本の宇宙開発は大きく遅れを取っており、官民共同で進めてきたH2ロケットの後継ロケットGXも民間側の負担が大きいことから暗礁に乗り上げている。23日の報道では、失速しているGX開発に遅ればせながら宇宙開発本部が政府主導で、GXの検討を進めるという。このスピード感の無さは、ますます中国との差が開くばかりではないかと心配する。

○ ヒトゲノム解読競争
生物が持つ遺伝の全情報を圧倒的なスピードで解読できる「次世代シーケンサー」の導入が米英中で積極的に行われており、世界各国の1000人のヒトゲノムを解読するプロジェクトをこの3か国で行うというが日本は参加していない。これにより人種間の抗がん剤の効き目の違いなどの遺伝情報が解明できる可能性があると言う。中国北京ゲノムセンターは、人と同じ規模のパンダの全遺伝子情報を7ヶ月で解読しアジア人のヒトゲノムの特徴も初めて解読したとする。日本は大きく出遅れており、例のごとく縦割り行政で文科省と経済産業省がそれぞれ数十億円もする次世代シーケンサーを数台ずつ導入することに決定したと23日の読売が報道している。

北京 - 壁の無い街を訪ねて
今年も11月の連休を利用して我々仲良しグループは,楽しい旅に出発した。
大連空港で入国手続きを済ませた後,17:50同じ旅客機に乗り込んで北京に向かった。途中,黄海の上空から漁船の火や港の明かりが見え,そのうち闇の中,疎らに町の明かりや自動車道の照明の点線が見えはじめる。北京の灯りはまだだろうかと窓の外を覗き込んで見るが,なかなか街の灯は見つからない。
地上の灯りが少し増えたと気付いた頃,19時直前に,北京空港に到着した。滑走路からボーディングブリッジに横付けになるまで,混んでいたので駐機場で約20分待たされた。時計を中国時間に合わせて,18時に調整した。これから,1時間遅れの中国標準時で考えることになる。北京空港のビルディングは近年大改造されており関西空港の空ビルに勝ると劣らない近代的で立派なものである。日本のODA援助金が北京空港の建設費に約300億円,航空管制システムの整備に約210億円投入されている。


1階フロアーに降りて預けた荷物を受け取り,待合ロビーに出ようとすると出迎えの人でものすごい人垣ができている。ようやく現地ガイドの劉穎(リュウ・エイ)さんを見つけ,「初次 見面 ,請 多多 関照」チョンチー チアンミエン,チン タタ クワンチャオ chunchi jianmien qing duoduo quanzhao(はじめまして,どうぞよろしくお願いします。)と声をかけて見たが全く通じない。中国語の発音は全く難しい。劉さんは28歳のすらっとした長身の女性で日本語の発音は完璧だ。
マイクロバスに乗り込み,北京市内に通じる高速道路に向かう。途中,バスは高速道路の右側に降りて燕翔飯店というホテルのレストランに向かう。19時過ぎに無事到着を祝って乾杯。料理は,普通の中華料理,ビールは燕京ビール10本で81元だった。ガイドと運転手に安全運転をお願いしてチップ2000円づつ入れたのし袋を手渡した。日本円2000円が高いのか安いのか良くわからないが,物価の違いが10分の1ぐらいだからまあまあだろう。
高速道路に再び乗って北京市内に向かった。市内の主だった通りには近代的なビルが立ち並んでいる。天安門などの建物はライトアップされている。

20時30分,宣武区広安門内街にあるホテル新時代大酒店に到着した。ここにこれから数泊することになる。新しい気持ちのいいホテルである。香港資本らしい。各自,部屋に上がる。夜の探検組は,21時にロビーに集合することにする。
古い家並みが残る瑠璃廠(ルーリーチャン)に行くことにし,コンシエルジェに歩いてどの位かかるかと訪ねたら,タクシーで行くべきで,歩く距離ではないと言ったが,我々は歩くのが好きなのだと言い返したら,約40分だと言った。道が良くないとも言っていたが,Mさんに造ってもらった携帯用の北京市の地図(素晴らしい出来栄えである。)を見て距離を憶測すると,3~40分で着けそうなので出発した。途中,工事現場のようなところや街灯もないうら寂しいところが多かったが,とにかく広安門内大街をひたすら東に歩いて瑠璃廠を目指した。
