
頭の中が真っ白だった。いや、真っ白もなかった。
頭の中の一斉洗浄を行った後かのように何もなかった。
やがてその空っぽな何も無い空間に『北海道』と言うフレーズがトンと降りてくる。
そこで初めて新垣の思考回路にスイッチが入る。
北海道。ほっかいどう。
日本の北辺りにあるでっかい菱型。寒い所。食べ物が美味しい所。
藤本家が新垣家の隣りに越してくるまで住んでいた所。
『美貴ね、北海道行くんだ』
「・・・北海道・・・」
「・・・は、でっかいどー?」
新垣の小さな呟きに藤本はクスクス笑ってギャグを返した。
藤本は笑っていたが新垣にはなぜ藤本が笑っているのかが分からなかった。
普通に面白くもないし、なぜこのような時に笑っていられるのかと少しイライラした。
しかしその苛つきも一瞬で、もう次の瞬間には新たな感情が新垣を支配していた。
パニックだ。
なぜ。何で。どうしてどうして。
新垣の思いは声にはならなかった。だがそれは藤本に聞こえていたらしい。
咄々と、けれどどこか楽しそうに藤本は喋った。
その言葉はふわふわと軽くて、藤本の今の表情のように楽しく弾んでいた。
「美貴のじーじがね、あ、じーじってのはおじいちゃんね、じいちゃん。
で、そのじーじは物凄くでっかい牧場を持ってるんだ。OK牧場じゃないちゃんとした牧場だよ?ほんとデカいんだ」
藤本はまるで新しい玩具を手に入れた子供のように目をキラキラさせて腕を広げた。
そしてバフっとベッドに倒れると満悦そうに鼻から息を出して目を閉じた。
「広い草原に牛やら馬やらを放牧してんだ。じーじは酪農家なんだよ。そう、羊もいるよ」
目を閉じたその瞼にはきっと懐かしい景色が映っているのだろう。藤本は笑っていた。
だが新垣には何も見えない。だから、笑えない。
藤本の口から紡ぎ出される言葉がズシンズシンと音を立てて頭の中に落ちてくる。
重たくて、痛い。
「じーじは凄く元気だったんだけどちょっと前に体壊しちゃってさ」
「ずっと一人でやってきたんだけどそれが難しくなっちゃって、お父さんが手伝う事になった」
「がきさんは動物好き?」
「美貴は好きだよ。だから美貴も手伝う事にした」
「美貴達は、北海道に行くよ。正確に言えば、北海道に帰る。かな」
藤本の言葉はぼんやりと聞こえて、でも確かな重さを持っていてそれは新垣の頭の中で響いた。
あっちへこっちへぶつかってドスンドスンと重なっていく。
頭が痛い。
新垣は夢でも見ているんじゃないかと思った。そうだ、これは夢だ。
だっておかしいじゃないか。
じーじが牧場?そんな話一度だって聞いた事はない。
それに藤本に進路を尋ねた時彼女は内緒と言った。それがこんなベラベラと自ら喋る訳ないじゃないか。
彼女はずっと近くにいてくれるような気がしていた。それがなんだ、北海道?そんな所へ行く訳がないじゃないか。
おかしい、おかしすぎるよ。
これは夢だよ。夢だ。
あぁ、でも。
夢だと思う自分がいるという事はこれは現実。
彼女が話す言葉は本物だし彼女がここを離れて遠い北の地へ行ってしまう事も現実だ。
確かに、何年か前の夏休みには藤本家一家揃ってその北の地へ帰省していた事もあった。
あぁ、神様。こんなのってないよ。
自分が親しくしている中で新たな道を歩み出すのは三人。
よりにもよってその中で一番親しい人の道が一番最悪のパターンだなんて。
こんなのってないよ。本当に神様は意地悪だ。
「・・・だからがきさんは今は進路なんて考えるより美貴といっぱい遊べ。もうあんま時間ないんだぞ?バカ」
藤本の言葉が頭の中でぐわんぐわんと歪みながら響く。
何がバカだ、バカはもっさんだ。バカ、大バカだ。
時間が無い?そんなの知るかバカ。それは貴方の勝手じゃないか。
何で私は貴方の都合に振り回されなきゃいけないんだ。
バカはもっさんだ。
「と、まぁ、そうゆう事でよろしく頼むよお豆」
藤本はベッドから降りてくると新垣の肩をポンと叩いた。
白い歯を見せて楽しげに笑う。
叩かれた肩が熱い。笑顔が眩しくて、目に染みる。痛いよ。
―笑え、笑え。
新垣里沙は笑う。
ああ、胃が痛い。
「それじゃあおやすみ、がきさん」
藤本は言いたいだけ言うとこちらが口を開く隙も与えずに部屋を出ていってしまった。
彼女が二つの部屋の窓を通り、自分の部屋のカーテンを閉めて、姿が見えなくなっても新垣は笑っていた。
笑顔をその顔に張り付けて、藤本が跨いでいった窓をずっと見ていた。
そしてやおら立ち上がると窓に鍵を掛け、カーテンを閉めて電気を消してベッドの中に潜り込んだ。
布団の中で丸く小さくなり膝を抱えて親指の爪をガチガチと噛む。
ガチガチ、ガチガチ。
―ああ、明日の1限目は何だったっけ。数学?嫌だな。
ガチガチ
―そう言えばもっさん、おっぱい大きくなった?って聞いてこなかった。
ガチガチ
―明日の朝の吉澤さんはどんな挨拶だろう。後藤さんはいるのかな?
