
一時は部屋に籠り布団の中に入っていたが別に体調が悪いわけでは無いので、
数時間も経つと新垣はベッドを抜け出して階下へ降りた。
静かなリビングで、その姿にはおよそ似つかわしくない優雅な仕草でコーヒーを啜る母親の姿があった。
「あら」
母は小さな声を上げるとカップをテーブルに戻した。
一連の動作をぼんやりと見ていた新垣だが突然腹が鳴って我に返る。
母親は口の前に手を持ってくるとクスクス笑った。
少し恥ずかしくて俯いてしまった新垣だが、
やがて諦めたように顔を上げると悪戯を見つかってしまった子供のような、罰の悪そうな笑みを浮かべた。
「何か食べる物、ない?」
「珍しいわぁ、アンタが病気でもないのに学校休むなんて。学校には風邪ひいたって連絡入れといたけど」
母親はコーヒーを止め、今は湯飲みに並々と注いだ緑茶を美味しそうに啜っている。
その向かいで新垣はシリアルとベーコンエッグ、レタスとシーチキンのサラダというなんとも洋風なメニューに口をつけていた。
「そうかな?」
フォークでサラダをつつきながら新垣は首を傾げる。
母親は笑ってうんうんと頷いた。
テーブルの上に戻した湯飲を両手で軽く包むとふぅと息を吐き、二、三度軽く頭を振った。
微妙に変わった空気を察知して新垣はシリアルを掬っていたスプーンを置いた。
母親は新垣のその一連の動作が終わるのを待っていたかのように、
テーブルにスプーンを置く小さなカチリという音を確認すると口を開いた。
「いつ言おうかって、ずっと悩んでたんだけど」
母はそこでコホンと小さな咳払いをすると、姿勢を正した。
母の真剣な姿勢に新垣もつい身構えてしまう。一体何を言い出すつもりなんだこの人は。
「あんた、綺麗になったわ」
「・・・はぁ?」
「いやーほんとほんと。我が子ながら見とれちゃうわ。種が良かったのね!」
「・・・はぁあ?」
「どうしたの?最近。帰りも遅いし・・・もしかしてコレ?春が来た?」
母親は楽しそうにくっくっと肩を揺らしてコレ?と親指を立ててみせる。
新垣は無視して食事を続けることにした。
母親の言っている事は全くもって意味がプーだったし、それに何よりお腹が空いていたから。
再びガツガツと食し始める新垣を、母はどこか呆れたような笑みを浮かべて見つめながらお茶を啜った。
そして新垣は完食する。
それを待っていたかのようにして母は再び口を開いた。
「ねぇ、一つ話す事があるんだけど」
「何?」
「お隣りの藤本さん、北海道に帰るらしいわ」
母親はそれを平然と言ってのけた。
新垣は「何?」と目を上げた格好のまま固まってしまった。
母親は気付かずにベラベラと喋る。
―藤本さんち、三月には引っ越すらしいわ。
―お祖父さんの体があまりよくないそうよ。
―今の仕事は辞めてお祖父さんの後を継ぐんだって。
―美貴ちゃんも一緒に行くそうよ。
あぁ、だから何?
何故それを私に話すの。
私に話したところでそれは何か意味があるの?
私に話して何か意見を求めているの?
そんな事無いよね、きっと貴方はただ話したいだけ。
ホームドラマの中に出てくるただの噂好きのおばさん達と何等変わりはない。
ああ、止めて止めて。聞きたくない。その口を閉じてよ。
「―突然よねぇ。アンタ知ってた?」
「だから聞きたくないってば!!」
バン!とテーブルを乱暴に叩いて新垣は立ち上がった。
テーブルの上の食器はガチャンと耳障りな音を立て、立ち上がった弾みでイスは倒れた。
母は目を丸くして口をポカンと開けたまま固まっている。
だからその口を閉じてってば。
「その話、聞きたくない」
新垣はポツリと言うと倒れたイスを元に戻した。
そして空になった食器をシンクへ置くと「ごちそうさま」と力無く言い残し自室へ引き上げた。
新垣が階段を上るその足音を聞きながらリビングでは母親がまだ口を開けていた。
荒々しく自室の扉を閉め新垣は再びベッドに倒れた。
気分が悪かった。
頭の中がごちゃごちゃしていて、それはとてつもなく痛かったのだけれど、
考えて整理する事は到底無理な感じだったので放っておいて目を閉じた。
そしていつのまにか新垣は眠っていた。
目を覚ました時部屋の中は明るくて、時計で時間を確認するともう昼過ぎだった。
机の上には携帯が置いてあり、ふとそれが目に付いた。
ベッドから抜け出して、携帯を手に取る。新着を告げるランプが点滅していた。
メールだ。
吉澤さん、松浦さん、あいぼん、後藤さん、もっさん。
未読メールを順繰りに開いて読む新垣の顔はどこか嬉しそう。
だがその嬉しそうな顔も最後、藤本からのメールを開いた瞬間に消え失せた。
『がきさん大丈夫?体元気?