昔の胡同(ホートン)の雰囲気のある古い平屋造りのくたびれたようなねずみ色の土やレンガでできた住居があって興味をそそられた。奥の方に歩いていけば,昔ながらの四合院の住居が見られるのだろうか。
1999年に発行された竹内実の「北京」という本には「現在,北京には四千四十余の胡同がある。」と書かれている。胡同の語源は,最初に北京を建設した蒙古の井戸(ホト)という言葉からだそうだが,露地と四合院が集合した横丁のことだ。四合院は,典型的な民家で,中庭があって,四棟の平屋がそれを囲んでいる。大家族で住んでいた。母屋は北側にあり,入り口は東南の角にある。ビル建設で取り壊しが進んでいる中,平屋建ての横丁がまだ,相当残っているようだ。しかし,胡同探策の時間はないので,道幅が50メートルはありそうな広安門大街の道の北側の歩道を,といっても何処が歩道で何処が車道かあるいはビルの工事現場か明確でないが,街灯のない暗い道をひたすら歩いた。流石に北京は広い。3区画,旧城内の東西幅の約4分の一の距離を歩くだけで1時間かかってやっと瑠璃廠に到着した。「北京は広い。街路の反対側がぼやけて見えるほど広い。」と昔の文人は書いているが,夕方ともなると,そのとおり,反対側は見えない。戦前,北京に滞在した二葉亭四迷は,「北京はあまりに広いので,目と鼻の先の瑠璃廠に書籍を求めに行くこともかなわない。」と書いているが,われわれは,歩いてともかく瑠璃廠に到着した。昔なら人力車を雇う距離であったろう。
瑠璃廠は,古い家並みを復元した骨董や古籍の商店街である。22時過ぎだったので,店はほとんど閉まっていたが,通りの西詰近くに小さなお茶の専門店が開いていた。昨年上海に行った時に中国茶の美味しさと種類の多彩さを再認識していたので,これ幸いに狭い店の中に入っていった。いろいろな種類のお茶が大きなガラスのビンに入れて処狭しと陳列されている。その中に上海で買って帰って美味しいと好評であった苦汀茶(上海ではサル茶と言っていた。高い山の上で採れるからだそうだ。)があったので,早速身振り手振りで試飲させてもらう。一斤190元だと表示してあったので分量がどのくらいかわからず適当に100元分秤ってくれと言ったら,大きなビンをそのまま傾けてかなり大量に秤りの上に載せるので,驚いた。上海の浦黄公園のお茶の専門店は専ら外国人相手の店なのか,小ぶりの茶筒に入れたサル茶が日本円で3,000円だったからだ。50元分に減らしてくれと言いたかったが,店のお兄ちゃんは中国語しかわからない。仕方がないので大量に仕入れてしまった。鉄観音の上物や他のお茶も「多少銭(ターシャオチエン?)」(いくらですか?)「能不能,便宜(ナンプナン ビエンイー?)」(まけてくれませんか?)とか何とか言いながら,手振り身振りで多少値切ってもらって買ってしまった。

今回の旅行はお茶の旅になりそうだ。一昨年の西安は骨董の旅,昨年の大連・旅順・瀋陽は数珠の旅であった。メンバーの他の人も花茶やらその他のお茶をいろいろ買ったり,試飲したり,9人が入り乱れて,店のお兄ちゃんとその兄弟は,興奮状態である。Sさんは,中国語がかなり上手で意思疎通ができるようだ。お茶の買い物が一段落すると,店のお兄ちゃんの一方が隣の俺の店にも寄っていけと言うので,掛け軸やらヒスイの置物などのお土産物を陳列してある狭い店の中にちょっとだけ入ってみたが,欲しいものは何も無い。きっと二人の経営する小さい店に夜11時近くに物好きな外国人が歩いてくるなんて珍しいことなのだろう。翌日は万里の長城の上を八達嶺まで行って歩く予定だ。
翌朝、市街地を走ると,さすがに中国の首都だけある。道路もビルも立派である。北京を囲んでいた長方形の城壁の一辺,西側の南北の城壁があった所の上に造った道路を北の方角に向かって走る。ホテルを出て直ぐに広安門の交差点がある。宣武門を過ぎて復興門の交差点に行くまでの右側に城壁が少し残っていたが,上がビヤガーデンになっている。阜成門,西直門と続き,城門は交差点の地名として残っているだけで,門の跡形もない。途中,元の時代の城壁の一部の痕跡があった。この時代の城壁は主に土でできていたようで土手のように連なった土塁の上に木が植えられていた。