ガチガチ
―松浦さんはいるのだろうか。あぁ、何だか胃が痛い。
ガチガチ
―もっさんは北海道に行ってしまう。
―もっさんはここからいなくなる。
―もっさんと離れ離れ。
私はそれが嫌だ。
いつの間にか新垣は眠ってしまっていた。
翌朝目が覚めた時、その体は昨晩ベッドに入った時の格好と少しも違っていなくて、体を伸ばすとその節々が痛んだ。
最近は一段と冷え込みがキツい。パジャマの上にジャージを羽織ると階下へ降りて食卓につく。
顔をあわせた母親は怪訝な視線を新垣に浴びせ、「泣いていたの?」と聞いてきた。
泣いていた?私が?何故。
母の言葉で洗面所へ向かい、鏡を見る。
そこに写っていたのはとても悲惨な事になっている自分の顔だった。
それで初めて新垣は昨晩自分が泣いていたという事に気が付いた。
昨晩私は泣いた。泣いていたのだ。
何故。
鏡に写る自分を見つめながらボーッと立っていると母親の声が聞こえてきた。
「里沙、遅刻しちゃうわ。学校、どうするの?」
学校。学校。
ああ、あいぼん。
なぜか急に親友のほわほわした笑顔が無性に見たくなって、豊満とは言えない胸を掴んだ。
あぁ、あいぼん。どうしよう。
「どうするの?」
再び声が聞こえてくる。
新垣はかぶりを振った。
洗面台に両手を付き、力無く頭を垂れる。
胸に妙なむかつきを覚えて口を開いてみるが吐ける物は何もなく、仕方なく水を飲んで吐き気を押さえ込んだ。
「・・・今日は、休む」
洗面台の小さな排水口の穴を見つめながら言った。
一瞬、全ての時が止まったような沈黙が降りてきて、そしてそれは母親の「そう」という小さな呟きによって破られた。
新垣は顔を上げて再び鏡を見た。
瞼をこれでもかと言わんばかりに腫らして、どこか疲れたようにも見える自分自身の姿。
鏡に腕を伸ばして写っている自分をなぞってみる。
『おお、ラストサムライだカッコいい』
ボサボサに跳ねた前髪をなぞる。
『痛かったでしょう、これはお仕置』
顎をなぞる。
『いい加減にしろ馬鹿がき!』
おでこをなぞる。
『美貴のチュウじゃ不満か?』
唇をなぞる。
『おっぱい、大きくなった?』
胸、心臓の辺りをなぞる。
不意に視界がぼやけてきて新垣は腕を下ろした。
鏡に映る自分はその両目から涙を流していた。
鼻の奥がドクドクと脈打ち、熱くなってくる。頭がガンガン鳴って、痛い。
服の袖で乱暴に涙を拭うと階段を駆け上がって自分の部屋の扉を開く。
開け放したままの扉をそのままに、ベッドにダイブすると顔を枕に押しつけた。
冬という季節は不思議なもので、何故か静かだ。それが朝なら尚更だ。
新垣の部屋はとても静かで、彼女自身音を出していなかったので、
その声は枕に顔を押しつけて耳を澄ましているいる新垣によく聞こえてきた。
『ごめんなさいね、どうも体調が優れないみたいで』
お母さんの声だ。何を言っているんだ、私の体調なら万全だよ。目が腫れているけどね。
『そうですか・・・分かりました。お大事にって、言っておいてください』
これは・・・これはもっさんの声だ。
その声の響きにはどこか落胆の色が見られる。
新垣の頭の中にはその光景がぼんやりと浮かんできた。
母はエプロンの上にフリースを羽織ってごめんなさいと申し訳なさそうに頭を下げる。
藤本はまるで気にしていないと言った風に顔の前で手をヒラヒラと振って快活に笑ってみせる。
笑って―そう、彼女なら笑っているはずだ。
新垣は起き上がって、家の前の道に面している窓のカーテンを少しだけ開いた。
母の頭が見える。
母親は道路の中程まで出て、何かを見ている。見送っている。誰を?もっさんを。
新垣はカーテンを思い切り開けて母の視線が向けられている方を見た。
そこには、先程新垣の頭の中に浮かんできた快活に笑う藤本はいなかった。
そこにいたのは寒空の下、背を丸め体を小さくして一人トボトボと通学路を歩く寂しそうな後ろ姿だった。
新垣はカーテンを閉めた。開けたままになっていた扉も閉めた。
再びベッドに倒れ込み、枕に顔を押しつけた。
藤本の寂しそうな後ろ姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。
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