がきさんと一緒に学校行くの後ちょっとしかないんだから風邪なんかひくなよ!
よっちゃん明日入試だって。馬鹿なくせにね(*^艸^)』
はぁ。
はぁ、はぁ。
知らずに溜め息が出た。
なんだよ。
なんだよこのメール。
少しイライラして、それよりちょっと多い悲しさみたいなものが同時に沸き上がってきて携帯を閉じた。
携帯を机の上に戻して目を閉じる。
『がきさんと一緒に学校行くの後ちょっとしかない』
後ちょっと。
一緒に学校行く。
後ちょっとしかないんだから。
あぁ、嫌だな。夢だったらいいのに。嘘だったら良いのに。
でも夢なんかじゃないし嘘なんかでもない。
私は今起きているし、母さんからも、もっさん本人からも自分のこの耳で北海道に行くという事を聞いている。
本当なんだ。嘘なんかじゃない。
あぁ、嫌だな。寂しいよ。悲しいよ。
だけどもっさんは楽しそうだった。嬉しそうだった。
自分とは正反対。何でよ。何で、何で。
ボサボサの頭をかきむしる。
楽しそうだったのはもっさんが決めた道だから。
嬉しそうだったのはそれをもっさんが楽しみにしているから。
私はそれが嬉しくないし楽しくない。ずっと一緒にいたい。
離れてしまうなんて嫌だよ。
ハハ、なんだ。私は相当もっさんの事が好きみたいだ。
笑えちゃうな。いや、泣けちゃうよ。
新垣は笑いながら泣いた。
その涙はとても綺麗で悲しくて、新垣の頬をコロコロ滑って手の甲にポタリポタリと幾つもの小さな水溜まりを作った。
コン、コン、コン。
ノックする音が聞こえる。
窓?もっさん?
違う、今は昼。昼?夕方だ。携帯で時間を確認する。部屋の中は大分暗い。
音はまだ聞こえる。窓じゃない、ドアだ。お母さん?
ぼんやりする頭を左右に振って立ち上がる。
鳴り続けるドアを開くとそこには予想通り母の姿。
「・・・何?」
「なぁーにぃ、酷い声ねぇ。本当に風邪ひいちゃった?」
「ううん、そんな事ない。それより何か用?」
「え?あ、あぁ、そうだ、下に美貴ちゃん来てるんだけど」
母はまたしてもさらっと言ってのけた。そして新垣も再び固まってしまう。
全く、この人はつくづく私を固まらせる天才だ。
「・・・あぁ、そう」
何とかして絞り出した声は掠れていて、どこかのお爺ちゃんの様だった。
母親は苦笑して新垣の肩を小突く。
「変な子ねぇ。髪の毛だけ直した方がいいわ、見てらんない」
母親はそれだけ言うとスタスタと階段を下りて行ってしまった。
あぁ、待って。
新垣が伸ばした腕は空しく宙を掴み、力無く降ろされた。
待ってよ、馬鹿。行かないでよ。
もっさんに会わなきゃいけないじゃないか。
会いたくなんかないよ。
ううん、嘘だ。会いたい。会って話してってしたいよ。
でもだけど、今は嫌だよ。
だってきっともっさんはまたあの話をする。
そんな話聞きたくないもの。してほしくないんだもの。
あぁ、嫌だよ嫌だ。
どうしたらいいんだ。
「やぁがきさん、こんにちわ」
耳に入ってきた声で顔を上げた視線の先。
ヒラヒラと手を振って嬉しそうに笑う藤本の姿があった。
「もっ・・・もっさん・・・」
「ハーイ、モッサンデース」
藤本はおどけてみせる。
新垣は水面の鯉の様にただ口をパクパクとさせ、その口からは言葉が出てこない。
そんな新垣を見て藤本は少し困った様に笑うとふぅと息を吐いた。
「部屋、お邪魔するよ?」
そう言うと新垣の了承を得ぬままズカズカと部屋に入ってくる。
新垣はドアの横で固まったまま、藤本の肩がぶつかっても黙ったまま突っ立っていた。
ほんのりいい香りがして、それは藤本の髪の毛だった。
振り返ると藤本は制服姿のままベッドの上に大の字になって寝そべっている。
あぁ、パンツ見えそう。
ぼんやり思いながら新垣は部屋の扉を閉めた。
→