明の時代の城壁も,北京を満州八旗,漢人街,西域人街の3区画に分割し,延長52キロメートルほどあったが,戦後,ほとんど取り壊された。多くは地下の防空壕の材料レンガとして使われた。毛沢東時代に対ソ戦に備えて一般の市民も建設に動員された。戦前,芥川竜之介が「千年都城」と書いた北京の面影は,ごく僅かしか残っていないようだ。

写真は元代の城壁址
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注記:ここで言うネットウヨとは、グローバル化し,複雑化していくポスト近代に乗り遅れ、付いて行けない人々が,そのフラストレーションを陳腐で幼稚な嫌中,嫌韓のトンデモ本などに不満解消を求め、ネット社会において夥しく繁殖し、トンデモ史観を振り回し、欧米アジアからの日本人はプレ近代で偏狭な歴史修正主義であるという反日の契機を与え、結果的に日本国の国益を害する人たちのことを言う。
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○ 中南米外交
中国の胡錦濤主席はAPECに出席する途上、キューバを訪れ伝統的な友好関係を再確認した。その後、最近台湾と断行し、中共を承認したコスタリカを訪問して大規模な経済援助を行うことを約束した。経済発展も外交的安定も米国に依存する中国は、米国への対抗は表に出さず、米国とのアプローチの違いで中南米の各国を取り込もうとしている。同主席は、国会演説で「中国は、大小、強弱、貧富で各国を分け隔てすることなく、各国人民が発展の道を自ら選ぶ権利を尊重する。」と述べて、中南米に対する影響力をアジアにおけるのと同様拡大し、資源などの実利を中南米各国から得ようとして二国間のEFTA協定を進め影響力を拡大している。
これに対して、日本はAPECの中で農業分野の自由化がネックになり、独り取り残される懸念が強まっている。そのような中で、中国の攻勢には送れつつも21日にやっと鉱物資源大国のペルーと経済協力の協定を締結したという。コスタリカも見捨てた台湾は馬政権になってほぼ日本勢力圏から中国勢力圏になったかのようであり、中共内の一国二制度の香港のようになるのかもしれないと危惧する。李登輝など日本時代を知る親日台湾人は減る一方だ。日本に対抗手段はないものか?
○ 宇宙開発
友人人工衛星や宇宙遊泳を成功させた中国と比べて、日本の宇宙開発は大きく遅れを取っており、官民共同で進めてきたH2ロケットの後継ロケットGXも民間側の負担が大きいことから暗礁に乗り上げている。23日の報道では、失速しているGX開発に遅ればせながら宇宙開発本部が政府主導で、GXの検討を進めるという。このスピード感の無さは、ますます中国との差が開くばかりではないかと心配する。
○ ヒトゲノム解読競争
生物が持つ遺伝の全情報を圧倒的なスピードで解読できる「次世代シーケンサー」の導入が米英中で積極的に行われており、世界各国の1000人のヒトゲノムを解読するプロジェクトをこの3か国で行うというが日本は参加していない。これにより人種間の抗がん剤の効き目の違いなどの遺伝情報が解明できる可能性があると言う。中国北京ゲノムセンターは、人と同じ規模のパンダの全遺伝子情報を7ヶ月で解読しアジア人のヒトゲノムの特徴も初めて解読したとする。日本は大きく出遅れており、例のごとく縦割り行政で文科省と経済産業省がそれぞれ数十億円もする次世代シーケンサーを数台ずつ導入することに決定したと23日の読売が報道している。
今年も11月の連休を利用して我々仲良しグループは,楽しい旅に出発した。
大連空港で入国手続きを済ませた後,17:50同じ旅客機に乗り込んで北京に向かった。途中,黄海の上空から漁船の火や港の明かりが見え,そのうち闇の中,疎らに町の明かりや自動車道の照明の点線が見えはじめる。北京の灯りはまだだろうかと窓の外を覗き込んで見るが,なかなか街の灯は見つからない。
地上の灯りが少し増えたと気付いた頃,19時直前に,北京空港に到着した。滑走路からボーディングブリッジに横付けになるまで,混んでいたので駐機場で約20分待たされた。時計を中国時間に合わせて,18時に調整した。これから,1時間遅れの中国標準時で考えることになる。北京空港のビルディングは近年大改造されており関西空港の空ビルに勝ると劣らない近代的で立派なものである。日本のODA援助金が北京空港の建設費に約300億円,航空管制システムの整備に約210億円投入されている。
1階フロアーに降りて預けた荷物を受け取り,待合ロビーに出ようとすると出迎えの人でものすごい人垣ができている。ようやく現地ガイドの劉穎(リュウ・エイ)さんを見つけ,「初次 見面 ,請 多多 関照」チョンチー チアンミエン,チン タタ クワンチャオ chunchi jianmien qing duoduo quanzhao(はじめまして,どうぞよろしくお願いします。)と声をかけて見たが全く通じない。中国語の発音は全く難しい。劉さんは28歳のすらっとした長身の女性で日本語の発音は完璧だ。
マイクロバスに乗り込み,北京市内に通じる高速道路に向かう。途中,バスは高速道路の右側に降りて燕翔飯店というホテルのレストランに向かう。19時過ぎに無事到着を祝って乾杯。料理は,普通の中華料理,ビールは燕京ビール10本で81元だった。ガイドと運転手に安全運転をお願いしてチップ2000円づつ入れたのし袋を手渡した。日本円2000円が高いのか安いのか良くわからないが,物価の違いが10分の1ぐらいだからまあまあだろう。
高速道路に再び乗って北京市内に向かった。市内の主だった通りには近代的なビルが立ち並んでいる。天安門などの建物はライトアップされている。
20時30分,宣武区広安門内街にあるホテル新時代大酒店に到着した。ここにこれから数泊することになる。新しい気持ちのいいホテルである。香港資本らしい。各自,部屋に上がる。夜の探検組は,21時にロビーに集合することにする。
古い家並みが残る瑠璃廠(ルーリーチャン)に行くことにし,コンシエルジェに歩いてどの位かかるかと訪ねたら,タクシーで行くべきで,歩く距離ではないと言ったが,我々は歩くのが好きなのだと言い返したら,約40分だと言った。道が良くないとも言っていたが,Mさんに造ってもらった携帯用の北京市の地図(素晴らしい出来栄えである。)を見て距離を憶測すると,3~40分で着けそうなので出発した。途中,工事現場のようなところや街灯もないうら寂しいところが多かったが,とにかく広安門内大街をひたすら東に歩いて瑠璃廠を目指した。
昔の胡同(ホートン)の雰囲気のある古い平屋造りのくたびれたようなねずみ色の土やレンガでできた住居があって興味をそそられた。奥の方に歩いていけば,昔ながらの四合院の住居が見られるのだろうか。
1999年に発行された竹内実の「北京」という本には「現在,北京には四千四十余の胡同がある。」と書かれている。胡同の語源は,最初に北京を建設した蒙古の井戸(ホト)という言葉からだそうだが,露地と四合院が集合した横丁のことだ。四合院は,典型的な民家で,中庭があって,四棟の平屋がそれを囲んでいる。大家族で住んでいた。母屋は北側にあり,入り口は東南の角にある。ビル建設で取り壊しが進んでいる中,平屋建ての横丁がまだ,相当残っているようだ。しかし,胡同探策の時間はないので,道幅が50メートルはありそうな広安門大街の道の北側の歩道を,といっても何処が歩道で何処が車道かあるいはビルの工事現場か明確でないが,街灯のない暗い道をひたすら歩いた。流石に北京は広い。3区画,旧城内の東西幅の約4分の一の距離を歩くだけで1時間かかってやっと瑠璃廠に到着した。「北京は広い。街路の反対側がぼやけて見えるほど広い。」と昔の文人は書いているが,夕方ともなると,そのとおり,反対側は見えない。戦前,北京に滞在した二葉亭四迷は,「北京はあまりに広いので,目と鼻の先の瑠璃廠に書籍を求めに行くこともかなわない。」と書いているが,われわれは,歩いてともかく瑠璃廠に到着した。昔なら人力車を雇う距離であったろう。
瑠璃廠は,古い家並みを復元した骨董や古籍の商店街である。22時過ぎだったので,店はほとんど閉まっていたが,通りの西詰近くに小さなお茶の専門店が開いていた。昨年上海に行った時に中国茶の美味しさと種類の多彩さを再認識していたので,これ幸いに狭い店の中に入っていった。いろいろな種類のお茶が大きなガラスのビンに入れて処狭しと陳列されている。その中に上海で買って帰って美味しいと好評であった苦汀茶(上海ではサル茶と言っていた。高い山の上で採れるからだそうだ。)があったので,早速身振り手振りで試飲させてもらう。一斤190元だと表示してあったので分量がどのくらいかわからず適当に100元分秤ってくれと言ったら,大きなビンをそのまま傾けてかなり大量に秤りの上に載せるので,驚いた。上海の浦黄公園のお茶の専門店は専ら外国人相手の店なのか,小ぶりの茶筒に入れたサル茶が日本円で3,000円だったからだ。50元分に減らしてくれと言いたかったが,店のお兄ちゃんは中国語しかわからない。仕方がないので大量に仕入れてしまった。鉄観音の上物や他のお茶も「多少銭(ターシャオチエン?)」(いくらですか?)「能不能,便宜(ナンプナン ビエンイー?)」(まけてくれませんか?)とか何とか言いながら,手振り身振りで多少値切ってもらって買ってしまった。
今回の旅行はお茶の旅になりそうだ。一昨年の西安は骨董の旅,昨年の大連・旅順・瀋陽は数珠の旅であった。メンバーの他の人も花茶やらその他のお茶をいろいろ買ったり,試飲したり,9人が入り乱れて,店のお兄ちゃんとその兄弟は,興奮状態である。Sさんは,中国語がかなり上手で意思疎通ができるようだ。お茶の買い物が一段落すると,店のお兄ちゃんの一方が隣の俺の店にも寄っていけと言うので,掛け軸やらヒスイの置物などのお土産物を陳列してある狭い店の中にちょっとだけ入ってみたが,欲しいものは何も無い。きっと二人の経営する小さい店に夜11時近くに物好きな外国人が歩いてくるなんて珍しいことなのだろう。翌日は万里の長城の上を八達嶺まで行って歩く予定だ。
翌朝、市街地を走ると,さすがに中国の首都だけある。道路もビルも立派である。北京を囲んでいた長方形の城壁の一辺,西側の南北の城壁があった所の上に造った道路を北の方角に向かって走る。ホテルを出て直ぐに広安門の交差点がある。宣武門を過ぎて復興門の交差点に行くまでの右側に城壁が少し残っていたが,上がビヤガーデンになっている。阜成門,西直門と続き,城門は交差点の地名として残っているだけで,門の跡形もない。途中,元の時代の城壁の一部の痕跡があった。この時代の城壁は主に土でできていたようで土手のように連なった土塁の上に木が植えられていた。
明の時代の城壁も,北京を満州八旗,漢人街,西域人街の3区画に分割し,延長52キロメートルほどあったが,戦後,ほとんど取り壊された。多くは地下の防空壕の材料レンガとして使われた。毛沢東時代に対ソ戦に備えて一般の市民も建設に動員された。戦前,芥川竜之介が「千年都城」と書いた北京の面影は,ごく僅かしか残っていないようだ。
写真は元代の城壁址
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「友人人工衛星」とはおもしろいですね。この間の「宇宙遊泳」観ましたか?あれは興味深かったですよ。何しろ太陽光線の当たる向きが全然変わらないのですから。半世紀前にアメリカが宇宙遊泳したときは時々刻々光の向きが変わっていましたが。それと無重力のわりに飛行士が常に腕を下に踏ん張っていたのも「ご苦労さん」でした。そうそう、中国の開発したという宇宙服、万が一に備えてロシア製を持っていったそうな。それと、月面探査船、あれどうなったか知ってますか?送られてきた月面写真がグーグルと同じだと話題になりましたよね。日本の「かぐや」は人類史上初の月面の裏側をリアルタイムに送信してきましたが。それも月に信号を反射させる衛星を配置してという拘りようでしたよ。それと小惑星探査した「ハヤブサ」の帰還も楽しみです。ソ連のコピーを独自開発と言う中国とは目線の違いを感じますけど。そうそう、中国が独自開発した戦闘機はイスラエルから買い取った旧式だったそうですね。新幹線「和階」も東北新幹線の「はやて」のようによく走るそうで、科学大国中国の前途は洋々としたものですよね。